神は聖書を霊感するにあたって、時代と場所を隔てたさまざまな40人ほどの記者たちの能力や性格や文化的背景や時代状況を用いて、それぞれの巻物を書かせられた。この事実から、聖書釈義には根本的な2大原則が引き出される。

 第一の聖書釈義の原則は、その巻物の記者が第一の読者に伝えようとしたことは何だろうか?と意識しながら読み取ることに努めることである。「聖書はあなたへの神様の愛の手紙である」としばしばいわれるが、ある卷を記した聖書記者は、今聖書を読んでいるあなたという人間に向かって、その書を書いたわけでない。聖書記者は、彼と同時代に生きていたある読者に向けて何かを伝えようとして書いた。コリント書であればパウロはコリント教会の兄弟姉妹を第一の読者と想定して書いたし、ルカ伝と使徒行伝であれば記者ルカはテオピロを最初の読者として想定して書いた。この第一の釈義原則は、一般の書物においても同じである。たとえば源氏物語は、紫式部が宮廷の女房たち、特に中宮彰子を第一の読者と想定して書いたということである。

 聖書釈義の第二の原則は、「信仰の類比analogia fidei」と呼ばれる聖書にだけ通用する釈義の方法である。聖書の中のある巻のある個所の意味が不明瞭である場合、聖書の中の他の箇所を参照することによって、その意味を理解するということである。一般の書物であっても同じ記者が書いた他の書物を参照することはありえるが、たとえば夏目漱石の作品のある個所の意味が不明瞭だからといって、清少納言の作品を参照するということは、普通ナンセンスである。(もっとも短歌や俳諧において「本歌取り」という先行作品からことばを拾って味をつけるという手法が用いられている場合は別である。)だが、聖書においては、創世記のある個所をそれが書かれてから千年以上隔たった他の記者が書いていることばによって読み取ることが可能である。なぜなら聖書66巻全体の著者であるからである。

 以上、一見矛盾するように見える二つの釈義原則をどちらも大切にしなければならない。近代の聖書学者たちは第一の釈義原則にのみ執着し、聖書の各書をその書かれた時代の文化的背景に還元することが「学問的」であると思い込んでいるが、実際には彼らは学問的というよりも理神論に陥っているのである。つまり、超越者である神がこの世界に介入して啓示をすることを否定しているから、聖書各巻がその時代の文化の産物であるという扱いをするのである。第一の釈義原則に固執すれば、当然ながら聖書全体の統一的把握はありえない。

 他方、第一の原則を無視して第二の原則に傾きがちなのが、保守派・福音派である。聖書全体を啓示されたのが神であるから、聖書の内には神の啓示された真理の体系があるので、「信仰の類比」が成り立つとしている点は正しいのであるが、神が時代と場所を隔てたさまざまな40人ほどの記者たちの能力や性格や文化的背景や時代状況を用いて、それぞれの巻物を書かせるという方法を採用されたことを軽視しているのである。第二の釈義原則にのみ固執すれば、聖書の多様な豊かさを享受することができない。

 三位一体の神が啓示された聖書は、多様にして統一的な書物であることを十分に享受するためには、これら二つの釈義原則をわきまえることがたいせつである。