弓聖 石崎八郎(4) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

やがて時勢は移り変わり、徳川幕府は倒れて明治の世になり武士の時代が終わると、石崎八郎は後進に道を譲り隠居しました。

 

 

そして明治十五年(1882)のこと。前年に第三代京都府知事に就任した北垣国道は、前任者の槇村正直が不平士族と結びつけて堅く禁じていた日本武道の再興をめざし、京都体育場を創設することを決めました。石崎も招聘され、弓道引立掛に任命されて改めて後進の指導にあたることになりました。門弟の数は数百人にのぼったと伝わり、弓道の再興に石崎八郎の果たした役割は大きかったといわれます。

 

 

そして明治十九年(1886)十二月二十三日、石崎八郎は病を得てこの世を去ります。享年六十八歳。その亡骸は洛北龍安寺に葬られました。没後、門人たちによりその功績をたたえて三十三間堂に「石崎先生堂射之碑」が建てられました。石碑は当初三十三間堂正殿東側の庭園に建てられましたが、太平洋戦争の後に観光事業に注力するために庭園の再整備が行われた際に正殿西側に移されました。現在その碑は、木々の間にひっそりと佇みながら、若き日に情熱を注いだ西の廊下を静かに見つめています。