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 ヒマジンノ国

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今年のコンサート評を最後にして、年内はブログを終えたいと思います。

 

今年は9回コンサートに通いました。以前も書きましたが、自分は仕事の予定がせいぜい3か月先ぐらいまでしか分からないので、中々本当に行きたいチケットが取り辛いです。

 

そんな中でも、自分なりに色々工夫して、コンサートに通いました。

 

以下はその感想です。あくまで素人の私見ですので、内容はご容赦ください。

 

印象に残っているのは、ミュンヘン・フィルとソヒエフによる「ブルックナー交響曲8番」と、新国立劇場の「トスカ」です。他にもノットによる「大地の歌」、マリー・ジャコによる「ブラームス交響曲4番」も気に入りました。

 

 

↑、ジョナサン・ノット。個人的には、現代的感覚とロマン派の感覚をうまく融合している感じがしています。

 

 

↑、マリー・ジャコ。女性の指揮者を初めて聴きました。躍動感のある指揮ですが、音はきつすぎず、柔らかく鳴っていた印象がありました。

 

以上4点は満足した演奏会でした。ピアノのコンサートについては先日書いたので、割愛します。

 

ミュンヘン・フィルとソヒエフのブルックナーは、賛否ありまして、「X」(旧ツイッター)ではそれなりに肯定した意見が多かったです。アメブロではネガティブな意見が多かった気がします。

 

ブルックナーについての論評は未だに揉めることが多いので、先も書きましたが、あくまで以下は僕自身の個人的な見解ということでお願いします。

 

正直ブルックナーの大作を、コンサートで初めて聴くということもあり、その音像の大きさなど、初めての体験となりました。壮大で、音の大きさを必要とする曲ですから、1度実演で体験したかったのが今回実現できて良かったです。

 

演奏は中々のスロー・テンポで、特に第1楽章にそれが顕著でした。ミュンヘン・フィルはチェリビダッケがかつて音楽監督だったこともあるので、ブルックナー演奏には定評があるところです。スロー・テンポというのはチェリビダッケの代名詞みたいなもので、このソヒエフの演奏も、初めはそのチェリビダッケの演奏が頭をよぎるような演奏でした。

 

ソヒエフのブルックナー |  ヒマジンノ国

 

スロー・テンポになると、音楽は細部がクローズアップされ、全体のまとまりが弱くなる場合があります。チェリビダッケの演奏なども、気を許すとそんな感じになりそうな演奏法でした。ソヒエフの演奏もそれを彷彿とさせるような、テンポに思えました。

 

 

↑、トゥガン・ソヒエフ。現代最高の指揮者という人も多いみたいです。

 

ただ、当然ながら、チェリビダッケと全く同じではなく、ソヒエフ流のブルックナーだったと思います。他のSNSで自分が書いた文章を再録します。

 

「先日のソヒエフ、ミュンヘンのブルックナー8番はネット上では賛否両論。自分はポジティブに捉えます。またソヒエフの演奏をチェリビダッケと較べる話題が多く、皆同じことを考えるんだと感じました。自分も初めはチェリビダッケみたいだと感じました。

しかし、チェリビダッケは、彼の演奏哲学の、内声を膨らませて、響きの豊かさを獲得するやり方が、偶然?ブルックナーと合致するので、名演になるのだと思います。彼の場合、曲想よりも響き作りを優先させて、解釈を嫌います。だから時折、響きそのものがぶっきらぼうに聴こえさえします。

しかしソヒエフは、楽曲を自分はこう読む、という姿勢がはっきりしていて、全編に文脈を感じました。ソヒエフ流の読み込みがあるブルックナーで、ぶっきらぼうなところはなく、ミュンヘン・フィルの響きの美しさも相まって、自分には貴重な体験でした。

また生のミュンヘン・フィルの響きは、旧EMIのチェリビダッケ録音集のように、枯淡に枯れた印象の音ではなくて、このアルトゥス盤のように、みずみずしい豊かな音でした。」

 

かつて、評論家の遠山一行氏が次のようなことをおっしゃっていました。

 

「チェリダッケは独特な美学をもっているわけでしょう。楽譜というのは出発点にすぎない、お料理の手引きみたいなものだという。演奏家というのは結局は自分のしたいようにしていいと僕も思ってはいるけど、しかし、最後まで作曲家の大切な部分につきあっていなきゃいけない。最後に作曲家から離れたって、それは仕方がない部分があるけれども。楽譜は出発点だけだと言われちゃうと困るんだ。彼の場合はそういうところがある。後は自分の音楽にする。」(宇野功芳編集長の本から)

 

これは的を得た意見だと自分は思います。彼は独自の哲学を持ち、「オーケストラで音を鳴らす」という行為を、「楽譜」を離れて正当化した指揮者だと思います。

 

チェリビダッケのLP |  ヒマジンノ国

 

音楽の現象学 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事、チェリビダッケに関する記事2件です。

 

上の記事の中でも述べていますが、指揮者が「音を鳴らすこと自体が芸術」という意識に目覚めた、ともいえるのかもしれません。晩年のカラヤンなども同じですが、長く専門に指揮者を務めればありうる話だと思います。チェリダッケの場合はそれを「現象学」や「仏教」の思想で、補強しています。また現代の指揮者の多くは彼らの影響を強く受けており、ネルソンスやティーレマンなどの録音を聴いていても、これらの指揮者の影響を受けているとしか思えない時があります。

 

チェリダッケの場合、ブルックナーに関しても「曲の意味」を追うというよりは、「音を鳴らす」ことに集中しており、その彼の芸風がブルックナーと合致しているからこそ、効果が大きいのだと思います。だから曲の場所によっては「意味」が欠落して、「ぶっきらぼう」に聴こえるのだと思っています。その分、音響の立派さを優先します。

 

さて、いつもながら前置きが長くなりましたが、ソヒエフの場合は、彼はそのような「鳴らすこと」に集中するよりは、彼自身がはっきりと「自分の眼」で読み込んだブルックナーであり、チェリビダッケのような音の立派さはないかもしれませんが、初めから最後まで自分は「こう読む」という姿勢が一貫しており、そのおかげで連続した文脈が備わった演奏でした。

 

その「解釈」も決して曲想を離れたものではなく、その場その場に応じた工夫があったと思います。幾分内省的で、柔らかさを基調としながらも、壮大さも兼ね備えた演奏だったのではないでしょうか?アダージョの頂点も極めて美しく、しかし鋭すぎない響きで大変感動しました。

 

細部にこだわった、という意味においてはチェリビダッケにも似たところがあったと思います。

 

しかし、自分みたいな感想を書いている人がいないので、ちょっと心配になって少し調べたのですが、似たような感想を書いた人がいたので、勝手に引用させていただきます。

 

 

↑、北京で同じ演目を聴かれたという方の感想です。自分としてはほとんどつけ加えるもののないぐらい同じ意見です。このツアーでは東京のほか、北京、上海で同じ曲目を披露したそうです。正直、自分と同じ意見の方がいて、ちょっとほっとしました。

 

 

↑、この方も書かれているように、終楽章の第1主題の展開部直前の再現も、上下に振れるよりは、横に横溢した響きを広げたように聴こえ、今まで聴いたことにない解釈を聴かせました。テンポをゆるぎなく取ったせいでしょう。この方のいう通り、後半はギアチェンジした場面もありました。

 

ブルックナー8番初稿(1887年稿)と、この決定稿(ハース、あるいはノヴァーク稿)の1番の違いは、第1楽章をはっきりとした「悲劇」として書き直したことだと思います。レーヴェに理解されなった、第8の初稿、第1楽章は彼の成功作である第7の延長線上のように書かれており、とりとめのない、いいたいことが分からない内容になっています。そのおかげで、後に続く楽章の意味が見いだせず、聴き手は途方に暮れてしまいます。

 

しかし第1楽章を悲劇に書き直したことにより、かの巨大な第3楽章が、その悲劇に対する癒しであることがはっきりします。これほど深い、癒しというのも珍しいほどの内容です。そして回復したブルックナーは、終楽章で再び、活力を取り戻し、巨大な歩みを始めます。

 

終楽章におけるコーダは、この音楽の全楽章の回顧が見られます。ベートーヴェンが第9の終楽章冒頭で行った、他の楽章の回顧を彼は第5シンフォニーにおいて真似をしましたが、ブルックナーは第8においてそれを終楽章の最後に置き換えました。

 

終楽章のコーダにおける回顧は、これは既に「初稿」のときから書かれていた内容です。

 

この「初稿」を聴く限り、第1楽章の回顧は音楽をコーダに上り詰めさせる、経過区として機能しており、ブルックナーの計画性をうかがわせます。しかし先の「初稿」は、曲全体の、起承転結がはっきりしないせいで、このコーダも単なる思い付きのように聴こえてしまうのです。

 

しかし、改訂された決定稿は、当然のように、第1楽章の回顧は心に刺さるような悲劇に書き換えられており、これによって、遂にこの巨大な音楽の伏線の回収に成功するわけです。

 

そのコーダにおいては、第1楽章の心に刺さるような悲劇の後、スケルツォの主題がまるで、夕日を背景に、輪郭をはっきりさせた、アルプスの頂のように、ゆっくりと、巨大に姿を現します。そして、緊張感をはらんだ、厳粛な静けさの中、第3楽章の主題が、この曲の結末へ向けて準備を始めると、音楽は異様な俯瞰的構図となり、気の遠くなるような印象を聴き手に与えていきます。まさに「神の視点」を思わせるような場面です。

 

同じような構図は、彼の第4交響曲の結末でも見てとれるかと思います。どこまでも地に足の着いた音楽を書いた、ワーグナーとは違う、ブルックナーにしか書けない音楽がここにはあります。そして遂にラストに至って、音楽は全楽章の主題が重ねられ、第5交響曲のフィナーレに匹敵するような強力な歓喜を生み出して、曲を締めくくります。この辺の音楽は本当に素晴らしいです。

 

第8は、まさにブルックナーの音楽の総決算ともいえる作品だと思います。

 

ソヒエフの演奏も、コーダの感動は良く出ていたと思います。また彼は第1楽章を、他の楽章よりもやや大柄に演奏していたのも印象的でした。このコンサートは自分にとっては素晴らしいものとなりました。

 

次に、新国の「トスカ」です。

 

個人的に「トスカ」については2つの基準を持っています。「歌手主体」であるか「指揮者主体」であるか?という基準です。

 

例えば、マリア・カラスがタイトル・ロールを演じるステレオのレコードでは、カラスの他に、テイト・ゴッビ、カルロ・ベルゴンツィの競演であり、聖なる怪物がそろい踏み、その迫力は比類がありません。まさに歌手主体の名演だと思います。

 

方や、カラヤンのグラモフォン盤などを聴いていると、歌手にはそれほどの力はありませんが、カラヤンの正確な全体の見通しによって、劇的起伏は見事であり、魅力的なオペラとなっています。

 

ヴェルディの「トロヴァトーレ」などは歌手主体でやらないと、厳しいと思いますが、プッチーニの「トスカ」は「歌手主体」でも「指揮者主体」でもどちらでもやれるという印象を持っています。

 

今回の新国での主役は、指揮者のマウリツォ・ベニーニでしょう。自分は、初めて聴く指揮者でしたが、歌劇を中心に活躍している方らしいです。メトロポリタンで指揮していた時には、イタリア・オペラを担当していたそうです。

 

 

↑、マエストロ、マウリツォ・ベニーニ。

 

彼は日本のオーケストラから、味の濃い音色を引き出し、性急でありませんが、引き締まった指揮をしていたと思います。どの場面でも、踏み外しがなく、素晴らしいと思いました。

 

歌手も超一流というわけでもないんでしょうが、ベニーニの指揮に応えるだけの力量はあり、素晴らしい場面もありました。

 

舞台のセットも良くて、非常に記憶に残りました。

 

他にも今年はブルックナー・イヤーということで下野さんのブルックナーなども聴きました。その辺の話も書こうかと思っていたのですが、今回のブログもかなり長くなってきたので、これぐらいにしようかと思います。

 

また来年もよろしくお願いいたします。

 

12月22日。東京文化会館で、イリーナ・メジューエワによる、オール・ショパン・リサイタルを聴いてきました。「ショパンの肖像」と呼ばれる4回シリーズの最終回のようです。

 

毎度のことながら、メジューエワの演奏も、今回初めて聴きます。

 

ショパンは今年の2月にブレハッチでも聴いていて、今回メジューエワのコンサートを鑑賞しながら、個人的には聴き比べみたいな感じで聴いていました。

 

ラファウ・ブレハッチ |  ヒマジンノ国

 

↑、今年2月に聴いたコンサートです。ブレハッチはショパン以外に、モーツァルトなどもやりました。

 

以下は簡単な私見です。

 

ブレハッチの演奏は、ポーランドの土の香りが、匂い立つようなショパンでした。詩情に溢れ、ブレハッチの見た目もさることながら、ショパン自身がひいているような趣がありました。

 

メジューエワも初めはちょっとぎこちない感じで、ノクターンの、少しゆっくり目の曲調はあまり流れが良くない印象でした。その時に感じたのは、曲を線で考えるより、一音一音きっちり弾くタイプなのかという感じでしょうか。

 

しかし、スケルツォやマズルカになると、構築性のある力強い演奏になり、ちょっとびっくりしました。音色は曖昧さがなく、くっきり、はっきりし、硬質の水晶のようです。ブレハッチは、微妙なニュアンスを付けて、詩情を溢れさせましたが、そのような感じとは正反対です。曖昧さがありません。

 

楽譜の音符が目に見えるかのような、はっきりした演奏で、詩情を優先するよりは、曲の構造やピアニズムを前面に押し出した演奏でした。

 

感情や陶酔感に溺れることなく、理性的な演奏ですが、横溢する迫力をところどころ伴っており、その豊かなピアノの響かせ方には舌を巻きます。

 

おかげで、逞しく、立派な造形のショパンを創造していました。

 

かなり厚みのある演奏で、中々聴けない解釈で面白かったです。彼女のベートーヴェンを聴いてみたいですね。

 

 

あとは全然関係ないですが、上野駅が綺麗になっていて驚きました。以前上野に来たのはいつなんだろうか?と自問します。10年以上前?最後の記憶が何時だったのかさえ、思い出せないです(汗)。

 

駅構内もかなり広くなってますよね。

 

最近はバレエ音楽なんかを聴いています。バレエ自体は見たことがないので、どんなものかは良く分かりませんが、音楽だけで単独で演奏されるものも多いかと思います。

 

チャイコフスキーの作品や、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、ラヴェルの「ラ・メール・ロワ」なんかは有名だと思います。後、外せないのが、レオ・ドリーブ(1836-1891)の「コッペリア」と「シルヴィア」ですね。この辺りの曲はオーケスト・コンサートではやらないので、レコードで聴きます。

 

 

↑、レオ・ドリーブ。フランスのバレエ音楽の父と呼ばれているそうです。上品で、優雅な音楽が素晴らしいと思います。感覚的な、美しい音楽を書きました。

 

 

アンタル・ドラティによる「コッペリア」全曲(1957)。

 

SR2ー9005。

 

 

昔からこの演奏が好きでたまに聴いていました。ドリーブの音楽は、繊細でナイーヴといわれますが、ドラティは迫力ある躍動感で、生きいきとした演奏をしています。詩的な部分もみずみずしくて、実に良いと思います。

 

そして、特筆すべきは、マーキュリー・リビング・プレゼンスのレコードの音質の素晴らしさ。今ではユニバーサル・レコードに吸収されてしまいましたが、モノラル期からステレオ初期にかけて録音された、マーキュリー・レーベルのレコードの音は「現場」にいる臨場感を味わえるような、生命力に溢れた音がします。また、当時米国の、物質的に豊かでおおらかな感じが、音から漏れてくるような、魅力ある音です。ハンガリー出身のアンタル・ドラティの演奏は、このレーベルの録音と非常に相性が良いと思います。柔和な部分の音質なども最高です。

 

 

もう1点、アナトール・フィストラーリによる「シルヴィア」(1957、58)。これも昔から名盤の誉れ高いレコードかと思います。

 

SR2ー9006。

 

 

バレエ音楽のスペシャリスト、フィストラーリによる、紳士的で大人な演奏です。ドラティのような、力任せの音作りはせず、しっとりとした、まさにドリーブのバレエ音楽らしい演奏かと思います。音質はこちらも上々で、張りのある素晴らしい音がします。

 

最後にもう1点。

 

 

ジョルジュ・セバスティアン、パリ・オペラ=コミック座管弦楽団、及び合唱団による「ラクメ」(1952)。

 

LXT2738-2740。

 

 

ドリーブの最高傑作といわれているのが、このオペラ「ラクメ」です。19世紀のインドを舞台に、インド人女性ラクメとイギリス軍人ジェラルドの恋愛を描きますが、内容は白人オペラにありがちな内容で、個人的には若干不満があります。彼らの傲慢さが出ていますね。

 

しかし、「鐘の歌」を始め、エキゾティックな魅力に彩られた名曲だと思います。

 

この録音は、フランスの本場の演奏家を集めた録音で、全曲としてはおそらく世界初録音ではないでしょうか?録音はデッカで、1950年代初期とは思えないほど鮮明、角の取れたオーケストラの音と、歌い方は時代を感じさせます。

 

聴いていると1950年代にタイム・スリップしたかのような、錯覚を覚えます。

 

ドリーブ《ラクメ》「鐘の歌」 アンナ・モッフォ

 

↑、モッフォによる「鐘の歌」。

<前書き>

 

音楽評論家、特に日本国内の評論家について、書きました。以前からまとめようと思っていた内容です。

 

個人的に宇野功芳氏の評論をよく読んでいたものですから、まずはその辺を中心にまとめていますが、他にも興味ある評論家について書いています。日本国内のクラシック音楽事情と、20世紀後半と21世紀初頭の批評家について知らないと、何が書いてあるのかさっぱり分からないと思います。

 

長文になりましたが、よろしくお願いいたします。

 

クラシック音楽について、批評は切っても離せないし、また必要なことだと考えています。

 

亡くなる前まで、日本の音楽批評の世界で有名だったのが、宇野功芳氏(1930-2016)です。個人的には好きで、彼の著作はよく読んでいたころがあります。ただ読んでいると、問題もあるような気がして、色々と考えるようになりました。

 

 

↑、音楽批評家の宇野功芳。自身で指揮もする方で、存命時は日本のクラシック評論界で最も有名な人物の1人でした。名曲1曲に対して、原則決定盤1つ、というようなスタイルで評論をしていました。ただ、これは昔1枚のレコードが高価だったころの名残ともいえ、勢い、その選に漏れた音源の苦言を呈するので、反対者も多数存在しました。

 

晩年、彼が存命の時は、日本の音楽批評界では吉田秀和氏も亡くなり、国内では1番有名な批評家で、影響力も大きかったともいます。

 

まずはその辺を簡単にまとめたいと思います。

 

個人的には、彼の音楽批評の大きな点は、「作曲家の意図を表現したもの」に対する評価が高いということです。他方、演奏家の側に立ったものは評価が低いということがいえると思います。

 

彼の批評を読み始めたころは、そこにある種の基準があるように見え、それが何かということが、気になったものでした。

 

彼の主張は、演奏家は作曲家が意図した内容を、表現できるから優れているのであって、決して演奏家自体が、それに優先するということではないということでしょう。

 

聴き手の本来の目標は、作曲家のいいたいことを「聴きたい、知りたい」のであって、それを捻じ曲げることはあってはならい、ということでもあると思います。これは作曲家を1番に尊敬する、という態度になっていくことを意味しています。

 

当然こういう意見だけでなく、演奏家の感性、能力が作曲家と同等でなければ、一流の演奏ではないという意見も加味されるかと思います。

 

彼の批評の一部を抜粋しながら見ていきます。

 

<指揮者のみならず、ピアニスト、ヴァイオリニストなど、すべての音楽家に共通するのは、どのような名曲であれ、演奏家の手にかかれば、その名曲は演奏家の才能の水準にまで下がってしまうということだ。技術が優れ、音楽性が高くても、精神的に浅い演奏家が演奏すれば、モーツァルトであろうとベートーヴェンであろと、浅い音楽、低い水準の音楽として聴こえてくる。こんなに怖いことがあろうか。同じ≪エロイカ≫なのに、つまらなくて平凡で退屈し切ってしまうことはざらにある。>(宇野功峰対話集、「演奏の本質」から)

 

 

↑、宇野氏と演奏家や、その他評論家との対談をまとめた、ムック本「演奏の本質」。

 

このような思想は演奏家が高いレベルにあり、また、作曲家のいいたいことを演奏家が、根っこから理解できる(楽譜上に残された不完全な思想を超えて)人物でなければないといけないということになります。故に彼の褒める演奏家は、その作曲家の演奏家として、エキスパートともいえる存在かと思います。

 

過去記事で引用した彼の思想があります。

 

ブルックナー5番 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

世界的に評価の高いフルトヴェングラーのワーグナーの演奏についても、彼は次のように述べます。

 

<ヨーロッパでも、フルトヴェングラーのワーグナーは神格化されているようだが、僕には少なからぬ疑問がある。それは彼のブルックナーを高く評価し得ないのと同じ理由によるものだ。クナッパーツブッシュにしても、マタチッチにしても、朝比奈隆にしても、ブルックナーをすばらしく演奏できる指揮者は、ワーグナーもまた見事である。ブルックナーとワーグナーでは一見何の共通点もないようだが、造形感覚と客観的で透明なひびきが似ているのであろう。ワーグナーにおいても、その造形はソナタ形式的ではなく、細部をじっくりと積み重ねてゆくやり方で進めるべきだし、色彩感はブルックナーよりもずっと官能的ではあるが、どこまでも透明感を失ってはならない。つまり人間味が出すぎてひびきを濁らせてはならないのである。

 

ブルックナーの場合と同様に、クナッパーッツブッシュのワーグナーを最高のものと考える僕にとって、フルトヴェングラーの演奏はあまりにもソナタ形式的であり、意志的、主観的、人間的でありすぎ、つけ加えられたドラマがありすぎる。したがって音楽自体が自然に息づかず、ワーグナーを聴くよりはフルトヴェングラーの音楽を聴く感じが強い。彼のブルックナーほどの抵抗はないしても、僕はもっと雄大なワーグナーの世界に浸りたいのである。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

 

↑、「フルトヴェングラーの全名演名盤」。ウィルヘルム・フルトヴェングラーの残したすべての音源(当時)に対して、批評を加えた、宇野氏しかやらないような仕事の記録です。姉妹本に、ブルーノ・ワルターについても書かれたものがあります。

 

フルトヴェングラーは歴史上の大指揮者であり、ドイツ音楽の権威として、多くの人が認めるような存在です。そのフルトヴェングラーの、ブルックナーやワーグナーが良くない、というのは明らかに日本の音楽評論の歴史に一石を投じるものであり、刺激的であるといえます。宇野氏以外の、過去の多くの人は、批評家も含め、フルトヴェングラーのワーグナーやブルックナーを無批判に、受け入れていたのかもしれません。しかし彼はそれに公然と反旗を翻しました。

 

ティタニア・パラスト |  ヒマジンノ国

 

↑、この過去記事の最後に、個人的なフルトヴェングラーの評価を書いています。自分もドイツ最高の指揮者として、フルトヴェングラーを挙げることに異論はありません。

 

しかし、宇野氏の掲げた反旗は、全く根拠不明な理論ではなく、それなりに説得力があるものでした。

 

彼の評価したワーグナーの演奏家はハンス・クナッパーツブッシュであり、これは確かに非常に説得力あるものです。

 

ゲッター・デメルング |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、自分が書いた過去記事です。この中で、クナッパーツブッシュのことを書いています。

 

クナッパーツブッシュはフルトヴェングラー同様、19世紀生まれの指揮者で、当時、万人が知る有名なフルトヴェングラーに対し、クナッパーツブッシュは日本人にとってみると、ローカルな存在であり、知る人ぞ知るというような存在でした(現代では知らない人はいないんでしょうけど)。このような国内で無名の演奏家を世間に知らしめたことは、宇野氏の功績の1つといって良いでしょう。

 

そして、そんな無名な指揮者の方が、フルトヴェングラーよりも、ブルックナーやワーグナーの演奏が優れているというのだから、驚きだったわけです。

 

しかし、確かに聴いてみると、クナッパーツブッシュの持つ能力は、上の宇野氏の書いたようなワーグナー論にぴったり当てはまるものであり、ワーグナーの持つ音楽の雄大な世界を描き切っていると思います。

 

これは明らかに、作曲家と演奏家の相性が問題になっている案件でした。

 

このような作曲家と指揮者の相性を宇野氏は尊重する傾向があり、ベートーヴェンであればフルトヴェングラー、モーツアルト、シューベルトでればブルーノ・ワルター、ブルックナーであればクナッパーツブッシュやシューリヒト、ということですね。

 

過去記事でも書きましたが、このような傾向は人間の生理的な傾向とも結びついていて、生まれながらの性質も加味されているともいえます。そのために今度は、先にも引用しましたが、フルトヴェングラーがワーグナーを演奏してもそれほどの効果は得られないという、宇野氏の論理ができあがっていきます。

 

世間の趨勢と反することを、意に介さない、彼の論理は一種の反逆的な論理ともいえなくもありませんでした。

 

そして問題発言の多い、そんな彼の著作に、有名な言い回しがあります。

 

<ある音楽雑誌の読者のページで、「メータに失望」という記事を読んだ。メータがイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とともに来日し、ブルックナーを指揮する、というので聴きに出かけたが、いかにも表面的に皮相な演奏であり、がっかりしたというのだ。

 

僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナーなど聴きに行く方が悪い」。知らなかった、とは言ってほしくない。ブルックナーを愛する者は、それぐらいは知らなくてはだめだ。>(「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」から)

 

 

↑、「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」。宇野氏の代表的な著作で、名曲の解説と同時に、その曲を代表する音源を彼独自の視点で記したもの。

 

上の発言は、最近の世の中の傾向なら、普通に問題になりそうな発言です。相性の良くない指揮者は演奏してはいけない演目がある、といわんばかりです。

 

過去を振り返ると、近代的ではない昔の演奏家は、自分の感性に属さないことが、技術的にできないことがあったようです。評論家の遠山一行氏が、この宇野氏との対談で次のように語っています。

 

パリに留学時代、彼が実際に聴いた、名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボーの感想です。

 

<(ジャック・ティボーが演奏する)ブラームスのコンチェルトを聴いたけど、そうしたらめちゃくちゃなの。あの人は技術まで自分の音楽と一体なんですね。だから、自分が本当に感じないものをやると、技術までおかしくなってしまう。あれは本当の音楽家だなと思いました。技術屋さんじゃない。本当はなんでも弾けるということは、なんにも弾けないということであって・・・。>(「宇野功芳編集長の本」から)

 

 

↑、「宇野功芳編集長の本」。宇野氏が編集長を務めた体で、まとめられたムック本。この本は非常に面白い本で、色々と勉強になりました。

 

遠山氏の話は、これは近代の指揮者がどんな曲目を演奏する、という傾向とは真っ向対立しますね。特に最後の「本当はなんでも弾けるということは、なんにも弾けないということであって・・・。」という言葉は一定の重みがあると思います。

 

そんな中でも、宇野氏の場合は特にブルックナーに対する思いが強く、ブルックナーやワーグナーに関しては、上のような表現になったのだと思います。しかし当然これに異なる反応する人たちもいました。

 

以下は評論家の吉田秀和氏の言質です。

 

<ブルックナーといえば、まず、あの重厚さ、荘厳さ、金管の重量感あるファンファーレと、壮麗な旋律、和声の妙、対位法の面白さだなどという人もいる。そうにはちがいないが、それよりもブルックナーといえば、まだ、何か1通りのきき方、つまりは1つにきまった演奏しかなく、これを達成しているだけが真のブルックナーで、あとは芸の境にいたらぬもの、不完全なもの、あるいは邪道であるというふうにきめてかかるような気配が濃厚な、この国のブルックナー・ファンの在り方が、私には、あんまりわからないのである。ひいきの引き倒しというか。いかに好きだといってもこう自分の好みにしがみつき、他人を排斥するのは感心しない。ブルックナーといっても もう少しの専門家しかやらない時代は、とっくに過ぎ去ったのである。それはこの作曲家生前から死んだ直後のシャルク兄弟とかリヒターとかの頃の話だ。その後フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヴァルター、ヴァインガルトナー、クレンペラー、メンゲルベルグ、ベイヌム、ヨッフム等々の錚々たる大家たちが競ってブルックナーに対するそれぞれの見解を示し、その神髄と信じるものを演奏によって公衆に提出したあと、今日では、ブルックナーを全くやらないという方がその人の音楽観と音楽性を極端に示すという時代にはいっているのである。いまではクレンペラー、ジョージ・セルからごく若いメータにわたる広大な年代の層にわたる指揮者たちが、こぞって彼をとりあげている。>(吉田秀和著、「カラヤン」から)

 

 

↑、批評家吉田秀和氏が、名指揮者カラヤンにたいして書いたものをまとめた本。個人的にはここに書かれていることは、自分の感覚にも良く合い、吉田氏のカラヤンに対する意見に自分はおおむね賛成です。

 

これは頭の良い、バランス感覚に優れた吉田氏らしい意見だと思います。確かに「この作曲家に対して、この演奏しか認めない」という宇野氏の論理に対する明確な批判です。宇野氏を暗に批判しているのは明らかです。

 

ただ個人的にはブルックナーに対しては当時の国内のファン(自分もそうでしたが・・・)には、まだブルックナーという作曲家は、理想的な形で演奏されていない、という認識があったというのも事実だったともいます。

 

例えばブルックナーの第8に対しては、自分などは、宇野氏が推薦するクナッパーツブッシュのような造形が欲しい、と直感的に感じていました。多くの国内のファンも、そうだったのではないでしょうか?あのような立派な造形で、演奏されたブルックナーは、まだ当時それほどなかったと思います。

 

しかしながら、クナッパーツブッシュの使用する楽譜は原典版といわれる他人の手が入ったものでした。第8の原典版においては、ブルックナーのオリジナルとの差異は少なく、宇野氏は問題ないとして、ヴァントなどが理想的な演奏をする(1990年代半ばまで)までは、これを決定盤として挙げていました。しかし改めて聴くと、その響きは当時流行したワーグナーの音楽に近づけられていて(4楽章の第1主題の再現など、クレッシェンドしている、これは明らかなブルックナーとは違う思考法です)、必ずしも厳密なブルックナーとはいい難いものがありました。

 

やはり、ギュンター・ヴァントやチェリビダッケの録音が出てくる前ぐらいまでは、多くの国内ファンはまだ満たされていない思いだったということは、自分にも良く分かりました(国内では朝比奈隆の存在があった)。そういう意味では吉田氏の、ブルックナーの造形観に対する思想は正確ではないと思えました。(ブルックナーは、マーラーと同じく20世紀終わりごろから21世紀初めぐらいまで、まだスペシャリストが理想を追い求める余地は充分あったと考えられます。ベートーヴェンに関しては、20世紀前半で既に各名指揮者がやり尽くしていた感がありますが、ブルックナーやマーラーに関してはまだ極限まで解釈されていないという感じがありました。)

 

だからといって、他の演奏を排斥してよいという理論になりませんが。

 

吉田秀和氏は学者的な批評家であって、宇野氏のような感性に頼った批評をあまりしてないように思います。吉田氏の、他者の演奏家を排斥する思想は良くない、というのには共感できますが、同時に、宇野氏のいうようなブルックナーの演奏を極めたものがまだ存在していないという意見にも、自分は賛成でした。

<躓きの石としてのブルックナー>

 

あんまりブルックナーの話題に偏るのもなんですが、当時の評論界の趨勢について語るには便利なので、もう少し続けます。

 

 

↑、吉田秀和(1913-2012)。いわゆる、戦後の代表的な日本の音楽評論家。終戦直後(1950年代)、ヨーロッパや米国などの諸外国へ、日本国一般市民が自由に旅行できる権利はなく(一般市民の外国旅行自由化は1964年)、その権利を行使できるのは商用、留学、研究など公式な目的を持つ人物に限られていました。不思議と日本は古くから西洋音楽が盛んで、戦前・戦中では堀内敬三氏や、野村光一氏、渡辺護氏などが欧米での留学経験がありました。しかし、戦後敗戦したばかりの日本で、そのような留学経験のある評論家がいなかったために、この吉田秀和氏や、山根銀二氏、遠山一行氏などが公の目的で、欧米への留学や視察を行いました。当然彼らは非常なエリートで、優秀な人材でした。そこで彼らはフルトヴェングラーや、トスカニーニ、マリア・カラスなどを聴き、その延長線上に評論を展開させることができました。吉田氏は長生きしたこともあり、戦後の日本のクラシック音楽評論家界で重鎮的な存在だったと思います。

 

さて、そんな吉田氏にしてみると、元々ブルックナーは大して興味をそそるような作曲家ではなく、同時代の交響曲作家であれば当然のようにブラームスを推します。吉田氏は時代ごとに意見を変えており、特に晩年はブルックナーも支持しています。ただ元来はブラームスの如き、やや学者然とした考え方の持ち主だったような気がしています。

 

彼のブラームスに対する批評を見てみます。

 

<まず、彼の表玄関たる管弦楽作品から、選びだすことにしても、彼の4曲ある交響曲は、どれも、みな、ほとんど同じぐらいに完璧だ。「第1交響曲」は伝記的に重要であるばかりでなく、悲壮な力動感にみちみちた傑作だ。以下どれもくずがない。>(「名曲300選」から)

 

と絶賛し、ブラームス嫌いの宇野氏とは対照的です。宇野氏が指揮者ではカラヤン、作曲家ではブラームスを認めなかったのは有名でした。以下は吉田氏の解説です。

 

<リスト、ヴァーグナーにいたって、ロマン派の色彩的・標題的・心理的な和声の追求は、前に述べたように、17世紀以降のヨーロッパ音楽の骨幹をなす長調短調の全音階による調性の体系の崩壊にみちびく戸口まで到達したのだが、これは同時に、古典派以来のソナタ形式を中心とする形式感の安定をひどくゆさぶることにもなったのだ。これは、ヴァーグナーの音楽をきいてみればわかる。彼の音楽には、それ以前の音楽での意味での形式感は全く欠如している。音楽は劇の展開と同時に、無限旋律的に、つきることなく流れるが、そのどこにも≪形≫はない。

 

ブラームスは、それを危機としてうけとった。そうして、音楽をもう一度、感情のほしいままの奔流とせず、音に造形された構成の芸術にもどそうとする。といって、彼は、20世紀の意味での≪純粋音楽家≫では、まったくない。彼も、また、骨の髄から時代の子、つまりロマン派的芸術家なのだ。ただ、彼は無形体に耐えられなかった。>(「名曲300選」から)

 

吉田氏のいうところの「音楽の形」がブラームスの作品では、はっきりしています。これは、当時(ブラームス存命時)認識されませんでしたが、必ずしも旧態に戻ろうとする運動ではなく、それまでの音楽の形態の蓄積によって生まれた、新しい考え方であったともいえます。

 

それは「音楽学」とも結びつく様な、ものの見方です。

 

 

↑、吉田秀和著、「名曲300選」。有名な作曲家を紹介しながら、その作曲家の聴くべき曲を選んで、300曲選出しています。吉田氏にしても割と初期の書籍のようで、現代ではちょっと古さを感じさせる内容かもしれません。その分吉田氏の本音が良く分かるような気がします。

 

指揮者のジョン・マウチェリが「音楽学」という学問の成立の過程理由を、以下のように簡単に述べています。

 

<ワーグナーが古代ギリシアの哲学を読み取ろうとしていたのに対して、ブラームスは過去の作曲家たちの手稿譜をせっせと蒐集し、フーガ―――1700年代にヨハン・セバスティアン・バッハによって最終的な完成形を見た―――や、パッサカリア―――といった、世間では忘れられていた音楽形式をさかんに用いることで、自分の音楽を日々演奏される同時代の、そして常に進化するドイツ音楽に結びつけた。

 

ブラームスが古い時代の音楽形式に興味を持ち、過去とつながりを求めたことで、「音楽学」という新たな学問への道が開かれた。「音楽学」は世界中ほとんどすべての音楽系大学で教えられており、修了すれば最高位の学位である博士号〔phD〕を取得できる。>

 

当初、音楽が人間の内面的で、抑制のない情熱的発露であった時、おそらくは音楽的な形式はまだ未分化であったでしょう。それが五線譜と音階の確立、また、そこから生み出される、音楽としての形式が数世紀を経て大量に生み出され、ストックができたことによって、それらを駆使することでも「新たな」音楽ができることを証明したのが、ブラームスであったといえましょう。既に「形式化」したものを使って、新たな「形」を作る行為です。

 

 

↑、ジョン・マウチェリ「20世紀のクラシック音楽を取り戻す」。指揮者マウチェリが、今の音楽界の危機の原因を、今では過去となった、20世紀の歴史から紐解いていきます。本当は自分はこの問題について書きたかったのですが、今書いているようなことを書いてからしか、まとめられないと思い、ここで評論家論を書いています。

 

さて、話を戻しますが、しかし、ここには微妙な矛盾が含まれます。結局音楽的な「初めの」衝動は、本来「形」を持って生まれてこないという事実です。

 

ベートーヴェンは新しい表現を求めて繰り返し「書き直し」を行いました。「書き直し」をしなければ、彼の求める「内面的な衝動」を受け止める「形」が作れなかったのです。

 

本来であれば「形」の造形は、まず「とらえどころのない内面」であり、それを現実化するために、現実と折衷するように「形式化」するわけです。順序からいえば「形式」は必ず「先」にはならず、「後」であるわけです。

 

そしてこの「後」の「形式」を強調する立場、というものこそが世間一般でいう、「学者」的態度であり、ワーグナーのいう、カリカチュアのベックメッサ―(ハンスリック)的な立場といえます。そしてその「学者的立場」が可能になったのが、近代ともいえます。

 

「形」から「形」を生む行為は、見方を変えれば「目的」と「結果」の順序を逆転しかねません。

 

ブルックナーのように、自分の求めるものを探して、繰り返し「書き直し」をするような作曲家は、吉田氏の「知性的認識」には簡単には触れないわけです。また同時に、ブルックナーの持つ形式感はブラームスやベートーヴェンに比べても、弱く、完成度の高さは一歩譲るでしょう(第8や第3の初稿などは下手をすれば,、技術的問題はともかく、内容の統合的な意味合いにおいては、習作レベルです)。

 

もっといえば、ベートーヴェンでさえ、完成度ではブラームスに1歩を譲ることになります。未完の形態と、完成形の入り混じったブルックナーの音楽の完成度に、吉田氏が不満を覚えても何の不思議もありません(ブラームスも第1交響曲などは繰り返し書き直していますが)。

 

ヨハネス・ブラームス5 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。ブラームスの第1に対する、簡単な論考です。

 

吉田氏は当時の欧米的な考えに追随した、学者的資質の持ち主だったように思います。ですから「結果」として見えている事には充分すぎるほどの見識を持ち、理解もありますが、ブルックナーのような、「何を書いた」とも表現されていないような音楽を理解するには、能力が欠けていたように思います。

 

以下も吉田氏の独白です。

 

<私が好んでブルックナーをきくようになったのは、比較的最近のことだ。最近といっても、十年以上はたっているだろうが、それにしても、私がブルックナーを自分のために発見したのは、ひどくおそくなってからだ。

 

初めて外国に行ったとき、ロンドンの楽譜の出版社、ブージー・アンド・ホークスの事務所で、たまたま居合わせたポーランド系の声楽家にひきあわされた。そのとき、彼女はドイツにいったら、最大のききものはクナパーツブッシュの指揮でブルックナーを聴くことで、これは何がなんでもききのがさないように、といった。

 

まさにそのあと、ザルツブルグの音楽祭に出かけたら、そのクナッパーツブッシュがブルックナーをやるのにぶつかった。彼はヴィーン・フィルハーモニーを指揮してブルックナーの第7交響曲を演奏したのだ。

 

ところが私は、その演奏を聴きながら、ぐうぐう眠ってしまった。第2楽章(アダージョ)の途中で、眠りこけてしまった私は、ふっと目がさめたら、まだその楽章が続いているのを知り、すっかりびっくりした、なんと長ったらしい音楽だと思ったものだ。やっと、そのアダージョが終わったら、それに続くスケルツオで、短短長長のリズムの無限のくり返しにつきあわされたのにも閉口した。要するに、私には何も分からなかったのだ。

 

それでいて、あとで、ドイツ人に会ったとき、ブルックナーはただ長いばかりで閉口だといったら、「そう、お前には、まだ分かるまい」といわれたときは、とてもくやしかった。「精神的背景が、まるで、理解のほかだろうから」と、その男はいい、「日本人はまだせいぜい、ベートーヴェンかブラームスどまりなのだろう」とも、つけ加えた。>(吉田秀和「私の好きな曲」から)

 

 

↑、吉田秀和著「私の好きな曲」。これは吉田氏にしても割と後年に書かれたものだと思います。楽譜なども紹介しながら、吉田氏らしい楽曲の緻密な論評が述べられています。

 

以前1度書きましたが、ブルックナーを理解するには、「標題」無しで、一種の宗教的風景画ともいうべき表現を、聴き手自身の感性でとらえなくてはなりません。特にクラシック音楽に関していえば、初めて聴く作品に対して、本来「外国人」である、我々日本人には、「回答」のない表現を聴き取る感性を、持ち合わせている必要があるように思われます。そしてこの能力に優れていたのが、宇野功芳氏だったといえると思います。

 

鋭い感性で、物事を見抜く能力が優れていたのが、宇野氏であったと思います。

 

しかし他方で、その批評能力のためかどうかは知りませんが、彼は客観性を欠き、自分の感性に重きを置きすぎていたきらいもあります。

 

彼の立場は学者的な吉田氏とは違い、もっと実際的でした。まず音楽の順序は、先も書たような「形式」が優先されるのではなく、「書かれた内容」が優先されるべきであり、楽譜が「どう書かれたか」ではなく、「何を書こうとして、書かれたか」を問題にしています。

 

そのために演奏家は、形式的に、楽譜を正確に演奏すべきではなく、何を目的に書かれているのかを表現すべきだとしています。

 

そうなれば当然、演奏家は作曲家の僕として、その内容を汲み取って表現すべきだ、ということになるでしょう。そのためなら多少なりともアンサンブルが乱れようが必ずしも問題とならない、としています。

 

有名な1947年演奏の、ティタニア・パラストでのフルトヴェングラーの運命の、宇野氏の論評です。

 

第2次世界大戦後、ドイツ音楽の権威であったフルトヴェングラーは、非ナチ化の裁判を終え、やっとのこと指揮台に戻ってきます。その際に演奏したベートーヴェンの5番は、彼の感情が爆発した、非常に内容が濃いものでした。

 

宇野氏はそれを次のように書きました。

 

<全4楽章を通じてアンサンブルの乱れが多く、オケが下手に聴こえるほどだが、これこそ、たった今生まれた音楽なのだ。ここでは、フルトヴェングラーが音楽と一体化し、溺れ、感動し、十二分に個性を発揮すればするほど、ますますベートーヴェンも生きるという理想的な演奏になっている。まさに”ベートーヴェンの音楽の力強い作用力が発揮され、彼の思想は照らし出された”のである。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

まさに宇野氏が書いた如く、この演奏は聴こえる演奏です。

 

 

↑、1947年の記録。CD。

 

ベートーヴェンの第5交響曲は、作曲家自身が担わざるを得なかった、自身の「運命」への怨念というべきものへの怒りが、初めの楽章で表現されています。

 

果たして指揮者がこの「怒り」を表現する際、作曲者同様に「怒り」を抱えていたのなら?それを音楽の演奏に乗せていくことができるのなら、演奏は素晴らしいものになるに違いありません。

 

戦後初となる演奏会で、フルトヴェングラーはその怒りを音楽にぶつけていきます。その怒りは何なのでしょうか?自分が非ナチ化裁判を受けなければいけなかったことでしょうか?それともヒトラーと連合国に破壊されたドイツに対する怒りなのでしょうか?

 

それがどんなものであれ、この第5交響曲の演奏を支えるのは、全き本物の「怒り」と、それを人々に訴えようとする、1演奏者の真実の感情です。おかげで音楽は隅々まで「意味」を持ち、音楽の意味を一切逸脱しません。

 

楽譜を正確に演奏すれば果たしてこうはいくでしょうか?演奏者が「正確さ」に感情を払えば払うほど、当然大衆はそれを読み取ります。そして音楽は「内的な意味」を失いかねません。

 

しかしこのような、フルトヴェングラーの演奏は多少の演奏の乱れがあっても、音楽は「内的な意味」をむしろ「正確に」確保しつつ、強力なメッセージを大衆に届けます。そしてそれこそが本来ベートーヴェンの音楽が持ていた力なのではないか、というのが宇野氏の立場だったと思います。

そのように、宇野氏の批評の素晴らしい部分は多々あると思います。しかし他方で、理解に苦しむ部分もありました。

 

評論家の宇野氏は好き嫌いが激しく、演奏家ではカラヤン、作曲家ではブラームスを毛嫌いしていました。しかしこのような態度は評論家として本当に正しいのでしょうか?公式の批評家として、一体どう考えるべきだったのか、悩むところです。

 

この点について少し考えてみたいと思います。

 

作曲家のいい分を大衆に伝えるのが演奏家の仕事だとしましょう。そしてまた演奏家はその作曲家に精通しなければなりません。宇野氏のいうような演奏家は多分、作曲家の化身のような存在に違いありません。

 

しかし氏は、ストラヴィンスキーやR・シュトラウスの自作自演を必ずしも認めておらず、作曲家が演奏すればよいということでもなさそうです。

 

そしてそのことを含めて、氏のいい分はどれぐらい整合性があるのでしょうか?例えば氏が嫌っていたブラームスの演奏についてはどうでしょう?

 

彼はザンデルリングの演奏を薦めていました。しかしこれ以外にも、有名なところではクナッパーツブッシュの演奏した交響曲3番、あるいはチェリビダッケの演奏した交響曲4番などを薦めています。

 

しかしこのクナッパーツブッシュの演奏は一体ブラームスの本質を突いているといえるのでしょうか?異常なまでの上下のふり幅、らしからぬタメの作り方、重い足取り、鋭い音感。これはブラームスというより、ブルックナーに近づいた、異様な演奏です。また同様に、チェリビダッケのシュツットガルト盤は異常に音色を磨き上げ、まるでフランス音楽のラヴェルかドビュッシーのようです。ザンデルリングの演奏は分かるとはいえ、クナッパーツブッシュとチェリビダッケのブラームスは本当にブラームスの本質を表現できているのか?という疑問が湧きます。

 

 

↑、ハンス・クナッパーツブッシュによる、ブラームスの交響曲3番。激しい上下のふり幅や、緩急に驚かせられる演奏で聴き応えがあります。しかし、これがブラームスの本質を捉えているか、といわれれば「?」マークもつくかと思います。

 

「宇野功芳編集長の本」で、自身がブラームス・ファンであるという、作家の宇神幸男氏(宇野功芳氏の友人)は次のように語っています。

 

かなり説得力があると思うので引用していきます。ここでは、ザンデルリング、ギュンター・ヴァント、チェリビダッケのブラームスの交響曲全集に対する批評をのせます。これらは、当時ほぼ同時に発売されました。

 

<さて、紙数も尽きそうなので、以下は比較的最近の録音からザンデルリング、チェリビダッケ、ヴァントのブラームス交響曲全集に言及したい。

 

・・・中略・・・

 

この3人、奇しくも1912年生まれであるが、演奏は3者3様。あえていえば、完璧志向が異常に強いという点ではチェリダッケとヴァントには共通点があり、ザンデルリングは質実剛健、古武士のような風格がある。

 

チェリビダッケはミュンヘン・フィルのものとシュツットガルト放送交響楽団のもの、新旧2種類ある。ブラームスに限らず、チェリビダッケの演奏は無菌室に案内されたような、塵一つないあまりの清潔さに辟易しないではいられないところがある。

 

・・・中略・・・

 

ヴァントのはトスカニーニ的訓練の賜物というべき無類にエネルギッシュなブラームスで、トスカニーニ美学を継承したセル、カラヤン、ショルティなどが結局は到達し得なかった、幻の演奏の具現かもしれない。『第1』の序奏部が異様に速い解釈はヴァント以外から聴いたことがないが、こんな寸足らずがブラームスであってよいものか。『第4』はよくぞここまでというほど完璧な純音楽的な美演で、速いテンポなのに色々な音が聴こえてくるのは脅威だ。しかし、それゆえに音が聴こえすぎてわずらわしく、なによりこのテンポは味気ないといわざるを得ない。

 

どこか偏執狂みたいなところのある両人とひきかえ、ザンデルリングはいい。謹厳居士ブラームスにも通じる一点一画をおろそかにしない楷書、だが活字の味気なさではない肉筆のぬくもりがある、とでもいったらよいか。重厚で渋く、燻し銀の、少しくすんでしっとりした、ブラームス・ファンにはこたえられない演奏だ。>

 

ブラームスの演奏論に対して、これは個人的には宇野氏の解説よりも説得力があるように思えます。チェリビダッケとヴァントのブラームスは音が透明で、その分曲の内部の見通しが良いわけです。しかしそのせいでブラームスの持つ内向きの性向を感じさせず、音が聴こえすぎるきらいがあり、音が混じりあいません。表現に幾分かの、分解的な作用があるように思えます。このように細かく音の動きを追う演奏は、ブラームスにふさわしいのでしょうか?

 

そしてそのせいで、オーケストラは分厚さよりも感性を前面に押し出した、平面的な響きに聞こえてくる部分が、増えているようにも思えます。

 

宇神氏いわく「どこか偏執狂みたいなところのある両人」の演奏は、ブルックナーを演奏すると大変効果のあるスタイルかと思いますが、ブラームスになるとむしろ逆効果になる場合が増えるのでは?と思えてきます。これはクナッパーツブッシュにしても同様でしょう。

 

つまりここでは、「宇野氏」の理論による相性の問題が、露呈していると思われますが、宇野氏はそれを無視してチェリビダッケが良いとか、クナッパーツブッシュが良い、といっているように聞こえはしないのでしょうか?

 

 

↑、チェリビダッケのブラームス交響曲全集。シュツットガルト放送交響楽団を用いています。音の艶やかさは見事ですが、あまりの透明感がブラームスにふさわしいかは疑問の全集です。確かに第4はチェリビダッケ流のブラームスで、美しいことは確かだと思います。しかし表面的的に聴こえる、といわれても仕方なさそうかとも思えます。ミュンヘンフィルとの演奏はもっと深みが出ていて、テンポも遅く、晩年の演奏になっています。

 

 

↑、ギュンター・ヴァントのブラームス全集。第4交響曲辺りは、チェリダッケと似たような感じがします。透明感のあるブラームスで、こちらも異常なまでに見通しが良い演奏となっています。人間味のないブラームス、といえるのかもしれません。

 

宇野氏はフルトヴェングラーのブルックナーについて、次のように語っています。

 

<フルトヴェングラーのブルックナーは、いずれも彼の人間的でな生々しい体臭がムンムンするような、いわばベートーヴェン風な解釈であり、表現自体はまことに高い次元に属するが、演奏が良ければ良いほど音楽から遠ざかるという矛盾をはらんでいる。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

宇野氏はザンデルリングのブラームスを高く評価すると同時に、チェリビダッケ、ヴァントの演奏する第4なども高く評価しています。しかし、上記のフルトヴェングラーのブルックナー論を読む限り、チェリビダッケやヴァントのブラームスは、ブラームスの持つ人間的な感情から遠ざかり、感覚的な音響体へと変貌してしまっていると思えます。

 

宇野氏の従来からのいい分は「演奏家は作曲家の、いいたい本質を体現してこそ」という主張だったと思っていた自分には、この辺は全く勝手な意見だと思うようになりました。当然ブルックナーとブラームスでは演奏史が違いますし、一概に語れませんが「メータのブルックナーを聴きに行く方が悪い」といった人物の批評としては流石に無理があるように思えます。

 

他のケースでも彼は自分の哲学と、好みをない交ぜにした、独特の論法で押し通すことが多々あるように思えます。この部分が、彼が批判される、最も重要な部分でしょう。「分からないこと」は「分からない」で済ませばよいと思えますが、彼は自分の理解できないことを攻撃する癖がありました。

 

ベートーヴェンの演奏にしても宇野氏はトスカニーニの演奏をそれほど認めていませんが、ベートーヴェンの作りだした、音楽の持つ細かい動機の動きと、トスカニーニのスタイルの持つ、熱烈で機動性の高い演奏の方が、時に氏の評価するフルトヴェングラーの演奏よりも、ベートーヴェンの本質をあらわにしていることがるあるように思います。過去記事です↓。

 

ベートーヴェン・イヤー |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

宇野氏が推薦する、フルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンの交響曲が、作曲家の精神そのものを表していることに異論はありません。しかし明らかにフルトヴェングラーは「時代の子」であり、受けつがれてきたドイツの伝統の流れからいえば、後期ロマン派に属します。それ故、フルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンは、ロマン派流に「解釈」されているということも自明かと思います。有名な彼の演奏する第9交響曲は、おそらくは、当初ベートーヴェンの頭に中にあった姿とは、全く違う姿になっていると想像されます。厳密な時代講釈する方からすれば異論しかないとは思いますが、やはりトスカニーニの演奏の方が、ベートーヴェンの思い描いていた第9の姿には近いのではないのでしょうか?

 

宇野氏の評論について、共同で著作を残している中野雄氏は次のように述べています。

 

<宇野先生には前の本のあちこちで、痛烈なご批判を頂戴した。曰く「ケンプは女々しい」、曰く「ギレリスは体育会系」、曰く「バレンボイムは才能の無駄使い」等々。

 

しかし私は全くハラが立たなかった。宇野先生独自の価値尺度、思考方法を、40年のお付き合いの中で熟知していたからである。もし客観的価値判断の次元で論争していたら喧嘩になっていたと思うが、宇野先生は超プロの評論家にもかかわらず私的感情=つまり好き嫌いを表面に出し、主観と客観の絶妙なコンビネーションで音楽評論=特にレコード批評の分野に新境地を開拓された方なのである。だからその論法で攻められたら、当方は苦笑するしかない。>(クラシックCDの名盤、演奏家編」。宇野功芳、中野雄、福島章恭による共著から)

 

これは的確に宇野氏の評論方法をいい当てています。もっといえば、自分にはまだまだ「上品に」宇野氏の論法を批判しているように見えます。

 

 

↑、「クラシックCDの名盤、演奏家編」。宇野功芳、中野雄、福島章恭による共著。3人の立体評で、CDや演奏家を批評する、意欲的な書籍です。

 

確かに宇野氏が自分が主張する「作曲家のいいたいことを、掘り下げて代弁できる演奏家」というのは素晴らしい演奏家だと思います。ただ演奏家の特性は本当にこれだけなのでしょうか?

 

宇野氏の評論は彼が主張するフィールドにおいては有効に機能することが多いように思いますが、一旦そこを離れると、必ずしも有効でもないように思えることも多々あるかと思います。

 

しかし本人は「演奏の好き嫌いと、良し悪しは別に考えなければない」といっていますが、結局これも彼の考える「ルールの中」で有効に機能する意見であって、そこを一旦外れてしまえば、宇野氏は「好き嫌い」でしか評論していないということになると思います。

 

彼の評論では、論理的な倫理性が外れていることがある、ということです。

 

他方で、彼の感性で評論されて、新たな魅力を発見された演奏家や、録音も多く、その部分は評論家としての役目はあったと思います。

 

もう少しこの問題について書いてみたいと思います。

<フルトヴェングラーのトリスタンは名演なのか?>

 

演奏家と作曲家は別人であり、いいかえれば、違う個性なわけです。確かに演奏家が作曲家に従う時、作曲家の方が立場は上のような気がします。ですが、演奏家が作曲家の個性とは違う時、演奏家は必ずしも、作曲家に従う必要があるのでしょうか?

 

演奏家と作曲家の関係でもう1つ、気にしなければならないことがあるとすれば、それは「個性と個性のぶつかり合い」という部分を強調した演奏だと思います。

 

宇野氏の演奏論によれば、いくらかは演奏家の資質が、作曲された、曲の性格に合致せねばなりません。その演奏家の性質に会わない曲というのは、曲の本質を外す可能性が高くなるといういい分でもあるように思います。氏はフルトヴェングラーの演奏したシューベルトの「未完成」について以下のように述べています。

 

<いかにもフルトヴェングラーらしい「未完成」の名演である。彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなったそうだが、曲想が彼の表現とぴったり合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。しかし、このCDでは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

それ故、宇野氏が勧めるのは、(シューベルトに資質の近い)ブルーノ・ワルターによる「未完成」となります。曲の内部に入り込んで、自在の演奏ができる演奏家が、宇野氏のいうようなスペシャリストです。

 

しかし逆に自分の資質に合わない場合、演奏家は固くなる時があります。

 

宇野氏との対談で、作曲家の佐藤真氏が次のように語っています。イン・テンポの問題について語っていて、面白い内容なので引用します。

 

<トスカニーニは、イン・テンポの指揮者だと言われているけど、とんでもない。イン・テンポの指揮者という人がもしほんとうにいたとしたら、僕それ、音楽が分からない人だと思う。

 

僕は昔、学生の書いたものを試演する目的で、オケを振る機会があった。学生の曲だから出来栄えにむらがある。いいところもあれば、悪い全然だめなところもある。振っていて音楽の分からないところに差し掛かると、指揮者は必ずイン・テンポになる。>(「宇野功芳編集長の本」から)

 

つまり演奏家は自分が理解できないところに来ると、音楽が固くなるということでもあると思います。この話は演奏家が、「生理的に」苦手な曲については演奏がしっかり機能しない、と主張する宇野氏の意見とも、幾分合致するように聞こえます。

 

そしてこのような演奏論のもと、考えなければならないのが、20世紀の新即物主義といわれた「ノイエ・ザッハリヒカイト」です。以前も少し書きましたが、楽譜は専門の教育を受けた人なら誰でも読めるわけですから、仮に曲の内面に対する知識や理解がなくとも、演奏できるという思想です。

 

なぜ演奏家が曲の内容を掘り起こす必要があるのか、という問いの論点は作曲家としてベートーヴェンの存在を論じる必要があると思いますが、今回は論点がずれるので止めます(音楽による、抽象概念の存在が認識されたということ)。

 

ただ、佐藤氏のいう如く、指揮者が分からないところに来るとテンポが「イン・テンポ」に成るという指摘は、この新即物主義の思想によって、より強く認識され、肯定される下地ができたように思います。確かに、音楽が分かっている場合と、分かっていない場合では「イン・テンポ」の意味が変わってくるのも道理でしょう。ただ自身の体質に合わない音楽をやる時、どんな名演奏家でも、「イン・テンポ」にいくらか近づくというケースは、多いように思います。

 

しかし、フルトヴェングラーのワーグナーように、テンポを動かさなくとも、ある程度まで、まじめに演奏し(イン・テンポに近い感じで)、曲の内面を暴かなくとも、演奏が正確で美麗であれば、むしろ作曲家よりも演奏家の個性が前に出て、「名演」となる下地ができたともいえましょう。つまりこれも宇野氏の意見とは、逆の意味を提示する例となります。

 

あるいは曲の内面が求めているような表現とは違う動きを出しても、その曲の別の側面を引き出して、今までにない名演を生み出すこともあるでしょう(グールドのバッハなど)。それも演奏家の「演奏主体」となりうるから発生する現象だと思います。

 

そしてフルトヴェングラーというのは、シューベルトの未完成を振ると、幾分ぎこちなさを感じさせた、という指摘と同様に、ワーグナーについても同様のことがいえるのだというのが、宇野氏の主張でしょう(逆にベートーヴェンをやると、水を得た魚のように生き生きとなる、本質的にフルトヴェングラーは作曲寄りの演奏家だと思います)。そうなると結局、ベートーヴェンでは音楽を散々動かす、フルトヴェングラーでも「ワーグナー」においては、イン・テンポのような演奏になり、まるでザッハリヒのように聴こえるということになると思いますね。

 

そして、このような、「イン・テンポ」、あるいは「客観的でクール」な演奏の録音を多く残したしたのは、フルトヴェングラーの後継だった、ヘルベルト・フォン・カラヤンでした。

 

元から、宇野氏によれば、演奏家の資質によって、演奏家が何かのスペシャリストになることを推奨しているように聞こえます。だけれどもカラヤンはそのようなことを一切気にしませんでした。宇野氏が嫌う理由も分かろうというものです。

 

スぺシャリストというのなら、フルトヴェングラーであればベートーヴェンのスぺシャリストなのでなのでしょうか?

 

しかしカラヤンのように自分の資質に関係なく、どんな作曲家でも、別け隔てなく演奏する(何でも屋 、とも揶揄されますが)となれば、演奏は先の佐藤氏の発言もないですが、「イン・テンポ」になるとか、ザッハリヒになって行くというのが、結局その本質かと思います。

 

そしてこのような、フルトヴェングラーのワーグナー(ここではトリスタンとイゾルデとします)やカラヤンの多く録音を、指揮者の資質の向き不向きから「名演としない」ということが本当に可能かどうかという議論になるわけです。

 

資質が合わないから、つまりフルトヴェングラーのワーグナーはワーグナーの本質は表現できないというのが宇野氏ですが、他方、ほとんどブラームスの本質を表現しているかどうか疑わしい、クナッパーツブッシュの演奏が素晴らしいと絶賛しているわけです。ここは明らかにダブルスタンダードな意見で、おかしいわけです。

 

宇野氏は確かにブラームスの音楽を嫌っていて、正当な評価をしているか疑問です。彼が溺愛した、クナーッパーツブッシュのブラームスの演奏を1番に持ってくるということではありませんが、しかし、クナの演奏はブラームスの本質を消し去っているようにも聴こえます。

 

いみじくも宇野氏がクナッパーツブッシュのブラームスが素晴らしいと認めたということは、つまり、演奏家の資質と異なる作曲家の音楽を演奏家が演奏しても、演奏家と作曲家との化学反応とでも呼ぶべき別の効果によって、名演になりうるということを示しているということになると思います(クナッパーツブッシュのブラームスはイン・テンポではありませんが)。

 

こうなってくると、カラヤンの多くの録音や、フルトヴェングラーのワーグナーもどうして名演でないか、という話を、指揮者の資質の問題だけでなく、他の情報を含めて語らなければ嘘ではないでしょうか?

 

その上でフルトヴェングラーの残した「トリスタンとイゾルデ」の録音が、どうして今日まで聴き続けられてきたのかという話を、考えてみるべきだと思います。

 

フルトヴェングラーの演奏した曲が持つ、和声上の豊かな響き、そのような傾向と、イン・テンポ(イン・テンポと断じてしまうのは問題だと思いますが、あくまで彼のベートーヴェンの演奏などと比較した場合の意見です)で演奏がされる故に、きめの細かい豊かな表現を可能たらしめた、劇的な効果などが相互に作用し、この録音は聴き手をワーグナーの特異な世界観へと導いていきます。

 

以下は名盤案内に記された、國土氏のフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」評です。

 

「<トリスタンとイゾルデ>の演奏を語る上でも欠かせない録音であり、フルトヴェングラーの音楽性でも欠くべからざる録音である。フルトヴェングラーのドイツ的な音作りの最大の特徴は、和声感へのこだわりである。美しい和声感へのこだわりである。美しい和声感を形作るには音程の良さは不可欠である。ドイツ・ロマン派の和声発展の臨界点である<トリスタンとイゾルデ>こそが、フルトヴェングラーの音楽性を最も生かせる生かせる作品であるのは、正に自明の理であろう。当時のフィルハーモニア管弦楽団の状況から鑑みても、何人たりとも達成していないこの入念な音程は、フルトヴェングラーによって生み出されたのだ。」(「クラシック不滅の名盤1000」から、國土潤一氏穂批評)

 

 

自分自身も、多分このような評価こそがフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」に対する正当な評価であるというべきであるように感じます。

 

つまりロマン派の最後の砦であった、フルトヴェングラーの演奏は、旋律を豊かに歌わせる能力とその効果が、ワーグナーの音響体にイン・テンポながら豊かに寄与しています。なおかつ、ドイツの指揮者ならではの、抽象性の高さと、内面にある思考性が彼の場合、まさにドイツのエトスの発現そのものであり、ドイツの「ロマン派」に合致します(音楽が音楽以外の抽象性を生むことがなければ、ロマン派は生まれることがありませんでした、フルトヴェングラーの演奏はそれを表現しうるものです)。

 

 

↑、ウィルヘルム・フルトヴェングラーによるワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、全曲。LP。歴史的な録音としても有名です。

 

ALP1030ー1035。

 

 

カラヤンの場合も同様に、「パルシファル」のようなワーグナーのオペラは極力イン・テンポで通します(ローエングリンなどは散々テンポを動かしている)。しかし、そのことによって音の官能性を芳醇化し、演奏の合奏度を上げることによって、かつて聴いたこともない精巧なワーグナー像を作り上げています。

 

このカラヤンのワーグナーも駄演というのは無理があると思います。「名演」といわれるべきでは?という気になります。

 

これも宇野流にいえば、カラヤンはワーグナーに向かない指揮者ということでしょう。しかし現在はこの録音も多くの人に認められています。一見不得意に見えても、実際にカラヤンが演奏すれば、名演になった、といえるものではないでしょうか?

 

 

↑、カラヤンによる、ワーグナー「パルシファル」。CD。音を美しく練り上げて、陶酔的な美の空間を作り出す、カラヤンの芸術が、極度に発揮された例だと思います。ここでは厳粛な宗教的楽劇の苦みが薄れ、美しい音色による、曲全体へのコーティングが成功した録音でしょう。

倫理性の欠ける、宇野氏の批評で1番抜けていたのが、作曲家と演奏家が全く違う個性の場合、その演奏をどう解釈するか?という問いでした。彼は多分自分でも気づいていたようにも思いますが、そこの部分を多くの場合、意図的に無視していました。

 

特に演奏史において、曲が作曲された時代から遠ざかれば遠ざかるほど、その解釈は難しくなる可能性があります。ガーディナーが、バロック時代初期の、モンテヴェルディの音楽を解釈する時、確かにそれらしい感じがする演奏になっています。しかしそれはどこか学究的な雰囲気があるものであり、完全な自然さを獲得しているものでもないように思えます。

 

ロマン派においても、19世紀生まれの指揮者の解釈が録音で残っているといっても、同じことを現代に再現することは非常に難しく、おそらくは不可能でしょう。

 

しかし作品の真正の解釈はどうしても、その曲が作曲された時代に近しい時代の演奏家の方が、有利の場合が多いようにも思えます(例外もありますが)。宇野氏のようにベートーヴェンの演奏の理想を、フルトヴェングラーにおいてしまうと、結局それ以外の演奏はどこまでも凡演という判断になってしまう可能性があります。そしてそのような必要性がどこまで必要なのか?という問いが浮かび上がってきます。現代フルトヴェングラーの演奏を「古い」と感じる聴き手もいると思います。

 

ベートーヴェンの死後既に200年になろうという時代、我々はベートーヴェンとは同時代の人ではなくなり、聴き手側はどうやっても「違う個性対違う個性」という状況を甘受しなければならなくなりました。そしてそれをいかに理解し、咀嚼するかというテーゼを突き付けられる場面が増えてきたと思います。だから宇野氏の批評も、晩年、だんだんと古さを感じさせる部分が出てきており、レコード芸術の批評は面白かったですが、こういう批評では最近の演奏家は適切な批評ができていない、と感じる場面も多かったと思います。

 

当然そのような状況が生まれたのは、現代に新曲が生まれないという事情が大きく関わっており、これも本来語られるべきですが、ここでは止めます。

 

吉田秀和氏は次のような話を引用しています。

 

<たとえば、彼(トスカニーニ)がやったヴェルディのオペラをきけば、そこにはありあまるほどの感情の表現があったのである。それは、ごく当たり前のことだ。ヴェルディはそのつもりで作曲したのだから。ただ、トスカニーニは、ヴェルディの書いた通りやって、その目標を達成しようとしたのであって、自分の考えた通りやろうとするのを排したにすぎない。

 

この間も、ミラノ・スカラ座一行の日本公演の解説書に、イタリアの評論家の文章がのっていたが、その中に、こんなことが書いてあった。『オテロ』の初演を前にしてヴェルディはオーケストラに非常に多くの練習を要求したらしいが、ある最後の幕で、デスデモナの寝室に今宵限り、最愛の妻を殺してしまおうと嫉妬に狂ったオテロが足音を忍ばせて近づいてくる時、そこにつけられたチェロのパートを受けもった若いチェリストがあんまり小さくひいていて、ヴェルディの思った効果が出ない。それで作曲家がそのチェリストに、「もっと大きく」と指示し、何度も引き直させるがチェリストはいつも小さくしかひかない。業を煮やしたヴェルディがそばにいって注意すると、その若い音楽家は楽譜を示し、「マエストロ、しかし、ここはppと書いてある」といって、譲ろうとしなかった、というのである。トスカニーニにいわせれば作曲家自身だって間違うことがあるのであって、典拠とすべきは楽譜の原典のみというわけだったのだろう。

 

カラヤンはこの流儀から出た。若いころの彼の早めのテンポ、流線型でもたもたせず颯爽とした疾走してゆく指揮ぶりは、そこから由来したものだった。>(吉田秀和著「カラヤン」から)

 

演奏家が自身の「演奏する」というやり方に徹すれば、演奏家は「楽譜通り正確に弾く」ということになるのでしょう。片や、フルトヴェングラーのように作曲も行う演奏家にしてみれば、いくら楽聖の楽譜といえども、効果が出なければ楽譜通りに弾かないという瞬間が出て来るとも思われます。

 

ショパン弾き |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、ピアにストに関する話ですが、弾き手側の理屈を優先する場合と、作曲家が何をいいたかったかを追求する場合があるという話です。後者の「作曲家が何をいいたいのか」、という演奏のスタイルは、作曲された時代が遠のくにつれ、追求しにくくなる可能性が大きいと思います。

 

ヴェルディのオペラ |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

カラヤンのブラームス全集 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事2件、カラヤンとトスカニーニに関する論考です。特に、カラヤンの資質を考えると、オテロの冒頭や、ブラームス交響曲1番の第1楽章などが彼の資質と一致して、優れた表現であるのではないかという僕自身の考えを記しています。ベートーヴェンの方は、カラヤンよりもトスカニーニの方が素晴らしいと思います。

 

トスカニーニやカラヤンは何でも演奏できますが、彼らの資質を考えると、上記のような部分も存在すると思います。

 

現代の演奏家の演奏はこれらの傾向が混在しているケースが、多数見受けられるのではないでしょうか?

 

評論家の許光俊氏の言葉を引用したいと思います。

 

<ここ30年以上、日本で最も影響力があった音楽評論家は、吉田秀和と宇野功芳のふたりである。これはもう間違いがない事実だ。しかし、このふたりは実に対照的だった。吉田の主戦場は新聞と文芸誌と放送。それに対して宇野は音楽雑誌。吉田はいかにもな教養人でインテリだったが、宇野はインテリを嫌った。吉田の評論を好む人は宇野をバカにし、またその逆でもあった。吉田は、「クラシックも聴く教養主義者」にもアピールしたが、宇野はマニアに愛読されることがおおかった。

 

・・・(中略)・・・

 

宇野は感覚的な人間だったから、時々、誰も指摘しない鋭いことを何げなく書いたが、おそらく本人は、それがどれぐらい鋭いか気づいていなかっただろう。他方、吉田は自分が書く言葉の意味をすべて良く知っていたと思う。となると、両者のおもしろさは違うタイプのおもしろさということだ。吉田の文章は丁寧に文章を追って読むのがおもしろく、宇野の文章は思いがけないことを書いているのを見つけるのがおもしろいのである。

 

吉田は演奏の全体性を無視できなかったが、宇野は瞬間的な誘惑に思う存分身を委ねた。人には固有の時間感覚がある。宇野は、フルトヴェングラーとクナッパーツブッシュの時間感覚が違うことを、そういう理屈っぽい書き方ではなかったけど、気づいていた。

 

このふたりの文章はこれからも長く読み継がれていくことだろう。残念ながら、そう書くことは出来ない。評論家は、たとえその時代にどれほど影響力があっても、死ねば忘れられるのが常だ。音楽に限った話でもない。今、野村光一や江藤淳の評論をありがたがる人など、ほとんどいないだろう。読めば読んだでおもしろい。でも、何か古い新聞のようなものだ。知らず知らずのうちに時代は動いている。評論家はその中で生きて書いてなんぼの仕事である。そこが創作家と違うところだ。>(許光俊著「クラシックの秘宝」から)

 

 

再販された、あらえびす(野村胡堂)の「楽聖物語」のあとがきで、渡辺和彦氏が次のように記しています。

 

<日本のクラシック音楽の受容はある時期まで、生演奏の体験よりはるかに多く、レコード(SP、LPの両方)の受容に偏重していた。その事実はこれまで常に問題とされてきた。そうした世界では、音楽評論とレコード紹介&批評が音全一体となり、レコード紹介者が「音楽評論家」を標榜するという不思議な現象を生み出した。音楽評論=レコード評論。その功罪を論ずる際、ヤリ玉に上がっていたのが「あらえびすの如きレコード評」だった。特に形容詞の氾濫と紋切り型の文体、中でも「三匹のユーレイのうちから一匹捕まえてくればいい」「三麗」「五麗」などと揶揄された二文字の濫用は、冷笑の的だった。

 

本書に限っても華麗、壮麗、流麗、端麗、鮮麗、優麗、雄麗が繰り返し使われ、ついには繊麗、妖麗、瑰麗まで飛び出す。>

 

 

↑、野村光一著「クラシック名盤・楽聖物語」。戦前に活躍した音楽批評家、あらえびす(野村光一、または野村胡堂)の著作の復刻版。まだSP時代に、作曲家の名曲と同時にその録音を紹介しています。紹介されている演奏家は、トスカニーニ、ハイフェッツ、ビーチャムなどの今でも知られる演奏家以外に、今ではほとんど聴かれない演奏家も多いと思います。フルトヴェングラーは若手の扱いです。この名盤案内が現代でどれぐらい通用するかは不明です。この本で、紹介されている音源を聴いてみるのも悪くないですが、一般には古すぎるでしょうか。

 

米国の評論家ハロルド・ショーンバーグの著作を読んでいると、どのレコードが素晴らしいかなんて一言も書いてありません。例えば「ピアノ音楽の巨匠たち」を読むと、ピアノとその作曲家、演奏家についての歴史が事細かにかいてあり、ショパンやリストの録音は残っていないにも関わらず、当時の新聞や評論などから、彼らがどのようにピアノを弾いたかという考察などもされています。

 

 

↑、ハロルド・H・ショーンバーグ「ピアノ音楽の巨匠たち」。米国の音楽評論家による、ピアノとピアニストたちの歴史を網羅した力作です。こういうのを読むと、日本の音楽評論家との差を感じざるを得ません。教養が深く、また評論家として、社会に対する役割を理解している人物の書いた内容かと思います。

 

ショーンバーグは、歴史的な名演奏家が、演奏が行われた現地などへ行き、事細かい取材を行っているに違いありません。こういうものを読んでしまうと、レコードやコンサート評ばかりしている日本の評論家との違いを、判然と感じざるを得ません。

 

諸外国にも音源批評はありますし、必要なことだと思います。ただ日本国内だと、元々生のコンサートに行く機会は少なったと思いますし、音源が批評の中心になるのも仕方なかったかもしれません。そこの差が、ショーンバーグの批評などを読んでいて感じるところです。

 

 

↑、ユルゲン・ケスティング「マリア・カラス」。ドイツの音楽評論家、ケスティングによる、マリア・カラスの紹介本です。亡くなってしまった、名演奏家は録音でしか、その内容を確かめることができません。この書籍の後半ではカラスの録音に関する論評も行っています。日本でもカラスはそれなりに知名度がありますが、ほとんどが、その姿の美しさや、業績に関しての関心だけだと思います。彼女を称賛しながらも、実際その録音を聴いている人がどれぐらいいるかは疑問です。自分は録音を聴いてから、この書籍の論評を読むと、なぜ彼女が素晴らしいとされたのかが、良く分かるようになりました。彼女は声が美しい歌手ではなく、底力のある歌唱力を、高度なテクニックでコントロールして、歌だけでドラマを表出できる人物だったわけです。そういうことを気付かされてくれる内容の本でした。録音評も必要だというのは、いうまでもありません。過去の名演奏家を、録音から読み解く、というのも重要な評論家の仕事なんでしょう。過去の演奏家を、歴史的音源から読み解くという評論家のあり方、宇野氏はこちらに近かった存在かも知れません。

 

しかし、日本の国内では、更にその狭い世界で、どの録音がやれ名演だ、駄演だといって喧嘩している姿は、個人的にはちょっとしんどくなってきています。まあ、自分も色々書いてきているので偉そうにもできませんけども。

 

必ずしもレコード評が、いけないという話でもないとは思います。そこから抽出される抽象概念などもあり、これはこれで面白いものです。そこから学ぶことも多く、勉強になります。個人的には宇野氏や吉田氏の書いた評論から、さらに1歩踏み出して、自分なりの聴き方を模索しています。

 

ただ、雑誌とコラボして、レコードの販促に関わったりする過程で起こる、評論の歪みなどを考えると、日本の評論家の姿勢というは世界的に見てもちょっと異質なのかな、という感じはしますね。

 

結局音楽は楽しんで聴きたいと思うのが最近の自分です。

 

最初にもいいましたが、クラシック音楽には批評はマストだと思っています。ただそれも結局程度問題で、あんまり批評ばかりはびこっても、窮屈な思いも多いかなと感じています。

 

今日はサントリーホールで、ミュンヘン・フィル、ブルックナー8番。指揮はトゥガン・ソヒエフ。

 

自分は、ブルックナー8番を実演で聴くのは初めてです。

 

自分はコンサートに行きはじめて、せいぜい4年ぐらい、しかも年に8回程度しか行けないので、中々聴きたいのものが聴けません。ブルックナーの8番については、なんとかブルックナー・イヤーの今年に聴いておきたいと思っていたので、聴けてラッキーでした。今回、聴きながら20代、夢中でこの曲の録音を聴いていたのを思い出しました。

 

演奏は、かなり感動しました。まとまった感動ではちょっという感じもありますが、色々な部分でウルっとしました。

 

また、最近は録音でも、クラシックをほとんど聴いていないので、久しぶりにちゃんとクラシックを聴いた感じがしました。

 

ソヒエフも勉強不足で申し訳ないんですが、初めて聴きます。ミュンヘン・フィルも生では初めてです。そういう意味でも色々と楽しかったです。

 

ただ、ソヒエフのブルックナーをドイツで聴いた人が書いたブログがあって、ちょっと異質みたいなことを書いていた気がしますが、どうなんだろうという感じで、聴きに行きました。

 

確かに、第1楽章は大変なスローテンポでまるでチェリビダッケみたいでした。曲全体でも100分ぐらいかかったみたいです(90分ぐらいという話もあるようです)。

 

あの感じだと「ダレる」みたいに感じる人がいても、おかしくなさそうです。でも自分は中々面白かったです。実際のオーケストラでやるので、多少だれても自分は平気でした(録音で聴くよりスケールが大きいですからね(^-^;)。立体感に乏しいとか、全体に分解的に聴こえてもおかしくない演奏かもしれないですが、自分は許容範囲でした。

しかし、ブルックナーの交響曲8番ですが、改めて聴くと、交響曲といいながら、まるで交響詩のようなところも多く、理解するのに難しい曲なのかな、という感じがしました。交響詩ぽいというのは、音の動きとか、リズムが少なく、メロディはありますが、連結部はほとんどメロディというよりも、「文脈」みたいで、動きは細かい。躍動感で曲を聴かせられない部分が多いかな、と感じます。第3楽章はその細かい動きが特に多く、それを積み重ねて巨大化させてるので、初見で理解するのはまず困難かな、と思います。1曲の中に、情報が多すぎますよね。その分内容は非常に深いですけど。

 

実演を聴くのなら、予習は必須の曲でしょう。  

だからブルックナーはテンポを落とさないと、聴き手が置いてけぼりになります。人間はそんなに沢山一度に情報を処理できないんですね。ソヒエフはテンポを落として、細部に魂が宿るが如く、ゆっくりと演奏し、徹頭徹尾、曲の文脈を追い続けたので、聴き手はだれずに最後までしっかりと聴けたと思います。


ソヒエフの演奏はそういった、交響詩風の印象を一層助長していたと感じました。チェリビダッケの録音に慣れていた人などは余計聴きやすかったのではないでしょうか。

 

 

特に第3楽章は、昔夢中になって聴いていた時がフラッシュバックしてきて、良かったです。第1主題から始まる展開部は、まるで深い森の奥に分け入っていくような印象があり、神秘感と安心感が入り混じっているせいで、ずっと聴いていたいと思ったものです。ソヒエフが結構ゆったり演奏するものですから、不思議とその感覚が戻ってきました。ブルックナーの実演って、当然録音より音は大きいんですが、はっきりと演奏者と聴き手になって別れている分、客観的に聴いてしまう時があります。ブルックナーは曲の内部に入り込まないと中々分かり辛いので、やはりテンポを落とす方が、聴き手が内部に入りやすいかと自分は考えています。当然テンポを落としすぎれば、訳が分からなくなるんですが。曲が空中分解したりします。

 

ソヒエフの指揮するオーケストラの音色は、角は立てずに、終始美しい響きと、底光りのするオケの迫力がありました。


ミュンヘン・フィルも初めて生で聴きましたが、録音で聴くのと同じ音がして感激でした。ベルリン・フィルみたいな剛直でない、柔軟性と豊かさ、そして少し陰りのある音が聴こえてきました。特にスケルツオでその印象を受けました。非常に美しい音色でした。