メタメタの日

パンセ


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 私は塩見孝也さんのマイミクになっているので、氏の日記で、朝日新聞夕刊(220日)にインタビュー記事が載るということを知って、期待していた。

 記事を読んでみると、書かれている事実関係の方はだいたい知っていた。医師の家に生まれ(これは今回初めて知ったが)、京大の学生運動から赤軍派議長、そして19年余の獄中生活、出所後はカンパや妻の収入、本の印税に頼っていて、肉体労働や集団労働の経験はほとんどなかった。2年前からシルバー人材センターに登録して市営駐車場で働いていることも知っていたが、それが隣接の清瀬市であることは、今回初めて知った。

 しかし、記事は期待外れであった。本人も期待外れだろうと思ったら、日記には「気に入りました。生前葬の葬儀員にコピーして渡したい」とまで書いている。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1420305906&owner_id=3894679

 それで、次のようなコメントを送った。

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はじめてコメントします。

 朝日の記事は期待していたのですが、これでは塩見さんが矮小化されているのではないか、というのが第一印象でした。「革命家がはじめて知った働く喜び」とか「労働者はこういうふうに生きているんだ、そういう生活の現実は見えていなかった」などという記述には、そんなことも知らない者が革命の指導者であったとカリカチュアする意図が感じられました。これでは塩見さん本人も期待外れだったろうと思ったのですが、記事が気に入ったという感想が意外でした。それで、あらためてきちんと記事を読み直しました。

 確かに、記者には塩見さんをカリカチュアしようという悪意は感じられませんでした。真摯に原寸大の塩見さんを描こうとしています。そして塩見さん自身もこの記事を肯定し絶賛もされています。するとどういうことになるのか。塩見さんが矮小化されているのではなく、塩見さん自身が矮小だということでしょう。(暴言多謝)

 保阪正康さんの『東條英機と天皇の時代』を思い出しました。東條は、自決に失敗してアメリカ軍の治療を受けた際、MPたちの教育程度と見識に打たれて、アメリカデモクラシーの力を感じ、将来の日本もこの方向への改善が必要だと述べたということです。しかし、そんなことも知らない指導者が日本を戦争に導いたのかと驚きました。

http://ameblo.jp/metameta7/day-20070217.html

 記事にもどります。

「市井の人々の日々の営みに、慈しみを感じるようになった」とあり、塩見さんもこの記述を是認されています。しかし、「慈しみの感情」には「上から視線」を感じます。むしろ、地に足の付いていない革命家の存在を市井の人々の優しさが許しているのではないでしょうか。(再度暴言多謝)

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 ことばは己に返ってくるな‥‥


http://ameblo.jp/metameta7/entry-10083200410.html

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 楊逸さんの『時が滲む朝』の芥川賞受賞コメントで、高樹のぶ子選考委員が、「全共闘世代が40年前に経験した熱気をこの作品に実感できるという意見があり、私(高樹)もそれに賛成だ」と述べている。http://sankei.jp.msn.com/culture/books/080715/bks0807152229001-n1.htm

 この点については、私も賛成だ。確かに昔を思い出させるところがあった。

ただし、全共闘運動を背景とした、高樹のぶ子原作の映画『霧の子午線』(吉永小百合、岩下志麻主演)は、中島みゆきの名曲「二隻の舟」以外は、まったく評価できないが。


 「芥川賞選考委員には全共闘世代が多いから、この作品が受賞したのだろう」という意見をネットで見たし、小谷野敦さんが、Amazonのブックレビューで、「史上最低の芥川賞受賞作・・・の一つ、と言おう」 と書いているのも、まぁ、そうかもしれないし(しかし、芥川賞受賞作品をどれだけ読んだのかと聞かれると、まったくお恥ずかしい限りだが)、豊崎由美さんが、「日本人がこれを書いたら、『何でいまどきこんな古めかしい、ダサイ小説を書くの!』といわれても仕方がないような」http://blogs.yahoo.co.jp/hazuki73ry/41330717.html  と述べているのもそうだろうと思う。

今どき、こういうベタな作品は、日本人は書かないし、書けないだろう。しかし、ベタであるということは、バカ正直、真っ当ということであり、中国のことわざにも「愚公、山を移す」というのがあり、毛沢東も引用していたではないか。あるいは、ベタとは近代(モダン)であり、現代(ポストモダン)には、古いということなのかもしれないが、新しいものは、いつの時代にも存在していて、同時にどんどん時代遅れに、古くさくなっていくものだが、別の意味でいつの時代にもあるものは、その意味で新しくはないが、決して時代遅れにも、古くもならないということも言えるだろう。

            *

楊逸さんの『時が滲む朝』の芥川賞受賞(2008年)と、高行健さんの『霊山』『ある男の聖書』のノーベル文学賞受賞(2000年)を同列に扱うことはできないかもしれない。高さんの方は、テーマはベタでも、表現がメタになっているが、楊さんのは、テーマも表現もベタベタなのだろう。

高さんのテーマの一つの「党」は、これこそ近代のベタだろう。

「過去を回想するためには、まずその時代の語彙とその確かな意味を明らかにしなければならない。たとえば「党」という専門用語は、彼が子供の頃に父が孤高を気取って言った「君子は群して党せず」(『論語』)とはまったく違っていた。その後、彼の父もそんな言い方はしなくなった。このことばを口にするときは、きわめて厳粛で、敬意を払っていた。手が震えて、グラスの酒がこぼれた。」(『ある男の聖書』171~172頁)

もちろん、この「党」とは、中国共産党のことだが、中国共産党という個別の党を指す固有名詞以上のものだった。「厳粛で敬意を払う」畏ろしい存在ではあったが、畏怖の対象であるだけではなかった。

谷川雁の詩によれば、こうだ。

「それから、党と呼んでみる

 村の娘をよぶように

 形容詞もなく静かにためらって」(「伝達」1960年)


 こういう感覚はわからない人にはわからないだろうが、わかる人には地獄だろう。それは、親鸞が「一定すみかぞかし」と言った地獄であるだろう・・・・・って、なんか重くなってきたが、こういう重さが近代(ベタ)です・・・と、レスするのがポストモダンなのだろうか。

 *


 党は、中野重治や佐多稲子の世代にとっては「家」のような存在だったという。(要出典。多分、佐多の『夏の栞』か、中野の『甲乙丙丁』) 家のように、帰るべき、所属すべき、なつかしい存在。

だからこそ、逆に、戦後、最高指導者の徳田球一は「家父長的」であったと、反対派から批判されることにもなった。批判したのは、宮本顕治らの国際派で、このとき中野も国際派だったから、党を家でイメージすることは、否定的なものに転化していたのだろうか。(中野重治のこの下りは、全然文献をフォロウしていないから、思いつきを出ない。)


その日本共産党を脱党して、共産主義者同盟という新しい党を作ろうとした60年安保の学生党員たちにとっては、党は、若衆集団のようだった(らしい)。少なくとも、「家」で比喩されるものではまったくなかった。指導者同士でも、相手がどのような家庭境遇にいるかは全く無頓着であったという。(要出典。多分、大嶽秀夫『新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ 』からの孫引き)

 *

私は、体質的に全くの組織嫌いの運動好きであったが、76年から81年の5年間党生活を送った。入党の決め手になったのは、レーニンの『何をなすべきか』と『第二インターナショナルの崩壊』、そして「社会帝国主義論」であった。「社会帝国主義論」については、まったく誤解していたことが、入党後判明したが、それは後の祭りだった。入党へと、頭で理解したことはそういう論文だったが、心の部分で、入党へと踏み出させたのは、スターリンに粛清されたオールド・ボルシェビキ達が、スターリンが間違っていることを知りながら、スターリンは正しいと言って処刑されていった気持がわかったと思ったことだった。そして、5年後、いや、やはり、彼らは、スターリンは間違っていたと言うべきだったと思ったとき、脱党した。



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『蟹工船』が今年だけで35万部も売れているらしい。

http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2008/07/16074156/

 日本共産党の中央委員会総会でも、志位委員長が、『蟹工船』ブームに触れ、この1年間の新入党員が9千名近くになったと報告し、次のように述べている。

「心ある財界人から「資本主義もゆきつくところまできた。新しい社会主義を考えなければならない」ということが言われ、『蟹工船』が若者を中心にブームとなり、マルクスに新しい関心が集まり、テレビ局が「資本主義は限界か」という企画をたて、その答えを日本共産党に求めてくる状況が生まれました。これは、わが党がこれまで体験したことのない新しい状況であります。」

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-07-13/2008071317_01_0.html

 『蟹工船』(1929年)の著者小林多喜二(1903~1933年)は、戦前の非合法時代の日本共産党員であり、彼にとっては、蟹工船に象徴される資本主義の苦役から解放される希望として、社会主義とソ連邦があった。

 しかし、今の私たちは、ソ連と社会主義圏の崩壊を知っている。日本共産党は「ニセの社会主義」の崩壊だというが、私は、こう思う。資本主義には問題がある。しかし、社会主義は答ではなかった。資本主義には搾取と抑圧があり、社会主義には抑圧と搾取があった。

        *

35万部売れたという『蟹工船』は、新潮文庫版であり、この文庫には、多喜二の『党生活者』(1932年)も収められている。

 私は、今から30年以上前、『党生活者』に書かれているのと95%同じ通りの生活をしていた。偽名で大工場に期間工として潜入し、同志とアパートを借りて、工場細胞の秘密のビラを工場内に配布し、党上部と接触するときには、関係ない駅を乗継して尾行に注意した。『党生活者』と唯一違っていた5%は、「ハウスキーパー制」を取らなかったことだった。

ハウスキーパー制とは、戦前の非合法時代、男女党員が夫婦を装ってアパートを借り、女性党員がハウスキーパーとなったことだが、その際、男性党員による陵辱がなされたことがあり、戦後、その非人間性が強く批判された。

新左翼は、戦後の男女平等教育が身体化されていたし、日本共産党には批判的だったから、「ハウスキーパー制」は否定した。しかし、新左翼諸党派にも、その種の「差別事件」が皆無であったわけではなく、リブから批判もされた。私が属した党派は、新左翼の負の部分を克服するために(遅れて)出発したこともあり、私が知る限り、その種の「差別事件」とは無縁であったと思う。

 ともあれ、私が『党生活者』を読み、95%同じだなと思った時は、すでに『党生活者』が書かれた時から40数年が経っていた。なんで40数年後に、同じことをしているんだろうとは思ったが、日本共産党の名前と歴史を継承するのは、わが党であるという気負いと権威主義があった。

        *

 結局その党に5年いて、脱党してから27年になるが、思想的総括はまだついていない。脱党したのは、1981年だから、私たちの世代の中でも、ずいぶん遅くまで、革命と社会主義にこだわったことになる。早い人は、1969年の東大安田講堂が落ちたときに離れ、より多くの人が1972年の連合赤軍リンチ事件で離れ、残りの人も、70年代の革マル・中核の内ゲバで離れただろう。

 76年中国では、周恩来、毛沢東が死に、4人組が逮捕され、次第に文化大革命が何であったのかが分かってくる。そんな時期に、遅れて来た(トウの立った)青年として党活動を始めたことになる。5年後の81年に脱党。89年天安門事件、そしてベルリンの壁崩壊、91年ソ連邦解体。

 明治維新を超えて生きた福沢諭吉は「一身にして二世を経る」と言ったそうだが、45年の大日本帝国の敗戦を超えて、戦後民主主義を生きた日本人も同じ思いを持っただろう。そして、戦後民主主義は社会主義を含意(あるいは憧憬)していたから、45年を超え、89年を超えた者は一身にして三世を経る」という思いにも囚われたのではなかろうか。私たちにも一身にして二世を経る」感はある。認めない者もいるが。 

       *

 今期の芥川賞受賞作・楊逸『時が滲む朝』を読む。天安門事件で大学を退学させられた二人の青年が、一人は日本で祖国の民主化運動を続け、一人は祖国で実業家の道を歩む。二人は日本で再会し、青年実業家は、カラオケ店で、昔好きだった尾崎豊の曲を歌い、手帳に挟んでいた尾崎の写真を見せて言う。「この顔からは狼を感じるんだ。俺の孤独、この胸に仕舞った。この拝金社会に生きる人間には理解の出来ない狼の孤独を、がっちり守ってくれるような気がするんだ」

 いま、書き写しながら、そのベタさにいささか鼻白みかけたが、こういうベタは、日本の作家には、恥ずかしくて決して書けないだろうし、書いたら瑕疵になるだけだろう。

 しかし、私にとっては、この小説には、日本の現代小説にはない、わがことのように読める要素があった。小説をわがことのように読んだのは、18歳のときのヘッセの『荒野の狼』(芳賀檀訳)を初めとして終わりとしていたが、もしかすると現代日本小説に求めて得られなかったものを現代中国小説に求められるのではないかと思った。

 今まで、プロレタリア文化大革命については、映画を見、ドキュメントを読み、ある程度の切実さを感じてはいたが、小説を読んでみようということは思いつかなかった。

 高行健『ある男の聖書』、莫言『転生夢現』を読んだ。日本小説からは得られない「わがこと感」があった。社会主義や資本主義や権力や革命や党派性という「大きな物語」と、個人の生き死に、卑小矮小裏切りという「小さな物語」が、入れ子のように、あるいはクラインの壺のように骨がらみになっている。資本主義には問題がある、しかし、社会主義は答ではなかった。社会主義には問題がある、しかし、資本主義は答ではない。

 このような問題設定は時代遅れ感もあったが、私には、このクラインの壺から逃れる道がなかった。外に出られたと思っても、相変わらず壺の内にいた。人間が人間性から逃れない限り、堂々巡りをするようにも思えた。しかし、ここに世界性も同時代性も、言葉遊びをしてよければ「世界一個同時アポリア」もあった。日本では、全共闘世代という数パーセントの人口の飲み屋のクダに付き合う気は反吐が出るからなかったが、高行健『ある男の聖書』は、彼の『霊山』とともにノーベル文学賞の受賞対象作であった。

コミンテルンという国際権威に代わって、ノーベル賞の権威を借るわけではないが、フ~ン、私がこだわり続けていたものは、ノーベル賞の対象でもあったのだ、という開放感はあった。



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 若松孝二監督が、連合赤軍の映画のインタビューの中で、「少なくとも、死ぬ覚悟もないような連中は、かれらを批判することなんか、できっこないんです」と発言しているのをいくつかのブログで見た。

 当然、この発言は批判されて然るべきであるし、批判されていた。私も同意見である。

思想性を抜きにした「死ぬ覚悟」の有無が批判の前提条件になったり、ひょっとすると「死を賭するほど一途であるかどうか」が判断基準にもなると考えているらしい若松監督自身の思想性の欠如は批判されて然るべきである。それは、この映画のメッセージを、あさま山荘に立て籠もった五人の赤軍兵士の一人、16歳の少年が、「総括殺人」を「僕たちに勇気がなかったから止められなかったんだ」と叫んだ一言に込めてしまった、この映画の限界とともに批判されるべきである。

 二人の兄に連れられ、連合赤軍の山岳ベースに参加し、長兄の「総括殴打」にも加担させられた少年の言葉には正当性があるだろう。しかし、それから30数年が経った現時点において、70数歳になった若松監督が、連合赤軍の映画を作り、その映画のメッセージを「勇気を持つこと」に置いたとしたら、それは、監督の「知性の欠如」を示しているのではないかと、と前のアーティクルで書いた。

 今回、インタビュー記事全文を読み、少し訂正する必要性を感じた。

 若松監督を批判したのは、行き過ぎであった。私は、若松孝二氏は「当事者」であると思い、その当事者の30数年後の総括が「勇気の欠如」であることにはまったく納得できないと思ったのだった。しかし、インタビューで分かったのは、監督は、「応援者」ではあっても、当事者ではなかった、ということだ。当事者ではなかった者に、連合赤軍事件の総括を求めたのは、誤りであった。

 当事者とは誰か。それは、私であり、私たちである。「連合赤軍」の参加者自体は、殺害された者、殺害した者、逃亡した者など全部を含めても、数十名だったろう。しかし、私たちの世代は、彼ら数十人を直接知らなくても、一人か二人を間に置けば、つながってしまう「当事者」である。何より、72年2月のあさま山荘籠城を、69年1月の東大安田講堂籠城の延長線上に見ていた者にとって、それは他人事ではなかった。その後判明した「リンチ殺人事件」も他人事ではなかった。偶然事が、ひとつかふたつ異なっていれば、自分がその場に居合わせていなかったとはいえないという思いは、私たちの世代の何割か何パーセントか何十万人かの思いだろう。


 若松監督のインタビューも載った『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』の全部を読んだわけではないが、何人かの文章が寄せられているなかで、正真正銘の「当事者」元連合赤軍兵士の前沢虎義氏の文章が、前の私のアーティクルと同じ問題意識であることがわかった。

「映画『実録・連合赤軍』で、「勇気が無かった」と云われた。一つの真実だと思う。しかし、自分の能力を自己判断して「組織の長」の資質が無いと判断し、切迫した情況の中で「対案を出せない反対はしてはいけない」と考えたことも勇気が無かったと自己批判しなければならないのだろうが・・・・。(略)仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した。」


 若松監督は、インタビューでこうも発言している。

「森恒夫君は死ぬことで落とし前をつけようとしたでしょう。」

 全然違う。これでは総括にならないが、当事者ではない応援者にこれ以上望むことは止める。

 ただ、脊椎カリエスで体に穴を開け、膿を拭う痛みに絶叫する身を「病床六尺」に横たえていた正岡子規は、「死ぬ覚悟」は間違いだと言ったことは銘記しておこう。

余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」


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 福島みずほは、雨宮処凛との対話『ワーキングプアの反撃』(2007年、七つ森書館)の中で、2007年4月30日に行なわれたプレカリアートのデモで読み上げられた宣言(菅本翔吾作)を聞いて、森崎和江の「無名通信」(1959~61年)の『宣言』を思い出したと言っている。

 『宣言』の次の箇所だと思う。(福島さんの引用は、「意訳」されていました。)

「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。なぜなら、わたしたちはさまざまな名で呼ばれていますから。母・妻・主婦・婦人・娘・処女・・・と」


 そして福島は、菅本の『宣言』も、森崎の『宣言』も、「エゴイズム宣言ではなくて、『自分が自分として生きることが、より多くのみんな、普遍的なみんなとつながれる』という意味だと思うんですよ」と言い、「昔のフェミニズム」(ママ。ウーマン・リブのこと)のテーマであった「個人的なものは、政治的なものである」につながると思う、とも述べ、こう続けます。


「個人的な体験を語ることが普遍性をもち、いろいろな人とつながる。(・・・)だから、雨宮さんの体験や思いは個人的なことですが、それをごまかしたり、きれいに飾ったりすることなく、そのままボン!と出していることが、普遍性をもち、いろいろな人とつながっているのだと思います。誰かの妻とか、誰かの娘とか、誰かの母だと普遍性はもちませんので、つながれませんが、とことん個人を突き詰めることによって、いろいろな人とつながり、みんなの普遍性であると気づかせてくれると思います。」(85ページ)


 個別性を突き詰めると普遍性とつながる、ということである。

 私も1968年の夏頃、大学のバリケードの中でそんな議論をしたことを思い出す。

「自分の穴を掘っていくと、世界と通底する」と。

そういう思いは、当時の自他称ノンセクト・ラジカル共通の思いでもあったのではないかと思う。

 それから十数年後、ヘーゲルを読んだら、こういう文章に出くわした。

「抽象的な判断は、個は普遍であるという命題である。」(岩波文庫『小論理学・下』135ページ)

 よくわかりもしないのに、ヘーゲルを引用するのは、避けた方が無難だが、多分ヘーゲルがここで言っていることは、「確かに個は普遍だけど、それは抽象的に正しいだけで、中身がないんだよね」ということだと思う。

 へーゲルは、「概念」を普遍性、特殊性、個別性の3つのモメントで考えているわけです。

 特殊性とは何か。

 ここから先は、(多分)ヘーゲルと関係ないことを述べていると思うのですが、ヘーゲルのこの3つの言葉に刺激されて考えたことではあるのです。


 特殊性とは、何者かであることでしょう。男であること、日本人であること、○○会社の社員であること、などなど。何者か・である/になる・ということは、社会の中での役割を引き受けることであり、大人になることであり、自分が位置する社会を認めるということにもなるでしょう。かりに、今ある社会を認めたくないなら、それを別の社会に変えていく歴史の中に自らを位置づけ、歴史の中での・役割/責任・を引き受ければよい。そのように自己を・規定/限定・することは、ある特殊性を・引き受ける/身に帯びる・ことでしょう。

 特殊性を媒介にして個別性が普遍性とつながるという構造です。それは、個別が普遍とショート(短絡)するのではなく、特殊性を引き受けた個々人が集団的に段階を踏んで普遍性へと至る具体的な筋道となるでしょう。(カソリック教会の論理かもしれない。教会を媒介として個人は神と結びつくと。これに対し、プロテスタントは、聖書という神の言葉を通して神と結びつくことを説いたのだろうか。そして神秘主義とは、一切の媒介を拒否して神との一体化を説く思想のことかしらん。)


 個から普遍へと直結するのではなく、自分が何者か(特殊性)になること。しかし、私はこれが嫌で嫌でしょうがなかった。(ガキであったとも言える。)

 60年代後半、「自己否定」という言葉が、一部で流行りましたが、私には、これはよく分からなかった。「自己否定」という言葉には、エリート臭を感じてしまい、否定すべきほど、自分に特権があるとも思えなかった。自己否定の代わりに、私は「自己不定」をうそぶいていた。

「私に意志があるとしたら、それは、かつて何者でもなく、かつ何者にもなるまいという意志だけだ」と。ま、今となっては、勝手にほざいとけ、と自分でも思いますが。


 佐藤優氏が優秀な日本の外交官であった時、彼は、ロシアの愛国者と肝胆相照らす仲になったと言います。その理由を、佐藤氏は、自分が日本の愛国者であったからだと自己解説しました。愛する国は違えども、愛国者同士、信を置けるということでしょう。

 外交というゲームでは、各国の外交官は、自国の国益を優先して交渉をするわけです。そこでは、「人権」とか「平和」とかいう普遍的価値も、国益を外交の場で実現する(あるいは自国民を納得させる)ためのカードでしかないでしょう。それがルールで、しかし、そういうルールであることはお互い承知した上で、外交ゲームを展開する。そこでは戦争も選択肢として存在し、しかし戦争になったからといって、そこでゲームオーバーでゲーム盤が消えて無くなるわけではなく、戦争に形が変わっただけでゲームは続いていて、いつでも元の外交に戻れるし、戻る。こんなことを、もう何千年も(戦争のルールとしての国際法が確立したのは、ここ数百年としても)類としての人間は繰り返してきたが、あと少なくとも何百年かは繰り返すのでしょう。

 国家が存在し、戦争が存在してきた以上、その特殊性を媒介としないで、世界平和という普遍性には至らないということでしょう。

 そういうことを分かって特殊性を引き受ける国家官僚は、その特殊性を普遍性と錯覚してはいない。一般庶民には、特殊性を普遍性であるかのごとく錯覚させる(大日本帝国が八紘一宇という世界原理を実現するのだとか、ソ連邦は世界プロレタリアートの祖国だとか)教育をしておきながら。

 たとえば、大日本帝国の高級官僚であった森林太郎(文豪としては森鴎外)は、天皇が神でないことも、大逆事件が死刑に価する事件ではなかったことも、日本が別に特別な国でないことも知りながら、そうである「かのように」の哲学で世に処したわけです。そして、死ぬ時に遺言で、自分の墓には「森林太郎墓」以外の銘を刻ませなかった。生きていたときは信じていた振りをした一切の特殊性(称号、勲位、筆名の鴎外さえ)を振り捨て、「無名」の個に返って、死という普遍に趣いたのでしょう。

 社会の責任を担う「男」には、そういう・ロマン/気負い・がある。特殊性に自己を限定して生を全うして、最後の最後に、分かる人にだけ分かるようにして去っていく。

 国家権力側の森林太郎ばかりでなく、反国家側の革命家でも、「男」には、特殊性へと自己限定すると同時に・その底に、自己解体して世界へと通底したいという・ロマン/気負い・は共有されているでしょう。(「女」は? 女は自己限定・される/されることを拒否する・ことはあっても、自らを自己限定することは・ない/少ない・のではないでしょうか。自己限定するオレってかっこいい、という倒錯した・ロマン/気負い・に酔うことはないのではないでしょうか。)

 冒頭に挙げた森崎和江の同志だった時の谷川雁に次の詩があります。(「破船」)


 男だって虹みたいに裂けたいのさ

 所有しないことで全部を所有しようとする

 おれは世界の何に似ればよいのか

 


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8・15のアホリズム


 若い頃は(などと言うようになってしまった・・・)アフォリズムがかっこいいと思っていた。じっくりと考え抜くのではなく、真理の一面を小利口に切りとってみせる警句に飛びつくのは若年の性急さの表れなのだろう。

いろいろな経験をし、見たくもない現実や自分自身のいろいろな面を知るにつけ、アフォリズムは、アホな紋切り型だと思うようになったが、8月15日、NHKの憲法9条をめぐる討論番組を見て(第1部の冒頭と第2部)、久しぶりに、この表現形式に魔がさした・・・


 さて、私自身は、9条については改憲派である。9条1項の「戦争放棄」は維持、2項の「軍隊放棄」は、自衛のための軍隊を持てること、つまり現状を肯定するように改めるべきだと考えている。(こういう「改憲論」は右翼に分類されるようだが、いったい、いつ、「護憲」つまり保守が左翼と分類されるようになったのか。左翼は、戦争放棄だけでなく軍隊放棄にも賛成しないとおかしいというような雰囲気になってしまったのか。「人民総武装」は、かつての左翼(の一部)の主張だったはずだではなかったのか、などというボヤキは置いておいて・・・)


 討論番組は、小林よしのりや斎藤貴男、小林節などの「識者」6名と、「大衆」数十名が参加していたが、私と同意見の大衆は、護憲派の大衆に比べて、思い込みの強さ、頭の固さ、偏狭さが否めず、こんな連中と一緒になりたくないなぁ、と思った。

 番組に出ていた大衆は、NGOや元PKOの自衛官とか、塾講師、翻訳家、フリーライターなどで(もちろん、会社経営者、主婦、学生などもいたが)、実生活に根ざした大衆というより、薄められたインテリが多く、選び方が偏っているなぁと思った。意見傾向としては、護憲派が多かった。

 そして、これらの大衆代表は、護憲派も改憲派も、自分の経験、自分の考えを絶対化し過ぎていて、その窓からしか世界を見ようとしない。ちょっと反論されると感情的になる。NGOの人は、非武装だからこそ国際貢献できた体験を語ったが、その事実は、武装自衛隊がPKOで国際貢献できない理由にはならない。

反論されるとムキになる傾向は、改憲派の方が強かった。その余裕の無さは、思考力の余裕の無さでもあり、また、自分達は少数派で、世の中から抑圧されていると感じているからでもあるようだった。(実際はそうでもなくなりつつあるのに。) 子どもの頃から学校やマスコミで、護憲、護憲と護憲こそが正しいと言われ続け、自分の素朴な疑問や思いを抑圧されてきたと感じているからだろう。彼らにとって、左翼とは、学校教師や一流マスコミという支配者・抑圧者なのだろう。

総じて、護憲派の方が改憲派より賢そうに見えた。改憲派は、相手の賢しらに「かけがえのない日本民族」に対する温度差を感じていらだつのだろう。自分の手は汚さずにきれいなことだけ言っているように感じるのだろう。一方、護憲派は、改憲派に対し、国際貢献という美名がアメリカ追随のイチジクの葉にしかなっていない現実に対する無知にあきれ、「かけがえのない生命」に対する温度差を感じて、いらだつのだろう。

さすがに「識者」は自分とは反対意見も含めて、多様な意見への対応力がある。だから識者なのだろうが。


さて、アホリズム・・・


(1)世の中には2種類の人間がいる。ナショナリズムは病気だと思っている人間とインターナショナリズムは病気だと思っている人間と。いや、もう1種類の人間がいる。ナショナリズムもインターナショナリズムも病気だと思っている人間が。


(2)軍隊がなければ戦争をすることはない。しかし、軍隊がないことで、あるいは不十分なことで、戦争をしかけられることはあるし、あった。世の中には軍隊のプレゼンスによって守られる平和がある。だから国連軍の創設が国連憲章でも謳われているのではないか。

(映画「ホテル・ルワンダ」では、フツ族によるツチ族虐殺の現場から逃げ出す国連のPKF(平和維持軍)が描かれる。http://www.hotelrwanda.jp/story/index.html  )


(3)平和外交と軍隊の存在は矛盾しない。というか、軍隊抜きで平和外交が可能だろうか。

 軍隊がなくても平和外交をすれば、外国から攻められることは無い、という意見がある。文化交流を通じた相互理解の努力は、戦争の可能性を、昔に比してはるかに下げるだろう。「だから攻められることは無い」ではなく、有ったときどうするか、だ。


(4)改憲派が、自衛隊派遣による国際貢献を唱えるのに対し、護憲派は、憲法9条を世界に広めることが国際貢献だという。よろしい、軍隊を禁ずる憲法と憲法が禁ずる軍隊の共存は世界に広める価値があるだろう。


(5)軍隊も組織である以上、組織の論理で、自己存在を正当化し、存在価値を拡大主張し始めるだろう。それに対する歯止めとして、9条第2項の存在は有効かもしれない。

改憲論者・小林節氏が言うように、「自衛隊をまだ日陰者にしておいたほうが危なくないかも知れない。」http://www.magazine9.jp/interv/kobayashi/index2.html

護憲論者・内田樹氏が言うように、「憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」は、「歴史上もっともみごとな政治的妥協のひとつ」であるかもしれない。

http://blog.tatsuru.com/archives/000961.php


(6)番組では、小林よしのりのマンガ(原典未確認)のラストシーンのことば「生命より大事な価値がある」を、沖縄の戦争体験者が「生命より大事な価値はない」と批判した。

しかし、小林が反論したように、“自分”の生命より大事な価値が無いなら、人はどんな卑劣なこともするだろう。自分につらなる者の生命を敵に売ることすらするだろう。

だから、少なくとも「自分の生命」より大事な価値として、「自分につらなる者たちの生命」があるだろう。


(7)日本は軍隊(生命)ではなく、経済(金力)で国際貢献ができるし、すべきだという意見があった。(なぜ、そんなに軍隊を毛嫌いするのだろう。人類の歴史上あったし、現にあるものの利用方法は、アレルギー感とは別に考えるべきだろう。)

すでに軍隊(自衛隊)を持っているのに、「この軍隊は憲法上存在していないことになっているので、国際貢献に参加できません」という言い訳が、国際的にどこまで通用するだろうか。


(8)小林よしのりは、ガンジー主義は自分の理想であると言った。非暴力抵抗主義は大変な思想であると。北朝鮮(や中国)が侵略してきたとき、非武装で、一列になって向かっていって、ばたばたと倒されても、次々に列をなして向かっていく覚悟があるのかと、護憲派に問うた。

非武装を唱えるものは、抵抗を説くのか、逃亡を説くのか。

逃亡も良いだろう。自分の生命以上の価値は無いのだとしたら。自分につらなる者の生命も自分にとって価値が無いのだとしたら。

しかし、また人は、「自分につらなる者」を言い訳に、「他人につらなる者」に無慈悲なまねをする存在である、あったことも確かだが。


(9)ガンジーは非暴力抵抗主義を説いたが(そして、ガンジーの国は、今、核兵器を所有しているが)、ガンジーと互いに尊敬しあい、書簡も交わしていたトルストイが説いたのは、無抵抗主義だった。

「(隣国の軍隊が攻めてきて)穀物や家畜を奪っても、ばかたちはとるにまかせて、だれひとり自分を守ろうとするものがない。なんでもさっさとさしだして、『もしおまえさんたちの国で生活に困るようなら、みんなわしらのほうへ引っ越して来て暮らしなさい』。

 (隣国の王は)兵隊どもに村を荒らし、家や穀物を焼き、家畜を殺してしまえと命じた。ばかたちはただ泣くばかりで、だれも自分を守ろうとするものはない。『なんのために、おまえさんがたはわしらをいじめるのかね? もしおまえさんがたが入り用だというなら、みんな持って行って使ったらええだに』

 兵隊どもは悲しい気分になってしまった。彼らはもう前へは進まないで、間もなく八方へ逃げ散ってしまった」(「イワンのばかとそのふたりの兄弟」中村白葉訳から勝手に抜粋)

 

最終的な理想の状態だろう。しかし、いま、自分ひとりだけでなく、自分につらなる者にも無抵抗主義を説けるか。


(10)自分の祖国は世界だと言う人がいる。その人は世界のために死ねるだろうか。

国のために、民族のために、家族のために、信仰のために、主義のために死んできた人がいるように、世界という観念、世界という希望のために、死ねる人はいるだろう。自分の生命を捧げる対象は、どちらにしろ観念だろう。世界のために死ねる人は、国や家族のためにしか死ねない人を軽蔑するのではなく、また逆に、国や家族のためになら死ねる人は、国や家族のために死ねない人を軽蔑しないように。いやそもそも、死ぬとか死ねるとかいう事態がおとずれないように。

自分の祖国は世界だと言う人がいる。その世界の平和を最後に担保するのは、当面は軍隊である。


(11)日本の「平和」を現実に担保してきたし、今も最終的に担保しているのは、アメリカ軍と自衛隊の存在である。この現実を過小評価するのでも、過剰な意味付与をするのでもなく、憲法9条第2項を考えたい。

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『周恩来秘録』上下(文藝春秋)を読む。著者の高文謙は、「党=国」お抱えの歴史家・伝記作家だったが、89年の天安門事件でアメリカに亡命とある。原題は『周恩来晩年』。文革から死までの周恩来を描く。

 「面白い」の一語では済まない。文革は他人事ではなかった(世代である)。

 それまで、新聞の1面は自分とは関係のない世界だと思っていたが、66年に文革が報道されたとき、初めて、新聞の1面と自分がつながっと感じた。「魂に触れる革命」というものがあることを知った。

 翌67年5月にはパリで「5月革命」が起きた。もしもこの革命が成功するなら、政治に関心を持ってもいいと思った。

 68年一浪して入った大学で闘争が起きた。Involveされた・・・

             *

 本書は、いくつもの驚くべき事実を暴く。全部が全部、著者の見方が真実を穿っているとは限らないだろうが、きわめて有力に思える。

周恩来が革命中国を生き抜けたのは、№3だったからだ。しかし、劉少奇、林彪の№2が毛沢東によって排除され、周が№2となり、世界から「周恩来外交」と称賛される成果を挙げると、嫉妬にかられた毛は周を追い落としにかかる。「批林批孔」運動は周恩来に焦点を定めていた。そういう話は聞いてはいたが、やはりそうだったのか、と残念だった。

周は、文革の中で何回も屈辱的な自己批判をする。「自分は助手にはなれるが舵取りにはなれない」と。無表情に「毛主席語録」を手に振る周の映像も、NHK-BSのフランス制作のドキュメント番組で見た。出典が確認できないが、周は、中国が半植民地状態だったとき、革命のためだったらオカマにもなろう、と言っている。紅衛兵と一緒に毛語録を振ることなど何でもなかったのだろう。

本書は、鄧小平の復活は、周恩来の働きかけではなく、毛沢東が周追い落としの対抗馬として抜擢したものだという。しかし、個人的に必ずしも親しくなかった周と鄧は、国の近代化という方向で一致し、毛のもくろみから外れていく。

儒教道徳で教育されたインテリ出身の周は、毛に対し君臣の道を、裏表なく死ぬまで取りつづけた。しかし、毛は、長征中の遵義会議(1935年)以降に党の実権を把握するまで、周の配下にあった屈辱を片時も忘れていなかった。そして、周も毛がそのことを忘れていないことを忘れることはできなかった。

文革は、毛沢東の劉少奇に対する奪権闘争という目論見から点火された。しかし、毛の呼びかけに燎原の火の如く呼応した大衆の「もくろみ」とはなんだったのだろう。共産主義へのロマンか? 革命の理想か? では共産主義とは何か? 革命とは何か? 理想とは何か? 

あのとき批判された「修正主義」が、資本主義が、中国を、世界を、日本を覆っている。ひとつの主義が世界を覆いつくすことは、その主義が共産主義であっても資本主義であっても、ろくなことにはならない。

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じゃんけんの効用

――「3すくみ」という政治の智慧


 人類にとってじゃんけんの歴史がきわめて浅いということを知って、ちょっと驚いた。欧米ではじゃんけんが広く知られるようになったのは、ここ数十年の話らしい。

http://www.netlaputa.ne.jp/~tokyo3/


 ということは、西洋では最近まで「3すくみ」の原理は、知られていなかったのだろうか? a>b、b>c、しかしc>a という関係を、数学的構造として考察することはなかったのだろうか? ましてや、3すくみを人間関係や政治の原理として考えることはなかったのだろうか? いやいや「三権分立」は、立派な3すくみになっているではないか。


ちょっとお勉強。権力分立という考え方は、近代政治思想史においては、ロックが『統治二論』(1689年)で、立法権と執行権の二権分立を説き、モンテスキューが『法の精神』(1748年)で、立法、行政、司法の三権分立を説いた。


 かなり早い時代から、いくつかの国で、宗教的権威と政治的権力を分離したことは、人間の叡智だと思うが、二権分立や三権分立は、権威と分離した権力の中での話だ。

 しかして、政治の原理として三権分立という「3すくみ」が唱えられる前から、権威と権力と、そして民衆を3つの項とする「3すくみ」があったと思う。


例えば、シェイクスピアの『リア王』(1605年)で描かれるような、王と民衆と道化の関係は、中世ヨーロッパ封建国家における3すくみ構造を反映してはいないだろうか。王がもちろん権力で、民衆は民衆。そして道化がマイナスの権威として。

王は民衆を支配する。その王を道化がコケにする。しかし、道化は民衆からはバカにされている。と書くと、それはとうてい史実を反映したものではないだろうが、3すくみのひとつの理念型として許してもらいたい。


あるいは、古代インド(紀元前6、5世紀頃)における王と聖者と民衆の3すくみ。

王は民衆から収奪するが、聖者に教えを請い、自らの権力の正当性を宗教的権威で荘厳しようとする。その聖者は民衆の喜捨に生活を支えられている。年老いたブッダでさえ、死ぬまでひとりで、あるいは親類の若いアーナンダと二人で托鉢乞食をしていたというのが、ブッダの実像のようだ。インドでは聖者とは昔から今でもそういうものらしい。マハトマ・ガンディーは、裸足と裸体(西洋人の目から見れば)で、植民地独立交渉のためロンドンに乗り込んだし。

ともあれ、古代インドでは、誰が一番エライとか、強いとか言えないリンク状になっていたのだろう。政治的軍事的には王が最強かもしれないが、精神的価値においては聖者が最高、しかし、経済的に聖者を支えていたのは民衆ということになる。


江戸時代における天皇と幕府と民衆の関係も、3すくみの理念型として考えられないだろうか。

幕府は権力の正統性を天皇に保証してもらい、民衆を支配する。天皇(公家)は、幕府から支給されるわずかな生活費の足しにと、書や絵をしたためて京の町衆に買ってもらったという。幕府は天皇に頭が上がらず、民衆は幕府に頭が上がらず、天皇は民衆に頭が上がらない、という3すくみ。(う~む、こう図式化すると、史実から離れすぎだろうか?)


以上のような権力と権威(道化はマイナス権威)と民衆の3すくみを「プロト3すくみ」とすると、それの変形が生まれた。

西洋では、国王と民衆の間に議会が生まれ、国王と道化の間に官僚組織が生まれたと考えると、民衆と道化の間に生まれたのはジャーナリズムということになるだろうか。

歴代王朝が興亡を繰り返した中国では、皇帝と道化の間に宦官という巨大官僚組織が生まれ、皇帝と民衆の間には科挙による官僚が生まれ、民衆と道化の間には、盛り場で「三国志」や「水滸伝」を語る講釈師が生まれて民衆の溜飲を下げていた、という図式になるだろうか。

現代の民主主義国家では、「権力」とは三権分立の議員や行政官僚や司法官僚、「権威」とは大学やマスコミを活躍の場とする知識人、「民衆」とは経済界と市民ということになるだろうか。

               *


政治の基本を「敵・味方」の二項対立で考えると、その二項は一つの価値観を共有している。価値観を共有していなければ、敵・味方として対立することもないし、勝ち組・負け組とは、同じ価値観だから言える話だろう。

支配と被支配の二項対立は、下克上で逆転しても、両者が所を異にしただけで、支配=被支配の関係自体は無くならない。

収奪者を収奪するために、被搾取階級が国家権力を奪取したはずの国でも、搾取は無くならなかったどころか、ノーメンクラツーラという新しい搾取階級が生まれただけだった。


二項対立に対し、三項のすくみで政治を考えると、新しい地平が開けてくるように感ずる。

3すくみ(じゃんけん)の智慧を人類がもっと早くから知っていたら、無駄な争いに入れあげることはずっと少なかったのではないだろうか、と思えてくる。


政治における3すくみは、2項が別々の価値観を持ち(1つの価値観の内部で競いあうのではなく)、権威と権力のように分離して2つの中心になっていた楕円構造から、第3項が浮上した形として成立したのではないだろうか。

権威と権力は互いに牽制しあい補強しあっていた。それは「両雄並び立たず」みたいな不安定さをまだ残していただろう。しかし、第3項が浮上すると、1直線上にない3点が1平面を決定するように、3項の関係は急に安定したのだろう。

ということは、第3項目は、2項の中間(権威と権力の混合物として)や、その延長線上(ウルトラ権威やウルトラ権力として)に浮上してきたものではダメなのだ。あるいは、2項の上にあって両者に君臨するもの(絶対ウルトラ「権威+権力」者)でも、2項の下にあるだけのもの(抑圧され搾取されるだけの無知な民衆)でもダメなのだ。2項の二つ巴関係に、三つ巴の関係になるように絡むものでなくてはダメなのだ。

三つ巴になると、一人勝ちしようと思うと、一者で二者を凌駕するという努力を強いられるか、先ずは他のどちらかと組むという妥協を強いられることになる。しかしその前に、勝ち負けというものは、その基準となる価値観をお互いに共有していることが前提だから、先ず己の価値観を他に共有してもらう必要があるが、相手が受け入れなければ話はそれ以上進まない。

だから、3すくみでいいじゃないか、ま、お互いぼちぼちでいきまひょ、と納得しあえれば、3すくみで安定することになる。

権力と権威と民衆はそれぞれの価値観を持つと同時に他の価値観の存在も認めればよい。政治家は学者のアドバイスに耳を傾けマスコミの批判を甘受し、学者はその卓説を、マスコミはその情報を民衆に供覧し、民衆は権力が民主主義的に選出されたものである限りでその支配を受け入れ、また権力に人材をリクルートもする、という3すくみ構造。


我は必ずしも賢ならず、彼は必ずしも愚ならず、とは聖徳太子が言った言葉だが、こっちの価値観だとこれがエライ、あっちの価値観だとあれがエライ、あるいは、こっちとそっちだとこっちが上だが、こっちとあっちだとあっちが上で、あっちとそっちだとそっちが上、という3すくみ状態を受け入れることは、智慧と呼んでいいと思う。


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人間が権威というものを必要としている限り、象徴天皇制というのは、なかなかうまく出来たシステムだと思う。天皇制が廃棄される時期は、人間が国家レベルでの権威を必要としなくなるとき、100年を単位とする未来の話ではなかろうか。


象徴天皇制が優れていると思うのは、第一に、権威と権力が分離している点だ。

天皇は権威を持つが、権力は無きに等しい。あるいは、天皇としての権力を行使しないことをあるべき姿として要請されている。(イギリスの王室制に倣ったものだろうが。)

 日本は民主主義国家なのに天皇制があるのはおかしい、という議論はあるし、子どもの頃は私もそんなことを考えていた記憶があるが、民主主義は権力についての話で、天皇制は権威の話だから、二つは両立すると思うし、現に両立しているではないか。ただ、最近の雅子さんや皇太子の苦衷を思うと、宮内庁のめざす権威のあり方は時代錯誤的で、権威を担当する方々(つまり皇族)にそうとうな負担を強いているようで、権威を必要としている側(つまり国民)としては申し訳ないところがあるが。


象徴天皇制が優れているのは、第二に、その権威が形式化し、形骸化していることだ。

天皇に権威があるのは、天皇が天皇の地位にあるからで、別に天皇が個人的に優れているからではない。国民は、「明治天皇和歌集大成」や「昭和天皇全集」や「平成天皇対談集」などを学習して、その権威を心に留めることを強制されているわけではない。歴代の天皇も、時代を下るにつれ、この役回りを自覚するようになってきていると思う。そのへんはエライな、と尊敬できる。

しかしイデオロギー国家ではそうはいかない。国家リーダーの著作の学習が国民の責務となる。日本がイデオロギー国家だったときも、「天皇は尊敬できる」などと言ったら、たちまち不敬罪扱いだったろう。オマエの頭で「尊敬できるかできないか」などと考えるのではなく、考えるより前に尊敬すべきものだったのだ。


イデオロギー国家では、権威と権力が一個人に集中しており、その愚劣さは日本のマスコミのネタになっている。

しかし、現代の日本だって、宗教組織とかイデオロギー政党とか、私立の学校や病院とかいった、理念を謳っている組織では、権力と権威が一個人に集中して、愚劣な慣習が横行しているところは少なくないはずだ。いや、業種なんかに関係なく、創業者(あるいは創業者一家)がトップにいるところでは、メーカーだろうが、サービス業だろうが、NPOだろうが、権力者は権威も持ちたがるのがフツウだろう。これが、なぜ社長は訓示で人生哲学を語りたがるのか、の理由だ。権力者は従われるだけでなく尊敬されたがるものらしい。

イデオロギー国家を嗤うサラリーマンは、自分の会社を嗤う代わりにしているのか、あるいは、うちはあそこまでひどくないと自撫しているのだろうか。


権威と権力が一体化しているイデオロギー国家で困るのは、政権交代がないことだ。権力が交代するときは権威も変わらなければならなくなるが、権威とは価値観の源泉でもあるから、これが変わることに対しては己の人格が変わるような抵抗がある。

一方、戦後日本で、長い間政権交代がなかった理由は、国家レベルで権威と権力が一体化していたのではなく、与党と野党が権威を共有していなかったということだ。冷戦下の日本では、与党と野党は価値観を共有していなかった。国民の大多数は、野党が政権を担うということは、権威も変わることになるのではないかと恐れた。天皇制が廃止されるという恐れもあったかもしれないが、イデオロギー国家のようになるのではないかという危惧があった。

もちろん、それ以前の話として、野党には国家権力を担う責任感も能力もなかったことが理由にある。そして国民の大多数は、野党のこの限界を見抜いており、与党に対するチェック機能しか期待していなかった。

つまり、政権交代がある必要条件は、国家レベルで権威と権力が分離しており、与党と野党が同じ権威を共有していて、競合する場を権力争いに限定し、かつ競合する能力があることだ、と言える。


権威と権力が分離し、中心が2つある楕円のような組織構造は、人間が発見した智恵の一つだろう。日本の国家機構は、象徴天皇制以前から、幕府と朝廷のような楕円構造になっていたのではないか。カソリック国家の法王と国王、政党や労働組合の委員長と書記長などは、楕円構造になっているのではないか。


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