瑜伽(ゆが)とは翻(はん)じて相応という。相応渉入(そうおうしょうじゅう)はすなわち是れ即の義なり(空海「即身成仏義」)
空海の即身成仏義の一節です。
苫米地英人氏による超訳は以下のとおりです。
(引用開始)
ヨーガとは漢語では「相応」と訳します。その言葉のとおり、仏と私たちが表裏一体であることが、「即身成仏」の「即」の意味です。(苫米地英人 超訳弘法大師のことば 空海はすごい p.112-113)
(引用終了)
YogaはYujから来ており、馬をつなぐから転じており、車と馬をつなぎます。バガヴァッド・ギーターなどでは、まず馬を暴れさせ、それをコントロールせよと教えています。無気力な馬に何をしても無為なのです。馬を暴れさせというのは語弊がありますが、まず情熱を燃やし、そのあとに制御するのです。情熱が無いところに、制御するものはなく、場も自分も人も動くこともありません。
空海のこの言葉はYogaの本質をアップデートします。
結局はYogaとは抽象度を上げ続け、純化につぐ純化をしていくと、炭がダイヤモンドになるように、Yogaは「つなぐ」ということに結晶化されるということです。
脳と身体をつなぐ(武井壮さんがタモリさんに伝授したように)、脳神経系と筋繊維をつなぐ、心と身体をつなぐ、仏と私たちをつなぐ(灌頂伝授)という「つなぐ」ことが重要なのです。
あたかも論理学における論理演算子のようなものです。
命題そのものではなく、つなぎが大切なのです。
もっと言えば、つなぐものが(グルーオンのノリのように)あるからこそ、存在が存在するということです。場があるから粒子があるのと同じです(ヒッグス場があるならば、ヒッグス粒子があります)。
もちろんこのことを釈迦は縁起と言いました。縁によって起こるのです。
アプリオリに存在するもの同士がどこかで出会うのではありません。出会ったあとに生じるのです。もしくは出会ったと同時に生じるということです。
我々は運命の出会いを経た瞬間に、この世に生まれるということです(比喩です)。
空海は自身が灌頂伝授をしながら、そのカラクリを見通していたのだと思います。
すなわち、灌頂せずともすでに仏と私たちはつながっている。いや、もっと言えば、そもそも仏と私たちは表裏一体でしかないのです。
だからこそマントラの上でサイコロを降って、自分の後見人である仏を選ぶというお遊びを甘受するのです。神もサイコロを降るので、我々も振ろうということです(サイコロはジョークです、念のため)。
別に誰が後見人でもいいのです。
そもそもは表裏一体だから。
空海展で空海の書を観た時のことは当時ブログに書いたことがあります。
空海は三筆などと言われますし、たしかに上手なのでしょうが、いつも綺麗なわけではありません。
僕が印象的だったのは、灌頂伝授のための式次第が殴り書きだったことです。
トップバッターに最澄がおり、そうそうたるメンバーが並び、つなぐ仏様の名前も書かれているのですが、殴り書きです。
そこに空海を見ることができます。
彼にとっては灌頂伝授は、ただのセレモニー。そこに本質はないのです。
一方で非常に几帳面に、ジョブズが愛したフォントのように緻密に書かれているのは、弟子たちのための教科書です。非常に丁寧でした。
すなわち、灌頂伝授などは殴り書きでよく、弟子たちの指導と教育は最善のものを細心の注意を払って書いているのです。
空海は非常に魅力的です。空海、最澄、親鸞など我々は素晴らしい宗教家がいます。虚心に学ぶべきでしょう。
Yogaは空海という天才と密教という土壌を得て、バラモンの解脱修行から、縁起の思想に変わったということです。その結節点が「すなわち是れ即」にあらわれています。
瑜伽(ゆが)とは翻(はん)じて相応という。相応渉入(そうおうしょうじゅう)はすなわち是れ即の義なり(空海「即身成仏義」)
【書籍紹介】
苫米地先生の書籍はすべて読むべきと僕は考えます。
ネットではいろいろと忠告してくれる方もいますが、僕の師です。
師である以上は、「地獄は一定すみかぞかし」です。
(もちろん、ご意見、ご批判は拝聴させていただきますが)
この空海本はすごいと思います。圧縮のされ方が圧倒的です。
僕自身、子どもの遊びのようなレベルでしかないのですが、虚空蔵求聞持法や阿字観を若いころ必死でやっていました(本気で修行されている方々には申し訳ないレベルでしかないということです)。マントラも唱え続けていました。当時の自分がこれを読んでも分からないと思いますが、いま読むと視界が開けるようです。
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