同時代のユダヤ教文献との類似性から新約聖書を読むという方法は、N.T.ライトに限ったことではなく、近代啓蒙主義に立つ聖書学の普通の方法である。ただライトが奇妙なのは、彼は超自然主義者でありながら、近代啓蒙主義の方法を採用して矛盾を感じていないらしいことである。まあ考えてみれば、K.バルトもそうだったのだし、その追随者は山ほどいるのだから、さして珍しくはないか。

 近代聖書学とは、近代啓蒙主義に立つ哲学者が考えた世界観と認識論を前提とする聖書学ということである。啓蒙主義哲学者の世界観というのは、理神論的世界観ということである。彼らが考えた「神」とは、自動機械としての世界を創造した後は、世界に介入することは一切しないという神である。カントの認識論のことばで説明しなおせば、人間の科学的認識が可能なのは感性と悟性をもってキャッチできる現象界の事柄に限られていて、神・魂・自由といった感性と悟性でキャッチできないものは人間の科学的認識の対象ではないということである。世界(現象界)は閉じた系であって自律しており、神による啓示もなければ奇跡もないという前提で聖書を読むのである。啓示がないとすれば、聖書各巻は、同時代の文化から生じたものだということになる。だから、同時代文化との類似性から聖書各巻を読めば正しく理解できると考えるのである。ある人はバビロン神話との類似性、ある人はカナン神話との類似性の観点から創世記を読み、ある人はギリシャ思想との類似性からヨハネ福音書を読み、ある人は第二神殿期ユダヤ教との類似性からパウロ書簡を読むわけである。

 ところで、およそ書物というものは、その書物にふさわしい読み方をしなければ、正しくそれを読解することはできない。もし啓蒙主義哲学者の立てた理神論的前提が正しくて聖書各巻が同時代の文化から生じたものであるならば、同時代の文化との類似性を重んじて聖書各巻を理解するのが適切である。しかし、その前提が間違っており聖書各巻が神の啓示によって与えられたものであるとすれば、同時代の文化との類似性を重んじてそれを読もうとすれば、読み間違えてしまうことは必然である。ところが、聖書を読めば一目瞭然であるように、神は理神論の哲学者がいうような、英知界に閉じ込められているような死んだ神ではない。無から万物を創造し、これを摂理をもって治め、時にご自分が定めた自然法則を強化したり、あるいは停止したりして奇跡を起こし、さらに、自ら人となってこの世に住まわれ、死者の中からよみがえり、やがて世界を裁くために来られる生ける神である。したがって、死んだ神を前提として生ける神の聖書を読むことは、よみがえったキリストを墓の中に捜すくらい不適切である。主イエスは、ギリシャ哲学の影響を受けたサドカイ派の人々におっしゃったように、啓蒙主義哲学者に対しておっしゃるだろう。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(マルコ12:24)

 もっとも、啓蒙主義的世界観にすっかり染まったリベラルな神学者たちとはちがって、N.T.ライトが無からの創造や奇跡や受肉や復活や再臨を信じていないというわけではない。ただ彼の同時代ユダヤ教を新約聖書解釈に用いる方法は啓蒙主義的世界観に拠っているのが、奇妙だ、自己自身において矛盾していると言っているのである。

 

 神はどういう方法をもって啓示を与えられるかを食事に譬えて言えば、同時代文化という器に、ご自分のメッセージを載せて、差し出してくださるのである。ゆえに、聖書には同時代文化との類似性が見られるが(そうでなければ同時代の人に読まれようがなかったので)、同時に、同時代文化との相違性があり、その相違性にこそ神からのメッセージがある。したがって、文化との類似性に執着すると、神からのメッセージを読み取ることができなくなる。

 また現代文化の観点から聖書を読もうとするのも不適切である。例えば、出エジプト記20章以降に律法の書があり、そこには奴隷に関する記述が出てくる。奴隷制がない現代の観点から、律法の書に記された奴隷制度を批判してもなんら得るものはないだろう。正しい読み方は、出エジプト記が書かれた同時代の周辺文化における奴隷の扱いと、律法の書における奴隷の扱いとを比較して、両者の間の相違点に注目するときに、神からのメッセージを読み取ることができるのである。

 以上のように、文化との関連で新約聖書を読むにあたっての避けるべき不適切な態度は、第一に現代文化の枠組みから安易に新約聖書をうんぬんすることであり、第二に新約聖書成立の同時代のユダヤ教文献との表面的類似から新約聖書を解釈することである。

 筆者は先に同時代資料を読むことよりも、聖書そのものを文脈をわきまえて、丁寧に読むことが何よりも大事であると書いた。それでもなお新約聖書を読む上で同時代資料を参考にしたいならば、次のような態度をもってしなければならない。同時代ユダヤ教との類似性を見つけたからと嬉しがらずに、両者の本質的な相違は何かを探求することである。その時にだけ、文化から生じたのではない、神からの啓示としてのメッセージを読み取ることができる。パウロが「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)とまで言っている福音を、「いやいやパウロは同時代のユダヤ教から受け、教えられたものなのだ」と前提して読もうというのは、不適切にもほどがある。