「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」使徒20:27(新改訳第三版)

 使徒パウロはエペソの長老たちとの訣別のあいさつの中でこのように語っている。ここには使徒が説教をするにあたって心がけていたことが記されている。それは、<神のご計画の全体を伝える>ということである。神のみ旨のある部分は語り、ある部分は語らなかったり、ある部分だけを強調して、ある部分は軽く扱ったりすることがないように気を付けていたということである。つまり、神のご計画全体をバランスよく伝えることに留意していたということである。なぜか。
 別れにあたって使徒が懸念していたのは、偽教師がエペソの教会に入り込むこと、あるいは、長老たちの中からも偽りの教えを語る者が起きて来るのではないかということであった。
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」(使徒20:29,30)
 たとい聖書から説教をしていても、その一部のみ偏重するときに、偽りの教えとなってしまうのである。異端と呼ばれるさまざまの教えは、異教との混合だけでなく、聖書解釈のアンバランスから生じて来る。だから聖書解釈にあたっては、神のご計画の全体を意識しながら、解釈をしなければならない。聖書全巻の著者は聖霊であり、聖霊が各巻の記者たちを測り知れない知恵をもって導いて書かせたからである。

 神のご計画の全体をわきまえて、当該テクストを解釈している説教者の説教であれば、安心して聞くことができる。こうした弁えのない説教者の説教は、情熱的に祈り、当該テクストについてどんなに微に入り債を穿った研究をしていようと、またどんなに雄弁であろうと、危なっかしくて聞いていられない。
 では具体的に神のご計画の全体をわきまえるにはどうすればよいのだろうか。神のご計画全体をバランスよく把握する方法には、論理的体系をもって聖書を把握する組織神学的方法と、時間的・歴史的順序をもって把握する聖書神学的方法がある。組織神学と聖書神学をもって神のご計画の全体を鳥瞰しつつ、各書・各章・各段落・各節を解釈するのである。