本日2本目。半ばやけくそ状態なので何本でも書いてやります。

 

さて話しを過去に戻して、中学受験の時の話し。自分の中で頭を整理するためにも。そして私の記事にいいねをくださった方で中学受験関連のことを書いていらっしゃる方が何名かいらっしゃったので。

 

小5小6と毎日本当に勉強しかしてなくて。幼かったから効率的な勉強方法ということがいまいち理解できなくて。

ただただ量をいっぱいこなせばその分実力になると思っていました。だから、塾は、浜学園に通っていたんですけど全教科宿題は最低2周していたような記憶があります。

 

これは完全な私見ですが中学受験への勉強はどの教科においても数をこなせばある程度の能力はつくと思います。浜学園基準で申し訳ないんですけどクラスがSクラスからVクラスに上がれてVクラスに残れるぐらい。

でも、そのさらに上(Vクラスでも上位にいる)にはポイントを抑えた勉強法ができるかできないかにかかっているんじゃないでしょうか。例えば国語なら20文字1要素で傍線部と同じようなことを言ってる部分を探す、傍線部のキーワード一つ一つに対してそのキーワードの説明をしている部分を本文から探してくるみたいな。各教科あると思います。

 

そしてこのポイント、なかなか小学生には理解できないんですよね。だから私はどんだけ点数が低くてもただただやれば実力がつくと思っていました。だから自分の時間なんて一切なくて学校の休み時間もずっと浜の勉強していました。ドライヤーしながら本を読む習慣があって本当に自分の時間といえる時間はそれだけ。本当にずっと。

 

真面目過ぎるんですよね。はい。分かっています。

 

でも、それくらい受かりたかったんです。第一志望の学校に。

 

ですが、私が第一志望の学校は残念ながら努力するにも努力の工夫が必要でそれがないと落ちてしまうぐらい難しい学校で。

 

結果はダメでした。

 

 

不合格って書かれた画面は今でも頭に残っています。悔しかった。とっても。申し訳なかった。親にもお世話になった先生方にも。

 

 

だから大学は絶対成功させてやるっと思ってすぐに鉄緑会に入りました。そしたら自分が落ちた学校に受かった塾の友達と普通に接せなくて。ようやく最近しゃべれるようになったって感じです。(笑)

そんな環境で中学もひたすら下を向いて勉強していました。

 

落ちたおかげで中学も浮かれることなくあまり遊びにも行かずっと勉強していました。それで今鉄緑でも上位にいるけど、休むことが分からなくなって今苦しんでいる。

 

 

結果良かったのか悪かったのかって感じですね。

 

次は学校生活のことについて書こうかな

昨日は精神状態が良くなくて、また首を吊ろうと思いました。希死念慮の一歩向こうに行っちゃいました。

ですが、両親の手前、飲んだ精神薬(炭酸リチウム200㎎)が効きすぎて寝落ちしてました。

気ずいたら朝。絶望してました(笑)。

 

さて、春期講習が行けなくて自分を責めて。また逃げるようにリストカットに手を出すようになりました。希死念慮はインターン前よりは収まっていて(多分、海外が楽しすぎてその幸福感から)リストカットする元気はあったんですね。

でも、去年の秋ごろより酷くて。毎日うわーってなっちゃって、両腕血だらけで。(去年の秋は片腕だけだったし、一日多くて10個ぐらいしか傷を作っていなかった。)ちょうど学校も春休み期間で学校の先生にも相談できず、親は論外で誰にも相談できなかった。自分を責める&リスカの傷跡を見て消えたくなるで本当に胸が苦しい毎日で。

 

そんな日を置かず、薬にも手を出してしまいました。そして、またこれが異常。

薬局で鎮痛剤が100錠で500円ぐらいで売られているんですけどそれを買って全部飲むっていう,,,,,,,

 

クスリ飲む。1週間はクスリが抜けなくてぼうとする。また飲む。の繰り返し。

 

この時はまだ今みたいな希死念慮はなくて、薬の作用で現実逃避していました。

 

これが4月上旬から中旬の頃の話し。

 

学校は始まっていましたが薬まみれの私が行けるわけなく全く行っていませんでした。

 

全く学校に行かなくなった私を心配して両親は今まで通っていた心療内科とは違うところへ連れて行きました。(今までのところは摂食障害の時行かなかったことであんまり信頼関係が作れていなかったので)

 

診断名はすぐつけれないけど鬱病の可能性が高いといわれました。

 

そしてその頃。耐えようのない希死念慮が襲ってきました。本当に死にたい。心からそう思ってしまうんです。

 

勉強なんてできない。本なんて読めない。音楽でさえ雑音に聞こえる。薬も飲みたくないしリスカもしたくない。それは生きようとしているみたいだから。ただただ死にたい。インターン行く前の状態よりだいぶひどいです。

 

 

今の私はそんな状態です。

 

 

そして、1番はじめに書いた記事のように自殺未遂を起こしたり。

 

ようやく今の私までたどりつけましたね。さて次は何について書こうかしら。

 

 

 

 

 

 

静かに感情が爆発しているので、気を紛らすために私の趣味のことについて書こうと思います。

でも実は,,,,,,,いやこれ以上私の稚拙な文章を読んでくださっている皆様を困らすわけにはいかない、、、

 

えーと趣味ね趣味。うん。基本勉強していたから少ない方だとは思いますが。

まず、テニス。私、中高テニス部で。黄色い球を使う硬式テニスです。だから今は5年目。まあ、5年目としては妥当な

力量です。でも、今は学校に行ってなくてこの間顧問の先生から学校に来てないのに部活に来るのはだめって言われて。(休日練習だけ行ってたんですけど)今、追い討ちをかけてショックを受けています。

 

次は読書。中学受験が終わってから今まで本当に多くの本と出会いました。本を読むとこの世界の様々な面を知ることができます。実際経験していなくても知識はつく。一種の教養ですね。そして様々な場数を架空の世界ででも踏むかとができるので色んな出来事に対して多角的な見方ができます。一種の見解しか持てない人生と比べたら、様々な考えをもっている方が楽しい人生を送れると思えませんか?(まあ、私に言われたくないわって感じですが)

ちなみに、いままで文庫本しかよんだことがないという人にお勧めしたいのが新書です。新書は世界で起きている現象(宗教問題とか)に対する著者の意見が書かれているものですが社会問題を知ることができるうえその物事に対して詳しい見解を知れて知識が付きます。難しいよって人にまずお勧めしたいのが「ものがわかるということ」養老孟司著

あえて深くは言及しません。ぜひ読んでみてください。

 

次はTWICE。え?古くない?うるさいわ!!

何を隠そう、私は熱烈なJIHYOペンです。分からないっていう人へ。いますぐユーチューブでfeel specialって調べなさい。(命令(笑))

この曲について語りだしたらやばいのでやめときますが私はTWICEが好きすぎる人間なのですという事実だけここに書いときます。まだ、ワールドツアー当たらない。悔しい。

 

次はピアノ。幼少期の習い事でピアノだけは自分から始めたいっといってはじめた習い事。中学受験で一時中断したものの入試後すぐ再開して摂食障害だと診断されるまで続けていました。ピアノのきれいな音色がたまらなく好き。私の中の一番の推しは実はXJAPANのENDLESSRAIN。ぜひ聞いてみてほしい。前章を考えたYOSHIKIはモーツアルトを上回ると信じています。

 

こんだけ書いときながら現状、鬱すぎて文字が読めない、楽譜が読めないなんです。

 

 

はあ辛いな。死にたいな。

 

 

いったんお風呂入ってきます。

 

今日は更新がこんな時間になってしまいました。

 

ずっと寝てて。昨日の反動ですね。

 

そして今めっちゃ死にたい。今日は3時まで起きてようと思います。決行、入院が嫌だからどうしようか迷っているけど明日を迎えたくない。

 

さて、希死念慮との戦いとのことですが。皆さんは死にたいと思ったことはありますか。あるはあるっていう人が多いのではないでしょうか。ですがリアルにこうやって死のうと死ぬまでのプロセスが常に頭にあったり死ぬ夢を見たりするっていう人はなかなかいないのでは。(もし、そんな状態で病院にかかってない人は心療内科にかかってください)

 

一般的に希死念慮と言われる状態は死ぬまでのプロセスがしっかり確立して頭の中にあり日常生活に支障をきたす状態だと私は解釈しています。

 

そしてこれがほんとに厄介で。何してもそのことが頭から離れなくて。ごはんを食べているときも勉強しているときも。

 

私は1月の大きな模試が終わった直後から気が抜けたのかその状態が襲ってきて。おかしいな、最近ずっと学校の教室から飛び降りることが頭から離れないって。ネットとか本とかで自分の状態を調べてこれが希死念慮と言われるものだと知りました。

 

ですが実はこの時、3月に海外にインターンをしにいくことが決まっていて。もし、今の状態がバレたら海外インターンに行けないと思って。誰にも相談できなかったんです。

 

3月までは本当につらくて。毎週土曜日まで脳の中は瀕死になりながら乗り切って。日曜日は全く動けなくて。月曜に学校休んで日曜にできなかったたまった塾の宿題やって。そしてまた瀕死の状態で学校生活や勉強して。

 

瀕死すぎてリストカットもオーバード―ズもできなかった。ただただ死にたくて、リスカもオーバードーズも生きるためにやる行為に思えて。周りには元気そうに振舞って、心はボロボロで。3月のインターンまでは本当につらい日々でした。

 

迎えた3月。私は2か国行って1ヶ月日本を離れていたのですが、ここはめっちゃ楽しみました。日本というストレスの根源から離れて本当に楽しかった。

一生ものの仲間にも出会えました。このことはもし、私が生きてたらまたブログに書こうと思います。

 

そして帰国して。私に待っていたのは春期講習。ですが私の塾は予習してから春期講習を受けなくては駄目で。

全く予習していなかった私は一日も行かず。自分をひたすら攻めていました。

 

「何やってんだ。親にお金だけ払わせて。自分は何てダメな人間なんだろう」

 

このことが私の症状をさらに悪化させました。

 

続きはまた今度。生きてたらね。

 

今晩また首吊ろうかな 


衝動が抑えきれない…

はい。安定の希死念慮に苦しんでこんな時間にブログ書いてます(笑)。

 

どうでもいいけどめっちゃおなかすいた。死んだら美味しいご飯いっぱい食べれるかな。

 

死にたいな。首吊りたいな。何でパパはまだ起きてるんだろう。

 

ここまでにしときましょ(笑)私の心だだもれじゃん

 

さてさてなんやら物騒なタイトルだけど、、、、、皆さんはオーバードーズをご存でしょうか?ちまたで話題になってるあれです。気になる人はグーグル大先生に直接お伺いしてください。

 

しばらくはリストカットでわいてくる不安を叩いて何とか勉強していました。しかし、学校からはリストカットが常習となっている生徒をこれ以上抱えられないと親に連絡され、何で相談してくれなかったの圧のまま心療内科に連行されついた病名は適応障害。リスペリドン、デイビゴ、漢方の睡眠導入剤が処方されました。この時、薬の管理、私がやるって言ったんですね。別にこの時オーバードーズをしようとしてたわけじゃなくてただ今回は親に関わってほしくなくて。

でも、これが駄目だったんです。もし読まれてる方で親という立場におられる方、絶対に子供に薬管理させちゃだめですよ。

 

ある日不安がリストカットじゃ抑えきれずふと目に入ったのが薬。よく、服薬自殺とかあるし、これで楽になれるかな、、って思っちゃって。その日いっぱい飲みました。忘れたけど多分45錠ぐらい。これが私のオーバドース生活の始まり。その次の日、学校行ったんですけどふらふらがやばくて。昼ごはん食べたら本当に倒れそうでたまらず保健室へ。

その日は正直に全部話してその日のうちに親が学校に呼ばれて学年主任と担任と面談。いやーあれきちかったーー。

 

それからはクスリの管理は親がやってるんですけどその前にわたしが押収したやつと市販薬で10錠ぐらいだったら次の日も残らず少しポワンとするぐらいってわかったので基本10で我慢できないときは50飲むっていう生活を送っていました。でも50とか飲んだ次の日はほんとに生き地獄。吐き気頭痛フラフラ。ほんとに人間やめたくなります。でもこのときは死にたいとは思っていませんでした。

 

それが高1の秋から12月にかけて。このとき1月に塾の大きな模試があったのでそれまではこれでだましだましやっていました。

 

だけどその模試が終わってからあいつが待っていたんです。

 

死にたいっていう衝動。医学的に言うと希死念慮。

 

これぐらいにしとくかーーーーー

 

ちなみにこの時心療内科で出された薬は

リスペリドン、ハロペリドール、デエビゴ、漢方の睡眠薬。自分的にはあんまり効いてなかったようです。

今日はここでやめると言いましたが,,,,,,,

 

安定の死にたいいいいいいいいが来ていて、でも次自殺未遂したら入院って言われてるので今は理性で頑張っているんですけど、本当に死にたい。うん。朝日迎えたくない。でも入院したくない。さらに今日は両親がいる(両親のことについては後ほど言及します)。今日はひたすらアメブロ記事作って耐えます。耐えれるかなあ?

 

さて、前回の記事でリストカットのことを両親ではなく担任の先生に相談した理由。それは

     

         両親への信頼が私の中でなかったから。私の中で両親をシャットダウンしていたから。

 

プロフィールでも言及していましたが私の母は私たち(妹がいます)が将来自立して一人でも暮らしていけるようにと幼いころから英語と算数を勉強させたりと教育熱心なママでした。ここだけならあーそういうお母さんなんだで済みますが、私の母はその思いが強いが上に勉強ができないと、怒り、お前はバカだアホだと罵り、頭を叩いたりと暴力を振るわれていました。今でも鮮明に思い出します。しかし、それ以外は優しく料理が上手でセンスの良い服を私たちに着せてくれたり自身もそうでした。きっと愛情の裏返しなんでしょうね。今ではそう思います。

 

ですが、私自身もそうですし、私より出来の悪かった妹がひっきりなしに叩かれないてわめいている姿を見ることで叩かれたくない、完璧に勉強をしなきゃという思いが強くなり私の中で完璧主義が出来てしまったのも事実です。

摂食障害になる原因は医学的にはまだ解明されていませんがダイエットはきっかけであってその前に準備因子として幼少期のトラウマや完璧主義が原因の可能性があるとのこと。

 

幼少期のトラウマとして私の頭の中に浮かんだのは母からの一種の教育虐待の他に、もう一つありました。それは両親の仲です。

 

私は父が家から離れた勤務先で働いているので平日は自宅から離れた勤務先の近くに住んでいてもの心ついた時から土日しかいませんでした。そんな父は土日を私たちと最大限にいようと様々なところに連れ出す計画を立てていました。父もまた深い教養がある人なので私の住んでいる県の歴史遺跡をめぐるツアーに連れ出すてくれたりなど今でも心に残っているものが多いです。しかし、そこに母の、勉強できてないから、そこに行ったらだめだ!家で勉強しろ!っと父の計画を曲げるような出来事がなんどもありました。また、せっかくゆっくり休める土日なのに子供たちがひっきりなしに泣いているのも嫌だったんでしょう。両親は子供たちの勉強方針について、果ては勉強に使うお金について言い合いをし一時は離婚寸前までというほど仲が悪かったです。

 

幼いながらも(多分10歳とかかな)私たちのことでパパとママが仲たがいしているということは分かったし、妹は精神年齢が幼かったので自分がなんとかしなきゃという思いが強く、いつも両親の顔色ばかり伺って心のそこでびくびくしていました。

 

 

あの卒業式の日。自分の病気を初めて呪った日。摂食障害になった理由を考えたらどうしてもこのことが頭から離れなくなりました。拒食の時も何でそんなのしか食べれないのと泣いて聞いて私を困らせた日々が頭から離れなくなりました。

 

もちろん私のことを一番心配してくれているのは両親だと頭では理解しています。でも、私のわがままの部分がどうしても両親を許せなくなったんです。私の中で。何で、幼いころからそんなに厳しかったのか。何でそんなにわかりやすく喧嘩してたのか。私たちの気持ちを考えたことはあるのか。心配だといえど病気の私をさらに困らすようなことをしたのか。

 

けして表にしてはいけない感情だと思います、だって愛はあるはずだから。すべて愛の裏返しの出来事だから。でも私のこの静かな怒りは今でも収まっていません。理性を上回る怒りが私の中にあることに自分でも少し驚きますがその思いを理性で抑えなきゃという思いもありません。

 

両親はリストカットのことを最初に担任に相談したことにショックを受けており18で家を出たいという私に許可は出しています。なので後2年の辛抱だと思い両親との生活を我慢していますが,,,,,,,

 

さてここでリスカだけで済めばよかったのですがそうはいかず、、、

 

ではまた次の記事で👋

 

 

 

 

 

本日3本目。今日は調子が良すぎて怖い。うつ病か躁鬱かと言われているのでもしかしたらいわゆる躁状態なのかと思いつつ、、今日はこの記事でやめておこうと思います。

 

さて、卒業式の日、ダイエットはやめようと決めて。自分の好きだったパンとかお菓子に手を出して。

 

   めっっっっっちゃおいしかった。

 

それで終わればよかったんですが、やっぱり私も人間なので(今振り返ってそうやって思えるだけで当時は何で何でってなりながらでしたけど)今までの分をとりかえすように食べ始めました。

 

最初はそれでも体重が増えることが怖くて。ごはん食べた後トイレに駆け込んで指を口に入れて吐いていました。

でも、それがまたみじめで。私、何でこんなことしてるんだろう?って自分が嫌になって。

 

結局吐いていたのは2週間から3週間でやめました。体重が増える恐怖に対して、大丈夫気にするなって思いこませ必死に勉強して。また、そう思っちゃう自分と向き合うことに逃げていました。そう思っちゃうせいなのは病気のせいなのに。でも段々、そういう日常に慣れてきて、高1の夏ごろには普通の食生活を送れるようになりました。

この半年で体重は20キロ近く増えましたが。

 

私の場合、過食はそこまでひどくなかってのですがその後に、落とし穴が待っていたんです。

 

高1の秋。夏の模試で好成績を残せて、文化祭も終えてさあ冬の模試に向かって勉強しようという時期。

 

急に不安に襲われて。私、こんないい成績冬でも出せるかなって。

気ずいたらリストカットをしていました。それまで全然リストカットとか知らなくて、自分でも最初は自分がやっているカッターで腕を傷つける行為がリストカットだと知らなくて。

 

辞められない状況に落ちてるなと自覚しだしたのはリストカットをしだしてから3週間ほどたってからだと思います。

さあ困ったぞ、となって最初に相談したのは、

 

親ではなく学校の担任の先生でした。

 

続きはまた明日👋

 

 

 

本日2本目。

今日はなぜかめっちゃ体調が良いのでかけるだけ書いておこう作戦。このブログは自分のためでもあるので。もちろん、世の中にはこういう風に苦しんでいる人もいるんだよって知ってもらいたいですが。

 

さて前回の続きから。

 

中3になってもカロリー制限をして主治医の食事指導も聞かずの状態。そんな中でも勉強は続けていました。私は割りかし厳しい塾に通っていて(鉄緑会)宿題も高校受験組よりは少ないでしょうがそれでも多くて。食事制限を続けながら勉強をするという日が続きました。

 

話しは変わりますが、私は摂食障害になってから集団や人込みの中にいることがとても苦手になりました。自分と周りを比較してしまうからです。あの子、細いなー良いなーとか思っちゃう、、。なので、学校も苦手になり、毎日遅刻して、週1回や2回は休むという状態でした。今はそんなことは思いませんがそれでも人込みは苦手なままです。

 

そんな私の中3の頃の最難関は

 

           修学旅行

 

考えてみてください。朝から寝るまで学校という集団にいなきゃダメ。さらに食事も自分の許可食が出てくるとは限らない。こんな状態の私が行けると思いますか?NOに決まってるでしょ。

 

ですが、私の学校はちょっと変わっていて、修学旅行の内容が一日目、大学(正確な名前は伏せますがそれなりに知られている大学です)で留学生とdiscussion,二日目と三日目、企業訪問(自分たちでSDGsの中からテーマを決めてそれに沿った研究などをしている企業に直接生徒がアポイントをとって訪問するというものです。)四日目観光という感じで私はどうしても企業訪問だけは行きたくて学校と掛け合って母についてきてもらい二日目の早朝に学校と合流して三日目に帰るという手筈を整えたんですけど

 

    当日コロナになりました。以上。

 

 

こうして運よく?友達に何で来てなかったの?と聞かれても格好の理由ができ最難関は逃れたのですが、次に待ち受けてたのは,,,,,,,

 

    卒業式

 

いやいや、あんな人が密集してるとこに二時間も居れないよ....

前日までは相当悩んでいるのですが、当日さあ行こうとなった時にパニックになって。思考停止。

泣きながら行かないという選択をとりました。

 

 

この日、私はずっと拒食症を恨んでいました。病気になったのは認めたくないけど、これはきっと病気のせいだって。

恨んで恨んでもうダイエットをやめようって思いました。

 

 

だけど、これが過食へ切り替えのきっかけになりました。

 

 

この記事はここで終わり。また今度👋

昨日は体調が良くなく更新できずすみませんでした,,,,,,,

 

今日から摂食障害のことについて書こうと思います。

 

私は中1の秋ぐらいからダイエットを始めました。最初は体重が減ることでも目標が達成されるような気がして部活(テニス)がない日曜日は7,8キロ走って食事制限もし一日1000カロリーしかとらない生活を送っていました。しかし段々制限しているお菓子やパンをいっぱい食べたいという欲求が出てきます。人間として当たり前のことです。しかし、私は当時、その欲求を抑えるために家中の許可食以外を捨てるという行動に出ました。中2の秋ごろの話です。おかしいとおもった両親が私を病院に連れていき出された病名は拒食症。生理もずっと止まっていたため(中1の秋から)すぐに入院ではないがしっかりとした食事指導は必要な状況でした。確か163㎝43キロだったと思います。

 

だけど当時私は自分が病気であることを認めたくなかった。自分はそんなに弱くないと思っていました。また治療した後体重が戻ってしまうことがとても怖かった。せっかく頑張って体重を減らしたのに,,,,,,,という思いがありました。

 

 

その思いが強かったので私は何と心療内科に行くことを拒否しちゃいました(笑)そう、全く行かなくなったんです。

両親は最初私を説得しましたが私の意志が強いとわかると母親だけ病院に行って私の様子を主治医に伝えるようになりました。

 

また、当時、精神面ではなく食事をとらないことで起きる肉体面の異常(ビタミン不足や骨密度の低下)もしっかり把握するためと小児科にも通っていました。こちらは自身も摂食障害を克服した先生だったため信用して私も通うことができした。この先生のお陰で40キロを切ってもすぐに43キロまでは戻したりと入院と言われながらも43キロを維持していました。しかし、それ以上体重を増やすことはできず中3に突入します。

 

続きはまた明日👋