都内では先日、コロナ緊急事態宣言が又出てしまいましたが、関西でも状況が深刻になっているとの報道、僕の田舎なので大変心配しております。
近畿2府4県中でも、大都市を擁する大阪府や兵庫県で特に状況悪化、東京と同時に緊急事態指定をされ、深刻な現状のようです。
旅ブログである当別荘、コロナ禍には大きな影響をうけております。改めて、一日も早い収束を祈り、罹患された方々にお見舞い申し上げ、医療関係の方々に感謝を申し上げます。
こういう昨今なので、過去に撮り貯めておいた写真と取材で作をつくり、乗り切りたいと思います
今作では、過去に撮り貯めておいた”知る人ぞ知る、神戸の遺跡/史跡"を訪ね、『兵庫応援作』とします
今作で歩くのは、神戸市の西方、垂水区・舞子界隈です
ではスタートです
突然ですが、やって来たのは、山陽電車・霞ヶ丘駅です
(※以下、山電と略)
この駅、普通しか停まらないんですが、隣の特急停車駅・垂水駅に待避線が無いため同駅に待避線があり、特急通過待を行うダイヤとなっています(※神戸方からの折返しも可能)
通過していく、↑阪神梅田~姫路間の直通特急
当別荘の山電作で度々登場する、↑各駅のホームに掲出されている大型の”名所看板”
風光明媚で歴史も深い瀬戸内沿いを走る山電は、各駅ごとに名所満載で、この霞ヶ丘駅も↑ご覧の通り、明石海峡大橋のたもとに位置し、『五色塚古墳』という史跡が近くにあります。
今作前半では、この古墳を訪ねたいと思います
改札への地下道には、地元の小学生が描いた絵が
明石大橋や明石のタコも描かれ、地元愛を感じます(※霞ヶ丘は神戸市垂水区ですが、三宮より明石のほうが近い)
同駅は、券売機/自動改札等は完備されてますが、原則無人です。
山電や阪神では、特急通過駅の多くが近年このような"リモート駅"になっていて、管理は主要駅で集中して行い、特段の用件がある乗客には、改札横にあるインターホンで対応します
(※管理駅からリモートで改札機の開閉等も出来る)
駅舎は↑な感じ
なお、本作ラストに、山電でこの日ちょうど走っていた”レア塗装車”をご覧頂きます^
では、駅から古墳へ出発。↑"東へ歩け"との案内板
ちなみに”西 舞子ビラ”となってますが、山電系列の老舗ホテルです
線路沿いを東へ
阪神への直通特急が真横を疾走
駅から10分弱歩くと、住宅地の中に・
突如、↑こんもりと緑の丘が現れました
霞ヶ丘の名所、五色塚古墳です
入場無料ですが、管理はしっかりされていて、現在はコロナ対応のため、見学希望者は事務所に立ち寄り申告/手指消毒の跡入域します
では見学します
↑碑の片隅には・
五色塚の形が、↑彫塑されています。前方後円墳です。
4~5世紀頃、古墳時代の築造とされています(※国史跡)
古墳の上も見学出来ます。
では登ってみます
お~
実際登ってみると、大きさを実感します。
山電/JRの車窓からチラッと見えるので、以前から知ってはいましたが、初めて訪れてみるとその規模に圧倒されます
海にむかって伸びる、↑方部へ
瀬戸内海を望む五色塚、明石海峡大橋も見えます
明石大橋を望むスポットは海峡両側の各所にありますが、ここ五色塚からの眺望は、橋全体が淡路島とともに"適度な距離"で俯瞰でき、知る人ぞ知る絶景です
しかしこの、明石海峡を睨むように鎮座する五色塚ですが、
誰が、何のためにつくったのか?被葬者は誰なのか?未だ不明だそうです
古来から海上交通の要衝であった明石海峡を見下ろす位置にある五色塚。↑の解説板には『地域の有力者ではないか』との記述がありますが、確たる被葬者は不明だとの事。又、古墳内部にあると推測される石室や石棺の調査は、2021時点でもまだ行われていないとの事で、こういう墳墓は皇室関係のかたが被葬者の場合もあり、なかなか全容解明は難しいようです。
そして、古墳のすぐ浜側には山電とJRの線路が並行しています。墳の上から走行する電車も見えます^
墳の長さ約200mとの事で、兵庫県内の古墳では最大だそうです。周辺には住宅地と海が四方から迫る独特のロケーションで、実際以上に広く感じる古墳です
次に、円墳部へ登ってみます
円部の上は・
お~
方部より更に10m程高く、当然ですが眺望もさらにワイド
東へ目をやると、↑須磨浦公園がある鉢伏山が見えます
前述の通り、被葬者が今なお謎の五色塚。明石海峡を望む要衝の地に鎮座し、海風を感じながら見学できる古墳です
ちなみにこの古墳が現在のように復元・整備されたのは1977(昭和52)年との事で、本格的に復元整備がなされた古墳として、日本初の例だそうです
”古墳といえば大阪府や奈良県”という印象もありますが、兵庫県にも多数の古墳が存在します。
当別荘過去作で、大阪・高槻市の今城塚古墳を訪ねましたが(18.8.13up vol.292)、それ以来の古墳登場作です^
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霞ヶ丘駅へ戻ります
阪神特急が気持ちよく通過していく霞ヶ丘駅
次の見学場所へ向かいます。
西へ2駅乗って~
西舞子駅で下車
ここからもう1ヵ所、遺跡を訪ねます
先程の霞ヶ丘と同じく、海に面している駅ですが、改札は山側だけにあり、ここから山側(北)へ向かって歩きます。
↑民営駐車場の看板、”モータープール”が関西っぽい^
西舞子駅から歩15分程、小高い丘がみえてきます
丘の頂上にある、大歳山(おおとしやま)遺跡へ
丘の頂上には、空地が広がっています。
基本的には公園なんですが、片隅には~
縄文~弥生時代の、竪穴式住居の復元があります
周囲には住宅地がびっしり広がり、南側を望めば瀬戸内海が見える、というロケーションは五色山とほぼ同じですが、五色塚ほど海に近くないため、明石大橋もやや遠景に見えます
なお、大歳山遺跡からは旧石器時代~縄文~弥生~古墳時代にまたがる広い年代の出土品が発見されていて、存立していた時期が非常に長かったのが特徴です。
この遺跡を世に紹介したのは、現地看板によると、アノ”明石原人”の化石を発見したとされる直良信夫氏との事です。五色塚よりも知名度は低いので、知られざるレアな遺跡といえるでしょう
(※神戸市指定史跡)
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次は、↑県道を歩いてJR舞子駅まで行ってみます
この道路沿いに、↑ダイエー舞子店&みなと銀行が並ぶ、いわば"ザ・兵庫県"という光景^
(※神戸はダイエー発祥の地、みなと銀行は旧兵庫相銀)
JR&山電の線路がみえてくると、県道はアンダーパスに
線路をくぐると、JR舞子駅
駅前にはバスターミナル、そして明石大橋の巨大な橋脚
まさに明石大橋のたもとに位置するのが、舞子駅です
なお同駅は、山電舞子公園駅&淡路島・徳島方面への高速バスターミナルと接続しています(※後述)
駅の海側は”舞子公園”なので、これから歩きます
JRと並行する国道2号を跨ぐ歩道橋を渡って・
海側へ
海辺へ出ます
この、舞子の浜辺にある、幕末の史跡を訪ねます。
海にむかって、↑大砲の形のベンチが
ここは・
ここ、舞子砲台跡です(※国史跡)
この後行く、舞子公園の西のはずれに位置しています。
開国し、海上防衛が喫緊の課題になった幕末の日本、明石藩は瀬戸内へ来航する外国船の監視と警備のため、明石海峡の両側に砲台(台場)を築造しました
対岸にある淡路島の松帆台場とともに、明石海峡を挟む形で警備にあたり、東京のお台場等と同じ役割を果たしていました。
"海峡"は、今も昔も、海の要衝です
↑発掘調査時の様子を解説する現地板。
台場は全て石組で積み上げられ、全国的には土塁や木組を併用したものも多かった中、舞子砲台は日本唯一、石組だけで築かれたそうで、大変貴重だとの事
天端の石敷の一部は露出保存され、見学できるようになっています
石垣の平面がW字型となる、当時西洋の先端技術を用いて設計されたものだそうです
これから行く舞子公園とは、大橋の橋脚を挟んで反対側にあるため、訪れる人は少なく、知られざる神戸の史跡です
では、先程来名前が出ている、舞子公園へ
明石大橋を挟んで東側です。
巨大な↑橋脚のたもとへ
この舞子公園、ツーリング作で過去一度、Wo号で来ています。
"知られざる裏神戸ツーリング"(vol.258 17.6.12up)の出発地でした。↑の礎石の写真から始まっていました
その作でも公園の概要を簡単に紹介していますが、今作では詳しく、園内を歩いてみていきます
巨大な橋脚の下をくぐります
全長約4kmの明石海峡大橋
対岸の淡路島、さらには鳴門大橋を経由して徳島までを高速道で結び、道路単独橋として世界一の規模を誇ります
公園内には、本四公団(当時)がつくった橋の博物館もあるんですが、今作では割愛します。コロナ収束後、又ゆっくり訪ねたいと思います
公園の一番海側に建つ、↑モダンな洋館。
これは・
『移情閣』という美しい名を持つ洋館です
1915(大正4)年、華僑の別荘として建てられたものです。
八角型の楼閣が印象深い建屋ですが、メインの楼閣が六角形にみえる事から、地元では『六角堂』と呼ばれて親しまれてきました。
元々あったのはこの場所ではなく、近傍にありましたが、明石大橋建設に伴い移設の必要が生じ、1994年から一旦解体に着手。
折しもその翌年、95年に発生した阪神大震災時には、解体されて部材保存されていた状態だったため、倒壊の被害を免れたというラッキーな洋館です
(※震災後、現在地へ移築)
また、この移情閣、コンクリートブロックで築造された日本最初の建物で、国重文に指定されています
現在この移情閣は『孫文記念館』として公開されています。
前述の裏神戸ツーリングの時は入ってなかったので、今作では見学します
では、中へ~
前述の通り、同館は現在、中国大陸で数千年続いた王制を廃した辛亥革命、アジア初の共和国・中華民国(現台湾)設立の立役者の一人、孫文(孫中山)を顕彰、紹介する資料館として使われています。
現在台湾では『国父』として敬慕されている孫文ですが、ではなぜ、彼の資料館がこの神戸にあるのか?ですが・
孫文は日本との繋がりが深く、数度に亘って来日。当時は船便だったため、日本入国は神戸港から上陸しました。
開港以来華僑が多数逗留していた神戸で、孫文は日本での人脈を広げ、日本華僑界も孫文を物心両面で支援しました。
一方、せっかく辛亥革命で発足した中華民国ですが、その後紆余曲折を極め、孫文は2度、日本への亡命を余儀なくされます。
そんな時孫文を支援したのも、神戸の華僑たちが中心でした。
中でも、1924(大正13)年、神戸に於いて彼が行った"大アジア主義講演"は、伝説の演説といわれています。
当時すでにアジアでは最先端の国家となっていた日本にむけ、「欧米列強による覇道ではなく、アジア諸国と協力しあう王道を歩むべきだ」と、争いの絶えなかった当時、『国際協力』という考え方を日本人に対して投げかけました。
この演説の後中国へ戻った孫文は、翌年、北京で生涯を閉じます。
あと、同館の展示で僕的に驚いたのは、↑前述の通り台湾で『国父』と尊崇され、建国の父である孫文ですが、その敵方である現在の中華人民共和国(大陸・中共)でも今も一定の評価を得ている、という事。
昨今の大陸と台湾の対立はよく報道されていますが、その中国が今も、彼に関してはあからさまに批判していない、というのはなかなか興味深いものがあります。
同館展示には↑の通り"讃え、継承する"とまで書かれてますが、それならもう少し、大陸も民主化しましょうよ、と思いたくもなりますが・
ではいよいよ、メインの楼閣部へ
楼閣の1階は映像コーナー
孫文の生涯が学べます。
2階へも順路はつづきます
2階は展示物は控えめ、↑天井の八角型が実感できます^
その他、元々は医師である孫文の一面を紹介した企画展や、彼を神戸から支援した華僑・呉錦堂についての展示等、濃い内容の記念館でした。舞子を訪ねたら見学必須と思います
記念館の窓から望む明石大橋もまたよし
ちなみに同館、元々は神戸の華僑協会が管理していましたが、1983(昭和58)年に兵庫県に寄贈。一般公開されたのはその後との事です。
古来から、白砂青松の美しい海岸だった舞子海岸
現在は一部の松林が再養成され、景勝地だった昔の面影が甦り、明石大橋という新たな景観が加わった舞子公園です
同公園には↑洋館もう一軒、旧武藤山治邸も公開されています。
(※武藤山治(1867-1934) 鐘淵紡績社長、衆院議員等を歴任)
↑又、山治邸の後ろにある白いビルは、霞ヶ丘駅で前述した山電系列のホテル、舞子ビラです
舞子公園、JR/山電の駅からもすぐ近くです。コロナ収束後、訪ねてみられてはとお奨めします
ではその、"舞子の3駅"をおさらいしておきます^
JR舞子駅は先程ご覧頂きましたが、高速舞子BTと、山電舞子公園駅が隣接しています
大橋橋脚の下にある↑のドア、これを開けると高速バスターミナルです。大阪/三宮から出ている淡路島/徳島行の高速バスは、大橋を渡る前、大半がここに停車します
そして、大橋橋脚の横(※JR線の山側)には、↑山電・舞子公園駅
元々普通しか停まらない途中駅でしたが、大橋開通後、高速バス連絡のため特急停車駅へ出世した駅です^
(※JR舞子駅も、それまで普通のみ停車だったのが、同じく淡路島連絡のため快速停車となりました)
再び山電に乗り、ここで今作の"舞子歴史ブラ"、ひとまずお開きにしたいと思います。
で、この後は付録として、せっかく大すきな山電が出たので、ちょうどこの時走っていた"企画電車"をご覧頂きます
現在の山電は↑の通り、クリーム地に赤と黒の帯が入った塗色ですが・(※アルミ車を除く)
昭和期、僕が住んでいた頃の山電は、群青色と濃いクリーム色のツートンカラーでした。
その塗装に復刻した電車が、期間限定で運行されていました
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しばらく明石駅周辺で休憩、夕刻、東須磨駅へ移動。同社HPに復刻塗装車の時刻が掲載されていた(※当時)ので、それに合わせて来ました
復刻車は、同駅17:45発の姫路行普通を担当するとの事。
しばし待つと~
東須磨駅には、小規模ながら車庫があります。
山電は東二見のメイン車両基地のほか、姫路寄りの飾磨、神戸寄りの東須磨の3ヵ所に車庫を持っています。
中小私鉄で3ヵ所車庫を持つのは全国的にも珍しく、神戸&姫路という両端に都市を抱える山電、これら3ヵ所の車庫があってこそ、機動的なダイヤ編成が出来るといえます
お!車庫から、懐かしい色の電車が・
ウン十年ぶりに見るこの色、感涙にむせぶWo
懐かしの、旧塗装車3000系です
僕が住んでいた頃は、特急用の最新型でした
昭和40年代、阪急/阪神との相互乗入開始に伴い新造された3000系。既に半世紀近く経ち、老車になってしまいましたが、この塗色で見ると、特急用として元気に活躍していた昭和期が甦ったようです
明石まで乗ってみます。
復刻車に選抜されたこの編成(3030号他)は、現在残る3000系の中でもリニューアルの度合が最も控えめで、原型を比較的留めていたので選ばれたとの事です。
この↑ベージュ色に細かな模様の入った車内化粧板も昭和時からそのままです。山電では新車(5000、6000系)では単色板に変更しているので、遠からず見納めになります
東須磨駅を発車、走りだしました!
懐かしいカルダン式モーターの音を響かせ、瀬戸内を横目に疾走します
暮れてゆく明石海峡を、車窓から堪能します
夕刻なのに、東須磨始発のためかガラガラの車内、鉄輪のつぶやきが床下から聞こえてきます。至福の時でした
↑冒頭訪ねた、五色塚古墳の横を通過します
↑明石の一つ東隣、人丸前駅です。車窓から天文科学館が見えます。東経135度、日本標準時子午線上に建てられたプラネタリウム、明石のシンボルです
復刻塗装車、暮れていく↑明石駅に到着。
同駅で特急待ちします
JR線と接続する明石駅、夕刻通勤時となったので、沢山の乗換客がホームで特急を待ちます
先程までガラガラだった復刻塗装の普通車、特急車からの乗客や、JRからの乗客が続々と乗り換え、立客もいる状態で明石駅を発車していきました
山電は、神戸~姫路間ほぼ全線がJRと並走していますが、その"並走具合"が明石以東と以西では異なります。
明石以東(※特に明石~須磨間)は、両社の線路が隣接して"全くの並走"なのに対し、明石以西では数キロ離れて走る区間もあり、高砂市や姫路市東部ではいわば"山電独占エリア"になっています。そのため、明石駅ではJR⇔山電乗換客が多く見られます
発車時刻がきました。ホームで見おくります
僕は高校の頃、この色の電車で毎日高校へ通ってました。当時は山電で冷房車が登場し始めた頃で、夏の暑い時期、たまに冷房車に遭遇すると凄くラッキーで喜んだのを思い出します
軽快なモーター音を残し、去ってゆく古豪、3000系
上京してなかなか乗れなくなった山電、さらにすきになった気がします
以上、ラストに個人的思い出に浸ってしまいましたが、歴史と風光に恵まれた神戸市西部、舞子の街ブラでございました。コロナ禍に負けず乗り越えよう!頑張れ兵庫、頑張れ日本、頑張れ地球^
☆関連過去作リンク
vol.258 知られざる”裏神戸”をWo流ツーリング(前編)神戸市唯一の国宝&日本最古の民家 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
vol.320 関東風?の新車!山電網干線 &港町・網干街ブラ (鉄分・街ブラ半々) | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
vol.292 大阪北部地震応援 郡衙、古墳、キリシタン・・歴史深々 北摂・高槻街ブラ | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
(※2024.3 文一部修正)