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幕末史などつれづれに…

渡辺吉太郎が江戸浅草の生まれだとして、それはそれで疑問がないでもありません。一番引っかかるのが今井信郎との関係です。今井が渡辺吉太郎のことを桑名藩士だと思い込んでいたとすれば、それはすなわち今井信郎と渡辺吉太郎との間に面識がなかったことを意味します。

 

 

今井信郎は天保十二年(1841)生まれで渡辺吉太郎の二歳上になります。住居は湯島天神下でしたが、弟・省三の証言によれば信郎は「剣術を藤川、柔術を窪田氏に就き」修行をしたとあるのですが、この藤川というのは下谷長者町の直心影流藤川道場のことと思われます。

 

 

下谷と浅草は徒歩圏内であり、同じ直心影流、そしてのちにお互い見廻組屈指の剣客と評されるほどの腕であったことを考えると、修行時代にお互いの存在を知らなかったということがあり得るのでしょうか。

 

 

あり得るとすれば、渡辺吉太郎が男谷精一郎の門下であったとされるところにそのヒントがあるのかも知れません。男谷精一郎の道場は麻布狸穴にあり、浅草から通うにしてはいささか遠い。あるいは吉太郎、幼い頃から男谷道場に住み込みで修行していたのでしょうか。

 

 

そして二人には直心影流の他にもう一つの共通点があります。それは神奈川奉行所に勤務していたことで、渡辺吉太郎は元治元年(1864)七月まで定番役を務めており、その後に京都見廻組に編入されています。

 

 

一方、今井信郎に関しては『国士列伝』(大坪草二郎/昭和十六年)に

 

元治元年二十四歳のとき、武田耕雲斎が兵を挙げた。信郎は、水戸藩士に交友の多かった関係から嫌疑を受け、講武所を去って神奈川奉行窪田備前守の配下に転じ、横浜の関税係を勤役のかたわら剣道師範に携わった。

 

とあり、元治元年三月から十二月にかけての天狗党の乱以降に神奈川奉行所に転任となったとしています。信郎の孫である今井幸彦氏も著書『坂本龍馬を斬った男』の中でこの大坪草二郎の記述を参照しているのですが、一方で天狗党の乱と神奈川奉行所転任の関連については否定的な意見を述べています。また渡辺吉太郎が関門警備の定番役であったのに対し、今井信郎は関税に関する係であったとすれば、仮に同時期に在勤していたとしても面識がなかった可能性はあると言えるでしょう。そういう意味では二人が見廻組以前に面識がなかったこと(渡辺吉太郎のことを桑名藩士と思い込んでいたこと)に矛盾はないと言えます。

 

 

 

貝類も好きですが、一番はサバかなあ。鯖寿司、サバ味噌、塩サバ・・・何をしてもウマいですよね。

 

 

ホタテはデパート勤めの時に上司に奢ってもらった大北海道展のホタテ弁当が感涙ものの美味しさでした。あ、大北海道展でひとつ思い出しましたが、帆立の貝柱の干物、たまに赤いのが混じってたりしますが、業者さんによればアレは〝あたり〟なんだそうで、旨味が凝縮されて美味しいんだそうです。

 

 

そういえばキャビアも食べさせてもらったことがありますが、正直タラコの方がウマいと思いました。ま、貧乏性なんですね(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

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京都では祇園祭の前祭(さきまつり)宵山の期間となっています。今日は生憎降ったり止んだりの空模様でしたが、僕は祇園祭の行事のひとつである、弓矢町武具飾りを見に行って来ました。

 

 

 

 

東山区弓矢町は建仁寺と六波羅蜜寺の中間にある町で、中世以前より祇園社(八坂神社)に仕えていた犬神人の末裔にあたる人々が住む町です。犬神人たちは祇園社境内の掃除や祇園会における巡行路の警護、そして祇園祭においては法衣を着用した6人の〝棒衆〟と、それに続いて甲冑を身にまとった武者30人が神輿の先導役として参加するのが決まりとなっていました。

 

 

しかし、明治維新以後は新調・修復するのが困難になったため、30領あった甲冑は徐々に失われていきました。そして昭和四十九年を最後に弓矢町の武者行列は休止を余儀なくされてしまい、以降、祇園祭の期間中に残った14領の甲冑などを町会所である弓箭閣と各家ごとに飾る「武具飾り」となって現在に至ります。

 

 

そういった経緯もあり、展示されている甲冑はだいたい江戸時代後期から明治初期ぐらいの作だそうですが、その分、状態は良いようです。甲冑そのものもですが陣羽織が当時のまま残っているというのは結構貴重なんじゃないかと思います。

 

 

 

 

 

 

祭り用とはいえ、作りは本物の甲冑そのもので、手甲の部分などは皮革を漆で塗り固めてあったりして現代同じ技術で修復するのはかなり大変なんだとか。

 

 

 

 

 

 

 

上↑の甲冑の後ろ姿です。参考までに。・・・おしりに鹿の毛皮がついているのはどういう役割があるのか、聞いておけばよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの兜は昭和十九年に同町内に保存されている武具を調査した際、たまたま発見された室町時代後期の作と見られるものだそうです。よく見ると喉輪の最下部が一部欠損していますが、ここを修復するだけで50万円ぐらいかかるんだそうです・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

太刀がわりと無造作に置かれていてびっくりしましたが、こちらは祭り用の刀身が入っていないものだそうです。とはいえ装具などは昔のものだろうし、これはこれで貴重なのではないでしょうか。・・・ていうか欲しい!

 

 

 

 

 

休止の経緯を考えると武者行列を復活させるのは難しいのでしょうが、見てみたいですよね。何らかの形で復活出来たらきっと話題になると思います。

 

 

 

ちなみに、こちらは町内の喫茶店に展示されていたガンダムです。未来の甲冑ってところでしょうか。・・・まあ全高18mらしいので着用するには人を選びますが(笑)。

 

 

 

 

 

弓矢町武具飾りは17日まで開催されています。ただし17日は弓箭閣は午後5時、他の家は午後3時までだそうです。最寄り駅は京阪の清水五条でしょうか。ちなみに無料です。

 

 

 

 

 

 

 

 

オマケで、弓矢町の近くで見かけた吉永小百合の赤玉ハニーワインの看板です。

 

 

 

 

渡辺吉太郎の出自に関してですが、今井信郎はたびたび「桑名藩士の渡辺吉太郎」と証言しています。

 

 

先日、動画共有サイトのニコニコ動画が大規模なサイバー攻撃に遭い、サービス停止に追い込まれたことはご存知の方も多いと思いますが、そのニコニコ動画版のウィキペディアというべきニコニコ大百科というサイトがあります。このニコニコ大百科もサイバー攻撃の影響を受け、しばらく閲覧出来ない状態が続いていましたが、現在は復旧しているようです。そのニコニコ大百科の『渡辺吉太郎』に、出自に関する興味深い記述があります。

 

 

今井信郎が渡辺吉太郎を桑名藩士だと証言したことに関して、渡辺吉太郎は「桑名藩とは無関係と思われる」とした上で、その注釈として

 

今井信郎が明治三十三年に新聞記者に答えた内容に「桑名藩士の渡辺吉太郎云々」とあったが、明治四十二年の旧紀州藩系の史談会からの照会に対して「渡辺吉太郎は男谷門下で幕府の士。江戸浅草に住居し、桑名藩士ではない」と答えている。

 

 

としているのです。更に同じくニコニコ大百科の『近江屋事件』の中で今井信郎に問い合わせをした「紀州藩系の史談会」が木国史談会のことであるとしています。残念ながら出典がまったく書かれていないのですが、調べてみたところ木国史談会は明治時代にたしかに存在し、『木国史談会雑誌』という会報を発行していたことが国会図書館デジタルコレクションの検索によって確認出来ます。そのため、この話はある程度信用してよいのではないかと思われます。

 

 

今井信郎はなぜ渡辺吉太郎を桑名藩士だと言った(あるいは思った)のかという点についてですが、ニコニコ大百科では渡辺篤と結びつけて「渡辺篤は京都所司代から京都見廻組に移っており、当時の所司代は桑名藩主・松平定敬である」云々とし、今井信郎は渡辺篤のことを吉太郎としていたと推理しています。

 

 

この点については菊地明先生も『京都見廻組史録』の中で同様の見解を述べられているのですが、これについては異議があります。というのも渡辺篤は所司代ではなく二条城御門番組の出身なのです。二条城御門番組は二条定番役の支配下にあり、所司代とは別の組織になります。現代で例えれば町の治安を守る京都府警と御所警備担当の皇宮警察の関係に近いでしょうか。まあ、それでも広い意味でいえば所司代の配下と言えないこともないのかも知れませんが、その広い意味で言ってしまうと当時の京都の役人はほとんど桑名藩士になってしまいそうです。江戸からやって来たばかりだったとはいえ、れっきとした幕臣であった今井信郎が、そういう認識しかなかったとはちょっと思えません。

 

 

また思い違いではなく、当時存命中の渡辺篤(大正四年没)が〝真犯人〟の一人であることを隠すために同姓の吉太郎とすり替えたという考え方も一理ありますが、篤を庇うつもりだったとすると、推理小説でもあるまいに、わざわざ〝真犯人〟のヒントになるようなことを敢えて言い残すだろうかという疑問も湧きます。

 

 

後年になって渡辺吉太郎は桑名藩士ではなく江戸浅草の人であったと訂正したのは、実際、今井は渡辺吉太郎を桑名藩士だと思い込んでいて、それが『近畿評論』をめぐる騒動で今井自身が図らずも有名人になってしまったことで、吉太郎の親族もしくはその出自を知る誰かから「渡辺吉太郎は桑名藩士ではなく、江戸浅草の出身です」と便りをもらったのではなかったでしょうか。そして自らの言で誤りを正すべく、その後の取材で訂正したというのが真相ではなかったかと思われます。

 

 

では、渡辺吉太郎は本当に江戸浅草の出身だったかというと、その点はまだ慎重に考える必要があるのではないかと思います。もう少し確実な証拠が欲しいところですね。ただ、大いに期待したいところではあります。

 

 

近江屋事件の刺客の一人として今井信郎がその名を挙げた渡辺吉太郎もまた、謎の多い人物です。渡辺吉太郎に関してはこれまで何度が取り上げて来ましたが、今回はまとめの意味も含めて改めて記事にしたいと思います。

 

 

京都見廻組の隊士で、市中見廻り部隊の隊長である肝煎を務めた渡辺吉太郎は、『戊辰東軍戦死者霊名簿』に慶応四年(1868)に二十六歳とあることなどから逆算して天保十四年(1843)生まれと考えられています。ただし『京都見廻役人名簿』には慶応三年(1867)に三十歳とあり、これだと天保九年(1838)生まれということになります。その一方で京都見廻組の同志であった中川四明は、京都日出新聞のコラム「撃剣に就いて」の中で「当時二十歳ぐらい」だったとしています。中川は慶応二年(1866)に入隊しているので、その頃に二十歳ぐらいに見えたとすれば、少なくとも天保九年生まれというのはなさそうです。

 

 

また名前に関しては今井信郎の証言などから「吉太郎」が一般的ですが、「吉三郎」とする史料もかなりあります。主だったものを挙げてみると

 

【吉太郎とするもの】

・今井信郎(見廻組同志)の証言

・中川四明(見廻組同志)手記(京都日出新聞「撃剣に就いて(三たび)」)

・『京都御用留』

 

【吉三郎とするもの】

・古川甚之助(見廻組同志)手記

・『桂早之助略伝』

・『在京鳥取藩士用状』の見廻組幹部名簿

・『戊辰東軍戦死者霊名簿』御香宮神社

 

このことから、現状ではどちらかが誤りと断定するべきではないと思われます。これは以前にも書きましたが、見廻組は、たとえば新選組の試衛館グループや、あるいは倒幕派の志士たちのように長年苦節を共にしてきた間柄というわけではなく、あくまで職務として京都に集められた人たちであったので、名前で呼び合うよりも「渡辺さん」「今井さん」あるいは「中川君」「佐々木殿」などと姓を呼び合っていたのだろうと思われ、そもそも名前を知らなかったり、あるいは知っていたけれども失念してしまったりということは十分考えられるものと思われます。ただ、ここでは便宜上「渡辺吉太郎」と表記させていただきます(史料の引用部をのぞく)。

 

 

さて、その渡辺吉太郎ですが見廻組に加入するまでは神奈川奉行所の役人であったことが『京都御用留』で確認出来ます。

 

『京都御用留』(国立公文書館)

 

御足高四拾俵

最前御足高拾俵

元高参拾俵壱人半扶持

都合七拾俵壱人半扶持之高成

 

右同断(※京都見廻組)

元同断(※元神奈川奉行支配定番役)

渡邉吉太郎

 

 

「右同断」「元同断」はそれぞれ同史料の中で渡辺よりも前に記載されている人物と同じという意味で、「京都見廻組」と「元神奈川奉行支配定番役」を意味しています。その神奈川奉行支配定番役とは文久三年(1863)三月に、警備体制強化のために下役が増員されたのと同時に、その下役を指揮監督するために設けられた役職で、主に江戸・神奈川の幕府役人の家の部屋住み、つまり次男・三男などから採用されたといいます。翌元治元年(1864)には定番役は700人近くを数えたといいます。

 

 

渡辺吉太郎はその元治元年八月に京都見廻組への転属が決まったようで、『京都御用留』に「八月分迄神奈川表に罷り在り候」とあります。またこの時、渡辺吉太郎と共に神奈川奉行所から見廻組に転属した者は、熊井助次郎、藤川市太郎、天野周太郎、尾藤佐太郎、見杢勝蔵、安田揆九郎の6名でした。このうち熊井助次郎が渡辺と同じ定番役で、残りは定番役並でした。

 

 

また渡辺吉太郎は直心影流・男谷精一郎門下と伝わり、その腕前については中川四明が京都日出新聞に寄稿した「撃剣に就いて(三たび)」の中で以下のように記しています。

 

 

京都へ江戸から来ていた見廻組というのがあったが、その中に渡辺吉太郎といった肝煎があった。これが当時二十歳位であったけれども、天禀とも言おうか、大技で、遠くから面に打ち込む大刀(たち)の快(はや)さ、真二つに切れるようであった。そうかと思うと面ばかりが得意ではなく、同じように小手に打ち込む。小手へ来るのか面に来るのか分からない。見廻組で撃剣家に指を屈すれば、まずこの人が挙げられるのだ。戊辰の役に淀川で打死をした一人である。

 

 

 

※.AIで作成したイメージです。

 

京都市東山区内を流れる白川は、花崗岩由来の白い砂が敷き詰められていることからその名がついたといわれていますが、いつもの散歩コースの途中にある祇園白川のとある石橋の下に白くないかたまりがあります。

 

 

 

 

 

橋の下だし、おそらく木の葉などが流れ着いてこの場所にたまたま集まっているのだろうと思っていましたが、今日何気なく見ていると、このかたまりの中からスッポンがニョキッと首を出しました。

 

 

あわててスマホを取り出したもののシャッターチャンスは逃してしまいました。その後、どこからか外へ出て来て、下流の方へ行ってしまいました。たぶん、これがスッポンの巣なんでしょうね。引っ剥がしたらタマゴでも産んでるんじゃないだろうか。

 

 

・・・などと想像しながら眺めていると、バス待ちらしき外国人の親子がやはり見ていて、お父さんと目が合いお互いに会釈しました。子供に何やら説明していましたが、まったく聞いたことのない言語でした。顔つきが中東系だったので、トルコかどこかの方たちだったんでしょうか。

 

 

タイプです。と声をかけられた時どうする?

 

 

 

 

はあ?

 

 

あれですかね。こんなオッサンが声をかけられるとすれば、「あなたはもうすぐ神に召されるタイプです」とかですかね(笑)。もしくは「あなたは呪縛霊に取り憑かれやすいタイプです」とか(笑)。

 

 

まあ、若い頃なら何度か声をかけられたことは・・・。「ネェ~彼氏ぃ~」って〝いかにも〟な人に声をかけられたのはどこの駅だったかな。あと上野の不忍池を歩いていたら、手を繋ぎながら歩いている男性二人組に「ちょっといいですか?」とか。女性に声をかけられたのは宗教の勧誘以外なかったと思います。何なんでしょうね。

 

 

 

 

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今朝は、あまり暑くならないうちにと早めに出かけて散歩して来ました。するとその途中で歩道の脇から・・・

 

 

 

 

こんなものが飛び出して来ました。周りの人はみんなびっくりしていましたが、よく見ると4羽のハトです。どうやら3羽のひな鳥が親鳥に餌をせがんでいるみたいです。右のハト、親鳥の頭ごと咥えてしまっています。

 

 

ただ、親鳥の方は餌を与える気がないようでした。おそらく、もうこれだけ成長したので親離れを促しているのでしょう。ひな鳥たちはまだその事に気づかずに餌をくれと取り囲んでいるんだと思います。

 

 

ちなみに、ハトの鳴き声は普通クルルルル~とかプップルル~みたいな感じですが、ひな鳥はひよこみたいにピーピー鳴くみたいですね。

 

 

ええと・・・

 

 

 

 

 

 

マヨネーズはドレッシングに入りますか?(笑)

 

 

 

 

 

出来ればキューピーマヨネーズで(笑)。あの黄身の味が濃いのが好きなんですよ。あと市販のドレッシングってあんまり好きじゃないです。味付けは全体的に醤油だけとか、塩だけとかシンプルな方が好きですね。やっぱ貧乏性なんですね(笑)。

 

 

 

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高級なものよりも、タコとかイカとか蒸しエビとかの定番のものが好きですね。なにせ高級なものってめったに食べられませんから(笑)。僕にとってお寿司の評価基準は小僧寿しです(笑)。穴子も嫌いじゃないけど、なかったらなかったで良いかなという感じです。・・・って穴子の日にそんなこと言っちゃいけませんね(笑)。
 
 
今日も京都は暑かった!なんでも蹴上の浄水場を見学に来ていた小学生が何人も倒れてしまったとニュースで報じていました。蹴上浄水場のあたりは僕の日課のお散歩コースで、なだらかな斜面なので昼間の直射日光は厳しいと思います。子どもたちに大事なければ良いのですが。