またしちのブログ -2ページ目

またしちのブログ

幕末史などつれづれに…

海野弦蔵は文久三年(1863)九月に別手組へと異動になりましたが、この別手組は外国人の警護を任務としていました。彼ら別手組は通常、外国公館に割り当てられていた寺社に詰所を設けて駐在していましたが、公館の警備は諸藩が担当していたため、別手組の役割は外国公使など人物の警備でした。

 

 

しかし当の外国人たちからは評判が悪く、「護衛というよりは監視役」だとか、皮肉交じりに「まるで大名行列だ」と揶揄されたりしていました。また当時の世情から当然ながら庶民の評判も悪かったようです。そのためか、なにかしら問題を起こしたような者でも武芸の心得があれば採用されたりしたといいます。

 

 

元見廻組の隊士で維新後は俳人・文筆家などとして活躍した中川四明は、遺作となった小説『怪傑岩倉入道』の中に海野弦蔵を登場させていますが、泥酔して千鳥足で歩いて町人とぶつかったあげく、怒って手打ちにしようとするという、なかなかの問題児として描かれています。実名で書いていることを踏まえると、実際にそういうクセのある人物だったのかも知れません。

 

 

また、同作の中で中川は海野弦蔵の剣術について以下のように書き残しています。

 

元は別手組、今は見回り組の海野弦蔵の剣術は、ヌーボー式というか、太刀の返りが美しく、特殊な曲線を描いた。

 

 

ヌーボーはフランス語のヌーボー(nouveau)のことと思われ、言葉のままだと「新しい」という意味になりますが、おそらくはアール・ヌーヴォーのことを意味しているのでしょう。アール・ヌーヴォーの建築様式にみるアーチの曲線をイメージしたのかも知れませんが、残念ながら僕には理解出来ません。が、特に書き残したいと思うほど印象に残った隊士の一人であったのでしょうし、500人以上を数えたという京都見廻組の隊士の中でも指折りの剣客であったことは間違いないでしょう。

 

 

 

 

 

 

京都見廻組の肝煎・海野弦蔵(うんの/うみの・げんぞう)に関しては、これまでもブログに何度か書いてきました。なので今回はその焼き直しになるかと思いますが、なにとぞご了承下さい。

 

 

海野弦蔵は文久三年(1863)九月付の本人明細短冊に「亥歳二十四歳」とあるので、逆算して天保十一年(1840)生まれということになり、今井信郎・桂早之助の一つ上、渡辺吉太郎・渡辺篤より三つ年上ということになります。父は海野半次郎、祖父は勘助といい、海野家は代々江戸城の食を賄う表御台所組(おもておだいどころぐみ)に勤務していました。

 

 

ちなみに、江戸幕府の〝官僚名簿〟とでも言うべき『大武鑑』において、文久元年から元治元年まで表御台所組の組頭の一人に「海野甚助」なる人物がいます。弦蔵の祖父とよく似た名前ですが、甚助は組頭で百俵四人扶持、勘助は台所組改役で十五俵一人半扶持なので別人であることがわかります。が、同族であった可能性は非常に高いと思われます。また、近江屋事件の刺客の一人高橋安次郎の父・林右衛門も一時期表御台所組に属していたため、両家は同僚・知り合いの間柄であった可能性もあります。

 

 

その御台所組の組屋敷は神田明神下の御台所町にあったため、弦蔵が神田明神下の生まれであることはほぼ間違いないものと思われます。ちなみに、あの銭形平次の住居も明神下御台所町であり、小説とは言え、いわばご近所さんだったことになります。銭形平次の時代設定は文化文政年間(1804-1830)頃らしいので、祖父や父と同時期ということになるでしょうか。・・・無論創作物ではありますが。

 

 

「おう、平次。今日は活きのいいサンマが手に入ったぜ」

なんて場面を想像してしまいますが、史実と創作物をごちゃまぜにしてはいけませんが、それでも年代的にみて、子供の頃に銭形平次と面識があった(と設定することが出来る)海野弦蔵が京都見廻組に入って、ひょっとしたら近江屋事件に関わっていたかも知れないと考えると何だかワクワクしてきませんか?

 

 

ちなみに、海野弦蔵は諱を顕忠(あきただ)といい、明治維新後はこちらを名乗りました。父の半次郎は家督を継ぐ前に亡くなったらしく、弦蔵は文久三年(1863)七月に祖父から家督を譲られ表御台所組に出仕します。が、わずか二ヶ月後の同年九月には創設されたばかりの別手組(べってぐみ)へ異動となります。別手組は当時相次いでいた攘夷(外国人への攻撃)に手を焼いた幕府が、外国人警護のために新たに編成した組織でした。

 

 

 

 

ロックは和洋・年代問わずいろいろ聞きますけど、好きな曲を何か一つだけ選んでと言われたら、結局はこれになるかなぁ~というのが、ビートルズの『ツイスト・アンド・シャウト』ですかね。

 

 

ビートルズを初めてちゃんと聞いたのは中学1年生の時だったけど、他のヒット曲、たとえば『抱きしめたい』や『シー・ラブズ・ユー』を聞いても、「ああ、いいなあ」ぐらいの気持ちだったのが、『ツイスト・アンド・シャウト』を聞いてドはまりしました。もうなんべん繰り返し聞いたかわかりません。たぶん、人生で一番リピートしてる曲だと思います。

 

 

もともとのオリジナルはアメリカのR&Bグループであるトップ・ノーツが1961年に発表したらしいのですが、こちらはまったくヒットせず、翌1962年にアイズレー・ブラザーズがカバーしてヒット。それをビートルズが更にカバーして世界的なヒット曲になりました。

 

 

 

※.ビートルズのオリジナル盤


 

 

 

※.ライブ映像。ライブでフルコーラス演奏するのは珍しいかも。

 

 

 

 

 

 

※.トップ・ノーツのオリジナル盤


 

 

 

※.アイズレー・ブラザーズの『ツイスト・アンド・シャウト』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 
 

実はおととい、突然左耳の奥にズキッとする痛みが走り、その後もたびたび同様の痛みが繰り返されました。結構大きな衝撃で、しかも何気なくつむじのあたりを触っただけでも痛みが生じたりします。

 

 

なにしろ頭の中に強い痛みなので心配になり、「まずは」とネットで調べてみたらどうも中耳炎みたいです。実をいいますと先々週だったか、鼻水が止まらなくなって耳鼻科に行って診察してもらいました。薬をもらって服用したので、そちらの方は治まりましたが、中耳炎の原因のひとつに鼻水の逆流(?)みたいなことがあるらしいので、ああこれは間違いないと判断しました。

 

 

なので、昨日はとりあえず様子をみて、痛みが治まらないようだったら今日耳鼻科に行こうと考えていたのですが、昨日の午後に痛みはピッタリと治まりました。今のところ再発はしていません。中耳炎は自然治癒することも多いらしいので、とりあえず今日は様子をみることにしました。今は左耳の奥に若干違和感が残っていますが、特に痛いとかムズムズするとかの不快感はないです。

やがて時勢は移り変わり、徳川幕府は倒れて明治の世になり武士の時代が終わると、石崎八郎は後進に道を譲り隠居しました。

 

 

そして明治十五年(1882)のこと。前年に第三代京都府知事に就任した北垣国道は、前任者の槇村正直が不平士族と結びつけて堅く禁じていた日本武道の再興をめざし、京都体育場を創設することを決めました。石崎も招聘され、弓道引立掛に任命されて改めて後進の指導にあたることになりました。門弟の数は数百人にのぼったと伝わり、弓道の再興に石崎八郎の果たした役割は大きかったといわれます。

 

 

そして明治十九年(1886)十二月二十三日、石崎八郎は病を得てこの世を去ります。享年六十八歳。その亡骸は洛北龍安寺に葬られました。没後、門人たちによりその功績をたたえて三十三間堂に「石崎先生堂射之碑」が建てられました。石碑は当初三十三間堂正殿東側の庭園に建てられましたが、太平洋戦争の後に観光事業に注力するために庭園の再整備が行われた際に正殿西側に移されました。現在その碑は、木々の間にひっそりと佇みながら、若き日に情熱を注いだ西の廊下を静かに見つめています。

 

 

 

 

 

 

 

元治元年(1864)七月十九日、前年に京都政界から追放された長州藩が兵を挙げ京都に侵入し、御所に進軍して天皇に直訴して冤を雪ごうとし、それを防ごうとする幕府軍と衝突する事件が起こりました。世にいう禁門の変です。

 

 

この戦闘において、京都所司代組は宜秋門(ぎしゅうもん)の守備を担当し、所司代与力であった石崎八郎も参戦しました。宜秋門は蛤御門の北に位置し、内裏の西側の入口となっていました。長州軍は蛤御門を突破して宜秋門から内裏へ侵入する目論見でしたが、蛤御門を守る会津藩の防衛陣を突破することが出来ず敗退することになります。

 

 

が、長州勢の中にも勇者がいました。会津藩兵の重囲を突破して宜秋門に向け突進してくる者があったのです。石崎は自慢の半弓をもって見事この男を射殺しましたが、中川四明によれば、これが禁門の変における所司代組唯一の戦果であったといいます。

 

 

いや、もっと広い視点で見てみれば、こののち兵器の近代化・西洋化が急速に進んだことを考えると、この禁門の変で石崎八郎の放った一矢は、ひょっとしたら日本戦史上、最後の「弓矢による敵の討ち取り」だったのかも知れません。

 

 

※.京都御所・宜秋門

 

 

※.蛤御門内部から宜秋門方向を見る

 

 

京都から高槻の道場まで毎日通い続けて弓術の修行を重ねた石崎八郎は、天保十年(1839)二十一歳の時に日置流の免許皆伝を得ました。そして二十四歳の時、つまり天保十三年(1842)四月、石崎は三十三間堂の通し矢に挑戦します。

 

 

本来は丸一日かけて矢を射続ける「大矢数」に挑戦したかったものの、そのための費用を用意出来なかったため断念し、代わりに卯の上刻(午前5時頃)から酉の下刻(午後8時頃)まで射続ける「日矢数」を行なうことになりました。

 

 

その舞台となった三十三間堂は現在でも京都を代表する観光地のひとつです。通し矢は現在は観光客があまり立ち入らない西側の面を利用して行われ、南側から北に向けて矢を放ちました。

 

※.三十三間堂。通し矢は写真手前(南側)から北に向けて行ないました。

 

 

 

※.三代将軍家光の時、通し矢で柱を傷つけないように南側の面を鉄で覆って保護したものが現在もそのまま残っています。

 

 

余談、というか訂正になりますが、以前、同じく弓の達人であった新選組の安藤早太郎のついて書いた時に、通し矢が的に当たったかどうかなどと、的はずれなことを書いてしまいましたが、通し矢というのは的に当てるのが目的ではなく、逆にどこにも当てずに目標地点まで射通すのが目的でした。恥ずかしい間違いでした。申し訳ありません。

 

 

ともあれ、石崎八郎による三十三間堂の通し矢「日矢数」ですが、石崎にとっては不満の残る結果になってしまいます。というのも石崎の成績が素晴らしく、このままでは古人の記録をやすやすと更新してしまうとみた審判役が、途中で目印を外してしまったり、明らかに成功したのに数に加えなかったりしたためで、結局総射数6100本のうち4457本を通したことになりましたが、これは石崎にとっては納得いく数ではなかったようです。

 

 

そして嘉永七年(1854)四月二十八日のこと。この日、江戸深川三十三間堂において全国各藩から集められた弓の名人たちによる「千射」が、十三代将軍徳川家定臨席のもと開催されました。その名のとおり千本の弓を射て通し矢の数を競うのですが、石崎八郎もこの大会に出場し、1000本中859本を通して見事日本一に輝きました。

 

 

この功績に対して幕府から旗本取り立ての話もあったようですが、石崎はこれを辞退して京都に帰ると、自宅に反求堂と名付けた道場を開き、弟子をとって指導に当たりました。京都見廻組の渡辺篤は、その履歴書に弓術は日置流とあるので、石崎の門弟だったのはまず間違いないと思われます。

 

 

また、のちに新選組に加わる安藤早太郎は、石崎八郎が京都三十三間堂で通し矢に挑戦したのと同じ天保十三年四月に奈良東大寺大仏殿で丸一日かけた通し矢を行ない1万1500本中8685本を通すという大記録を打ち立てましたが、その後、嘉永三年(1850)に脱藩して京都に住み着きます。石崎八郎と同じ日置流竹林派でもあり、あるいは脱藩入京の理由に石崎が関係しているのかも知れません。

 

 

安藤早太郎は文政四年(1821)生まれといわれ、同二年生まれの石崎と年齢はそう変わらず、通し矢の成績も決して見劣りしないことから門弟になろうとしたとは思えませんが、あるいは「どちらが日本一か、決着をつけてやる」と石崎に勝負を挑んだものの、あっさり断られてしまってやむなく虚無僧になったとか・・・。この二人のニアミスには、いろいろと想像力がふくらみます。

 

 

また、石崎の指導は非常に懇切丁寧で、門弟一人一人の力量を見て指導し、技量のすぐれた者をひいきにすることもなく、また技量の劣る者を見捨てることも決してなかったといいます。また、時には門弟が扱いやすいようにと、自ら工夫して弓を改造してやることもあったということです。

 

 

 

京都所司代の与力で弓の名人として知られた石崎八郎長久は、所司代与力戸田又右衛門の次男として文政二年(1819)二月十一日に生まれ、同じ与力で屋敷が隣だった石崎家に養子に入り同家を継ぎました。

 

 

その石崎家屋敷について、弟子の一人だった元京都見廻組の中川重麗(四明)は『懸葵』に掲載のエッセイ「大矢数 其三 石崎八郎先生(下)」の中でこう書き残しています。

 

 

今、二条の停車場前の大路を少し北へ行くと、出世稲荷というのが東側にある。千本二条というのがそのツイ向こうの辻であるが、所司代組の屋敷、すなわち新屋敷といいなしていたのは、北の辻から北へ千本通に沿い、西へ二条通に沿うておよそ一町四方、いや、もう少し広かったように思うが、屋敷の中では一番大きな屋敷で、与力が五十人、同心が百人というのであった。

 

今もその形が残っている所もあるが、京鉄線が出来てから、その西南の一隅を弓形に取って、南から西へ貫いている。先生の宅はこの屋敷の南の門に入ったところの東側の初めての家であった。それで高塀を隔てて二条通に接しておったので、自銅鑼防到太秦という花時分には、先生の所の稽古場から、南を瞰下して菜の花の果てしなく咲き満ちたる朱雀野が見えたのである。

 


つまり、石崎家の屋敷は所司代新屋敷の南門を入ってすぐ東側(右手)にあったということになります。ちなみに石崎八郎の屋敷があった新屋敷南門の場所を記す史料はまだ見つかりませんが、位置関係からして二条通と六軒町通の交差するあたりだったと推測出来ます。かつての京都鉄道、現在は高架となっているJR嵯峨野線が弓形にカーブするあたりと目されますが、かつて弓の名人の屋敷があったあたりで線路が弓形に曲がっているというのも面白い偶然です。

 

 

石崎八郎は幼い頃、養父に「武家に生まれたからには何か武芸に長じなければならない。お前は何をやりたいか」と問われ、三日間考えた末に弓術を選びました。選んだ理由は「一人で練習出来るから」だったといいます。八郎ははじめ星野某、次いで高槻藩士の若林某に日置流竹林派(へきりゅう ちくりんは)の弓術を学び、特に京都から七里離れた高槻若林の道場に通うため、夜明け前に家を出て夜遅く帰宅するという生活を三年間、一日も休まず続けてその奥義を極めたといいます。

 

 

 

※.石崎八郎の屋敷があったと推定される二条六軒町付近。

 

 

 

先月、ちょうどいい機会だったのでスマホを買い替えました。AQUOSのsense8というやつでシャープ製です。一番新しいやつなのかな?

 

 

以前は同じAQUOSのsense5をずっと使っていたのですが、調べてみると乗り換えキャンペーンとかで、UQモバイルからAUに乗り換えると安くなる(本来はAUの方が高い)というので、乗り換えついでにスマホも新しくしたわけです。

 

 

で、約一ヶ月使ってみた感想ですが、まず写真はきれいに撮れます。特に花の写真がすごくきれいに撮れる気がします。

 

 

 

あと、基本的な操作はあんまり変わっていない感じですね。それから明らかに違うのが、8の方が熱を持ちやすいです。充電後は結構熱くなります。明らかに5より軽くなっているので、その分耐久性は劣っているのかも知れません。

 

 

まあ、とにかく今度も長いつき合いになるよう、大事に使っていきたいと思います。

 

 

 

1983年か84年頃だったと思いますが、『週刊ベースボール』誌上にある連載記事が掲載されていました。それは、名前は忘れてしまいましたが、メジャーリーグ(当時はまだ大リーグって呼ばれていました)の名物審判が引退後に出版した本を訳したもので、ひとつ印象に残る話があったのを思い出したので書き留めておきます。

 

 

それは実働27年で通算324勝を挙げ、通算奪三振数は5714でノーヒットノーランを7回も達成するという、とてつもない記録を持つノーラン・ライアン投手に関する逸話です。1970年代、カリフォルニア・エンゼルスに所属して162kmの速球から「カリフォルニア超特急」の異名をとったノーラン・ライアンでしたが、著者の元審判氏が初めて同投手の登板試合を担当した時のこと。ライアン投手の放った高めの速球がなぜか一瞬止まったように見えたのだそうです。

 

 

指から離れた瞬間に一瞬ボールが止まって見え、「止まった」と思った次の瞬間、まるで風船がボンッと膨らむように大きくなって目の前に来たように見えたのだとか。いったいこれはどうしたことなんだろうと不思議に思い、ベテランの審判に相談したところ、「キミ、他の職業につきたいと思ったことはないか?」と言われたんだそうです。つまり「アンタ、審判に向いてないかも」と言われてしまったわけですね。

 

 

悔しさもあり、次にライアン投手の登板試合を担当した時に、いったいどうしてそんな風に見えたのか、いつも以上にじっくり観察しながら試合に臨んだそうです。そして理由がわかったんだそうです。

 

 

普通、人間が投げるボールは、ストレートといっても微妙に左右にぶれたり、上がったり下がったりと何かしらのクセがあり、だからこそ動いていることが目で見てわかるものですが、ライアン投手のストレートは、時にまったくぶれずに本当にまっすぐ来るので、真正面から見ると一瞬止まって見えたのだそうです。そのうち目が慣れてきて、止まって見えることはなくなったそうですが、あんな球を投げるピッチャーはノーラン・ライアン以外にいなかったとか。ある意味、正真正銘の「大リーグボール」だったのかも知れませんね。

 

 

え? 大リーグボール知らない?

 

 

大リーグボールっていうのは、重いコンダラを引っ張って市電の道を行くとですね(以下略)

 

 

 

ノーラン・ライアン(画像はお借りしました)