近江屋事件の刺客の一人として今井信郎がその名を挙げた渡辺吉太郎もまた、謎の多い人物です。渡辺吉太郎に関してはこれまで何度が取り上げて来ましたが、今回はまとめの意味も含めて改めて記事にしたいと思います。
京都見廻組の隊士で、市中見廻り部隊の隊長である肝煎を務めた渡辺吉太郎は、『戊辰東軍戦死者霊名簿』に慶応四年(1868)に二十六歳とあることなどから逆算して天保十四年(1843)生まれと考えられています。ただし『京都見廻役人名簿』には慶応三年(1867)に三十歳とあり、これだと天保九年(1838)生まれということになります。その一方で京都見廻組の同志であった中川四明は、京都日出新聞のコラム「撃剣に就いて」の中で「当時二十歳ぐらい」だったとしています。中川は慶応二年(1866)に入隊しているので、その頃に二十歳ぐらいに見えたとすれば、少なくとも天保九年生まれというのはなさそうです。
また名前に関しては今井信郎の証言などから「吉太郎」が一般的ですが、「吉三郎」とする史料もかなりあります。主だったものを挙げてみると
【吉太郎とするもの】
・今井信郎(見廻組同志)の証言
・中川四明(見廻組同志)手記(京都日出新聞「撃剣に就いて(三たび)」)
・『京都御用留』
【吉三郎とするもの】
・古川甚之助(見廻組同志)手記
・『桂早之助略伝』
・『在京鳥取藩士用状』の見廻組幹部名簿
・『戊辰東軍戦死者霊名簿』御香宮神社
このことから、現状ではどちらかが誤りと断定するべきではないと思われます。これは以前にも書きましたが、見廻組は、たとえば新選組の試衛館グループや、あるいは倒幕派の志士たちのように長年苦節を共にしてきた間柄というわけではなく、あくまで職務として京都に集められた人たちであったので、名前で呼び合うよりも「渡辺さん」「今井さん」あるいは「中川君」「佐々木殿」などと姓を呼び合っていたのだろうと思われ、そもそも名前を知らなかったり、あるいは知っていたけれども失念してしまったりということは十分考えられるものと思われます。ただ、ここでは便宜上「渡辺吉太郎」と表記させていただきます(史料の引用部をのぞく)。
さて、その渡辺吉太郎ですが見廻組に加入するまでは神奈川奉行所の役人であったことが『京都御用留』で確認出来ます。
『京都御用留』(国立公文書館)
御足高四拾俵
最前御足高拾俵
元高参拾俵壱人半扶持
都合七拾俵壱人半扶持之高成
右同断(※京都見廻組)
元同断(※元神奈川奉行支配定番役)
渡邉吉太郎
「右同断」「元同断」はそれぞれ同史料の中で渡辺よりも前に記載されている人物と同じという意味で、「京都見廻組」と「元神奈川奉行支配定番役」を意味しています。その神奈川奉行支配定番役とは文久三年(1863)三月に、警備体制強化のために下役が増員されたのと同時に、その下役を指揮監督するために設けられた役職で、主に江戸・神奈川の幕府役人の家の部屋住み、つまり次男・三男などから採用されたといいます。翌元治元年(1864)には定番役は700人近くを数えたといいます。
渡辺吉太郎はその元治元年八月に京都見廻組への転属が決まったようで、『京都御用留』に「八月分迄神奈川表に罷り在り候」とあります。またこの時、渡辺吉太郎と共に神奈川奉行所から見廻組に転属した者は、熊井助次郎、藤川市太郎、天野周太郎、尾藤佐太郎、見杢勝蔵、安田揆九郎の6名でした。このうち熊井助次郎が渡辺と同じ定番役で、残りは定番役並でした。
また渡辺吉太郎は直心影流・男谷精一郎門下と伝わり、その腕前については中川四明が京都日出新聞に寄稿した「撃剣に就いて(三たび)」の中で以下のように記しています。
京都へ江戸から来ていた見廻組というのがあったが、その中に渡辺吉太郎といった肝煎があった。これが当時二十歳位であったけれども、天禀とも言おうか、大技で、遠くから面に打ち込む大刀(たち)の快(はや)さ、真二つに切れるようであった。そうかと思うと面ばかりが得意ではなく、同じように小手に打ち込む。小手へ来るのか面に来るのか分からない。見廻組で撃剣家に指を屈すれば、まずこの人が挙げられるのだ。戊辰の役に淀川で打死をした一人である。
※.AIで作成したイメージです。