メタメタの日

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(2,3年前につぶれた雑誌に書いた原稿)

 宮沢賢治が一九三三年(昭和八)に亡くなったとき、地元の「岩手日報」は「日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という見出しを付けた。しかしそれは、地元紙の身びいきの褒詞だった。この記事ですら、賢治の享年を「二十八」と間違えている。正しくは「三十八」(満なら三十七)。賢治は、ほぼ無名のまま、数年間の病床生活を経て、挫折感の内に亡くなったのだ。
 死の十日前の手紙では、「なにかやろうとしては心持ばかりあせってつまずいてばかりゐる惨めな失敗」について、次のように自己分析している。
 「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものでもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みに引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。」
 賢治を「社会の高みに引き上げに来るもの」は、死後にやってきた。しかし、世評の賢治のイメージとは真逆のことを、賢治はこの手紙の中で述べている。この文章を額面通り受け取っていいのだろうか。

 「詩人ではなくサイエンティスト」

 無名のまま死んだ宮沢賢治は何物だったのだろうか。この問いは、賢治自身の問いでもあった。生涯の節目節目で、賢治は、自分は何物だと、外に向かって自分に向かって、憑かれたように宣言した。
 辞典で「宮沢賢治」を引けば、「詩人・童話作家」と出てくる。しかし、賢治は、自分を詩人とは思っていなかった。生前唯一の詩集『春と修羅』を出した後、草野心平から、同人誌「銅鑼」への参加を勧められたとき、賢治は承諾の返事にこう書いている。
「私は詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います。」
 賢治は、自分の書いたものを、詩ではなく、詩以前の「ほんの粗硬な心象スケッチ」と呼んだ。謙遜もあったろうが、多くの謙遜がそうであるように、不遜な大望が秘められていた。その大望は、「或る心理学的な仕事」だった。それは、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」という言にあるように、「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」することだった。(病に倒れて挫折するのだが。)
 「サイエンティスト」については、どうだろうか。
 賢治の盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)卒業論文のタイトルは「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」だったし、卒業後は研究科に残り、稗貫郡の土性調査に従事している。賢治のキャリアは、「サイエンティスト」から始まった。
『春と修羅』に収められた「真空溶媒」では、風を次のように描写している。

 硫化水素もはいってゐるし
 ほかには無水亜硫酸もあるやうだ
 つまりこれはそらからの瓦斯(ガス)の気流に二つある
 しょうとつして渦(うづ)になって硫黄(いわう)華(くわ)ができる

 『春と修羅』を絶賛した詩人佐藤惣之助は、「彼(賢治)は、気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」と評した。詩壇の中での賢治の特異な位置がわかるが、詩壇のニッチを狙って、賢治がこういう詩を書いたわけではなかった。
 「こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。」
 死の一年前、病床からの手紙で、賢治はそう書いている。
 けれど、病に倒れる十年前、詩集をまとめる数年前、二四歳の賢治は、サイエンティストのキャリアを突然思いがけない方向に転換した。日蓮宗の在家団体「国柱会」に入会するのである。
「最早私の身命は
日蓮聖人の御物です。」
と宣言し、家族(特に父親)や親友の祈伏を試みる。

  「日蓮聖人の御物」

 一九九六年(平成八)は宮沢賢治生誕百年で、松竹と東映で映画が二本作られた。その前年は、日本社会はオウム真理教事件に震撼していた。オウムに眉をひそめ、賢治を礼賛する日本。しかし、賢治とオウムの信者には、似た面がある。
 理系の高学歴の真面目な青年たちがオウムに「出家」するのを世間は不思議がったが、盛岡高等農林学校の研究生を辞めて、家業の質屋の店番をしていた賢治は、国柱会の活動に専念するため、突然「家出」して上京してしまう。
 測地天文学を専攻していてオウムに出家し、事件後脱会した一青年は、オウムに惹かれた理由をこう語っている。
 「食物にしても、お互いの生命体を食らいあっている肉食ということに対して根源的な矛盾を感じる。(略)パンを食べるとき、パンにはイースト菌が入っている。麻原彰晃はイースト菌もだめだといって、イースト菌をやめたんです。ぼくにとっては、そういう徹底性が気に入っ(た)」(宮内勝典・高橋英利『日本社会がオウムを生んだ』)
 二一歳の賢治は、親友にあてた手紙にこう書いている。
 「私は春から生物のからだを食ふことをやめました。(略)食はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづそうに食ってゐる。』『怒りながら食ってゐる。』『やけくそで食ってゐる。』(略)もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。『あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。』」
 賢治の肉食に対する強迫観念の表現は印象的だ。緒形直人が賢治を演じた東映の映画では、カツサンドを食べている親友に向かってこう言って苦笑される。井上やすしの戯曲『イーハトーボの劇列車』では、タータルステーキの食事中に賢治がこれを言う。
 宗教と政治の話は論争になるから会食の席では避けるというマナーがあるが、それ以上に避けるべきは、肉食しながら肉食の是非を論ずることだろう。映画や劇では、そういうKY(空気を読まない)な面がある人物として賢治を描いている。テレビがグルメ番組をやたら流し、世間がそれを露とも疑問に思わなければ、肉食に矛盾を感じる青少年は、オウムにでも「出家」したくなるだろう。
 一方、一月に「家出」し、上野にある国柱会の門を叩き、東大赤門前の印刷所で筆耕の仕事を始めた賢治は、しかし八月には花巻に戻る。妹トシが病に倒れたためだった。(翌年、死去)
花巻駅で賢治をむかえた中学五年生の弟清六は、兄が大きな革トランクを抱えていたことを覚えている。トランクの中には、東京での七ヶ月の間に書き溜めたおびただしい数の童話の原稿が詰め込まれていた。
 国柱会館に住み込んで下足番でもして信行に励みたいという賢治の無謀な願いは聞き届けられなかったが、文学が得意なら法華経の教えを現す創作をすることを勧められた。賢治は、昼は筆耕の仕事をし、夕方や休日は国柱会の街頭布教活動でチラシを配り、夜は童話を書きまくった。月に三千枚を書いたこともあったという。法華経の教えを説くだけの抹香くさいものでなかったことは、私たちがいま知る通りである。

「おれはひとりの修羅なのだ」

 大学は出たが、研究生のキャリアを放棄し、上京して宗教団体に入った後、ようやく帰郷した賢治は、県立花巻農学校の教諭という職を得た。二五歳だった。「青春の彷徨」は、形の上では終わったかのようだった。しかし、後に、「わたしにとって、じつに愉快な明るいもの」と振り返る教諭生活を、四年で辞めてしまう。
 花巻農学校は、一学年一クラスで二年制、教諭は四人だから、二人が授業をしていれば残り二人は職員室にいることになる。「毎日わづか二時間乃至(ないし)四時間のあかるい授業と、二時間ぐらいの軽い実習をもって、わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居(お)りまし(た)」という生活になる。
 この時代、賢治は詩(「心象スケッチ」と自称していたことは前述の通り)を書き始める。生活の外面は安定したが、内面は緊張状態が続いていたことが詩からわかる。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 教師になって二年後に刊行した『春と修羅』所収の、「詩集」のタイトルともなった「心象スケッチ」の一節である。
 宮沢賢治とは何物か?「修羅」だ、と云う。修羅とは何か。仏教の存在観でいう人間以下畜生以上の存在である。「聖人」賢治が人非人であることがあろうか?
 トルストイは、自己評価は分数のようなものだといった。実際の自己の大きさを分子とし、理想の自己の大きさを分母とする分数で、分子が大きくても、分母がそれ以上に大きければ、自己評価は小さくなる、と。
 二十代の宮沢賢治の実際は、並みの人間より人格・識見ともすぐれていただろう。しかし、理想が並はずれて大きかったため、自己評価は「修羅」と厳しかったのだろう。自己の内なる「諂曲(てんごく)」(こびへつらい)や「腐植の湿地」に敏感過ぎたのだろう。
 他方、外界は、「四月の気層のひかり」であり、「れいろうの天の海には/聖玻璃(せいはり)の風が行き交(か)(ふ)」春であった。(後に賢治は、外の世界が「春」でないことを知る。)

「おれたちはみな農民である」

 一九二六年(大正一五)三月に賢治は花巻農学校を辞し、八月に「羅須地人協会」を設立する。三十にして立った、のだ。
 農学校の教諭を辞めたのは、生徒たちには農村に帰って立派な農民になれと教えながら、自分は安閑とした給料生活をしている欺瞞に耐えられなくなったからだった。
 四月一日に実家を出て、別宅で独居自炊生活を始める。羅須地人協会と命名し、「下ノ畑ニ居リマス」と入口の黒板に書きつけることになる家である。この日「岩手日報」朝刊に、「新しい農村の建設に努力する花巻農学校を辞した宮澤先生」という見出しで、インタビュー記事が載った。
 「東京と仙台の大学あたりで自分の不足であつた『農村経済』について少し研究したいと思つてゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち芸術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈会の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一回ぐらいもよほしたいとおもつてゐます。幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです」
 この年は豊作だったが、翌年は干害、水害に悩まされたことを思うと、現実遊離した理想主義には呆然とする。
 「羅須地人協会」の「羅須」については議論百出というが、賢治自称の「修羅」を逆にしたアナグラムが妥当ではないだろうか。「地人」は、農民を「大地の詩人」と言い換えたものだろうが、言葉の言い換えで農民の現実が変わることはないことを、やがて痛切に知らされることになる。
 賢治が花巻農学校を辞める直前、農村指導者を養成する岩手国民高等学校という成人学級が二ヶ月間開設された。賢治も十一回にわたって「農民芸術概論」を講義した。
 賢治は、高らかに理想を謳い上げた。序論の冒頭にこう宣言する。
 「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」
 賢治は学校を辞めて農民になるつもりだったから、「おれたちは農民」だと宣言することに、違和感はなかっただろう。二十人の受講者も講義に感激したという。
 しかし、素封家の息子がその別宅と土地で農業を始めたことを見る世間の目は厳しかった。「道楽百姓」と陰口された。畑で作ったチューリップやキャベツやトマトをリヤカーに積んで街で売り、売れなければただで配ったが、花巻で二台あるかどうかというリヤカーをうらやましがられていたことに、賢治が気がついていたかどうか。
 食事は、三日分の飯を一度に炊き、梅干を入れて井戸に吊るし、必要なときにたくあんと一緒に食べた。五本も六本も食べた好物のナスも、近所の子どもに「ナスを一度に二本も食べる」とびっくりされてからは一本にした。慣れぬ労働に肉体を酷使しながら、菜食主義は続けていた。こういう無理がたたって病床に伏し、羅須地人協会は二年間で活動を閉じることになる。
 その出発点の「農民芸術概論」に戻ろう。
 「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「求道すでに道である」
 賢治は、そう言った。仏教が息づいているのがわかる。すべての衆生が浄土に往生しないうちは、自分は浄土に行かないという菩薩の誓願が、証(さとり)を求める修行と証はすでに一つであるという教えが。
 最後にはこう謳い上げる。
 「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」
 ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」、「おお友よ、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか」が聞こえてこよう。
 賢治は理想を実現しようとした。自ら「下ノ畑」で農耕をするだけでなく、羅須地人協会で、農業に必要な化学や土壌学の講座を開き、音楽会を、子どもたちへの童話会を開いた。あちこちに出張して無料で農民の肥料相談に応じた。
「それでは計算いたしませう/場所は湯口(ゆぐち)の上根子(かみねこ)ですな/そこのところの/総反別はどれだけですか/五反(たん)八畝(せ)と/それは台帳面ですか/それとも百刈(かり)勘定ですか/いつでも乾田(かただ)ですか湿田(しけた)ですか/ すると川から何段上になりますか/つまりあすこの栗の木のある観音堂と/同じ並びになりますか/ああそうですか あの下ですか/そしてやっぱり川からは/一段上になるでせう/畦(あぜ)やそこらに/しろつめくさが生えますか」
 こういう質問をさらに十幾つも続けた後、最後に次のように問う。
 「さてと今年はどういふ稲を植ゑますか/この種子は何年前の原種ですか/肥料はそこで反当(たんとう)いくらかけますか/安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは/三十年に一度のやうな悪天候の来たときは/藁(わら)だけとるといふ覚悟で大やまをかけて見ますか」
 この後、その農民のどの田畑にどのような肥料をどれだけいつ撒けば良いかという設計書を書くのである。羅須地人協会発足の翌年には半年で二千枚を書いたという。

 「デクノボーになりたい」

 賢治は農民に受け入れられただろうか。

 土も掘るだろう
 ときどきは食はないこともあるだらう
 それだからといって
 やっぱりおまへはらはおまへらだし
 われわれはわれわれだと

なんべんも言われた。「わたくしもまたうなづくことだ」とならざるをえなかった。(「作品一〇〇八番」『春と修羅 第三集』)
 では、農民が「いっしょに正しい力を併せる」理想の方は、受け入れられただろうか。

 くらしが少しぐらゐらくになるとか
 そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは
 いまのまんまで
 誰ももう手も足も出ず
 おれよりもきたなく
 おれよりもくるしいのなら
 そっちの方がずっといいと
 何べんそれをきいたらう
 (「火祭り」『春と修羅 第四集』)

 それが農民の現実だった。「さうしてそれもほんたうだ」と賢治は認めざるをえなかった。「主義とも云はず思想とも云はず/ただ行はれる巨きなもの」が賢治の前に立ちふさがった。

 そのまっくらな巨きなものを
 おれはどうにも動かせない
 結局おれではだめなのかなあ
 (略)
 からだを投げておれは泣きたい
 けれどもおれはそれをしてはならない
 無畏(むゐ) 無畏
 断じて進め
 (「(そのまっくらな巨きなものを)」同前 )

 しかし賢治は病に倒れた。賢治を挫折させた「巨きなもの」とは何だったのか。農民から希望を奪う地主小作制であり、資本主義体制ということか。あるいは農民の、いや人間のエゴイズム、業ということか。
 三年間の病床生活に小康を得た賢治は、倒産寸前の砕石工場から相談を受けると、石灰石粉を土壌改良のために売り込む仕事に就いた。十年前に童話を詰め込んで東京から帰郷したトランクに、今度は四〇キログラムを超える商品見本を詰め込んで東京に向かう。しかし、肺炎を再発して倒れる。二年後、死去。
 死後、トランクのポケットから手帳が見つかった。手帳には次の詩が書かれていた。
 
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 (略)
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

 「おれは修羅だ」と言った賢治は、「デクノボーになりたい」と言って死んだ。
 WHO WAS KENJI MIYAZAWA ?
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(ある雑誌に書いた文章)


「先生」と慕われた文豪

  「夏目漱石展」でたどるその作品と人生


東北大学に漱石文庫があるわけ


 東北大学所蔵の「漱石文庫」が、初めて東京で公開されることとなった。江戸東京博物館で九月二六日から一一月一八日まで開催される「特別展 文豪・夏目漱石―そのこころとまなざし―」がそれである。

なぜ漱石文庫が東北大学にあるのかと疑問に思う人も多いだろう。

夏目漱石は東京に生まれ育った。教師になって赴いた地は、愛媛の松山中学、熊本の第五高等学校、そしてイギリス留学から戻ってからは、東京帝国大学などが思い浮かぶが、東北大学とはどういう縁があったのだろうか。

 漱石が晩年の九年余を過ごし、弟子達が集った「漱石山房」(早稲田南町)は、昭和二十年三月一〇日の東京大空襲で焼失した。しかし、幸いにも、漱石山房の旧蔵書(洋書約一六五〇冊、和漢書約一二〇〇冊)、日記・ノート・試験問題・原稿等の自筆原稿、その他の関係資料は、その直前の昭和一八年から一九年にかけて、東北帝国大学(現・東北大学)附属図書館に移されていたのだった。

 漱石の没後、「漱石博物館」をつくり、漱石を慕う人や研究者の供覧に資そうという計画が弟子達の間に持ち上がっていたが、戦時下で断念せざるをえなかった。そのため、当時、東北帝国大学附属図書館長の地位にあった弟子の小宮豊隆が尽力して、同館に「漱石文庫」を新設し、夏目家から寄贈を受けることになったのだった。

 こうして奇跡的に東北の杜の中で戦火を逃れた漱石の蔵書三〇〇〇冊などが、今回初めて里帰りする運びとなったわけである。


世話好きな江戸っ子


 夏目漱石は、ある時代ある世代の人々にとっては「人生の師」だった。(現代の若い世代にとってもその価値はあるが。)

 しかし、そのあり方は、宗教的なカリスマのようなものではなかった。人生に煩悶する青年に、悟りを開いた指導者かのごとく上から啓示を与えるような態度はとらなかった。

 また、周りに集る門下生たちを子分として徒党を組み、内に対しても外に対しても親分風を吹かせることもなかった。

 青年たちは、漱石の作品に自分の悩みを読みとり、先達者としての漱石を「先生」と呼び、自らを弟子と称した。

一方、漱石には、青年の悩みに助言を与えるだけでなく、地に足がつかない彼らの経済的な苦境に援助の手を差し伸べる世話好きな面があった。

 それは江戸っ子の気風として、地位と力がある東京在住者は、地方出身の青年(たとえば『三四郎』の主人公のような)の面倒を見るのは当然という心意気もあっただろうし、金銭面での苦労が絶えなかった自らを省みて、お互いさまという思いもあったのかもしれない。

 漱石が作品の中で描き、彼自身も青年たちも突き当たっていたのは、近代化の中での個人の自我の問題だった。しかし、実生活では、少なくとも漱石と弟子達との間では、明治、大正と時代は変わっても江戸時代以来の古き良き絆が、まだ残っていたともいえる。

 漱石は世に出てから死ぬまで、いや死後も、「先生」だった。学校では「夏目先生」と呼ばれ、作家になってからは「漱石先生」とも呼ばれ、弟子達の間では単に「先生」で通っていた。しかし、漱石自身は、教師として自分は不適任だという自覚を常に持っていた。


教師になった教師不適格者


後に漱石と号する夏目金之助は、慶応四年(一八六七)東京に生まれた。翌年が明治元年だから、明治の年数は漱石の満年齢と一致することになる。彼自身は明治の末年(四五年)を超えて大正五年(一九一六)まで生き、慢性的に悩まされていた胃潰瘍のため満四九歳で没した。

生家は牛込馬場下一帯の名主だったが、父五十歳、母四一歳(ともに数えで)のときのいわゆる「恥かきっ子」で、生まれるとすぐ里子に出された(兄が三人いた)。里子先も一度変わり、二度目の養子先の両親が離婚すると生家に引き取られた。漱石九歳のときのことだが、彼は自分が養子に出されていたことを知らず、実の父母を祖父母と信じていた。本当のことを教えてくれたのは下女で、本当のことを知ったことより、この下女の親切が嬉しかったと、晩年に書き記す。(『硝子戸の中』)

漱石は弟子達から「父」のように慕われたが、漱石自身には父のモデルが欠落していた。実の老父からは厄介者扱いされたわけだし、養父は、離縁した後も、漱石が留学帰りと知ると金をせびりにくるような男だった。(その経緯は『道草』に詳しい。)

明治天皇が崩御したとき、漱石が激しく衝撃を受けたことは、喪章を付けた有名な写真でも知られている。『こころ』では、主人公の「先生」を、明治天皇に殉じた乃木大将の後を追って自殺させている。漱石にとって明治天皇という存在は、欠落した具体的な父を補完する抽象的な〈父〉であったのかもしれない。

「師」として慕われた漱石には師のモデルも欠落していた。

内田樹は、『下流志向』の中で、「人の師たることのできる唯一の条件はそのひともまた誰かの弟子であったことがあるということです」と述べているが、この基準に照らすと、漱石には「人の師」になる条件が欠けていた。

二六歳で帝国大学(現・東京大学)英文科を卒業するまで、あるいはそれから後でも、正岡子規をはじめとして何人もの勝れた友人には恵まれたが、漱石に師と呼べる人がいたかとなると疑問である。学生時代には、ケーベルに哲学を学び、その人格の高さに敬服もしている。三三歳で留学したイギリスでは、シェイクスピア研究の泰斗クレイグから個人教授を受けている。漱石が「○○先生」と題する文章を残しているのは、外国籍のこの二人だけ(「ケーベル先生」「クレイグ先生」)だが、その心服のありようは、漱石の弟子達が漱石に対して示した全人格的なものとは、明らかに異なっていた。

漱石は、帝大卒業前後から高じた神経衰弱のため(失恋が原因という説もある)、円覚寺の釈宗演のもとで参禅をしている。釈宗演は明治時代を代表する禅僧であり、漱石の葬儀では導師を務めてもいるが、このとき漱石は悟りを啓くこともなく、釈を「師」と仰ぐこともなかったようだ。後に『門』の中で、この参禅体験をもとに書いた部分は、漱石自身をモデルにしているだろう。

〈彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。〉(『門』)

 しかし、漱石は、自分が教師には向いていない理由は、自分が誰かに師事したことがないからだとは、分析していなかっただろう。

 最初の奉職先となった高等師範学校の校長・嘉納治五郎との就職面談のやりとりを、漱石は次のように述べている。

〈そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡したくらいでした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断わられると、私はますますあなたに来ていただきたくなったと云って、私を離さなかったのです。〉(『私の個人主義』)

 このやりとりが、『坊ちゃん』の松山中学校長とのやり取りに生かされることになる。

〈教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。(中略)当時の私はまあ肴屋が菓子家へ手伝いに行ったようなものでした。〉(同前)

 職業上の教師としては不適格だったが、人生の師としての漱石の資質は、作家になって花開くことになる。


 作家として、師として


 漱石の教師歴は次のようになる。(繰り返すが、明治の年数が漱石の満年齢となる。)

明治二五年 東京専門学校(現早稲田大学)講師。(学資補給のためのアルバイト)

明治二六年 帝国大学卒業。東京高等師範学校教師。

明治二八年 愛媛県尋常中学校(松山中学)嘱託教員。

明治二九年 熊本第五高等学校講師。

(明治三三年九月 イギリス留学に出発。三六年一月 帰国。)

明治三六年 東京帝国大学講師と第一高等学校講師を兼任。

明治三七年 明治大学講師を兼任。(家計補助のため)

明治三九年 明治大学を辞職。(『吾輩は猫である』などの創作に意欲がわき、原稿料、印税が入ってきたため)

明治四〇年 東京帝大、一高を辞職。(朝日新聞社に小説記者として入社するため)


 二八年の松山中学への「都落ち」の理由は謎とされている。この時、漱石の神経衰弱は続いていた。親友の子規は、肺結核の死期を早めるかのごとく日清戦争の従軍記者として大連に向かい、漱石はその子規の故郷に「何もかも捨てる気」で赴いたわけである。

 イギリス留学中も神経衰弱に悩まされ、「夏目狂セリ」の噂が日本に届いたりした。

 帰国後、東京帝大で英語を教えるが、前任者はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であり、学生達の人気はハーンにあった。一高では、予習をしてこない学生を、「勉強する気がないなら、もう教室に来なくて良い」と叱ったところ、その学生は二、三日後、華厳の滝に投身自殺をしてしまう。「万有の真相は曰く不可解」の遺書を残した藤村操である。

帝大・一高の教師としての出足は散々だったが、『マクベス』『リア王』の講義は満員の盛況となり、自宅(この頃は本郷千駄木)には、熊本五高時代に俳句を学びにきた寺田寅彦(最初の弟子といわれる)がまた遊びにくるようになっていた。

高浜虚子に勧められて「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を発表すると、堰を切ったように創作意欲がほとばしり、作家漱石が誕生した。「やめたきは教師、やりたきは創作」と、虚子宛の書簡に記す。

 漱石の自宅には、『猫』のモデルになった友人知己だけでなく、帝大の教え子を中心とした門下生たちが出入りするようになった。あまりに多くの人が訪れ、仕事に支障が出たため、明治三九年一〇月から、毎週木曜日午後三時以降を面会日と定めた。

「木曜会」は漱石の死まで一〇年間続くことになる。メンバーは、当初は、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、野上豊一郎、松根東洋城、阿部次郎、安部能成らで、やがて、中勘助、内田百間、和辻哲郎、野上弥生子、谷川徹三、江口渙らが加わり、最晩年には芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らも加わる。錚錚たる顔ぶれである。

 木曜会は、いわばサロンだった。漱石を囲んで師の御高説を拝聴するのではなく、それぞれが勝手に談論風発をした。森田草平はその雰囲気をこう記す。〈先生の作を読んで、先生の前に出ると、大抵の人が皆悪く云った。悪く云わなければ済まないような気がして悪く云うのである〉。(『夏目漱石』)

漱石は迎合されるのが嫌いだった。逆に漱石の方でも若い者をどんどん批判した。〈びしびし頭から遣られながら、やはり先生と話をしているのが一番のんびりした。これが先生の門下に多くの学生が集った最大原因であろうと思われる〉。(同前)

 その雰囲気は最後まで続いた。最後の一年に木曜会に参加した芥川龍之介が、小宮豊隆らが漱石に喰ってかかることにはらはらして、「あんなに先生に議論を吹っかけても良いものでしょうか」と尋ねると、小宮はこう答えた。〈先生は僕達の喰ってかかるのを一手に引受け、はじめは軽くあしらっておき、最後に猪が兎を蹴散らすように僕達をやっつけるのが得意なんだよ、あれを享楽しているんだから、君達もどんどんやりたまえ〉。それから芥川もちょいちょい漱石に喰ってかかるようになったという。(芥川「漱石先生の話」)

 異数の師弟関係である。師の器量が大きく学識が深いときに初めて可能なものだろう。弟子達は幸福だったが、師が偉大すぎることは、弟子達の大成を阻む不幸にも通じた。


 弟子達への「遺言」


 明治四〇年、職業作家として生きるため、朝日新聞社に入社した漱石は、二年後に「朝日文芸欄」の創設に成功すると、その編集を森田草平に任せ、小宮豊隆に補佐をさせた。二人を経済的に援助する意味もあった。この前年、草平は妻子がいながら平塚明子(後の平塚雷鳥)と心中未遂事件を起こし、社会的に抹殺されかけたが、漱石に守られ、事件の顛末を書いた小説『煤煙』を朝日に連載させてもらっていた。

 しかし、二人は漱石の助言を軽視する編集をするようになった。折悪しく、漱石は『門』執筆中に伊豆修善寺で吐血し危篤状態に陥り(いわゆる「修善寺の大患」)、入院生活を余儀なくされ、二人に目が届かなくなった。その間の事情を、小宮豊隆自身がこう記す。

〈朝日文芸欄に拠って、何か天下でも取ったような気持になり、自分の周囲をさえ照らせるかどうか分からない、行燈のような智慧をもって、十分天下を照らすことができると己惚れているのを見ては、漱石は苦苦しくもあれば気の毒でもあって、できればそれを彼等に反省させ、正しい道に連れ戻してやりたいと思ったのに違いない。〉(『夏目漱石』)

 漱石の思いは、設置から二年後に文芸欄を廃止するという形で表れた。文芸欄に連載された草平の「自叙伝」が朝日から不道徳と非難され、また朝日入社に際し便宜をはかってもらった池辺三山が朝日を辞職するという紛議も生じていた。漱石は、文芸欄の廃止と森田の解任を提案し受け入れられると、自らも辞表を提出した(慰留されて撤回)。

 草平は、修善寺大患までは、漱石は「弟子どもの漱石」だったが、大患以後は、「天下の漱石」「奥さんの漱石」になってしまったと不平をもらしている。不肖の弟子達だった。

 大患後、漱石は『彼岸過迄』『行人』『こころ』のいわゆる後期三部作、そして自伝的要素の濃い『道草』、未完に終わった『明暗』を書き継ぐ。

「木曜会」は漱石の死の直前まで続いた。数十人のメンバーが入代わり立代わり、常に十数人が出席していた。最後の木曜会で、漱石は「則天去私」について語ったという。それが弟子達への遺言になった。


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