ヨハネによる福音書4章16節
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
イエス・キリストはスカルと呼ばれる地方にある井戸辺で一人の女と出会いました
そこで女は彼から声をかけられ『生命の水』の話を聞き、「夫をここに呼んできなさい」と促されました。
けれども彼女は今までに5回結婚しており、いま一緒に住んでいるのは正式な夫ではありませんでした。
「私には夫はいません。」と彼女は答えました。
女が自分の経歴を言わずとも、イエス・キリストには全て分かっていて、
この現実を目の当たりにした女が眼の前にいる『その人』こそ救い主だと知るようになり、
人目を避けて暮らしていたにもかかわらず、街なかへ出ていき伝道者に変えられて行く…
一般的にはこの箇所から、こんな感じのメッセージがされます。
井戸辺に水汲みに来た女は持っていた水瓶を放りだし街へ行き伝えた、
それら人のなかに果たして『夫ではない夫』がいたでしょうか?
それは想像することしか出来ません
。
ただ「ここに呼んできなさい」と言う言葉が残されているだけです。
もしも女の過去を言い当て、御自分が主である事を示すためなら「呼んできなさい」でなくても良かったはずです。
イエス・キリストは「ここに呼んできなさい」と言われました。
私は今朝目が覚めてふいに『そこ』に気付いて涙があふれました。
亡夫とお付き合いしていた時に二人の牧師から「別れなさい」と言われたのですが、
何故かそれが『主』からの言葉に感じられなく、別れることが出来ず、
長い時間を『そこにある教会』から離れて生きることを余儀なくされました。
苦悩の時でしたが、私自身が気付けずにいました。
主は「別れなさい」ではなく「呼んできなさい」と言われていたのに、
私は「別れなさい」と言う人の言葉に縛られ、
「呼んできなさい」と言うイエス・キリストの御声を聞き逃してしまいました
思えば、彼は私を礼拝に車で送る時に「これは僕の仕事です。」と言っていた。
教会のバザーに誘うと躊躇なく付いて来てくれた。
誘えばきっと礼拝にも来てくれたのです。(確信はないけれど。)
聞く耳を持てない私でも主は深く私を愛して下さって、
その私を教会へ送り届ける使命を持っていた亡夫を、主が蔑ろにするはずがない…
けれども、気付けずにいた私達の罪も、主の前に告白したいと思う。
乾いている者は来るがよい。生命の水が欲しいものは、価なしに飲むがよい。ヨハネの黙示録22章17節