戦前の掛算パラダイムの3か条 | メタメタの日

 

以下、最近、twitterの発言の再録。

 

#掛算 戦前の算術(小学校、中学校で教えられ、実社会でも日用算術としてある程度通用していた)の掛算の流儀は,現在の日用算数とかなり違い、次のようなものだった。

 

① かけ算の式は、被乗数×乗数の順序だった。「Aをn個加え合すことを、Aにnを掛けるという。Aを被乗数、nを乗数、加え合せて得た和を積という。積を式にて表すには A×n と書く」高木貞治『師範教育数学教科書(算術及び代数)』明治43、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826333/13

 

② 被乗数は名数(単位・助数詞の付いた数)でも不名数でもよいが、乗数は必ず不名数。「乗数は必ず不名数なり」高木貞治『新式算術教科書』明治44、 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1087461/16

 

③ かけ算の交換法則を適用するときは、被乗数が名数だったらその単位を取って不名数としてから交換し、その答に単位を付けて名数とする。「被乗数が名数なるときは、その単位の名を去りて後、この法則を適用すべきこと勿論なり」高木貞治『広算術教科書・上巻』明治42、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826655/33

 

 しかし、現在の実用算数では、(1)乗数×被乗数の式も書く。というか、被乗数、乗数の区別を意識することはほぼ無い。人数の何倍か、単価の何倍かなどと「倍」を意識するときは、乗数を意識していることになるが。(2)名数・不名数が死語となったから、その区別を意識しない。(3)2m×3m=6㎡という単位を付けたままの計算もする。(4)60㎞/時×2時間=2時間×60㎞/時という交換法則を当然と思っている。等々。

 

 ところが、実社会で通用していることが算数では×にされるのを知るとびっくりする。しかし、算数の淵源は算術にあり、小学校というガラパゴス島で生き残ってしまったものなのだ(さらに進化したものもある)。明治の算術は、和算の伝統を断ち切って、当時の西洋のArithmeticに倣ったものであり、その算術を確立したのは、洋書で学んだり西洋に留学した数学者達であり、高木貞治というビッグネームも含まれるのだが、何故か高木貞治だけは例外扱いしたい心情は何なのだろう(分かるけど)。

 

 

#掛算 名数を使おうが使うまいが、高木であろうが誰であろうが、明治時代に西洋から学んだ洋算の掛け算の流儀は、「①被乗数×乗数②乗数は不名数③交換法則は不名数に適用」であり、これを国民皆教育の「算術」で注入した。和算(珠算)の流儀とも、「五を三倍する」という日本語の慣習とも整合する面があって受け入れられたのだろう。珠算では算盤の右に置いた数「実」に、左に置いた数「法」を掛ける。どちらの数を左右に置くかは有効桁数の少ない方を左に置けばよかった(Limg凌宮「掛け算の言い方/塵劫記」一覧表の「桁数」の欄を参照。)http://limg.sakura.ne.jp/LimgMath/index.php?%B3%DD%A4%B1%BB%BB%A4%CE%B8%C0%A4%A4%CA%FD%2F%BF%D0%B9%E5%B5%AD)から、

 

 洋算では不名数(抽象数)に交換法則を適用するように、和算ではソロバン珠(半具象)に交換法則を適用していた。当時は九九も半九九で交換法則は自明のことだった。かくして、算術の流儀は戦前日本でパラダイム化していったのだが、面積の式などに窮屈なところがあったし、また本家の欧米では「乗数×被乗数」が主流化していき、名数・不名数の区別も廃れて、今の日本では、教科書の「掛順こだわり」に残っているぐらいとなった。日本の「掛順」への最初のクレームは、海外で別の順番を教わった帰国子女の親たちから1965年に上げられることになる。(佐藤俊太郎『算数・数学教育つれづれ草』2010年、46頁)

 

 戦前、この掛算流儀を算術の内から突破しようとしたことは無かったのだろうかとちょっと探したことがあって、林鶴一の明治32年(1899年)の『算術教科書・上』45頁に「積=被乗数×乗数=乗数×被乗数」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826833/27 を見つけて、紙つぶてさんから興味深いコメントをいただいたことがあった。戦前の算術教科書の中で稀有(唯一?)の林鶴一のこの記述(被乗数×乗数=乗数×被乗数)をどう評価すべきか保留だったのですが、4年ぶりに見直し、算術の掛算パラダイムを内から突破しようというものではなく、掛算パラダイムの変則的な説明だという紙つぶてさんの理解が妥当ではないかと思い至りました。

 

 

♯掛算 被乗数・乗数の概念が大事だということは、足し算と比べれば分かる。5と2の和を、(●●●●●)(●●)と見れば、5が1とするのは●、2がと1とするのも●で、同じということがわかる。というか、同じと見ることで足し算ができるわけである。5と2の積を(●●●●●)(●●●●●)と見れば、5が1とするのは●、2が1とするのは(  )で、異なる。5と2の積を(●●)(●●)(●●)(●●)(●●)と見れば、5が1とするのは(  )、2が1とするのは●で、やはり異なる。このような被乗数・乗数の違いは昔から指摘されてきた。かけ算の式で×の左右の数が被乗数とも乗数とも解釈できるので、それらを共に因数と呼ぶということは、被乗数・乗数の概念が不要になったということではない。

 

#掛算 交換法則を、例えば2行5列のアレイ図で5×2=2×5を説明するときには、横に(●●●●●)(●●●●●)とも、縦に(●●)(●●)(●●)(●●)(●●)とも見れるとしますね。前者は被乗数5、乗数2、後者は被乗数2、乗数5。だから5×2=2×5の式は、被乗数先書なら、被乗数5×乗数2=被乗数2×乗数5という理解になる。もしも、乗数5×被乗数2=被乗数2×乗数5と理解すると、(●●)(●●)(●●)(●●)(●●)=(●●)(●●)(●●)(●●)(●●)ということになり、アレイ図を使う必要がない。

 

 

#掛算 小学2年生が掛算九九を習う時、決して出来上がった九九表を丸暗記するのではなく、九九を自分で構成していくように学習します。

 

(添付は東京書籍『新しい算数2下』平成23年)

8の段で言えば、8×2は8+8だから16、8×3とかける数が1増えると、答はかけられる数だけ増えるから24と。九九の学習は九九の歴史的成立過程を追体験してゆく面もあるわけです。そして各段九九の暗唱を終えた最後のまとめとして九九表全体を見ながら規則性をいろいろ見つけます。3の段の答と4の段の答を足すと7の段の答になるとか、かけられる数とかける数を取り換えても答えは変らない(交換法則)とか、3と7と9の段の答の一の位には1から9までの数字が全部出てくるとか。そうやって、九九暗唱も九九表も自家薬籠中のものとなると、被乗数・乗数の概念も「忘れて」しまうということはあるのでしょう。

 

 

#掛算 明治の日本が洋算を学んだ時、西洋では「被乗数×乗数の順」が主流だったから、そう教わった。最初期の文献に属する塚本明毅『筆算訓蒙』(明治2年)には、「乗者(というものは)原数あり、これに某数を掛て、其総数を求むる事にして、其原数を実と称し、掛くる所の数を法といふ、(略)其実数は必名数にして、法は姑く(しばらく)これを不名数と見て可なり、(略)凡(およそ)乗者、実数を上に置き、法数をその下に置き、」とある。後年、「実数」は被乗数、「法数」は乗数と訳語が定まった。(明治14年、東京数学会社 訳語会)。上・下に置くとは縦書きだからで、横書きなら左が被乗数、右が乗数となる

  次に添付したのは『小学算術書』(小山健三、明治15年)。これを、2×3と書いたら、左の2が被乗数、右の3が乗数と理解するのは「誤読」なんですかね。

 

  続いて、藤沢利喜太郎『算術教科書 上』(明治29年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826836/22

には、第一の数に第二の数を掛けるというときに、第一の数を被乗数、第二の数を乗数と称すとあるし、藤沢の『算術小教科書』と採択率のトップを競った寺尾寿・吉田好九郎『中学校数学教科書 算術の部』上(明治36年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083213/29 には、5が被乗数、4が乗数のとき、5×4と書くとあるが、これを「被乗数×乗数と書く」と理解すると誤読なんですかね。

 

 そして高木貞治の『師範教育 数学教科書 算術及代数』(明治43年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826333/13 には、Aが被乗数、nが乗数のとき、「積を式にて表すには A×n と書く」とあるが、これも「被乗数×乗数と書く」と理解すると誤読なんですかね。

 このように文献では「被乗数×乗数」とするものしか見当たらないが、「乗数×被乗数とは書いてはいけないと明記してある文献があるのか」と問われることがある(今回もそう)。

 何度も引用したが、高木貞治が、交換法則を適用するときは名数の単位を外せttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826655/33と言っているのは、単位を外さないと「不名数×名数」となり、それでは乗数が名数になってしまい、「乗数は必ず不名数なり」という算術の常識から駄目だということ。つまり「×」の右は乗数であって、「被乗数×乗数」の順であることが自明の前提だったということがわかるのではないですか。

 

 次の論点の「乗数×被乗数」という記法の是非については、本家の欧米でこれが主流になっているように、戦前の算術では許されなかったこの記法を、今では禁止する理由はない。しかし、交換法則を、「被乗数×乗数=乗数×被乗数」と理解すると、2個×4倍=4倍×2個となり、両辺は、同じ事の同じ解釈の異なる記法ということになる。しかし、従来、交換法則は、アレイ図やトランプ配りを利用して、2個×4倍=4個×2倍と、同じ事の異なる解釈として説明されてきた。これは「被乗数×乗数=被乗数×乗数」という理解だから、「被乗数×乗数=乗数×被乗数」は伝統的な理解とは異なることになる。だから、学校教育でも、アレイ図による交換法則の説明だけでなく、記法の交換も交換法則として(そして当然「乗数×被乗数」という記法も)ちゃんと教えるべきだというのが私の持論です。