はじめに
二十歳前に教会に通い始めたころ、礼拝の中で「使徒信条告白」があり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という文言を読んで、「ピラトはイエス様を処刑した責任者として二千年間名指しで非難されて、たいへんだなあ。なにも自ら進んでイエス様を処刑したわけではないのに。」と思いました。なぜ、教会は「ポンテオ・ピラトのもとに」と告白し続けるのでしょうか。
一つには、ピラトという歴史上の人物名を挙げることによって、主イエスの十字架の出来事はフィクションではなく歴史の中で起こった事実であるということを明白にするためです。歴史の中に神の御子が来られたことを否定する古代のグノーシス主義に対する区別のためでしょう。
もう一つ大事なことは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というくだりは、キリストと国家、教会と国家との難しい関係を示しているということです。聖書を注意深く読んでみると、神の民とこの世の権力、つまり「教会と国家」の問題は、旧約時代も新約時代も繰り返し出てくることに気づくでしょう。再臨が近づく「産みの苦しみ」の時代に、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と主イエスは予告されました。民族主義・国家主義が勃興するとき、私たちはサタンがどのように国家権力を操り、神の民を惑わすのか、その策略を見抜く力を備えておくことが必要です。(本稿は2017年『舟の右側』に掲載されました)
もくじ
1 国家は神のしもべだが、神聖ではない
2 愛国心は特異な歴史現象である
3 国家の分と越権
4 政教癒着と神のさばき
5 政教癒着の黒幕
むすび―私たちの務め―
1 国家は神のしもべだが、神聖ではない
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」(ローマ13・1-6)
ローマ書13章で「上に立つ権威」と呼ばれているのは、剣を帯び、税を徴収している権威ですから(ローマ13・4、6)、当時でいうならば、ローマ皇帝を頂点とするこの世の支配機構のことです。当時、ローマ皇帝はもちろんキリスト教徒ではなく、ローマ神の神祇官長という職務を兼ねていました。にもかかわらず聖書は、この世で「上に立つ権威」は天地万物の真の神のしもべであるというのです。神は、教会には霊的領域における派生的主権を委ね(マタイ16・18、18・18)、国家には世俗領域における派生的主権を委ねておられるのです(ローマ13・1-7)。
神が「上に立つ権威」を立てたというのは、「王の命令は神の命令であり、王は国民に生殺与奪の権を持つのだ」という王権神授説を意味しているのでしょうか。国家の権限というのは神聖で絶対的なものだという意味で、ローマ書13章は国民に権力者への服従を求めているのでしょうか。前世紀のドイツでナチスが支配した時代、国家は「創造の秩序」に属する神聖なものであるとされ、家庭も職場も教会も国家のためにあるとされました。また、我が国では戦前の国家主義の時代、教育勅語において万世一系の皇統が神聖なものであり、道徳の淵源でもあると教えられ、お国のために生きて死ぬことこそ最も素晴らしい人間の在り方だと教えられていました。
では、聖書は権力の始まりについて、なんと教えているでしょうか。創世記1、2章によれば、創造において神がお定めになったことは、安息日礼拝と家庭と仕事の三つです。他方、国家の始まりは、人類堕落・大洪水後の創世記9章に見ることができます。
「 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
人の血を流す者は、人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9・5-6)
また地上における最初の権力者はニムロデという人物であって、彼は最初シヌアルの地の支配者でしたが、やがて覇権をメソポタミア全域に拡大したと記録されています(創世記10・9、10)。創世記は次の11章で、彼の根拠地シヌアルに、人間の傲慢の象徴ともいうべきバベルの塔が築かれ、神に罰せられたと教えています。
このようにしてみると、神は確かに国家権力をご自分のしもべとして立てていて、一定の権限を与えて社会に秩序をもたらす手伝いをさせているけれども、それはもともと創造に秩序に属する神聖なものではなく、堕落後にやむなく立てられたものであり、かつ、ともすれば傲慢になって暴走する傾向があるものだと教えていることがわかるでしょう。悪者を罰する剣の権能を託された国家は、人類堕落以前には無用でした。しかし、人類が堕落し皆が利己的にふるまうようになり、剣をもって社会正義を守る必要が生じたので、神は摂理によって剣の権能を託した国家を立てられたのです。
国家は確かに神が立てたしもべですから、これを重んじるべきですが、国民の生きる目的とか道徳の淵源とされるような神聖なものではありません。もし、「神聖」という形容を使うとするならば、国民の神礼拝と家庭と仕事という生活が神聖なものであって、これを正常に行うことができるために立てられた手段が国家です。国家のために国民があるのでなく、国民の生活のために国家が用意されたというのが聖書の教えです。
それにしても、イスラエル国家の場合、真の神が預言者を用いて油注ぎを行って王が立てられましたが、古代の異教の国々の王たちは、神の油注ぎを受けたわけではないのに、なぜ「神のしもべ」としての務めを果たしうるのでしょうか。文化人類学者によると、世界中の王権というものは、祭司王として始まったものだそうです。事実、メソポタミアの王たちやローマ皇帝は神々の祭司であり、エジプトのファラオは現人神でした。邪馬台国の女王卑弥呼も、大和朝廷の大王(おおきみ)ないし天皇も祭司王でした。偽りの神々に仕える祭司である王が、どのようにして民の生活する社会の秩序を維持する働きをするように神は摂理的に導かれたのでしょうか。少し考えてみました。
おそらく次のようなことです。戦国時代に下剋上で成り上がった者も、自分が権力の座に着けば、善を勧め悪を罰し社会秩序を維持する働きをするようになります。そうしなければ、自分の権力ある地位も危うくなるからです。まあ、お粗末な思考実験にすぎませんが、申し上げたいのは、国家権力というものは、創造の秩序に属する神聖なもの、道徳の淵源、国民の生きる目的となるようなものでは決してないということです。国家主義とは国家を絶対化する偶像崇拝にすぎませんから、「国が国に向かって立ち上がる」国家主義の時代、私たちはそういうものに酔っぱらわないように注意すべきです。
2 愛国心は特異な歴史現象である
国家主義者は、国家を神格化している人々ですから、当然のように国民に国を愛することを要求します。別に国家主義者ではなくて、私たちは近代国民国家に暮らしているので、愛国心というものが時代を超えて地域を超えて普遍的な価値だと思い込んでいる人々が多いと思います。しかし、愛国心とは本当にどの時代のどの国の人も当然抱かねばならない普遍的な価値なのでしょうか。
歴史を振り返ると、実際には、愛国心というものは近代国民国家が成立して後に生じたものです。欧米でここ200年ほど、日本ではわずか150年ほどの特異な歴史現象にすぎません。ヨーロッパで近代国民国家が成立したのはフランス革命(1789年)以後のことです。それ以前、中世の封建制社会では、民はそれぞれ領主に属していました。そして、領主たちが立てているリーダーが王でしたから、民は領主とつながっていましたが、王とは直結していませんでした。やがて、十字軍遠征など歴史的条件によって領主階級の力が衰えて、国王が力を増して行き、中世社会が崩壊していくにつれて、徐々に民に国家の意識が生じたと言われます。
しかし、その時代には、土地と民とは国王の財産であり、結婚のとき、王妃は持参財産として領土と領民を携えてきたので、国境は王の結婚で移動し、また王たちが戦争をするたびに移動しましたから、その地域の住民たちは確たる愛国心など持ちようもなく、持つ必要もありませんでした。昨日までは自分はフランス人だったけれど、今日からはイギリス人であるということがままあったのです。近代国民国家の定義である「一定の国境線に囲まれた地域の一定の国民から成る」という国家が存在しなかったので、住民たちは愛国心など持ちようもなく、持つ必要もありませんでした。また当時、戦争は、国王直属軍と王と契約した軍人貴族の仕事であって、庶民は戦争における人殺しなどという血なまぐさい仕事をする必要はなかったのです。
ところが、フランス革命で国王と領主階級をギロチンにかけてしまうと、社会の構造は、民と中央政府が直結するかたちとなりました。ここに「国民」が生まれ、国民政府が国家の所有者となりました。そして、民は初めて「フランス国民」として、押し寄せる反革命軍を撃退するために、自ら銃を取らねばならなくなります。ここに国民教育をもって祖国愛に燃える「国民軍」が編成され、戦争は悲惨な総力戦になっていきます。従来の戦争は、プロの軍人の仕事でしたからほどほどのところで切り上げましたし、兵士の動員にも限りがあったのですが、国民国家が成立して徴兵制が敷かれると、命がけの兵士たちをいくらでも調達できるようになったのです。愛国心における国家は神格化され、戦死は殉教的なものとみなされるようになります。
わが国も似たようなものです。幕藩体制の江戸時代には、この列島は三百藩に分かれていて、その一つ一つが「くに」でした。当然、「日本国」は意識されず、したがって「日本国民」もいませんでしたから、愛国心も成立していません。しかも、領民は殿様の所有であり、戦争を担当したのは武士階級だけですから、戦争という血なまぐさい仕事は庶民とは無縁でした。明治政府は、大日本帝国を欧米列強の脅威に対抗し、列強の一つとするために、天皇を中心とした中央主権化を図ります。そのために、版籍奉還・廃藩置県がなされ、列島住民には国民教育をほどこし、国民皆兵が実施されます。精神面での統合は、伊藤博文がキリスト教国のキリスト教に倣って作ったと言われる国家神道を背景とする国民教育によりました。そして、教育勅語は国民教育の経典でした。こうして列島住民は、「一旦緩急アレバ」天皇のために喜んで人を殺し殺される愛国心を持つことが要請されるようになります。ある人たちが夢想する大戦前の「美しい国」の姿です。
このように愛国心というのは近代国民国家成立に付随した特異な歴史現象ですから、普遍的・絶対的な価値ではありません。
3 国家の分と越権
(1)国家の分
国家は神の立てた権威であり、神のしもべであるとすれば、神に託された任務とは何なのでしょうか。それは、先にも少々触れましたが、堕落し利己的になってしまった人間が住んでいる世界を治めることです。ローマ書13章は、国家の務めを二つに分けて説明していると言えるでしょう。
一つは、社会の秩序の維持です。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。」とあります。つまり、国家は神から託された剣の権能を用いて、善をなすものたちを守り、悪をなす者たちを処罰することによって、社会の秩序を維持するのです。
国家のもう一つの務めは、徴税することによって富の再分配を行うことである、と読むことができるでしょう。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」
近代国家は福祉国家的になっていますので、国家としての業務は非常に多岐にわたるものとなっていて、社会秩序の維持と徴税による富の再分配だけを挙げたのでは足りないと思われるでしょうが、考えてみると、意外と今日も行われている様々な国家の仕事は、これら二つに仕分けすることができるのではないでしょうか。とにかく、国家は国民の生活が正常に営まれるために、これらの世俗的業務を果たすことをその任務としていることを、為政者も国民も認識することが大事です。
(2)国家の越権
しかし、聖書が教えている重要なことは、国家権力者はしばしばサタンの誘惑に敗れて傲慢になり、この与えられた世俗的業務という分を越えてしまうということです。なぜでしょう? アダムの堕落以来、人間にはむさぼりという罪があって、その許された分に満足することができないからです。権力者というものは、世俗的領域だけでなく聖なる領域にも踏み込みたくなり、国民の行動だけでなく心までも支配したいと望み、一時的な政権維持でなく永久政権を望み、あるいは狭い国土で満足できずに覇権の拡大を望みがちなものです。そのために、国民の思想・宗教までも支配しようとするのです。
列王記第一12章にその例が見られます。ソロモン王の息子レハブアムが王となったとき、長老たちは大事業家であったソロモン王時代の重税を軽減して民の負担を軽くすれば、民は王を支持するでしょうと助言しました。しかし、レハブアムは長老たちを過去の人として退けてしまいます。そして、「君は父上に勝って偉大な王となるのだから、民にさらに重税を課するがいい」という意味の馴染みの若造たちの助言に従いました(10,11節)。これによって民心は王から離れて、実力者ヤロブアムが王国を割って、北にイスラエル王国を建てることとなりました。しかし、北の初代王となったヤロブアムには恐れがありました。それは神殿がエルサレムにある以上、イスラエルの民の心はいずれレハブアムになびいて、自分は殺されるに違いないということでした。そこでヤロブアムは、国家宗教を創設します。まず出エジプト伝承にも登場した金の子牛神話に基づいて偶像(出エジプト32章参照)を造り、建国神話を捏造しました(28節)。ついで、北イスラエル国家宗教の聖地をベテルとダンに定め、ここに神殿を建立し、ここに先の子牛像を安置し民に参拝させます(29、30節)。さらに、「高き所」と呼ばれた偶像礼拝施設をベテルとダンに設置し、国家宗教普及のため祭司たちまで任命しました(31節)。そして、祭日を8月15日に定めたのです(32-33節)。
ダニエル書3章も開いてみましょう。バビロンの王ネブカデネザルがドラの平野に巨大な金の偶像を立てて支配下に収めた諸民、諸国、諸国語の者たちに拝ませたのも、類似した行為です。違いは、ヤロブアムが統制しようとしたのは自国民であったのに対して、ネブカデネザルはこの金の巨像崇拝によって他民族・他国民をも統制しようとしたという点です(ダニエル3・1-7)。
かつて明治政府の伊藤博文が、植民地主義欧米列強の国家宗教化したキリスト教に代わるものとして国家神道を創設して国民の精神的統合を図ったことはヤロブアム的な振舞いであり、そして、太平洋戦争時には、侵略した東アジア、東南アジア諸地域に神社を造り参拝させたことはネブカデネザル的な振舞いでした。
ローマ皇帝は国民に皇帝崇拝を強要しました。フランス革命の指導者は理性の女神を教会に持ち込んで礼拝させました。また、スターリン、毛沢東、金日成、ポルポトたちが行った共産主義による思想統制も同じことです。黙示録13章によれば、こういう傲慢な振舞いをする国家権力者の背後にはサタンがいて、彼に特別なカリスマ性を与えているのです。
「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(中略)そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう』と言った。」(黙示録13・2、4)
神は国家をご自分のしもべとして立て、これを用いて社会秩序を維持されています。しかし、国家権力はときに自らを絶対化して、国家主義に堕してしまいがちです。私たちは警戒していなければなりません。
ローマ帝国はコンスタンティヌス大帝の時代にミラノ勅令によって、キリスト教を準国教とし、テオドシウス大帝のときに国教とします。皇帝教皇主義(カエサロ・パピズム)というかたちです。ただしこの場合、皇帝が教会の公会議の招集権を持ちましたが、皇帝は決議の最終的決定権を持つことはしませんでした。たとえば、ニカイア会議を招集したコンスタンティヌス大帝はキリストの神性を割り引くアレイオス派を推していましたが、会議の結論はキリストの神性を十全に肯定するアタナシオス派のものでした。
とはいえ、国教会主義の場合、教会の体制の維持はしやすくなりますが、その歩みにはさまざまな困難な課題が伴ってきます。
3 政教癒着と神のさばき
聖書を見ると、エジプトの神々、バビロンのネブカデネザル王の金の像崇拝、カナンの地のバアル崇拝といった異教の崇拝について、神はかなり放置していらっしゃるように見えます。しかし、主ご自身に対する礼拝に世俗権力者がその分を超えて介入してくると、主はただちにこれを打ちました。主が直接の当事者だからです。
たとえば、ギルガルでペリシテ人との戦があったとき、預言者サムエルが捧げることになっていた全焼のいけにえをサウル王が自分の手で捧げたときに、神は彼を王位から退けると告げました(Ⅰサムエル13・8-15) 。祭祀権を王が侵害したからです。同様の裁きが、南ユダ王国の王ウジヤにも下っています。ウジヤ王は対外政策も農業政策も成功したとき、高慢になって神殿で香を焚くという祭司の務めに手を出しました。ウジヤは神に打たれて生涯いやされることはありませんでした(Ⅱ歴代誌26・1-23)。俗権が民の思想統制のため異教の神々を利用することは悪しき業ですが、それ以上に悪しきことは、俗権が真の神への礼拝に介入して来ることです。
律法が未完成だった時、モーセは祭司王的預言者でしたが、それでも、アロンを祭司として立てました。やがて、王が立てられる時代になると、王が高慢にならないために、生涯律法を身近に置いて読むことが求められました(申命記17・18-20)。古代イスラエルは神政政治ですから、近代国家におけるような政教分離原則はありませんでしたが、それでも王権の祭祀権侵害は禁じられたのです。俗権は教会の教えと礼拝のことがらに介入してはなりません。もしそうするならば、早晩、国家に滅びを招くことになります。
また逆に、教会が俗権にすりよって教勢拡張を図るならば、これまた悲惨な結果を招きます。近世の絶対王政の時代、プロテスタント諸国とカトリック諸国は、ウェストファリア条約(1648年)での終結に至るまで、三十年間にわたって悲惨な宗教戦争をしました。戦争が終わったとき、キリスト教会の信用は失墜していました。キリスト教に失望した知識人たちは、人間理性を絶対化する啓蒙主義に走りました。教会に託された剣はただ御言葉のみです。教会は俗権の越権行為に警告を発する務めはありますが、俗権と癒着して勢力拡張を図るべきではありません。
4 政教癒着の黒幕
どうして国家権力はしばしば宗教に介入したり癒着したりするのでしょうか。その黒幕は悪魔です。主イエスが荒野で四十日にわたって悪魔の試みを受けられたとき、悪魔は次のように誘惑しました。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」(ルカ4・6、7)
権力者が永久政権や覇権の拡張の野心を抱いていると、悪魔が誘惑してきます。古代エジプトの王は自ら太陽神の息子を自称し、メソポタミアでは王は祭司でしたが、今日でも権力者たちは神々の宮に参拝し、拝み屋や占い師を相談役として抱えていたりするものです。権力者は時に自分の魂を悪魔に売り渡してでも、己が権力の拡大を望むのです。こうした権力と悪魔との関係について、さらに詳細に啓示しているのは黙示録13章です。
「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。」(黙示録13・1)
海から上ってきた獣は、ダニエル書7章と比較対照してみると、ローマ帝国ないしローマ帝国の流れを汲むある全体主義的国家の指導者であることがわかりますが、その獣の背後には竜(悪魔)がいます。悪魔がこの第一の獣に力と権威を与えるのです。この海からの獣と呼ばれる権力者は、悪魔から地上の権力と栄光を得たのです。
黙示録13章には、「地からの獣」も登場します。「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた」(11、12節)。地からの獣は、小羊キリストのような姿をしながら、その口から出る教えは竜のことばです。つまり、地からの獣とは、偽キリスト教の預言者です。ある権力者が野望を抱くとき、神々の名を名乗る悪魔にその魂を売り渡し、悪魔から力と位と大きな権威を得ます。さらに権力者は、野望を達成するために偽預言者を用いて、民を思想・宗教統制するのです。
この構図は歴史のなかで繰り返されてきました。古代ローマ帝国では、皇帝は自らを神格化し、帝国民に皇帝像とローマの神々の像にいけにえをささげることを要求し、拒否する者を処刑しました。250年、デキウス帝は州知事と治安官に、神々と皇帝の神性とにいけにえをささげるのを監督せよという勅令を発しました。皇帝崇拝証明書が残っているので、ここに紹介しておきます。
「アレキサンドル島の村のいけにえ監督長官へ、アレキサンドル島の村に住むサタブスの息子アウレリウス・ディオゲネスより。年齢72、右まゆの上に傷跡あり。
わたしはいつも、神々にいけにえを捧げてまいりました。またいま、長官の前で、勅令の言葉に従っていけにえを捧げ、神酒を注ぎ、いけにえの肉を味わいました。このことを証明していただきたく、ここに要請致します。敬具 アウレリウス・ディオゲネス、本人提出
アウレリウス・シラスのいけにえを捧げるところを目撃したことを証明する。
皇帝カイザル・ガイウス・メッシウス・クイントゥス・トラヤムス・デキウス、ピウス、ペリクス、アウグストゥスの第一年、顕現月の第二日(250年6月26日)」
フランス革命でも同様のことが起こっています。1793年6月から1年間、ジャコバン派は独裁政治を開始しました。首班はロベスピエールという理想主義者の弁護士です。彼は公安委員会に権力を集中して、封建的特権を廃止し、最高価格令をもってインフレを抑制し、徴兵制を採用して国民軍を編成し、男子普通選挙などを含む民主的内容のジャコバン憲法を制定する一方で、あまたの人々を「反革命罪」でギロチンに送りました。反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人、死刑に処せられた者は約1万6千人、それに内戦地域で裁判なしで殺された者の数を含めれば約4万人に上るとみられます。「恐怖政治」と呼ばれる所以です。
フランス革命期、教会はどうしていたのでしょうか。革命の指導者たちは、革命勃発の1789年以後、聖職追放・処刑と教会破壊を進めてきましたが、93年11月には全国的に礼拝の禁止と教会閉鎖を実施し、11月10日にはノートルダム大聖堂で「理性」の神を祀る宗教儀式を行ない、94年6月8日には、ロベスピエールは新フランスの大司祭として「最高存在と自然」を祀る祭典を挙行したのです。「国民」は、独裁的権力を持つ中央政府の下で、平等に「愛国心」教育を受け、平等に国税を払い、平等に「祖国」のために戦う国民軍兵士として徴用される近代の全体主義国家が出来上がったのです。革命政権による自国民大量粛清と教会弾圧という系譜は、ロシア革命、毛沢東革命、ポルポト革命へと続きます。
我が国の先の戦前・戦中の国家主義下の状況も類似のものでした。その時代の偽預言者とは国家神道を信奉する文部省であり、ごく一部の抵抗者を例外として国家神道の軍門にくだった当時のキリスト教会もまたその仕事の一端を担っていたのです。戦時下の日本基督教団では、2月11日の紀元節(今でいう「建国記念の日」)を前にした主の日、次のような教会学校教案が用いられたことがありました。
「 紀元節(有難いお国)
[金言]義は国を高くし罪は民を辱しむ。(箴言十四・三四)
[目的」1.紀元節を目前に控へ、祝ひの意味を判らせる。
2.正義の上に立って居る祖国を知らしめて童心にも、日本の子供としての自重と、神の御護りによってこそ、強くて栄えることの出来ることを知らしめる。
[指針」皇紀二千六百二年の紀元節を迎へ、今日、展開されて居る大東亜戦争の使命を思ふ時、光輝ある世界の指導者としての日本の前途は、武器をもって戦ふより、遥に至難な業であることを痛感するものであるが、手を鋤につけた以上、万難を突破して完遂せねばならぬ唯一の道でもある。
翻って子供を見る時、小さい双肩に、重い地球が負はされて居る様にさへ感ずる。今こそ、揺るぎない盤石の上にその土台を据えねばならない時で、吾等に負はされて居る尊い神の使命である。祈って力を与へられたい。
「教授上の注意]大和の橿原神宮の御写真か絵及びその時代の風俗を表はす絵、金鵄勲章の絵か写真などを用意して見せてやり度い。時間があれば勲章を作らせてもよい。(後略)」
これは「皇紀二千六百二年(西暦一九四二年、昭和十七年)二月号」の『教師の友』(日本基督教団日曜学校局)の教案です。真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したのが前年の12月8日のこと。あの時代がいかに異常な時代であり、国家神道がキリスト教会をもいかに深くまでむしばんでいたかということを知って慄然とさせられます。教会学校教師たちには、この教案に基づいて子どもたちに神社参拝を奨励し、子どもたちの戦意高揚をすることが期待されたのです。当時は、教会の礼拝堂の中にまで神棚を設置することが強要され、牧師の説教は官憲にチェックされるという異常な状況でした。
現在、自民党政権は、改憲によって、かつて国家神道祭儀を「国民儀礼」として国民に強制した時代に逆行させることを意図しています。現行憲法は、かつて国家神道がこの国を戦争へと暴走させたことを反省して、以下のように政教分離を定めています。
「第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
これに対し自民憲法改正草案(2012年)は、第20条第三項を次のように書き換えています。
「3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。【傍点→】ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。【傍点終り】」(強調・傍点筆者)
意図していることは明瞭で、「社会的儀礼、習俗的行為」として国務大臣の靖国神社参拝を合憲化することはもちろん、国民に神社参拝を強制することをも合憲としようとしているのです。これは憶測でなく自民政権の一貫した目標です。2006年4月、文部科学大臣であった町村信孝氏はテレビ番組で「教育基本法を変えて小学生が伊勢神宮に行けるようにしなければならない」、「神道を日本人の宗教心として教育に基本的に入れるべきである」と発言しているのです。2008年には文部科学省が都道府県教育委員会の職員を集めた説明会で、「学校行事として靖国神社を訪問してよい」とする政府答弁書を配布しています。
むすび キリスト者と教会の国家に関する任務
我が国に民族主義が勃興し、獣の国が出現する時にも、私たちは聖書に啓示された国家問題に関する理解を身につけておきたいものです。キリスト者と教会の職務を祭司・預言者・王の三つに整理しておきます。
1 キリスト者として基本的態度
「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」(Ⅰペテロ2・17)
態度として大事なことは、「愛をもって真理を語る」ということ、また権威者に対する敬意です。私たちは、主のゆえに、王や総督に敬意をはらうべきです(Ⅰペテロ2・13、14) 。ダビデは、狂気のサウル王さえをも「主が油注がれた方」としてあくまでも重んじました(Ⅰサムエル24・3-6)。
私たちや私たちの子どもが神社参拝を強要されるようなことがあったならば、当然、キリスト者として拒否すべきです。主イエスはおっしゃいました。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10・32、33)小説家が夢想した偽キリストならばいざ知らず、本物のキリストは、「『私のことなど知らない』と言うがいい」などとはおっしゃいません。
しかし、迫害者を憎んで復讐すべきではありません。悪に対して悪を報いず、「善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころ」です(Ⅰペテロ2・15)。
2 祭司として
「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平和で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2・1-4)
国が全体主義化するとき、その背後にはサタンの動きがあります。この戦いは血肉を敵とする政治的戦いではなく、悪魔を敵とする霊的戦いです。したがって、私たちは神に祈ることが第一に重要です。右の御言葉に命じられているように、教会が国家の統治者のために祈る祭司としての任務は、次の二つです。
①為政者が、神のしもべとして「民の福祉と悪の抑制」という職務に専念し、私たちが敬虔に、威厳をもって平和で静かな一生を過ごせるように、とりなし祈ること。
②権威者の救いのために祈ること。彼らもまた救われるべき惨めな罪人です。
3 預言者として
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」(エゼキエル3・17)
キリスト者の預言者的任務とは、神の御言葉を伝えることです。御言葉の務めは第一に福音宣教です。しかし、対国家的ということで言えば、キリスト者は国家の過ちに神の言葉をもって警告する任務が与えられています。剣を取るべきではありません。「とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。」(黙示録13・10)「そのとき、イエスは彼に言われた『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます』。」(マタイ26・52)むしろ、キリスト者は「愛をもって真理を語る」べきです。
また、預言者の言葉は権力者への嘆願ではありません。神のしもべである「上に立つ権威」に対して礼節をわきまえつつなす、神の言葉による権威ある警告です。
ただし、聖書の事例から、この預言者の務めが常に全てのキリスト者に与えられているとは言えないでしょう。平時、教会は「山の上の町」として世界の光でなければなりません。しかし、信仰への弾圧が厳しい時、あくまで「山の上」にとどまるために、反キリストに妥協して偽キリスト的宣教をするよりは、地下にもぐって真実の光を灯し続けるほうが良いのです。しかし、預言者として召しを受けた者は、公然と神からの警告を告げなければなりません。
4 王として
「人に従うより、神に従うべきです。」(使徒5・29)
王の職務としては、上に立つ権威に主が託された社会秩序の維持と、格差是正という職務のために政治に参加します。選挙において、あるいは自ら政治家や役人として職務を遂行するにあたって、神がこの世の権威に託された職務をわきまえることです。また、キリスト教会は、自らの「信仰上の独立」を守るために政治的な場でも発言をする必要があります。
聖書において、聖徒たちが上に立つ権威の命令に背いても守り通すべき神の命令であると認識していた信仰上の独立に関わる事柄は、①まことの神のみを礼拝することつまり偶像礼拝を拒否することと(ダニエル3・1-8) 、②伝道をするということです( 使徒5・27-29)。
もし教会が「信仰上の独立」を放棄し、神の言葉を国家権力の下に置くならば、かつてのように教会自身があの「地からの獣」つまり偽預言者に成り下がることになります。そして、結果的には国家主義の暴走を許して、教会に対するばかりか国家に対する神の裁きを招くことに加担することになります。教会の「信仰の独立」のための戦いは、結果的には国家を歴史の審判者である神の怒りの裁きから守り、祝福をもたらすことになります。