聖書釈義の基本中の基本は、文脈をわきまえることである。文脈とはなにか?下の数列のXは何か?

2,4,6,8,X,12,14,16・・・
 

 X=10であるとすぐにわかるだろう。等差数列である。文脈とは数列のようなものである。課題となっている文の前から、課題となっている文の後へと流れているその流れが文脈である。課題文の解釈はその流れを妨げないものであることが肝心である。前後の流れから、その課題文を解釈するのである。
 私がこれまで最もしばしば耳にしたり目にしたりしてきた、文脈を外れた聖書解釈の典型を2つ紹介しよう。一つ目はこれ。
 

「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29
 

 何人かの牧師や宣教師が、「私は自分がこの使命を果たしていけるだろうか?と恐れを感じた時、このみことばに励まされ、支えられてきました。神様がこの伝道者としての召命を与えてくださった以上、それは変わることはない。そして、その使命を果たすために必要な賜物は与えてくださるのだ、と。」というふうな証しをなさったのである。
 だが、ローマ書11:29の前後を合わせて引用してみよう。

「25,兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、26,こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。27,これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。28,彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。29,神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。30,あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31,それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。」ローマ11:25‐31

 ここで言われている賜物と召命とは、神がイスラエル民族にお与えになった救いを意味していることは一目瞭然である。伝道者の召しとは縁もゆかりもない。「賜物」とか「召命」ということばを辞典で調べて、いくつかの語義があったとすると、あの意味もあり、この意味もあると考えてはならない。これもあれもというのは連想ゲームであって釈義ではない。語義のうち、文脈にそったものを一つだけ選びとらなければならない。
 もう一つの例を挙げよう。主イエスが弟子たちとの別れが迫ったときに言われたことばである。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。」ヨハネ14:18

 このことばを主の再臨の預言であるという解釈を聞いたことがある。この個所だけ見れば、そのように見えなくはない。しかし、前後の流れを見てみよう。

「16,そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17,この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。18,わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19,あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20,その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」ヨハネ14:16-20

 主イエスが「あなたがたのところに戻ってきます」と言われたここでの意味は、もう一人の助け主、真理の御霊を送ってくださることを意味している。真理の御霊が来られると、「あなたがわたはわたしを見ます。」とあるように、主イエスを見ることができ、「わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいするこが、あなたがたにわかります。」というのである。主イエスが天の父の御許に行き、聖霊を私たちに与えてくださっているので、私たちは二千年前弟子たちが主イエスと親しく交わったように、今も主イエスと交わって生きることができる。再臨の話とは別の話である。再臨を否定したいわけではない。主イエスは確かに他の箇所で再臨の約束をなさったが、ここでは再臨の話をしているわけではないと言いたいだけである。

 しかし、このような文脈から遊離してしまった解釈であるにもかかわらず、その説教で会衆がいわゆる「恵まれる」ことが起こる場合がある。なぜかといえば、それはその聖書個所では教えられていない真理であるけれども、他の聖書箇所において教えられている真理であるからである。説教者は他の聖書箇所が教えている真理を、その聖書箇所に読み込むという間違いを犯しているのだけれども、語られている真理自体は正しいので、会衆が「恵まれる」ということが起こるのである。それならそれでいいのだろうか?この場合、不幸中の幸いで、聖書全体を見た時には、虚偽を伝えたことにはならない。しかし、会衆に対して聖書解釈の仕方については間違ったことを伝えてしまったということになるから、その点については反省が必要である。