弓聖 石崎八郎(2) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都から高槻の道場まで毎日通い続けて弓術の修行を重ねた石崎八郎は、天保十年(1839)二十一歳の時に日置流の免許皆伝を得ました。そして二十四歳の時、つまり天保十三年(1842)四月、石崎は三十三間堂の通し矢に挑戦します。

 

 

本来は丸一日かけて矢を射続ける「大矢数」に挑戦したかったものの、そのための費用を用意出来なかったため断念し、代わりに卯の上刻(午前5時頃)から酉の下刻(午後8時頃)まで射続ける「日矢数」を行なうことになりました。

 

 

その舞台となった三十三間堂は現在でも京都を代表する観光地のひとつです。通し矢は現在は観光客があまり立ち入らない西側の面を利用して行われ、南側から北に向けて矢を放ちました。

 

※.三十三間堂。通し矢は写真手前(南側)から北に向けて行ないました。

 

 

 

※.三代将軍家光の時、通し矢で柱を傷つけないように南側の面を鉄で覆って保護したものが現在もそのまま残っています。

 

 

余談、というか訂正になりますが、以前、同じく弓の達人であった新選組の安藤早太郎のついて書いた時に、通し矢が的に当たったかどうかなどと、的はずれなことを書いてしまいましたが、通し矢というのは的に当てるのが目的ではなく、逆にどこにも当てずに目標地点まで射通すのが目的でした。恥ずかしい間違いでした。申し訳ありません。

 

 

ともあれ、石崎八郎による三十三間堂の通し矢「日矢数」ですが、石崎にとっては不満の残る結果になってしまいます。というのも石崎の成績が素晴らしく、このままでは古人の記録をやすやすと更新してしまうとみた審判役が、途中で目印を外してしまったり、明らかに成功したのに数に加えなかったりしたためで、結局総射数6100本のうち4457本を通したことになりましたが、これは石崎にとっては納得いく数ではなかったようです。

 

 

そして嘉永七年(1854)四月二十八日のこと。この日、江戸深川三十三間堂において全国各藩から集められた弓の名人たちによる「千射」が、十三代将軍徳川家定臨席のもと開催されました。その名のとおり千本の弓を射て通し矢の数を競うのですが、石崎八郎もこの大会に出場し、1000本中859本を通して見事日本一に輝きました。

 

 

この功績に対して幕府から旗本取り立ての話もあったようですが、石崎はこれを辞退して京都に帰ると、自宅に反求堂と名付けた道場を開き、弟子をとって指導に当たりました。京都見廻組の渡辺篤は、その履歴書に弓術は日置流とあるので、石崎の門弟だったのはまず間違いないと思われます。

 

 

また、のちに新選組に加わる安藤早太郎は、石崎八郎が京都三十三間堂で通し矢に挑戦したのと同じ天保十三年四月に奈良東大寺大仏殿で丸一日かけた通し矢を行ない1万1500本中8685本を通すという大記録を打ち立てましたが、その後、嘉永三年(1850)に脱藩して京都に住み着きます。石崎八郎と同じ日置流竹林派でもあり、あるいは脱藩入京の理由に石崎が関係しているのかも知れません。

 

 

安藤早太郎は文政四年(1821)生まれといわれ、同二年生まれの石崎と年齢はそう変わらず、通し矢の成績も決して見劣りしないことから門弟になろうとしたとは思えませんが、あるいは「どちらが日本一か、決着をつけてやる」と石崎に勝負を挑んだものの、あっさり断られてしまってやむなく虚無僧になったとか・・・。この二人のニアミスには、いろいろと想像力がふくらみます。

 

 

また、石崎の指導は非常に懇切丁寧で、門弟一人一人の力量を見て指導し、技量のすぐれた者をひいきにすることもなく、また技量の劣る者を見捨てることも決してなかったといいます。また、時には門弟が扱いやすいようにと、自ら工夫して弓を改造してやることもあったということです。