先日の勉強会から
参照箇所;ヨハネの福音書5章2~9節
エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。
〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、
水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、
その人に「なおりたいのか」と言われた。
この病人はイエスに答えた、
「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。
わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。その日は安息日であった。
長年患っていた病気を癒されたら、人はどう変わるだろうか…
神が誰かを癒し、その人に望まれることは、
「ごらん、あなたはよくなった。もう罪を犯してはいけない。
何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れないから」(同14節)と言うような事。
「もう罪を犯してはいけない」と言うのは、悪いことしちゃだめだよって事柄ではなく、
「私についてきなさい」と言うような事。
なのにこの癒された男は癒して下さった方のことを、「知らなかった。」(同13節)
しかも、二度目に出会ったとき「もう罪を犯してはいけない」と言われたのに、
彼はそのままイエス・キリストを敵視しているユダヤ人の所に行ってしまった。
そもそもが男は最初から「誰も助けてくれない。」という他人頼りで心の中には不満が渦巻いていた。
信仰を持つ事を「神に頼る」ことと勘違いされている人は多いが、
神は「私に頼れ」と命令されている訳ではない。
「私の所に来なさい(戻って来なさい、帰って来なさい)」と仰っているだけ。
しかも神自ら近づいて来て下さっているのに、気づかないでいる人が多い。。。
まずは気づいていない自分に気づくこと。
『わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。』ヨハネの福音書1章16節