小学校にあがるまでは日本基督教団の教会で育ち、その教会の匂いを今でも覚えている。
大人の礼拝中に子供の祝祷があり、子供達が呼び集められ田村喜代治牧師が手を取って祈って下さった。その手の温かさも覚えている。
小学校にあがり引っ越しをして二番通福音教会へ通った。日曜学校の村田隆二先生が大好きで日曜日以外もよく遊んでもらった記憶がある。
大人になり母親になってナザレン教会へ導かれた。久保木勁牧師のメッセージによって私の信仰は堅く強められたと思う。
その後聖公会に通うことになった時には神様の妙なる配慮を感じ、この私がこれほどまで深く愛されている実感を持つ事が出来た。
私は様々に彷徨わされたが、全てに神様のご計画と目的があっての聖霊の導きであり、何一つ無駄なことは無かったと確信している。
多分誰でもどの教会でも、同じなのだと思う。例えどのような形、何色のピースであれ、神様が選び聖霊が導き、キリストによって繋ぎ合わされ一つの教会へと建てあげられる。「その時」に不可欠な一つであるはず。
様々な人が集まっている、生い立ちも強さも弱さも皆それぞれ違う。一人ではなく二人以上であれば、それぞれの役割は違ってくる。それは神様が創造されたこの世界に置かれたすべての生き物の役割と同じように。そこに自ずと制度や組織が形成される。自ずと発生はするが、そこにも神様の御意思が働かないわけはない。自然の秩序が美しく整然としているように、教会の制度や組織も、人の意志や欲は排除された聖なるものである筈だし、あるべきだと思う。すべての教会が(全ての教会の制度や組織が)、聖書と言う聖なる岩の上に建てあげられている、「一つの教会」であり、神様が望んでおられることである。
恵みも呪いも受けた「人」と言うピースがそのすべてを形成しているのだから、どれ程優秀な人材が集まろうと「欠け」は生じる。どれだけ成熟を目指していても未だ未成熟であり、不自由さを伴う。成長過程の痛みの経験も産みの苦しみも、喪失の感覚も、「命」のある教会の故であると思う。内部で起こりうる、また傍から垣間見える葛藤や窮地に、祈り続ける力はまさに「愛された愛」同様の愛をもってでしかなし得ないのかもしれない。当事者になれば私たちは絶えず山のような不満を抱え込み、海のような不安に溺れたりする。当事者でないなら祈る思いは与えられ、差し伸べる手も備えられ、励ます声にも恵まれている。全て神様の配慮の中あるのだから。
本当に教派を超えて、どのような形であれ色であれ、尊敬と親愛をもって、結び付けて頂けるだろうか…小さな教会の中でなされている神のみ旨が、大きなこの「一つの教会」の中においても成されないはずがあるだろうか?いずれ御国で一致するものを、今それが成されていないのなら、その障壁となり阻んでいるものは果たして何だろうか?
「一つの教会」から湧き出る命の泉がこの世界の隅々にまで湧き流れ出て、この星全体が聖なる星となりますように。