「肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」ローマ8章3節 2017訳

 

 ローマ書8章3節は、キリストがとった人性に関する重要な箇所である。鞭木由之氏は著書『パウロの福音を生きる』の中で、この箇所を根拠として、キリストはアダムの堕落後の人性、すなわち「原罪をもつ人性」をとられたという特異な主張を展開している。しかし、この解釈は、聖書全体の証言および歴史的キリスト論との整合性において相当無理がある。
 氏の主張の要点は、次のとおり。

第一に、キリストは堕落後の罪をもつ人間性をとった(p437)。(水草:堕落後の罪とはすなわち神学の伝統のことばでいえば原罪にほかならない。)

第二に、それにもかかわらずキリストが実際に罪を犯されなかったのは、神性が人性を支え、罪の誘惑を退けたからである(p438)。

第三に、キリストが私たちと同じ罪の肉を持つからこそ、その御子の罪の肉が処罰されることによって、罪の肉において罪が敗北した(p449)。

1.聖書自体から
(1)「罪深い肉と同じような形」という慎重な表現
 まず、ローマ書8章3節の「神は御子を罪深い肉と同じような形で(エン・ホモイオーマティ・サルコス・ハマルティアス)遣わされた」というもって回った表現に注目したい。ポイントは、「罪の肉」と断言せず、「罪深い肉と同じような形(ホモイオーマ)」という表現を用いていることである。この「同じような形」は、キリストが真の人間でありながら、罪そのものには属しておられないという点を示す慎重な言い回しと理解するのが自然である。

(2)他の聖書箇所は何というか?
 この理解は、ヘブル書の証言とも一致する。ヘブル4章15節は、「すべての点で私たちと同じように試みに遭われたが、罪は抜きにしてである(コーリス・ハマルティアス without sins)」と語る。

 さらに、ヘブル7章26節では、キリストを「敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司」と呼んでいる。ここでは単に「罪を犯さなかった」という行為だけではなく、その本性が「悪も汚れもない」ことが強調されている。ローマ書8章3節の「罪の肉と同じような形」という微妙な表現が、キリストには本性として原罪はないがまことの人となられたことを示すことは、もっと率直で明瞭な表現をしたヘブル書の上記の二か所を読めばあきらかである。
 他にも、キリストが罪なきお方であったことを告げる聖書箇所はたくさんある。
 

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」2コリント5:21
「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」1ペテロ2:22
「あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。」1ヨハネ3:5

 

(3)根っこにある釈義の方法の問題
 思うに鞭木氏の特異な主張は、聖書釈義の方法に原因があるように思われる。すなわち、必ずしも明瞭でない箇所は、他の明瞭に書かれている箇所によって解釈するという「信仰の類比(analogia fidei)」をことさらに避けるという姿勢である。
 確かに聖書各書、各箇所の釈義は、その箇所・その書の文脈の中で進めることが第一原則ではあるが、それが不明瞭な場合に他の箇所を参照すべきである。analogia fideiは、旧新約聖書66巻の究極の著者は唯一の聖霊であるという事実に基づいた有効な聖書解釈なのである。

 聖書学は18世紀啓蒙主義時代に始まった、神学諸科の中では比較的新しい学問である。近代聖書学は、啓示や奇跡を認めない自然主義を前提とする。また、古代教父や諸信条など教会の伝統的解釈も規範としてではなく、歴史資料の一つとして位置づける。近代聖書学において、聖書は諸々の古文書の集成にすぎない。ゆえに、近代聖書学の釈義の方法においてはanalogia fideiは無効である。

 鞭木氏は厳格な聖書信仰に立ち、近代聖書学を批判して来られた畏敬すべき聖書学者である。だが、近代聖書学に対峙するために、近代聖書学の土俵にあがって論じる必要がある中で、聖書釈義の方法において近代聖書学の方法の影響を受けたせいなのか(?)、analogia fideiをことさらに避け、古代教会、宗教改革の成果を軽視することによって、ローマ書8章3節の特異な主張が出てきてしまっているように見える。

 

2.鞭木説によって生じる諸問題
(1)鞭木説にしたがえば、キリストが贖いを必要とする存在となってしまう
 西方教会においては、原罪とは、神の前の罪責という法的面と、神に逆らう堕落した性質・罪への傾向性という両面から理解されてきた。もしキリストがこの意味で原罪を持っていたとすれば、キリストご自身も贖われなければならない存在となる。そうであれば、罪人の贖い主ではなく、自らも贖いを必要とする罪人となってしまう。これは、上にも掲げた新約聖書が一貫して証言する「罪なき神の小羊」というキリスト理解とは両立しない。

 

「(あなたがたが贖い出されたのは)、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:19)
 

(2)鞭木氏によれば、キリストが私たちと同じ罪の肉を持つからこそ、その御子の罪の肉が処罰され、罪の肉において罪が敗北したという。つまり、氏の理解によれば、キリストの人性(肉)が罪があるものでなければ、犠牲には適さなかったというのである(pp448,449)。だが、これは聖書における犠牲の思想と明らかに異なっている。旧約時代に神が求められた動物犠牲の条件は、傷なきものであることであった。傷なきものが犠牲になるのでなければ、罪を償うことはできなかった。だから、新約聖書は一貫して「傷もなく汚れもない子羊のようなキリスト」と述べているのである。
  

(3)キリスト単性論に近づく
 さらに、「神性が人性を抑えていたので罪を犯さなかった」という説明にも神学的な問題がある。カルケドン信条以来の正統的キリスト論は、キリストの神性と人性は「混同されず、変化せず、分割されず、分離されない」と教えてきた。もし神性が人性を常に制御し、人性そのものに存在する罪への傾向を押さえつけていたのであれば、人性は本来の働きを十分に果たしていたとは言えなくなる。キリストの受肉後は神性のみだとした単性論とまでは言わないが、単性論に近づくことになる。
 福音書は、キリストが第二のアダム(第二の人間の代表)として、人間として父なる神に従われたことを強調している。したがって、キリストが誘惑に勝利された理由は、神性が人性を制御したからではなく、罪のない完全な人として、聖霊によって父に完全に従われたからと理解する方が、聖書全体の教えと調和するのではなかろうか。
 ちなみに、罪とのかかわりにおける人間の状態は、①罪を犯しうる罪なき、創造における状態、②罪を犯さないことができない罪ある堕落後の状態、③キリストを信じた罪を犯さないことができる恩寵の状態、④罪を犯すことができない完成の状態に整理できるが、キリストがとられた人性とは創造におけるアダムと同じく①試みを受けて罪を犯しうる罪なき状態であったが、聖霊に満たされたイエスはその誘惑を退け、勝利したのである。

(4)堕落後の世界に属する人間性とは
 キリストがある意味で「堕落後の世界に属する人間性」を取られたのは事実である。キリストは疲れ、飢え、苦しみ、死ぬことのできる人間性を取られた。ゆえに、へブル書がいうとおり、キリストは私たちの弱さに同情できるお方である(へブル4:15)。しかし、それは道徳的に堕落した人性を意味するのではない。キリストが受肉において摂られたのは苦しみと死を経験する弱さを帯びた体であり、原罪を抱えた堕落した本性ではない。この理解は、ローマ書8章3節の「罪深い肉に似た姿」という表現とも一致する。キリストは私たちと同じ苦しみを担われたが、罪人ではなかった。
 以上のことから、ローマ書8章3節は、「キリストが堕落後の原罪を帯びた人間性を取られた」ことを教えているとは言えても、「原罪を有する人性を取られた」ことを教えていると言えない。「原罪」という言葉が歴史的教会において用いられてきた意味を保持する限り、「キリストは堕落後の罪(つまり原罪)をもつ人間性をとった」という表現は、聖書の明白な証言とも、古代教会以来の正統的キリスト論とも矛盾する。

むすび ローマ8章3節の真意

 ローマ書8章3節は、キリストが私たちと同じ人間となり、苦しみと死を経験されたことを示しつつ、「罪深い肉と同じような形」という慎重な表現によって、その人性が原罪に汚されていなかったことを同時に表現しているのである。