今、面白い本を読んでいます。
「雑食動物のジレンマ -ある4つの食事の自然史-」
(マイケル・ポーラン著、ラッセル秀子訳:東洋経済新報社)
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言うまでもなく私達人間は雑食動物です。雑食であるがゆえに
「夕食は何を食べよう?」
と、悩みます。これがユーカリしか食べないコアラでしたら悩みません。
自分の命の糧であり、選択を誤れば病気、もしくは命を奪いかねないのが食べ物。私達が何を食べようか…と悩むのは雑食動物として生まれたものの宿命であり、それこそが30年前にポール・ロジンという心理学者が名付けた、
“雑食動物のジレンマ”
であり、この本のタイトルであるわけです。
私達は自らの感覚と記憶に加え先人たちが培ってきた知恵、経験に基づく文化によって、このジレンマを乗り越えてきました。
…ところがです。
現在は食が溢れるスーパーマーケットの豊饒(ほうじょう)の風景の中で、私達はかつてのジレンマに直面しています。自分、もしくは大事な人の体を守るために…何を選べばいいのか…悩んでいます。
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…要約しましたが、この本の序章はこのようなことが書かれています。
私も同感です。自らの五感と先人の知恵と経験があるのに、どうして今は
“こうも食べ物が難しくなった”
のでしょうか。
昔なら普通の食べ物と体に悪そうな食べ物の区別ははっきりしてました。
ジャンクな物を食べると、母親が目を吊り上げて
「そんなんばっかり食ってると骨が溶けるよ!バカになるよ!」
と叱りました。本当に骨が溶けたかどうかはわかりませんが、(バカに…に関しては半分は当たりました)これは母親の培ってきた経験による異質で不気味な食べ物への正当な拒絶反応であったこと、自分が親になって理解しました。
しかし今はそんなわかりやすい食べ物はありません。見た目はどれも美しくおいしそうです。味も人の味覚に分かり易く“オイシイ”、と訴えてきます。ただその商品の袋を裏返し、少しでも表示をまともに見ようものなら聞いたことない物質名の羅列で混乱します。
「これはいったいなんだ?何かの呪文か?」
知らない片仮名ばかりが並んでいるとそう思っても不思議ではありません。普通ならば、未知の物質ばかりで構成されている食べ物は敬遠しがちになるでしょうが・・・ことはそう簡単には進みません。
というのは、それらの未知の食べ物を支持し、正統化する専門家やら科学者やら認定機関やらの権威の物語が、私達の混乱に拍車をかけます。
「人体に影響はありません」
「国で(添加物として)認められたものです」
と。
話はそれますが、私がここでこのような主張をすると、その権威を信じている人はこう言います。
「科学的に証明されたものだ」「主観的な憶測で物を言ってはいけない」
と。もちろん私は科学者ではないし、もやしを作るのに精一杯のもやし屋ですから実験などしているヒマはありません。なので主観的だといわれれば「その通り」と答えます。
ただ私たち人間が、今までの経験に裏打ちされた知識で食を選び、ジレンマを乗り越えてきたことは事実です。私は日々もやしを見つめ、もやしの単純かつ理にかなった成長と、混じりない味を知る立場から、この複雑で余計な手間無くして成り立たない様な食べ物の存在が不思議であり、異質なのです。こと食に対する近さでは、私は白衣を来て実験している人に劣っているとは思いません。
・・・話を戻します。大きな問題として提示されているのが
『なぜこんな選択を悩ます食べ物ばかりになってしまったのか』
ということです。ジレンマを克服するためには食べ物の源流まで遡る、その部分を知ることが肝要です。
この本の著者、マイケル・ポーラン氏は
「何を食べようか、という問いに答える最適の方法は、原点に立ち戻り、私たちを支える食物連鎖を大地から食卓まで追跡することにあるのではないか」
と記しています。そうなのかもしれません。常にもやしの息吹を感じていると、この著者の言葉が心に響きます。
『雑食動物のジレンマ』
…この本から多くを学びそうな予感があります。また追って紹介していきます。