現在、7期のヒーラー養成スクールを開催しております。
7期のレジュメの後半をこちらに開催します。
Step1の1から6までを講座ではやりました。
後半は以下の内容です。
受講生は独習して、前半の文脈とつなげて考えてみてください。
解説なしでは意味不明かと思いますが、公開します。
レジュメとしては全く珍しい形式です。
このような引用の形のみはほぼ始めてです。
1-7 どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。 (言語ゲーム)
「すなわち、年長者たちが或るものの名を呼び、その音声に従って、身体を或るものの方へ動かしたとき、私は、そのものを私に示そうと思う際には、彼らはその発する音声によってそのものを呼ぶということを見て、覚えた。彼らがそのものを私に示そうとすることは、いわば万民共通の自然の言語によって明らかであった。そしてこの言語は、顔つき、目つき、その他四肢の動き、音声の響きからできていて、もの求め、手に入れ、斥け避けようとする心の動きを示すものである。このよう に、いろいろな言葉がさまざまな文句のうちにしかるべきところで用いられているのをしばしば聞いて、私はそれらの言葉が どのようなものの符号であるかを推知するようになった。そして私の口はそれらのしるしに慣れてきて、私はもう自分が心に 思うところそれらによって告げるようになった。」
私の思うに、人間の言語の本質について、この文章は一つのはっきりした像を示してくれる。すなわち、言語に含まれている 語の一つ一つが何らかの対象を名指しており、文章はそのような名称の結合である、というのである。この言語像のうちに、次のような見解の根源があるといえよう。すなわち、どの語も一つの意味を持つ、この意味と語との間に対応の関係がある意味とは語が代表する対象のことである、というものである。
語の種類別については、アウグスティヌスは語らない。言語の学習をこのように記述する人は、おそらく「机」「椅子」「パン」といった名詞や人々の名前のことをまず思い、二番目にやっと或る種の動作や性質の名について考え、残余の種類の語については、なるようになると考えているのではないであろうか。
次のような言語使用のこと考えてみよう。私が誰かを買い物にやる。彼に「赤いリンゴ五つ」という記号の書いてある紙片を渡す。彼がその紙片を商人のところに持って行くと、商人は「リンゴ」と記された箱を開け、次いで目録の中から「赤い」という語を探し出して、それに対応している色見本を見つける。それから彼は基数の系列―それを彼は諳んじていると仮定する―を「五」という語まで口に出し、それぞれの数を口に出すたびにサンプルの色をしたリンゴを一つずつ箱から取り出す。 ―このように、あるいはこれと似た仕方で、人は言語を繰るのである。―「しかしこの商人は、どこでどのようにして<赤い >という語を調べたらよいか、また<五つ>という語に対してどう反応したらよいか、をどうやって知るのだろうか。」― 私はただ、いま述べた通りに彼が振る舞うと仮定している。説明はいずれどこかで終わるものである。―しかし「五つ」という語の意味は何なのか。―そういうことはここでは全く問題なっていない。どのように「五つ」という語が使われるか、ということだけが問題である。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第一部一節)
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1-8 「規則はその適用を決定することができない」
第一に、それは、私がクワスではなくプラスを意味していたという、その事を構成しているものは、どんな(私の心的状態についての)事実であるのか、という事を説明しなくてはならない。しかし更に第二に、そのような事実に対する如何なる考えうる候補も満足しなくてはならないところの、条件がある。それは、その候補は、『68+57』に対して『125』という答えを与える私を、如何にして正当化するかという事を、ある意味において示さねばならない、という事である。
(クリプキ 「ウィトゲンシュタインのパラドックス」)
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1-9 物理的対象と神々は質ではなく程度において異なっている。
私は経験主義者として、科学の概念図式を道具として考え続けてきたが、結局のところ、過去の経験に照らして未来の経験を予測するのである。物理的対象は、経験の用語による定義ではないが、しかし単に、認識論的に、の神々と比較できるような仮構にも帰すことはできないような手近な媒介者として状況の中に概念的に持ち込まれる。[...]私は物理学者として、ホメロスの神々ではなく物理的対象を信じる。そして、そうでないようなものを信じることは科学的誤謬であると私は考える。しかし、認識論的な基礎の点で、物理的対象と神々は質ではなく程度において異なっている。両方の存在者の種類は、文化的仮構としてのみ私たちの概念に参入してくるのである。
(クワイン 経験主義の二つのドグマ)
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1講目で紹介した動画です。
Intelは「2020年までに脳波によるコンピュータ操作が可能に」(Computer World)なると言っているそうです。実際にそうでしょう。