京都見廻組 海野弦蔵(1) | またしちのブログ

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幕末史などつれづれに…

京都見廻組の肝煎・海野弦蔵(うんの/うみの・げんぞう)に関しては、これまでもブログに何度か書いてきました。なので今回はその焼き直しになるかと思いますが、なにとぞご了承下さい。

 

 

海野弦蔵は文久三年(1863)九月付の本人明細短冊に「亥歳二十四歳」とあるので、逆算して天保十一年(1840)生まれということになり、今井信郎・桂早之助の一つ上、渡辺吉太郎・渡辺篤より三つ年上ということになります。父は海野半次郎、祖父は勘助といい、海野家は代々江戸城の食を賄う表御台所組(おもておだいどころぐみ)に勤務していました。

 

 

ちなみに、江戸幕府の〝官僚名簿〟とでも言うべき『大武鑑』において、文久元年から元治元年まで表御台所組の組頭の一人に「海野甚助」なる人物がいます。弦蔵の祖父とよく似た名前ですが、甚助は組頭で百俵四人扶持、勘助は台所組改役で十五俵一人半扶持なので別人であることがわかります。が、同族であった可能性は非常に高いと思われます。また、近江屋事件の刺客の一人高橋安次郎の父・林右衛門も一時期表御台所組に属していたため、両家は同僚・知り合いの間柄であった可能性もあります。

 

 

その御台所組の組屋敷は神田明神下の御台所町にあったため、弦蔵が神田明神下の生まれであることはほぼ間違いないものと思われます。ちなみに、あの銭形平次の住居も明神下御台所町であり、小説とは言え、いわばご近所さんだったことになります。銭形平次の時代設定は文化文政年間(1804-1830)頃らしいので、祖父や父と同時期ということになるでしょうか。・・・無論創作物ではありますが。

 

 

「おう、平次。今日は活きのいいサンマが手に入ったぜ」

なんて場面を想像してしまいますが、史実と創作物をごちゃまぜにしてはいけませんが、それでも年代的にみて、子供の頃に銭形平次と面識があった(と設定することが出来る)海野弦蔵が京都見廻組に入って、ひょっとしたら近江屋事件に関わっていたかも知れないと考えると何だかワクワクしてきませんか?

 

 

ちなみに、海野弦蔵は諱を顕忠(あきただ)といい、明治維新後はこちらを名乗りました。父の半次郎は家督を継ぐ前に亡くなったらしく、弦蔵は文久三年(1863)七月に祖父から家督を譲られ表御台所組に出仕します。が、わずか二ヶ月後の同年九月には創設されたばかりの別手組(べってぐみ)へ異動となります。別手組は当時相次いでいた攘夷(外国人への攻撃)に手を焼いた幕府が、外国人警護のために新たに編成した組織でした。