夏恒例の"帰省がてら"作です
兵庫県姫路、過去当別荘で何作かupしている街ですが・
伝説作(?)、2012年の『姫路モノレール・昭和の夢』をはじめ、書写山円教寺の作や姫路城大修理の作、姫路総社で20年毎に行われる『三ツ山大祭』等、いろいろやりましたが、今作では、あまり観光客は行かない街ブラをご覧頂きます
姫路城のある中心部から南西へ約10km、瀬戸内(※播磨灘)沿岸にある街、網干(あぼし)です
関西のかたなら駅名で聞き覚えある地名だと思いますが、今作では兵庫県を東西に走る私鉄、山陽電車・網干線に乗って行くところからご覧頂きます
その網干線に、山陽電車は最近新車を投入したんですが、これが一部鉄ちゃんの間で『関西私鉄なのに関東風』と話題になってるんですw
一体どう関東風なのか?を、網干線レポートと兼ねて前半で、その後網干の街ブラになります。ではスタートです
大阪に到着、早速↑阪神梅田駅へ(※地下駅)
山陽姫路行の直通特急に乗ります
阪神大震災後から走り始めた、阪神梅田~山陽姫路の本線全区間の相互乗入れ特急、車両は阪神/山陽両社の電車を使ってますが、僕の乗った便は↑山陽5000系です(※6両編成)
淀川を渡り、山陽直特は一路、兵庫県へ
大阪梅田から1時間余、神戸をスルーしw、飾磨(しかま)駅到着
同駅はもう、姫路終点の3つ駅手前です。
この駅から、山電唯一の支線、網干線が分岐しています
↑網干線の電車が入ってきました
今年(2016)導入されたばかりの、山陽で一番新しい車、6000系です
先程梅田から乗ってきた特急車は5000系でしたが、その5000系以来30年ぶりとなる新形式で、これまでの山電に無かった数々の装備が施されています
車内は↑な感じ
車椅子スペースもあり、新車なので勿論きれいで機能的な車内なんですが・
僕個人の感想として、昔から関西私鉄の車両に乗って育った身から見れば、な~んとなく、関西車両独特の繊細さというより、なんかユニットごとにガバッと組み上げたような印象なんです。まさに、関東のJRや私鉄でよくある大量生産した車両みたいな感じも・
山電初、ドア上に付けられた↑液晶TVの画面案内。又、ドアも山陽初の半自動機能付き(※ドア横ボタン)になっています
シートには、↑兵庫県花『のじぎく』の模様、わずかに山電らしさも
さらに、この6000系が”関東風”という所以は、『車内で流れる音』にあります
網干線は、1995年からワンマン化されました。
なので音声合成装置による自動音声案内が流れるんですが、その声の主が、なんと山手線等でおなじみ、アノJR東日本のお姉さんなんです
それをお聞き頂くため、今作久々に↓動画をupしました
https://www.youtube.com/watch?v=PN627fV0-0c
(※↑youtubeへ遷移します)
もう一つ動画です
昨今の電車は、ドア開閉の際に警告音(※ドアチャイム)が鳴りますが、6000系のチャイムは"開く時はJR東海"、"閉まる時は都営地下鉄"に似た音に僕は聞こえます
(※↓同じくyoutubeにリンクします)
https://www.youtube.com/watch?v=4cN_E4SDQdg
いつもは満員の山手線で、「次は~渋谷~」とか言っている同じ声が、田んぼの中をのんびり走る山電で、「この駅で、列車の行き違いを致します」とか言ってるギャップが楽しいですw
網干線は全線単線ですが、途中の5駅全駅に離合線があるため、きめ細かいダイヤ編成が可能です。2016現在、昼間15分ヘッドで運転されています(※直通特急も日中15分間隔なので、飾磨で接続するよう組んでいる)
では、地元の人以外はほとんど乗る事ないであろう、網干線の概要を、乗りながらみていきます
姫路市郊外の住宅・工業地を走る山電網干線。飾磨~山陽網干間、約8kmの路線です。
播磨臨海工業地帯への工員輸送のため敷設され、1941(昭和16)年に全通しました。先の大戦が開戦した年です。
↑は、飾磨から2駅目付近にある夢前川(ゆめさきがわ)、播州にしてはロマンある名前の川ですw^
その2駅目の駅名も、↑夢前川駅
線路は単線ですが、↑の通りPC枕木でよく整備されており、本線と全く同じ快適な乗り心地です。ただ、網干線にATSが整備されたのはなんと1991(平成3年)という近年で、それまでは信号機を確認する運転士さんの目と腕に安全の全てが託されていました
前述の通り、網干線の途中5駅には全て離合線があって行違い可能です。昼間(15分ヘッドの場合)は西飾磨と天満で離合します。前方から3000系のワンマン改造車が来ました(天満駅にて)
↑所々に、複線分の土地が確保されている部分もあります。
現在は神戸~姫路間を結んでいる山電ですが、かつては『岡山までの延長計画』があったんです。実際山電は1971(昭和46)年まで網干~相生間延伸免許を保持していて、僕が子供の頃、姫路駅掲出の路線図には網干~相生間が"計画中"として破線が引かれていました。
そんな経過もあるので、兵庫県のみを走る私鉄にも拘らず、中国地方全体を睨むかのような『山陽電鉄』という社名なんです
・車内でいろんな思いをはせているうち、終点が近づきます
網干駅、終点到着です
網干終点も2線あり、車両故障時や貸切/臨時運転時等、対応が可能になっています
関東風の新車に乗って着いた網干w
飾磨・網干の起終点を含めれば全7駅、約20分弱です
↑山陽網干駅舎。
終端部に建てられた雑居ビルの一角に入ってます
駅前にはバスターミナルもあり、JR網干駅をはじめ、龍野や山崎への中距離路線も出ていますが(さすが神姫バス)、どの線も1日数本です
ここで"JR網干駅"という名前が出ましたが、冒頭書いた"網干といえば関西人は聞き覚えがある駅"というのは、新快速の車庫があり、京阪神からの列車が多数起終点としている、JRの網干駅です
有名なJR網干駅は、ここから約3.5km北にあり、本来の"網干"ではないんです。
網干という地名は本来、姫路城のある中心部から南西へ約10kmにある海沿いの街を指し、『網干の本家本元』はこの山電網干駅の周辺です
網干の街は、海の幸に恵まれていた昔の姫路の名残をとどめる古い街です。この後、街ブラしてみたいと思います^
駅から浜手にむかって行くと、まず目につくのが、ひなびた街にしては多い銀行の数。↑三井住友は元々兵庫県の銀行だった旧神戸銀行が前身の一つなので、県内ちょっとした街には大抵支店があります
みなと銀行(※旧兵庫相銀)や兵庫信金(※姫路3信金の一つ)等、一通りの銀行が軒を連ねています。かつて港町として栄華を誇った網干繁栄の名残です
その”栄華のあと”をこれから歩いてみていきます
先程の銀行が集まっていたのは、↑の国道250号の交差点です。
当別荘過去作に時々登場する道ですが、明石市~岡山市を結ぶR250、国道2号より海側を並行しているため、播州では"浜国"と呼ばれています
浜国道より少し歩けば、↑川に係留された漁船やプレジャーボート。
今も網干には漁港があります
『網干』の名の由来は、漁師が地元の神社祭礼の際に漁を休んで漁網を干し、その祭の別名が"網干祭"と呼ばれたのが始まりと言われるそうです
近年網干でも、街の歴史的価値を生かしていこうという機運も出てきて、案内板も設置されたほか、街おこし中心となる施設も出来ました。
それが↓
↑『あぼしまち交流館』です。
おじゃましてみます
レンタサイクルも完備
特産品物販や休憩所、観光案内もあり、なかなか本格的
播州人なら、"ついに網干にもこういうのが出来たのか!"と思う施設です。網干を歩くなら立寄必須
交流館のすぐそばには、揖保川が流れています。
龍野方面から流れてくる揖保川、龍野は、そうめん『揖保乃糸』の産地でもあります
江戸~明治期の家屋が混在する、今昔融合の街なみ^
街中にポツンとあった、↑"境橋"の橋柱。
境橋とは~
↑解説板によると、この網干は江戸期、小さな街なのに龍野藩と四国の丸亀藩(飛地)に分かれていたとの事。その境にあった橋で、夜間は閉鎖していたとの事です(※川は1985年に埋立られた)
お店も多数見受けましたが、大半はシャッターが閉ざされ、地方疲弊の現実も見せつけられます。
そんな中、↑工事の槌音が聞こえる建物が
残念ながら工事用の覆いが掛けてあって見えませんが、この建物、当地にあった『旧網干銀行』の本店だったそうです。
先程、駅周辺で銀行が軒を並べる光景がありましたが、昔は銀行が本店をおくほど繁栄していたんです
玄関部が丸く縁取られたモダンな洋館で、現在レストランに改装するためのリニュ中だとの事。完成したら行ってみたいです
街中には所々に、↑歴史的な建物を紹介する掲示がありましたが、タイトルが"児童の皆さんへ"となっていて、たぶん夏休みの宿題に『地元の歴史を探索しなさい』という課題が出ているのかもw
まだまだ歩きます
揖保川の支流、↑網干川。ここも船が沢山係留
さらに海へむかって歩くと、家並みが途切れてきます。
そこには~
ダイセル化学工業の網干工場があります。
工業地帯の姫路海岸部には、新日鉄広畑をはじめとする大きな工場が多数。山電網干線も前述の通り、昭和に入り急速に成長した播磨臨海工業地帯への通勤輸送のため開業しました
↑ツタが絡まったプラントが、この工場の歴史を語っています。
・で、このダイセルを訪ねた理由は・
↑同社は創業当時、外国人技師を招請し、その寮とする洋館を建築しました。『ダイセル異人館』と呼ばれ、一般公開されているとの事で行ったんですが・
又々工事中!
今年の当別荘、こういうの多いなぁw
1910(明治43)年築の洋館だそうです。写真はネット等で沢山上がっているので、検索してみて下さい。
気をとりなおしてw、さらに海岸のほうへ
↑は途中で見つけた、"塩田の鎮守祠跡"
工業地帯となる以前、播州の浜辺では、塩田で塩がつくられていました。塩といえば赤穂が有名ですが、姫路市の海岸でも工業地帯になる前は、各地で塩田が存在しました。山電の大塩駅等にも、その名が残っています。
海が近づくと、公園になっています
網干なぎさ公園です
ほとんどが工業地帯になってしまった姫路の海岸に於いて、海が望める貴重な浜辺です
公園からも、↑工業地帯の煙突林立が見えます
その中でも網干線沿線で一番大きな工場は、広畑駅下車の新日鉄広畑で、本線車内や飾磨駅での案内放送でも「網干線は乗換です」とは言わず、「広畑・網干方面は乗換です」という言い方です
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再び古街に戻ってきました
歴史の街、網干にはお寺も点在しています。
↑は大覚寺の山門(※浄土宗)
おじゃましてみます
境内は広々しています。
静かに佇む、↑本堂
コンパクトながらも、本堂はじめ鐘楼、観音堂等、一通りの堂宇が揃った境内。13世紀建立と伝わる古刹で、豊臣秀吉が西国への途次に一泊したり、江戸期には姫路藩より朱印地を与えられたりとある寺でもあります
この街並、まさに"知られざる、もう一つの姫路の姿"です
そんな街中で、↑女の子が立っている石碑を見つけました。
この女の子、『田ステ』ちゃんといいます。
江戸初期の俳人・尼僧です。現在の丹波市に生まれ、晩年、ここ網干で尼寺を建立しました。
彼女の才能は幼い頃より開花し、わずか6才で・
『雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡』という天才的な句を詠んで、周囲を驚かせたとの事
彼女の寺は中心部から少し離れているんですが、揖保川を渡って見に行きます
不徹寺といいます(※臨済宗)
田ステはなぜか、郷里の丹波ではなくこの網干に、全国的にも数少ない尼僧の修行道場を建立して後進を指導し、網干で没しました。
ここ網干を歩いた感想ですが、昨年upした『西日本豪雨応援・倉敷街ブラ』で訪ねた玉島地区と似たものも感じました(18.9.15up vol.294)。
現在は地味な漁港の街という風情の網干ですが、深い歴史を秘めているところが玉島と似ています
時刻も夕方に、そして例によって1作あたり容量制限も近づいてきました
駅へ戻ります
飾磨への戻りは、山電で戦後最大の車両シリーズとなった↑3000系が待っていました
1968(昭和43)年の神戸高速乗入開始に合わせ、乗入相手の阪急・阪神にも負けない車両をと、約20年間にわたって製造され続け、文字通り山陽の顔となった車両です。
現在では5000&6000系登場によって主に普通車の運用に充てられ、一部はワンマン改造の上、網干線でも活躍しています
半世紀近く走り続けている車ですが、山電ではまだまだ働き盛りw
ドア横の手すりが↑少し傾斜してますが、新製当時は珍しいデザインで、斬新だと話題になりました。1964年製造の第一編成は、鉄道友の会からローレル賞を受賞しています
飾磨駅に戻ってきました
網干線ホームは本線上りと下りの真ん中に線があり、どちらへも乗換しやすい構造になってます
山陽電鉄については書き出すとキリがないwので、今作ではこの辺にして、本線については改めて鉄道作でやりたいと思います^
ホームの端にある↑山陽そばさんで、懐かしの味を食べてから大阪へ戻ります(※2023追記:閉店しました)
以上、山電網干線&網干ブラでした^
これまで観光開発など無縁だった、工業地帯の片隅にある網干の街。その魅力と歴史を、住民自らが再発見・情報発信する機運が高まっていると僕は感じました。
姫路城だけでない、姫路の豊かな歴史の一端を網干で感じてもらえたら幸いです^
(※2023.9 文一部修正)