過呼吸でぶっ倒れたことが多々あり、人に迷惑かける前科あり人間が過呼吸で倒れたことについて書こうと思います。

 

まず、過呼吸になる前に起きる現象。

世界が止まる。

冗談抜きで世界、止まるんすよ。すべてが静止画になる。

 

そしてあっやばい、と誰もいないところに逃げられたらいいんですけど、ちょっとほっとけばいいかなと思ったら最後。人前でうずくまり、意識飛びます。

 

私はこれが学校の近くで2回、やってしまったことがあり、2回とも通行人AさんとBさんに助けてもらいました。学校に電話してもらい、職員室中の先生が飛んで助けに来てくれました。感謝。

 

学校内で起きた時はさすがに早くにこれを友達の前でさらすのはやばいと保健室に逃げ込みました。

 

過呼吸はストレス過多になると起きます。でも私はそれを無視していた。

 

無視して、でも無理はよくないです。

 

 

最近更新できずすみませんでした。色々ありすぎて、、、

 

学校との攻防戦。(笑)

親によるほぼ軟禁状態。

 

もはや鬱を通り過ぎた。鬱とはなんぞえ状態です(笑)

 

具体的にどうかというと、まず、学校になかなか復帰できない。学校から帰宅途中2回ほど過呼吸で倒れたことがネックになって学校がなかなかオッケーを出さない。

主治医からはまだ復帰は早いのではないか、と言われています。ですが、その主治医にしても、私と話す時間より母と話す時間の方が長く母の主観による私を診ている気がします。そして困ったことに母は心配性がゆえに私の状態をオーバーに話す。そして主治医も母の話しから得られる私の人物像を診断書に書く。また学校がそれを読んでノーを出す。

ここ2週間ぐらい学校との話し合いに神経すり減らしています。

 

そして母の状態。母は日に日に精神を確実に病んでいます。娘が自殺未遂をしたりと正常じゃない状態が続くと親というものはこうなるんでしょうか。

娘が死なないか心配で。自分が悪かったのかと自分を責めて。娘が言うことを聞かなかったら不安になる。

だから私がどこに出かけようともしつこく何時に帰ってくるのかどこに行くのかを聞いてくるい、なんなら自分も付いて来ようとする。部屋には絶対一人にさせない。ドアを閉めたら怒る。泣きつく。私の荷物をしょっちゅう盗み見る。カッターや薬を隠し持ってないか不安になるから。学校には必ずついてくる。

ほぼ軟禁状態です。私は今はひたすら我慢しているけどいつまた爆発するかわからない。

 

父は我関せず、だし。だいたい週末しか居ないから。

 

なんでこんなに不幸しか降ってこんのやら。鬱でこのストレスは本当に私を殺しにかかってるとしか思えない。

 

せめてこんな状態に苦しむ子が一人でもいなくなるように、親という立場にいる人達に一言。

 

心配が逆に子供を苦しめることがあるということをわかってください。もっと子供の命もそうだけど表情を見てください。

 

これが母に言えたらなー。でも今の母には何も届かないし、大体、私と両親はずっと前から北極と南極に居る。

 

しんど。

最近は暗い話が多いと反省しております....

 

明るい話を頑張って引っ張ってきました。趣味の話2です。

 

前回、書いていませんでしたが私の趣味はこれだけかと思うとありました!!まだ。

実は私、料理が好きで。特にお菓子作りが好きです。毎回バレンタインは手作り派。この間母の誕生日には手作りケーキを作りました。ちゃんとホールで丸いやつ。一番の得意はクッキーかな。クッキー缶作りしているときはこの上なく楽しいです。ご飯系だったらオーブンで作るハンバーグ。ハンバーグってフライパンで作る人が多いと思うんですけどオーブンで熱を加えると余分な脂が落ちてあっさり食べられます。あっ!あっさりと言えばあさり。あさりのパスタ、おいしいですよねーー(笑)。パスタ系も大体作れます。

 

お腹減ってきた、、料理の話はもうやめやめ(笑)。どうしようかな、、次は、、、うーん、、私の好きな本の紹介でもしようかな、、、。

 

本、といっても一口に言えず色々な世界がありますが、例えばミステリー。かの有名な東野健吾や中山七里、柚木裕子などがいますが私個人的には中山七里さんの推理小説が推理小説界の中でダイナミックに物語を書いているなと思います。なんていうんでしょうか、、世界観が日常ではありえないけど、あったら怖いっていうか、ありえないけどありえそうっていうか、、とにかく磁石のように引っ付いて読んじゃうんですよ。中山七里さんの本を読んだことがないっていう人、ぜひ、今日、本屋にいって読んでみてください。

 

そして、最近の愛読書は「90歳。何がめでたい。」佐藤愛子著。この佐藤さんの等身大の日常が赤裸々に描かれているんですが、これがめっちゃ面白い。佐藤さんが私に似ているなーって思えて(忙しくなるといつもイライラしているとことか)一生懸命生きて生きて生き抜いた人の話は今の私に染みます。染み染み大根みたいに(笑)。

本当に面白いのでぜひ読んでみて下さい。

 

次回もこうご期待。

さてと、、ブログを始める前に嬉しいご報告です。昨日のこのブログのアクセス数が521!!になっていました。実は私の密かな目標で500を目指すって決めていたんですけど,,,,,

私の密かな目標を叶えてくださって、読者の皆様、本当にありがとうございます。こんな暗い内容が多いブログを読んでくださって本当に感謝しています。

 

それでは本題に入っていこうかな,,,,,

 

題名にある通り何事も上手くいかない。そんな愚痴の話です。勉強を始めているのですが、まず、薬の副作用で頭がボウってしてる。そして、鬱の症状で肩が凝り過ぎて文字が上手く書けない。絶望的に宿題がたまっている。

 

本当に何もできなくなったんだなと自分を殺したくなる。このままだと本当にやばい。不安が拭い切れない。不安しかない。

 

不安とプレッシャーが常にかかってきていてそれと戦わなきゃダメ。最近はそんな毎日を送っています。

年配の人からみればちっぽけな悩みかもしれない。だけど、今の私には大きすぎる暗闇です。

本当に毎日不安で不安で。でも、こうゆうことも周りの人には相談できない。一刻も早く復帰しないと周りとの差が広がるだけだから。不安で胸がつぶれそうなのとか相談した日にはドクターストップがかかって復帰が遅れる。そしたらまた不安になる。

 

どっちにしろ悪循環です。でも戻るって決めたんだから、しょうがない。一人で静かに戦うしかない。

 

こういう時リストカットでもすれば少し落ち着くんですが、リスカしたらまた主治医との約束やぶったと多方面で色んな人から言われるから出来ない。

 

 

どうか私の命があるうちにこの不安と戦えればいいんですけど。無駄だとわかっていますが、言います。誰か助けて。

 

次は私の趣味の話をします。少しこのブログの温度を上げなくては、、、、

昨日は更新できずすみませんでした。

 

今後のことについて考えていたことと安定に体調が芳しくなかったこともあります。(午前中は良かったはず)

 

今後どうするか、私の中に選択肢は3つありました。

・1年休学して1学年下に行く。

・この学年に居て塾をやめる。もしくは鉄緑会以外の塾に行く。

・何事もなかったかのように塾(鉄緑会)も学校も再開する。

 

私は悩んだ末塾(鉄緑)にも学校にも復帰することにしました。

 

また、しんどいところに自分から足を突っ込んでいくのかと思われるかもしれません。

私もこの選択は一番自分を苦しめることになるだろうなと思います。

 

私がこの選択を決めた理由はいくつかあります。まず学校に復帰することについては、私の在籍する21期の友達には今も今までも助けてもらい愛をもらい、あふれた素敵な1日を私にくれています。そんな友達と、同期と、なるべくいれるだけ一緒に居たい。もちろん本心をすべて打ち明けられるわけではないけど、愛を愛で返したい。そう心からねがっています。

 

そして塾のことについて。これは本当に悩みました。塾が私のストレスの根源になっているといっても過言ではないぐらい私は鉄緑会にストレスを感じています。ですが他塾の教材を見てみるとその教材の質の悪さが私の鉄緑から転塾するという考えを捨てさせてきていました。

 

考えに考えぬいた結果、もし、今、転塾しても鉄緑とのギャップに逆にストレスを感じるだけだなと思います。

 

なので今までの分を巻き返して進むしかない。

 

次、転ぶとき、それは私の中で死を意味します。本当に死ぬ気です。首吊りじゃなくて飛び降りで。

 

次は塾のことについて書こうかな

昨日は支離滅裂な記事をあげてしまい、申し訳ございません。削除しようか迷いましたが、このブログは何よりも自分の気持ちの整理のためのものなのでそのままにしておきます。

 

とりあえず、後1週間は休むことにします。

 

さて、海外インターンの話ですが。30度を超える中、現地の病院や学校で働いていました。エアコンなんてありません。

 

具体的には病院では患者のバイタルをとったり施設見学。学校では日本文化、日本語、算数を教えていました。

現場での働きも私にとって経験という武器になりましたが、何よりも現地で最高な仲間に出会えました。

フィリピンは日本と近いので日本人の方も多かったのですが、将来WHOで働くために、発展途上国の公衆衛生を知るために参加した人や、大学で学んでいるセラピーを実践うるために来た人だったり。

皆さん大学生で大学という生活を垣間見ることもできました。

 

留学で日本人が多いところに行くのは意味がないんじゃないかと思う人も多いと思います。ですが、異国に行くというストレスに+して日本語が全く通じないというのはストレス過多になってしまうのでは、、、と私は今回、実際海外に行ってみて思いました。やっぱり、日本人、いた方が心強いです。

そして、英語をしゃべらなくなるという心配は日本人同士でも緊急時以外は英語でしゃべればいいという破壊的な考えで私は乗り越えました(笑)

 

日常面ではトイレにトイレットペーパーを流せない。シャワーからは水しか出ない。洗濯は毎日手洗い。停電は起きる。トライク(タクシーみたいなやつ)ではよくぼったくられるで大変でしたが、大丈夫命はとられませんでした!

 

そして、何よりも、このような過酷な状況でさらに医療行為をするとはとてつもなく体力と精神力が必要だと痛感しました。本当に気力がないとやっていけない。そして、自分一人がどんだけ頑張っても医療品の圧倒的のなさ、そして学校での日本での保健体育などの教育が十分でない、など根本を直さないといつまでも問題は解決しないのでは、と矛盾も感じました。

 

でも、でも、いつか、MSF(国境なき医師団)のジャケットを着て、十分な医療が受けれていない人に自分ができる精一杯のことをやりたい、その思いは日本に帰国した今も変わりません。

 

そのためには今の状況を打破しなくては、、、。

 

次は最近のこと、書きます。

今、気持ちが混乱していて。もしかしたら支離滅裂の文章になっちゃうかもしれません。

 

まず、前提条件として先週の土曜日、私は希死念慮の一歩向こうに行っちゃったけど薬の副作用で実行に移す前に寝てしまいました。自殺未遂ではないけど、自殺しかけたということです。

そして、これが学校にもバレていた。友達が学校に伝えたから。これも事実。

そして、私と主治医との約束で、死なない、自傷行為(リストカットやオーバードーズ)をしない、自室のドアは常に開けておく、ということがあった。

 

今日、主治医に学校に行きたいという旨を話すと、公共交通機関を使った通学なら認めるといわれました。(以前、不安から自転車で学校に行く途中過呼吸で意識を失い倒れたからです。また、このことも記事にします。)

ですが、私は土曜日の出来事は主治医に言いませんでした。自殺はしてないから言う必要はないと思ったからです。

 

そして、学校に、主治医から通学許可が出たことを母に電話してもらいました。

 

学校から出たアンサーはNO。自殺未遂のようなものがあったから、ということが理由です。

 

ですが、私、ずっと母と家に居ることが一番ストレスなんです。友達と他愛ない話をしたかった。部活、行きたかった。学校に少しでも行って、ストレス解消したかった。ストレスがそろそろ限界に来てる。

 

じゃあ、自殺したいとか友達に言わなきゃいいじゃん。まさに、その通りです。でも、自殺したいって思っているときは本当に苦しくて誰かに吐き出したいです。

 

でも、一番NOを出してほしくないときにNOを出された。

 

これからは、友達に言えないです。じゃあ、自殺したいときはどこに吐き出せばいいんでしょうか。誰か教えてください。

 

今は本当にストレスが限界で、社会とつながりたかったので、学校がだめなら塾に行かせてくれと両親に頼みました。

そしたら、自殺未遂があったことを主治医に話さなかったことを怒り、今は不安定な状態だから行かせれない、絶対だめだ、の一点張り。泣いて頼んでもダメでした。

 

もちろん、勉強できる状態なのか?と言われると自信をもってはい。とは言えません。でも、それでも塾に行く、そのために勉強する、と腹をくくれるぐらい今は家を出たいのに。

もとをただせば病気になったのは両親のせいでもあるのにその人たちから塾に行くという自由も奪われることはとっても屈辱。

 

自由を得るためにはやっぱり自分の本心は誰にも打ち明けられない。それが、何の意味を成さないことは分かっています。でも、私は両親との関係が悪いのに家でなんて休めれない。入院は?と考えましたが、入院したら確定留年+スマホ、パソコンが使えないと最大級のストレスが襲ってくるので入院も無理です。そもそも、今すぐ入院できるとかなんて無い。空きがない。

 

自分の行きたいところに行く。それが一番私の気を軽くさせてくれます。でも、その権利を一刻早く取り戻すには自分の気持ちをひたすら押し込めるしかない。そうじゃないとストレスで頭がおかしくなっちゃう。死ぬのが早まる。

 

誰か助けて。

 

海外インターンの話は次回書きます。

最近は暗い?話が多いので少し主旨を変えようと思います,,,,,,,

 

以前、海外インターンに行ったと記事で触れましたが、そのことについて。

 

と、その前に私の将来の夢について書こうと思います。この二つはつながっているので安心してください(笑)

 

私の将来の夢は外科医になって国境なき医師団で発展途上国の医療が不十分なところに医療を届けることです。国境なき医師団に出会ったのは小学6年生の時の平和学習です。その当時から両親から将来に医者になりなさいと言われてたので医療には漠然と興味を持っていました。そんな時国境なき医師団のサイトを見て医療が不十分で苦しんでいる人がいるという事実を知った衝撃は自分の中で大きいものでした。

 

自分は日本という国に生まれて何不自由なく育っている。これは運が良かっただけだなとひしひしと感じました。

同時に、その恩をどこかに返さないとなと思いました。そこで思ったのが将来国境なき医師団に参加すること。その思いは6年たった今も変わりません。

 

ですが、年を重ねるうちに発展途上国ってどんなものなのか?実際行ってみたいと思ったのが高1の自宅で1週間休んでいるときに思ったこと。最初はインドのカルカッタにあるマザーテレサが建てた聖なる子供の家に行きたいと思いました。ボランティアとは、支援とは何か、ということを学べると思ったからです。ですが、若すぎてどのボランティアを斡旋している会社にもNOと言われてしまいました。また、両親からも大反対にあったので今回は断念しました。

 

自分の年でも発展途上国でボランティア活動ができる団体はないか?

色々調べた結果projects abroadという会社にたどり着きました。そして、両親と話し合い、日本から直行便が出ているフィリピンならと許してもらいました。

そしてそして、なんと偶然なのですがprojects abroad in philippinesの活動場所は2020年まで日赤が感染症対策の活動をしていたと知りました。

 

発展途上国支援が終わった場所で活動ができる!!

 

とっても嬉しかったです。自分の夢に一歩近くにいれた気がして。

 

日赤にどんな活動をしたいたのか直接取材依を送りました。まあ取材はNOと言われましたが。

 

また、学校の修学旅行でカンボジアに行くことも決まっていて願い通り発展途上国を肌で感じる準備はできていました。

 

さてさてじゃ活動がどんなのだったかって?

 

それは次回にしようかな....

今日は心療内科でした。さっき帰ってきた。

心療内科に行くといつも診察中に泣いちゃうので今日は泣かないぞってメイクしていったんですけど泣いちゃった....

 

でも学校には近くに復帰しそうです。

 

さて、私が病気のことをオフィシャルにした理由ですが。まあいっぱいあるんですけど一番は隠すことに疲れたってとこかな。そして、隠しきれなくなった。

 

摂食障害の時は自身も病気と認めたくなかったし、周りにも一切言っていませんでした。一番の友達にも。だから、最近実は摂食障害だったんだよーって言ったら皆、目が点になって。まるで猫ミームのあれです(あのびっくり仰天みたいな顔してる猫いるじゃないですか!!)

だから、お昼ご飯だけはちゃんと食べていました。でもひどいときは野菜だけ食べて後はトイレとかに捨てていたんですが。

 

行事を休む時は家の都合とか言って何とか逃げていました。さすがに卒業式休んだ時は皆、何で??みたいな顔していましたが私、異常に社交性が高いので、何でどうしたんって聞いてきた友達に自信満々で

 

          「ずっと座って話し聞いとかなあかんのめんどかってん!!」

 

信じる友達も友達だけどこれをこともなく言いのけてそれも自然に見せられる能力を持ち合わせる私も私です。損な性格だなあ。

 

でも、やっぱり学校では明るく振舞うのは自分に負担になっていました。学校にいる間は違う自分でいるみたいで。もちろん楽しいこと(部活とか)をやっているときは心から楽しんでいましたが。

 

そして高校に入って。秋までは心も落ち着いて学校生活も中学より楽しんでいました。リストカットがやめられなくなっても友達の前では今まで通り元気に振舞っていました。休みがちになって、単位大丈夫なの?って聞かれた時も、やばいんよーーー!!って全然やばそうな顔をしないで言ってあまり深く考えていないような素振りを見せて自分の状態を隠していました。

 

何で隠すの?正直に打ち明ければいいじゃんって思う人もいるかもしれません。

私は今も今までも友達のお陰で毎日生きていると思います。私を笑わせてくれて、時には遊んでくれて、しゃべれかけてくれて、、。だから、もし、自分が自傷行為をやめられない、とか摂食障害だったのって言って、あまりの話の深刻さに関わらない方がいいと思って友達が私から離れることが怖かった。だから明るい私しか見せれなかったんです。

だから、だから、病気のことを明かしたあとも変わらず私にメッセージをくれて私の愚痴をひたすら聞いてくれる友達へ。この場でお礼を言わせて下さい。本当にありがとう。

 

高2になって自分の状態が過去1悪くなって、もう隠せないなと思いました。それぐらい自分で周りに気配りが出来なくなった。そして怖かったけど、色々な人に自分の状態を言うようになりました。そしたら、色んな人が話しを聞いてくれて。思いがけなく頼れる存在を増やすことが出来ました。結果良かった。

 

次は何について書こうかなあああ

学校....

 

うん。どうした。

 

難しい。自分の中でももやもやしてる。学校のことをどう思っているのか。今後どうしたいのか。

 

一度整理するために中学入ってからの私の学校さんとの付き合い方を書いときますね。

 

ご存じ中2の秋までは普通の頑張り屋さんだったのでちゃんと行っていました。だけど摂食障害と診断されて集団生活が苦手になると遅刻が増えるようになり週1回や2回は休むようになった。休んでも家で勉強してたけどね。

中3になると毎日のように遅刻するようになりました。学校行きたくなくて。でも、完全に行かなくなって不登校になるのも怖くて。

そんな状態だったから中3のとき参加できた学校の行事は体育祭だけ。文化祭も二日あったんですけど一日は休んで、二日目の自分のでる劇だけ行ってその後またまた運よく?熱が出て早退してって感じ。

 

部活は中1からテニス部でそこまで厳しくないけど、ちゃんと行っていました。平日4日休日1日って感じかな。テニスは好きだったしここは別に苦じゃなかった。

 

高校は単位のことがあるし遅刻出来ないぞって思ってて。高校入って遅刻はあんまりしてないです。秋までは2週間に1回から2回休むって感じ。でも秋からは休む回数が増えて。1週間に1回は休んでたかな、いや、行ってたけど午後から行くみたいな日が多かったかな、、、、、

 

クスリのことで学校に親が呼び出されたことは2回。1回目は初めて飲んだ時、そして2回目は40ぐらい飲んだ次の日に学校に行って保健室で倒れた時。

 

2回目の時はしばらく休めって言われてちょうど冬休みの期間と重なってたことから1週間ぐらい休んでいました。

まあこのときも塾の模試が近くてずって勉強してたんだけどね。

 

そんな感じで長くても1週間休んでたって感じ。

 

今の学校には友達がいて愛してる先輩がいて。戻りたいのは戻りたい。

 

あ、私、戻りたいんだ,,,,,,,書けました。自分の気持ちが。

 

戻ります。宣言。

 

次は私が病気のことを周りに公表した理由についてでも書こうかな