弓聖 石崎八郎(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都所司代の与力で弓の名人として知られた石崎八郎長久は、所司代与力戸田又右衛門の次男として文政二年(1819)二月十一日に生まれ、同じ与力で屋敷が隣だった石崎家に養子に入り同家を継ぎました。

 

 

その石崎家屋敷について、弟子の一人だった元京都見廻組の中川重麗(四明)は『懸葵』に掲載のエッセイ「大矢数 其三 石崎八郎先生(下)」の中でこう書き残しています。

 

 

今、二条の停車場前の大路を少し北へ行くと、出世稲荷というのが東側にある。千本二条というのがそのツイ向こうの辻であるが、所司代組の屋敷、すなわち新屋敷といいなしていたのは、北の辻から北へ千本通に沿い、西へ二条通に沿うておよそ一町四方、いや、もう少し広かったように思うが、屋敷の中では一番大きな屋敷で、与力が五十人、同心が百人というのであった。

 

今もその形が残っている所もあるが、京鉄線が出来てから、その西南の一隅を弓形に取って、南から西へ貫いている。先生の宅はこの屋敷の南の門に入ったところの東側の初めての家であった。それで高塀を隔てて二条通に接しておったので、自銅鑼防到太秦という花時分には、先生の所の稽古場から、南を瞰下して菜の花の果てしなく咲き満ちたる朱雀野が見えたのである。

 


つまり、石崎家の屋敷は所司代新屋敷の南門を入ってすぐ東側(右手)にあったということになります。ちなみに石崎八郎の屋敷があった新屋敷南門の場所を記す史料はまだ見つかりませんが、位置関係からして二条通と六軒町通の交差するあたりだったと推測出来ます。かつての京都鉄道、現在は高架となっているJR嵯峨野線が弓形にカーブするあたりと目されますが、かつて弓の名人の屋敷があったあたりで線路が弓形に曲がっているというのも面白い偶然です。

 

 

石崎八郎は幼い頃、養父に「武家に生まれたからには何か武芸に長じなければならない。お前は何をやりたいか」と問われ、三日間考えた末に弓術を選びました。選んだ理由は「一人で練習出来るから」だったといいます。八郎ははじめ星野某、次いで高槻藩士の若林某に日置流竹林派(へきりゅう ちくりんは)の弓術を学び、特に京都から七里離れた高槻若林の道場に通うため、夜明け前に家を出て夜遅く帰宅するという生活を三年間、一日も休まず続けてその奥義を極めたといいます。

 

 

 

※.石崎八郎の屋敷があったと推定される二条六軒町付近。