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 ヒマジンノ国

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<フルトヴェングラーのトリスタンは名演なのか?>

 

演奏家と作曲家は別人であり、いいかえれば、違う個性なわけです。確かに演奏家が作曲家に従う時、作曲家の方が立場は上のような気がします。ですが、演奏家が作曲家の個性とは違う時、演奏家は必ずしも、作曲家に従う必要があるのでしょうか?

 

演奏家と作曲家の関係でもう1つ、気にしなければならないことがあるとすれば、それは「個性と個性のぶつかり合い」という部分を強調した演奏だと思います。

 

宇野氏の演奏論によれば、いくらかは演奏家の資質が、作曲された、曲の性格に合致せねばなりません。その演奏家の性質に会わない曲というのは、曲の本質を外す可能性が高くなるといういい分でもあるように思います。氏はフルトヴェングラーの演奏したシューベルトの「未完成」について以下のように述べています。

 

<いかにもフルトヴェングラーらしい「未完成」の名演である。彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなったそうだが、曲想が彼の表現とぴったり合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。しかし、このCDでは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

それ故、宇野氏が勧めるのは、(シューベルトに資質の近い)ブルーノ・ワルターによる「未完成」となります。曲の内部に入り込んで、自在の演奏ができる演奏家が、宇野氏のいうようなスペシャリストです。

 

しかし逆に自分の資質に合わない場合、演奏家は固くなる時があります。

 

宇野氏との対談で、作曲家の佐藤真氏が次のように語っています。イン・テンポの問題について語っていて、面白い内容なので引用します。

 

<トスカニーニは、イン・テンポの指揮者だと言われているけど、とんでもない。イン・テンポの指揮者という人がもしほんとうにいたとしたら、僕それ、音楽が分からない人だと思う。

 

僕は昔、学生の書いたものを試演する目的で、オケを振る機会があった。学生の曲だから出来栄えにむらがある。いいところもあれば、悪い全然だめなところもある。振っていて音楽の分からないところに差し掛かると、指揮者は必ずイン・テンポになる。>(「宇野功芳編集長の本」から)

 

つまり演奏家は自分が理解できないところに来ると、音楽が固くなるということでもあると思います。この話は演奏家が、「生理的に」苦手な曲については演奏がしっかり機能しない、と主張する宇野氏の意見とも、幾分合致するように聞こえます。

 

そしてこのような演奏論のもと、考えなければならないのが、20世紀の新即物主義といわれた「ノイエ・ザッハリヒカイト」です。以前も少し書きましたが、楽譜は専門の教育を受けた人なら誰でも読めるわけですから、仮に曲の内面に対する知識や理解がなくとも、演奏できるという思想です。

 

なぜ演奏家が曲の内容を掘り起こす必要があるのか、という問いの論点は作曲家としてベートーヴェンの存在を論じる必要があると思いますが、今回は論点がずれるので止めます(音楽による、抽象概念の存在が認識されたということ)。

 

ただ、佐藤氏のいう如く、指揮者が分からないところに来るとテンポが「イン・テンポ」に成るという指摘は、この新即物主義の思想によって、より強く認識され、肯定される下地ができたように思います。確かに、音楽が分かっている場合と、分かっていない場合では「イン・テンポ」の意味が変わってくるのも道理でしょう。ただ自身の体質に合わない音楽をやる時、どんな名演奏家でも、「イン・テンポ」にいくらか近づくというケースは、多いように思います。

 

しかし、フルトヴェングラーのワーグナーように、テンポを動かさなくとも、ある程度まで、まじめに演奏し(イン・テンポに近い感じで)、曲の内面を暴かなくとも、演奏が正確で美麗であれば、むしろ作曲家よりも演奏家の個性が前に出て、「名演」となる下地ができたともいえましょう。つまりこれも宇野氏の意見とは、逆の意味を提示する例となります。

 

あるいは曲の内面が求めているような表現とは違う動きを出しても、その曲の別の側面を引き出して、今までにない名演を生み出すこともあるでしょう(グールドのバッハなど)。それも演奏家の「演奏主体」となりうるから発生する現象だと思います。

 

そしてフルトヴェングラーというのは、シューベルトの未完成を振ると、幾分ぎこちなさを感じさせた、という指摘と同様に、ワーグナーについても同様のことがいえるのだというのが、宇野氏の主張でしょう(逆にベートーヴェンをやると、水を得た魚のように生き生きとなる、本質的にフルトヴェングラーは作曲寄りの演奏家だと思います)。そうなると結局、ベートーヴェンでは音楽を散々動かす、フルトヴェングラーでも「ワーグナー」においては、イン・テンポのような演奏になり、まるでザッハリヒのように聴こえるということになると思いますね。

 

そして、このような、「イン・テンポ」、あるいは「客観的でクール」な演奏の録音を多く残したしたのは、フルトヴェングラーの後継だった、ヘルベルト・フォン・カラヤンでした。

 

元から、宇野氏によれば、演奏家の資質によって、演奏家が何かのスペシャリストになることを推奨しているように聞こえます。だけれどもカラヤンはそのようなことを一切気にしませんでした。宇野氏が嫌う理由も分かろうというものです。

 

スぺシャリストというのなら、フルトヴェングラーであればベートーヴェンのスぺシャリストなのでなのでしょうか?

 

しかしカラヤンのように自分の資質に関係なく、どんな作曲家でも、別け隔てなく演奏する(何でも屋 、とも揶揄されますが)となれば、演奏は先の佐藤氏の発言もないですが、「イン・テンポ」になるとか、ザッハリヒになって行くというのが、結局その本質かと思います。

 

そしてこのような、フルトヴェングラーのワーグナー(ここではトリスタンとイゾルデとします)やカラヤンの多く録音を、指揮者の資質の向き不向きから「名演としない」ということが本当に可能かどうかという議論になるわけです。

 

資質が合わないから、つまりフルトヴェングラーのワーグナーはワーグナーの本質は表現できないというのが宇野氏ですが、他方、ほとんどブラームスの本質を表現しているかどうか疑わしい、クナッパーツブッシュの演奏が素晴らしいと絶賛しているわけです。ここは明らかにダブルスタンダードな意見で、おかしいわけです。

 

宇野氏は確かにブラームスの音楽を嫌っていて、正当な評価をしているか疑問です。彼が溺愛した、クナーッパーツブッシュのブラームスの演奏を1番に持ってくるということではありませんが、しかし、クナの演奏はブラームスの本質を消し去っているようにも聴こえます。

 

いみじくも宇野氏がクナッパーツブッシュのブラームスが素晴らしいと認めたということは、つまり、演奏家の資質と異なる作曲家の音楽を演奏家が演奏しても、演奏家と作曲家との化学反応とでも呼ぶべき別の効果によって、名演になりうるということを示しているということになると思います(クナッパーツブッシュのブラームスはイン・テンポではありませんが)。

 

こうなってくると、カラヤンの多くの録音や、フルトヴェングラーのワーグナーもどうして名演でないか、という話を、指揮者の資質の問題だけでなく、他の情報を含めて語らなければ嘘ではないでしょうか?

 

その上でフルトヴェングラーの残した「トリスタンとイゾルデ」の録音が、どうして今日まで聴き続けられてきたのかという話を、考えてみるべきだと思います。

 

フルトヴェングラーの演奏した曲が持つ、和声上の豊かな響き、そのような傾向と、イン・テンポ(イン・テンポと断じてしまうのは問題だと思いますが、あくまで彼のベートーヴェンの演奏などと比較した場合の意見です)で演奏がされる故に、きめの細かい豊かな表現を可能たらしめた、劇的な効果などが相互に作用し、この録音は聴き手をワーグナーの特異な世界観へと導いていきます。

 

以下は名盤案内に記された、國土氏のフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」評です。

 

「<トリスタンとイゾルデ>の演奏を語る上でも欠かせない録音であり、フルトヴェングラーの音楽性でも欠くべからざる録音である。フルトヴェングラーのドイツ的な音作りの最大の特徴は、和声感へのこだわりである。美しい和声感へのこだわりである。美しい和声感を形作るには音程の良さは不可欠である。ドイツ・ロマン派の和声発展の臨界点である<トリスタンとイゾルデ>こそが、フルトヴェングラーの音楽性を最も生かせる生かせる作品であるのは、正に自明の理であろう。当時のフィルハーモニア管弦楽団の状況から鑑みても、何人たりとも達成していないこの入念な音程は、フルトヴェングラーによって生み出されたのだ。」(「クラシック不滅の名盤1000」から、國土潤一氏穂批評)

 

 

自分自身も、多分このような評価こそがフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」に対する正当な評価であるというべきであるように感じます。

 

つまりロマン派の最後の砦であった、フルトヴェングラーの演奏は、旋律を豊かに歌わせる能力とその効果が、ワーグナーの音響体にイン・テンポながら豊かに寄与しています。なおかつ、ドイツの指揮者ならではの、抽象性の高さと、内面にある思考性が彼の場合、まさにドイツのエトスの発現そのものであり、ドイツの「ロマン派」に合致します(音楽が音楽以外の抽象性を生むことがなければ、ロマン派は生まれることがありませんでした、フルトヴェングラーの演奏はそれを表現しうるものです)。

 

 

↑、ウィルヘルム・フルトヴェングラーによるワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、全曲。LP。歴史的な録音としても有名です。

 

ALP1030ー1035。

 

 

カラヤンの場合も同様に、「パルシファル」のようなワーグナーのオペラは極力イン・テンポで通します(ローエングリンなどは散々テンポを動かしている)。しかし、そのことによって音の官能性を芳醇化し、演奏の合奏度を上げることによって、かつて聴いたこともない精巧なワーグナー像を作り上げています。

 

このカラヤンのワーグナーも駄演というのは無理があると思います。「名演」といわれるべきでは?という気になります。

 

これも宇野流にいえば、カラヤンはワーグナーに向かない指揮者ということでしょう。しかし現在はこの録音も多くの人に認められています。一見不得意に見えても、実際にカラヤンが演奏すれば、名演になった、といえるものではないでしょうか?

 

 

↑、カラヤンによる、ワーグナー「パルシファル」。CD。音を美しく練り上げて、陶酔的な美の空間を作り出す、カラヤンの芸術が、極度に発揮された例だと思います。ここでは厳粛な宗教的楽劇の苦みが薄れ、美しい音色による、曲全体へのコーティングが成功した録音でしょう。

倫理性の欠ける、宇野氏の批評で1番抜けていたのが、作曲家と演奏家が全く違う個性の場合、その演奏をどう解釈するか?という問いでした。彼は多分自分でも気づいていたようにも思いますが、そこの部分を多くの場合、意図的に無視していました。

 

特に演奏史において、曲が作曲された時代から遠ざかれば遠ざかるほど、その解釈は難しくなる可能性があります。ガーディナーが、バロック時代初期の、モンテヴェルディの音楽を解釈する時、確かにそれらしい感じがする演奏になっています。しかしそれはどこか学究的な雰囲気があるものであり、完全な自然さを獲得しているものでもないように思えます。

 

ロマン派においても、19世紀生まれの指揮者の解釈が録音で残っているといっても、同じことを現代に再現することは非常に難しく、おそらくは不可能でしょう。

 

しかし作品の真正の解釈はどうしても、その曲が作曲された時代に近しい時代の演奏家の方が、有利の場合が多いようにも思えます(例外もありますが)。宇野氏のようにベートーヴェンの演奏の理想を、フルトヴェングラーにおいてしまうと、結局それ以外の演奏はどこまでも凡演という判断になってしまう可能性があります。そしてそのような必要性がどこまで必要なのか?という問いが浮かび上がってきます。現代フルトヴェングラーの演奏を「古い」と感じる聴き手もいると思います。

 

ベートーヴェンの死後既に200年になろうという時代、我々はベートーヴェンとは同時代の人ではなくなり、聴き手側はどうやっても「違う個性対違う個性」という状況を甘受しなければならなくなりました。そしてそれをいかに理解し、咀嚼するかというテーゼを突き付けられる場面が増えてきたと思います。だから宇野氏の批評も、晩年、だんだんと古さを感じさせる部分が出てきており、レコード芸術の批評は面白かったですが、こういう批評では最近の演奏家は適切な批評ができていない、と感じる場面も多かったと思います。

 

当然そのような状況が生まれたのは、現代に新曲が生まれないという事情が大きく関わっており、これも本来語られるべきですが、ここでは止めます。

 

吉田秀和氏は次のような話を引用しています。

 

<たとえば、彼(トスカニーニ)がやったヴェルディのオペラをきけば、そこにはありあまるほどの感情の表現があったのである。それは、ごく当たり前のことだ。ヴェルディはそのつもりで作曲したのだから。ただ、トスカニーニは、ヴェルディの書いた通りやって、その目標を達成しようとしたのであって、自分の考えた通りやろうとするのを排したにすぎない。

 

この間も、ミラノ・スカラ座一行の日本公演の解説書に、イタリアの評論家の文章がのっていたが、その中に、こんなことが書いてあった。『オテロ』の初演を前にしてヴェルディはオーケストラに非常に多くの練習を要求したらしいが、ある最後の幕で、デスデモナの寝室に今宵限り、最愛の妻を殺してしまおうと嫉妬に狂ったオテロが足音を忍ばせて近づいてくる時、そこにつけられたチェロのパートを受けもった若いチェリストがあんまり小さくひいていて、ヴェルディの思った効果が出ない。それで作曲家がそのチェリストに、「もっと大きく」と指示し、何度も引き直させるがチェリストはいつも小さくしかひかない。業を煮やしたヴェルディがそばにいって注意すると、その若い音楽家は楽譜を示し、「マエストロ、しかし、ここはppと書いてある」といって、譲ろうとしなかった、というのである。トスカニーニにいわせれば作曲家自身だって間違うことがあるのであって、典拠とすべきは楽譜の原典のみというわけだったのだろう。

 

カラヤンはこの流儀から出た。若いころの彼の早めのテンポ、流線型でもたもたせず颯爽とした疾走してゆく指揮ぶりは、そこから由来したものだった。>(吉田秀和著「カラヤン」から)

 

演奏家が自身の「演奏する」というやり方に徹すれば、演奏家は「楽譜通り正確に弾く」ということになるのでしょう。片や、フルトヴェングラーのように作曲も行う演奏家にしてみれば、いくら楽聖の楽譜といえども、効果が出なければ楽譜通りに弾かないという瞬間が出て来るとも思われます。

 

ショパン弾き |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、ピアにストに関する話ですが、弾き手側の理屈を優先する場合と、作曲家が何をいいたかったかを追求する場合があるという話です。後者の「作曲家が何をいいたいのか」、という演奏のスタイルは、作曲された時代が遠のくにつれ、追求しにくくなる可能性が大きいと思います。

 

ヴェルディのオペラ |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

カラヤンのブラームス全集 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事2件、カラヤンとトスカニーニに関する論考です。特に、カラヤンの資質を考えると、オテロの冒頭や、ブラームス交響曲1番の第1楽章などが彼の資質と一致して、優れた表現であるのではないかという僕自身の考えを記しています。ベートーヴェンの方は、カラヤンよりもトスカニーニの方が素晴らしいと思います。

 

トスカニーニやカラヤンは何でも演奏できますが、彼らの資質を考えると、上記のような部分も存在すると思います。

 

現代の演奏家の演奏はこれらの傾向が混在しているケースが、多数見受けられるのではないでしょうか?

 

評論家の許光俊氏の言葉を引用したいと思います。

 

<ここ30年以上、日本で最も影響力があった音楽評論家は、吉田秀和と宇野功芳のふたりである。これはもう間違いがない事実だ。しかし、このふたりは実に対照的だった。吉田の主戦場は新聞と文芸誌と放送。それに対して宇野は音楽雑誌。吉田はいかにもな教養人でインテリだったが、宇野はインテリを嫌った。吉田の評論を好む人は宇野をバカにし、またその逆でもあった。吉田は、「クラシックも聴く教養主義者」にもアピールしたが、宇野はマニアに愛読されることがおおかった。

 

・・・(中略)・・・

 

宇野は感覚的な人間だったから、時々、誰も指摘しない鋭いことを何げなく書いたが、おそらく本人は、それがどれぐらい鋭いか気づいていなかっただろう。他方、吉田は自分が書く言葉の意味をすべて良く知っていたと思う。となると、両者のおもしろさは違うタイプのおもしろさということだ。吉田の文章は丁寧に文章を追って読むのがおもしろく、宇野の文章は思いがけないことを書いているのを見つけるのがおもしろいのである。

 

吉田は演奏の全体性を無視できなかったが、宇野は瞬間的な誘惑に思う存分身を委ねた。人には固有の時間感覚がある。宇野は、フルトヴェングラーとクナッパーツブッシュの時間感覚が違うことを、そういう理屈っぽい書き方ではなかったけど、気づいていた。

 

このふたりの文章はこれからも長く読み継がれていくことだろう。残念ながら、そう書くことは出来ない。評論家は、たとえその時代にどれほど影響力があっても、死ねば忘れられるのが常だ。音楽に限った話でもない。今、野村光一や江藤淳の評論をありがたがる人など、ほとんどいないだろう。読めば読んだでおもしろい。でも、何か古い新聞のようなものだ。知らず知らずのうちに時代は動いている。評論家はその中で生きて書いてなんぼの仕事である。そこが創作家と違うところだ。>(許光俊著「クラシックの秘宝」から)

 

 

再販された、あらえびす(野村胡堂)の「楽聖物語」のあとがきで、渡辺和彦氏が次のように記しています。

 

<日本のクラシック音楽の受容はある時期まで、生演奏の体験よりはるかに多く、レコード(SP、LPの両方)の受容に偏重していた。その事実はこれまで常に問題とされてきた。そうした世界では、音楽評論とレコード紹介&批評が音全一体となり、レコード紹介者が「音楽評論家」を標榜するという不思議な現象を生み出した。音楽評論=レコード評論。その功罪を論ずる際、ヤリ玉に上がっていたのが「あらえびすの如きレコード評」だった。特に形容詞の氾濫と紋切り型の文体、中でも「三匹のユーレイのうちから一匹捕まえてくればいい」「三麗」「五麗」などと揶揄された二文字の濫用は、冷笑の的だった。

 

本書に限っても華麗、壮麗、流麗、端麗、鮮麗、優麗、雄麗が繰り返し使われ、ついには繊麗、妖麗、瑰麗まで飛び出す。>

 

 

↑、野村光一著「クラシック名盤・楽聖物語」。戦前に活躍した音楽批評家、あらえびす(野村光一、または野村胡堂)の著作の復刻版。まだSP時代に、作曲家の名曲と同時にその録音を紹介しています。紹介されている演奏家は、トスカニーニ、ハイフェッツ、ビーチャムなどの今でも知られる演奏家以外に、今ではほとんど聴かれない演奏家も多いと思います。フルトヴェングラーは若手の扱いです。この名盤案内が現代でどれぐらい通用するかは不明です。この本で、紹介されている音源を聴いてみるのも悪くないですが、一般には古すぎるでしょうか。

 

米国の評論家ハロルド・ショーンバーグの著作を読んでいると、どのレコードが素晴らしいかなんて一言も書いてありません。例えば「ピアノ音楽の巨匠たち」を読むと、ピアノとその作曲家、演奏家についての歴史が事細かにかいてあり、ショパンやリストの録音は残っていないにも関わらず、当時の新聞や評論などから、彼らがどのようにピアノを弾いたかという考察などもされています。

 

 

↑、ハロルド・H・ショーンバーグ「ピアノ音楽の巨匠たち」。米国の音楽評論家による、ピアノとピアニストたちの歴史を網羅した力作です。こういうのを読むと、日本の音楽評論家との差を感じざるを得ません。教養が深く、また評論家として、社会に対する役割を理解している人物の書いた内容かと思います。

 

ショーンバーグは、歴史的な名演奏家が、演奏が行われた現地などへ行き、事細かい取材を行っているに違いありません。こういうものを読んでしまうと、レコードやコンサート評ばかりしている日本の評論家との違いを、判然と感じざるを得ません。

 

諸外国にも音源批評はありますし、必要なことだと思います。ただ日本国内だと、元々生のコンサートに行く機会は少なったと思いますし、音源が批評の中心になるのも仕方なかったかもしれません。そこの差が、ショーンバーグの批評などを読んでいて感じるところです。

 

 

↑、ユルゲン・ケスティング「マリア・カラス」。ドイツの音楽評論家、ケスティングによる、マリア・カラスの紹介本です。亡くなってしまった、名演奏家は録音でしか、その内容を確かめることができません。この書籍の後半ではカラスの録音に関する論評も行っています。日本でもカラスはそれなりに知名度がありますが、ほとんどが、その姿の美しさや、業績に関しての関心だけだと思います。彼女を称賛しながらも、実際その録音を聴いている人がどれぐらいいるかは疑問です。自分は録音を聴いてから、この書籍の論評を読むと、なぜ彼女が素晴らしいとされたのかが、良く分かるようになりました。彼女は声が美しい歌手ではなく、底力のある歌唱力を、高度なテクニックでコントロールして、歌だけでドラマを表出できる人物だったわけです。そういうことを気付かされてくれる内容の本でした。録音評も必要だというのは、いうまでもありません。過去の名演奏家を、録音から読み解く、というのも重要な評論家の仕事なんでしょう。過去の演奏家を、歴史的音源から読み解くという評論家のあり方、宇野氏はこちらに近かった存在かも知れません。

 

しかし、日本の国内では、更にその狭い世界で、どの録音がやれ名演だ、駄演だといって喧嘩している姿は、個人的にはちょっとしんどくなってきています。まあ、自分も色々書いてきているので偉そうにもできませんけども。

 

必ずしもレコード評が、いけないという話でもないとは思います。そこから抽出される抽象概念などもあり、これはこれで面白いものです。そこから学ぶことも多く、勉強になります。個人的には宇野氏や吉田氏の書いた評論から、さらに1歩踏み出して、自分なりの聴き方を模索しています。

 

ただ、雑誌とコラボして、レコードの販促に関わったりする過程で起こる、評論の歪みなどを考えると、日本の評論家の姿勢というは世界的に見てもちょっと異質なのかな、という感じはしますね。

 

結局音楽は楽しんで聴きたいと思うのが最近の自分です。

 

最初にもいいましたが、クラシック音楽には批評はマストだと思っています。ただそれも結局程度問題で、あんまり批評ばかりはびこっても、窮屈な思いも多いかなと感じています。

 

今日はサントリーホールで、ミュンヘン・フィル、ブルックナー8番。指揮はトゥガン・ソヒエフ。

 

自分は、ブルックナー8番を実演で聴くのは初めてです。

 

自分はコンサートに行きはじめて、せいぜい4年ぐらい、しかも年に8回程度しか行けないので、中々聴きたいのものが聴けません。ブルックナーの8番については、なんとかブルックナー・イヤーの今年に聴いておきたいと思っていたので、聴けてラッキーでした。今回、聴きながら20代、夢中でこの曲の録音を聴いていたのを思い出しました。

 

演奏は、かなり感動しました。まとまった感動ではちょっという感じもありますが、色々な部分でウルっとしました。

 

また、最近は録音でも、クラシックをほとんど聴いていないので、久しぶりにちゃんとクラシックを聴いた感じがしました。

 

ソヒエフも勉強不足で申し訳ないんですが、初めて聴きます。ミュンヘン・フィルも生では初めてです。そういう意味でも色々と楽しかったです。

 

ただ、ソヒエフのブルックナーをドイツで聴いた人が書いたブログがあって、ちょっと異質みたいなことを書いていた気がしますが、どうなんだろうという感じで、聴きに行きました。

 

確かに、第1楽章は大変なスローテンポでまるでチェリビダッケみたいでした。曲全体でも100分ぐらいかかったみたいです(90分ぐらいという話もあるようです)。

 

あの感じだと「ダレる」みたいに感じる人がいても、おかしくなさそうです。でも自分は中々面白かったです。実際のオーケストラでやるので、多少だれても自分は平気でした(録音で聴くよりスケールが大きいですからね(^-^;)。立体感に乏しいとか、全体に分解的に聴こえてもおかしくない演奏かもしれないですが、自分は許容範囲でした。

しかし、ブルックナーの交響曲8番ですが、改めて聴くと、交響曲といいながら、まるで交響詩のようなところも多く、理解するのに難しい曲なのかな、という感じがしました。交響詩ぽいというのは、音の動きとか、リズムが少なく、メロディはありますが、連結部はほとんどメロディというよりも、「文脈」みたいで、動きは細かい。躍動感で曲を聴かせられない部分が多いかな、と感じます。第3楽章はその細かい動きが特に多く、それを積み重ねて巨大化させてるので、初見で理解するのはまず困難かな、と思います。1曲の中に、情報が多すぎますよね。その分内容は非常に深いですけど。

 

実演を聴くのなら、予習は必須の曲でしょう。  

だからブルックナーはテンポを落とさないと、聴き手が置いてけぼりになります。人間はそんなに沢山一度に情報を処理できないんですね。ソヒエフはテンポを落として、細部に魂が宿るが如く、ゆっくりと演奏し、徹頭徹尾、曲の文脈を追い続けたので、聴き手はだれずに最後までしっかりと聴けたと思います。


ソヒエフの演奏はそういった、交響詩風の印象を一層助長していたと感じました。チェリビダッケの録音に慣れていた人などは余計聴きやすかったのではないでしょうか。

 

 

特に第3楽章は、昔夢中になって聴いていた時がフラッシュバックしてきて、良かったです。第1主題から始まる展開部は、まるで深い森の奥に分け入っていくような印象があり、神秘感と安心感が入り混じっているせいで、ずっと聴いていたいと思ったものです。ソヒエフが結構ゆったり演奏するものですから、不思議とその感覚が戻ってきました。ブルックナーの実演って、当然録音より音は大きいんですが、はっきりと演奏者と聴き手になって別れている分、客観的に聴いてしまう時があります。ブルックナーは曲の内部に入り込まないと中々分かり辛いので、やはりテンポを落とす方が、聴き手が内部に入りやすいかと自分は考えています。当然テンポを落としすぎれば、訳が分からなくなるんですが。曲が空中分解したりします。

 

ソヒエフの指揮するオーケストラの音色は、角は立てずに、終始美しい響きと、底光りのするオケの迫力がありました。


ミュンヘン・フィルも初めて生で聴きましたが、録音で聴くのと同じ音がして感激でした。ベルリン・フィルみたいな剛直でない、柔軟性と豊かさ、そして少し陰りのある音が聴こえてきました。特にスケルツオでその印象を受けました。非常に美しい音色でした。

 

 

米国の大統領選が終了しました。マスコミは散々ハリス氏有利と宣伝していましたが、ハリス氏大敗で、大ウソだったといって良い結果だったと思います。彼らは、日本人を洗脳する気満々でしたが。

 

 

今の世界がほとんどコントロール不能になったのは、バイデン政権になった後です。米国では、多くの人にその嘘もばれてきているということだと思います。

 

これで、D・トランプ氏が再び大統領に返り咲いた、ということになります。今後の4年間、世界の方向性が決まりました。ハリス氏になろうと、トランプ氏になろうと、今後4年は激動の世界になる可能性があります。ハリス氏の場合は旧世界の延長という意味で、トランプ氏の場合は旧世界の崩壊という意味で、です。

 

米国民の選択は後者となりました(米国は共和制になるのではないか?といわれています)。

 

D・トランプ氏らのいうDS(ディープ・ステート)は「ヨハネの黙示録」のいう、「大淫婦」のことをいっている可能性があり、今後要チェックとなると思います。

 

しかし、D・トランプ氏が正しかろうと正しくなかろうと、あえていえば、我々人類の選択にはこのルートしかなく、これは逃れられない道となるでしょう。世界そのものは無くなりませんが、旧世界の基盤がどうなるかは分かりません。

 

自分も、いくらか意見を変えなければならないと感じている部分もあって、そこは今後修正したいと考えています。

 

 

その1つが、ハリウッドなどの米国エンタメ業界の闇でしょう。自分も米国の歌手などには好きな人も多いので、もっとはっきりした結果が分かってから書こうと思っていましたが、触りだけ書きます。

 

イーロン・マスク氏は自身のXでの発言で、エプスタインリストがあるから、芸能人を含めたセレブたちが、それをばらさないように、カマラ・ハリスを応援しているのだといっていました(トランプは、それをばらすといっていました)。

 

歌手で有名なのは、テイラー・スウィフト。彼女は米国民主党のイコンとして、散々持ち上げられていました。

 

 

他にもビヨンセや、J・ロペスは選挙終盤、ハリスの応援に駆け付け、J・ロペスは涙ながらに支持を訴えたといいます。

 

 

↑、涙ながらにハリス応援を訴える、J・ロペス。

 

エプスタインリストにおける話は以前少し書きました。その後、ラッパーのディディが人身売買の容疑で逮捕され、現在エプスタイン事件と同様の問題となっています。

 

サウンド・ オブ・フリーダム |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。

 

そしてJ・Loは、ディディとの関係が取り沙汰されている1人でもあります。写真が出回っていてどうなんだろうという話です。

 

 

↑、何時頃の写真かは良く分からないですが、ベン・アフレックと離婚したのはディディとの関係が原因だという話だそうです。

 

ただ彼女がどの程度これらの問題に関与していたのかは、まだ良く分かりません。例えば、ディディのパーティーの規模は相当に大きいらしく、多くの芸能人が参加したとのこと。しかしそのうちどれぐらいの人が、そのコアな部分を知っていたかは外部からは分かりません。人によっては、ビヨンセはアウトだが、ジョニー・デップはむしろ被害者だ、とかいう人もいて、さすがにその辺の話は我々には分からない部分です。

 

自分が何でこの話を書いているのかといえば、単純に僕自身が、「J・ロペスのファン」だったからで、アルバムなども持っています。結構好きだったんですがね(>_<)。他にもテイラー・スウィフトなどにも、個人的に好きなアルバムがあります。

 

しかし、これらのセレブも、このエプスタインや、ディディの事件に関わった度合いによっては、「彼らや彼女らのファンだ」、といえるような感じでもなくなる可能性があります。多分日本のジャニーズよりも、何倍も酷い案件のはずです。

 

自分は本来こういう世俗の事件と、彼らの作った作品は分けて考えたい方ですが、それができるような事件かどうか、かなりきわどい案件だと考えています。当然、この問題は芸能界だけでなく、政治や経済界の大物など名前も挙がってくる可能性が大です。

 

 

スイマセン、少し先走りましたが、D・トランプ氏が本当にこれらの事件の暴露をするなら、自分も今まで通りではいられないな、という話です。

 

本当に暴露してくれるかは、まだ分かりませんけどね。

 

ただトランプ大統領は、エプスタインリストだけでなく、JFK暗殺、911などの世界を震撼させた事件のファイルも公開する、といっていますね。これらが本当に実現されれば、「真実は小説よりも奇なり」という世界の真実が白日の下に晒される、ということだと思います。

 

しかし、余談なんですが・・・2025年、2026年、2027年となると567と並ぶんですね。日本の神示では5は五角形の漢字の「火」、6は六角形の漢字の「水」、7(七)は漢字の「土」の略字として、「神(火水)の土(大地)」と読みます。これを昔から「ミロクの世」といってきたんですね。神の国になる、という暗示ですが。まあ、参考までに。369も666もミロクなんですがね。

 

コロナウィルス(567ウィルス)で始まった艱難の7年の終わりはやはり、2027年ぐらい、という話が出ていますが、本当なのでしょうかね?

 

衆議院選挙が終了しました。自民公明の両与党が過半数に達することなく、大幅に議席を減らしました。

 

投票率は56パーセントほどで、前回より下がったそうです。自分は、今回の選挙は話題が多いだけに、投票率は上がると思っていましたが、そうはならず。少し驚いています。

 

確かに話題といっても、ネガティヴな話題が多かったので、こういう投票率になったのかもしれません。

 

立憲、国民、れいわが不満票の受け皿になったようで、大幅に議席を増やしました。これで直近では首班指名がどうなるか、見ものです。

 

保守党と参政党も3議席ずつ。

 

こうなってくると、しばらく政治は混沌としそうですね。正直、何年も前からいずれ政治はぐちゃぐちゃになるかな、と感じていたので、それが始まったのかもしれません。

 

裏金とか、統一教会、あるいは創価学会とか、こういうおかしなものに対してちゃんとけじめをつけないので、この結果になったと思いますね。今のままだと、自民党はカルト宗教に乗っ取られた、金に汚い集団にしか見えないと思います。古い政治はもうやってほしくないですね。

また選挙ということで、一体どこに投票しようかという、いつもの悩みが出てきています。

 

以下はあくまで個人的な意見ということでお願いします。意見は是々非々で、ということで書いています。常識的な内容ではないので、いつも通り理解はされないでしょうけどね。

 

政策だけ見ていると、参政党が良いかなという話になるんですよね。移民反対、LGBT反対など。しかし、人気があるのは日本保守党で、結構露出も多い気がします。個人的には石濱氏の始めた、本家「日本保守党」は良いと思うんですが、百田氏と有本氏の日本保守党は・・・化けの皮かぶってるな、という印象が強いです。

 

 

今どき、ブラックロックを知らないとかありえないでしょ。DS、ネオコンて何でしょうね、とか。しかも熱心なウクライナ応援団で、完全に根っこはグローバリストと同じ発想です。表面だけ保守っぽくしていると、みんな引っかかるという構図なんじゃないのかね、という感じがしますが。

 

 

自民党と同じで革命派の手駒という感じです。また同時に、参政党潰しのために投入されたという見方も多数あります。

 

 

他にも、もっと本質的に保守であった、石濱氏の元祖「日本保守党」をマスキングして、潰してしまう効果もあります。彼らの裏に自民党がいるかどうか、とかは分かりません。しかし、「保守っぽいグローバリスト」の補完勢力なのは間違いないとは思うんですけどね。

 

 

じゃあ、参政党なら良いのかな?みたいな話なんですが・・・これもトラップありかも、という印象ですね。

 

参政党が大丈夫かといえば、正直良く分かりません。政策はともかくとして、その背景ですね。

 

 

統一教会を通じて、ロスチャイルドなどとつながりがある可能性はあります。しかし統一教会はどこにでも顔を出しますね。

 

他にも色々問題があるとは思いますが・・・。神谷って人がどういう背景の人物か良く分からんのですね。

 

 

神谷氏はヤマト・ユダヤ協会の理事を務めていたという話です。

 

 

これが何かという話なんですが、アーロン大塚さんが簡単に解説なさっているので載せます。

 

 

要は、ユダヤ人と日本人は優れているという、選民思想を掲げている団体の可能性があります。これは結構危ないかと思います。神谷氏はこういうものを日本人に植え付けようとしている可能性があります。

 

しかし、それでも、現状では消去法で日本保守党よりはまし、だと考えています(あくまで政党として、です。神谷代表を変えたほうが良い可能性があります)。

 

どうなんだろうなあ。都知事選と同じで、何かを諦めないと投票できそうにありません。今回の選挙では参政党よりも日本保守党が議席を伸ばすのでしょうか?そんな感じには見えますけど。

 

ということで、一体どこに投票しようか、自分は結論はまだ出ていません。日本保守党も参政党も裏はありそうです。

 

以下は選挙とは少し離れて、この先の展望を書きます。

 

多分今後の見立てとしては、世界は百田氏の「日本保守党」とは違う方向に進むと思います。イタリアのメローニ、フランスのル・ペンなど、ユーロでも保守系はLGBT・移民反対、同時にウクライナ支援反対に動いています。これが世界の保守の趨勢ではないでしょうか。

 

 

百田氏の保守党は結構危ないなあ、という感じですね。知性的に問題があると思います。いずれ分かるんでしょうけど。ただ時間かかりそうで怖いですね。もっと大きい問題になりかねない案件だと考えています。

 

 

以下がいわゆる国内の自称「保守」でしょうか。色々問題あるとは思うんですが、参政党と日本保守党を比べると分かることが多いので、このまま書いていきます。見た目では、参政党の方がグローバルな保守の形に近いんですね。ここは日本だから、その必要もない、という人もいるでしょうけど。この差が今後割と重要になる可能性もあるのでね。

 

参考程度でお願いします。

 

 

新露か反露か、というよりも、ロシア対ウクライナの紛争に対して、中立を保てるかどうかという話だと思います。

 

参政党は、トランプやRFK・jrに近いといっている人もいます。長いですが、引用します。神谷氏の出どころなんかも書いてますが。

 

 

米国も今はかなり2分されてきているんですね。だから単純に親米、反米という言葉も使いづらくなてきていると思います(自分は使ってますがね)。

 

まあ、上記は一応それなりに納得できる解釈でもあるんでしょうか。実際、D・トランプが正しいか、RFK・jrが正しいかどうかは分からないんですが、11月の米国大統領選でトランプ氏が勝てば、上記のようなものが、世界的に保守の方向性として考えられるようになるのでは?と考えています。ですが、個人的に、参政党(神谷氏)の正当性を保証するものとも考えておりません。今後様子見ながら、解釈していくほかないと思います。

 

<おまけ>

 

「Make America Great Again」を略して「MAGA」、いわゆるD・トランプ支持者のことでもあり、D・トランプそのものでもあるといえます。シンボリズムからこのことを考察している方がいたので、勝手に紹介します。

 

この「MAGA」が「MAGI」、つまりマジシャンの語源であるという話ですね。

 

 

他方、イーロン・マスクがその対蹠者で、黒いマジシャンだといいます。自分で名乗っているそうです。

 

 

彼らはチェス盤面のビショップにあたるそうで、そこには守るべき「王」がいるのではないかという話をしております。

 

 

ですので、2体の守護に守られた「王」がいるのではないかという話です。しかも6月生まれらしい(イーロンとトランプは6月生まれ)。ちなみにJFK・jrは11月生まれです。

 

ということでおまけはこれで終わりです。なんのこっちゃ、という話でしょうけど。一応今後のことを考えて書き残しておきます。

 

先日、ペドフィリアの問題を追及した映画「サウンド・オブ・フリーダム」を鑑賞。

 

去年から米国で公開されて話題になっていた作品です。製作してから、5年もの間、妨害にあい、中々公開できなかったとのこと。

 

内容は実際の事件を元にした、幼児誘拐事件を追った作品で、その規模の大きさや卑劣さにフォーカスをしています。しかし、大衆映画なので、それなりにマイルドに表現されていると思いました。

 

さて、この作品が米国で話題になったというのは、理由があると思います。長らく、米国では大物政治家やハリウッドのセレブなどが、軒並みこのペドフィリアに関わっているといわれてきたからです。

 

2019年に未成年の性的虐待で逮捕された、ジェフリー・エプスタインは同年に刑務所で死亡(自殺とされていますが、実際の死因は不明)。エプスタインの所有する島で、繰り返し未成年の虐待が行われていたといいます。そしてここには大物の政治家や、セレブたちが多数参加していたといわれています。

 

D・トランプ氏は自分が大統領になったら、この島に訪れていた人らの名簿を公開すると明言しています。既に、トランプが大統領になれば、米国を出ると、H・クリントンやテイラー・スウィフトが発言しています(・・・日本には決して来ないでください)。

 

逮捕 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。性的虐待だけでなく、カニバリズムにも関わってきたといわれています。米国支配層の恥部であり、コアになる部分です。このような人たちが、世間を誘導し、各地で戦争を起こしてきた、ともいえます。人の命などなんとも思っていない人たちです。

 

そして今年に入って、米国の有名ラッパー、ショーン・コムズ(通称ディディ)が、性的暴行や人身売買の容疑で逮捕されました。彼の行っていた「フリーク・オフ」と呼ばれる乱交パーティーには多くの有名人が参加しており、第2のエプスタイン事件の様相を呈しています。

 

 

 

彼の邸宅には地下通路が他の屋敷迄伸びており、一体そこで何が行われていたのか疑問視されています。

 

 

↑、地下には人骨や悪魔崇儀式の道具などがあったという話が出てきています。

 

 

↑、ここでもヒラリー・クリントンが登場します。彼女の、非常にショッキングなビデオが録画されていた、ともいわれているようです。

 

また、レオナルド・ディカプリオなどが彼のパーティーに参加していたといわれており、問題になっています。

 

 

他にもテイラー・スウィフトやら、ジェイ・Zやら、J・ロペスやら、ビヨンセ、ジョニー・デップやら・・・。彼らが潔白であるのなら、自らちゃんとそれを示さなければ、彼らのキャリアは終わりでしょう(マイケル・ジャクソンに関していえば、彼らに対抗しようとして、「消された」、といわれています)。

 

 

 

↑、彼らの異常な行為を告発しようとした、マイケル・ジャクソンは逆に罪を着せられた、といわれています。

 

イスラエルのレバノン侵攻に対し、イランが報復を開始しました。200発以上(500発とも)の弾道ミサイルが、イスラエル本土に発射され、映像では複数の着弾が見られます。中東の大国、イランが参戦することによって、第5次中東戦争はほぼ現実になったのではないでしょうか。

 

大イスラエル計画 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、エゼキエル戦争が現実化する可能性が出てきました。

 

エゼキエル戦争の伝説では、イスラエルはかろうじて中東諸国に勝つといわれれています。しかし、その後はロシアとの関係が悪化するとも。他には、「あること」が原因で、ユダヤ人は再び国を追われることになる、という予言もあります。

 

 

この戦争には、トルコも巻き込まれる可能性があります。

 

 

日本国内では、石破内閣が発足。早期の衆議院選挙を宣言しました。本年10月9日解散27日の開票となります。

 

元来自民党の得票率は34パーセントほどですが、これがどこまで減るのか。自民党の議席がこれ以上増えることはまずないと思います。ポイントは、自民党のみで過半数になるのか、あるいは自公連立で過半数に達するのか?あるいは過半数にも達しないのか?・・・辺りでしょうか。

 

自民党内も現在内紛含みです。媚中寄りか、いわゆる保守寄り(自分は彼らを本当の意味での保守とは思っていませんが)なのかという、二元の選択肢の中で、ひびが入っているようです。

 

総裁選では高市派と、石破派でほぼ半分づつ票を分け合いました。本気で高市派が今の自民党に反旗を翻せば、自民党の得票率は20パーセント台、あるいはそれ以下まで落ち込む可能性があります(従来の自民党以下の第2政党程度の得票率になる)。ただ、そこまで過激に落ち込むのかは、今はまだ何ともいえません。

 

また、多分今回は若干でも投票率は上がると思うので、それがどこに流れるのかも分かりません。

 

自称保守派の人たちが一体どれぐらいいるのか、それが分かる選挙になると思います。それに彼らがいっているほど、石破氏が一般人に嫌われているのかも疑問ですから、成り行きは注視したいと考えています。

 

自民党の新総裁が決定し、決戦投票で高市早苗氏を下した、石破茂新総裁が誕生しました。

 

高市さんに期待していた人が、さんざんSNSで論陣をはり、沢山の書き込みがあったのにも関わらず、高市さんは勝てず。僕は今回の自民党総裁選は、誰も応援していなかったので、こんなものかという感じです。

 

都知事選で田母神さんなんかを応援したのは、あれが都知事選だったからで、国会議員とか首相になる人は、やはり自分は、高市さんでも結構怖いな、と考えています。都知事は国政とは違うと考えるからです。個人的には田母神さんを国会議員にしたいか?といわれれば、それは望みません。

 

確かに石破さんだと、緊縮財政派で増税になるかもしれません。自分も全くいいとは思っていません。ただ、最近の政治の停滞は、21世紀にはいってから、いい加減な政治を行ってきた庶民にあると考えていて、改革するには5年とか、かかってもおかしくないと考えています。それを急に、半年やそこらで変えられるとは思えません。高市さんが総裁にならなくて、文句をいっている人が多いですが、ずっと全体のバランスを重視せず、一定の「推し」の候補にだけ、投票してきた結果、自民党も野党も腐敗し、自浄能力失ってしまいました。高市推しの人は多いですが、熱狂的な人が多く、性格は攻撃的で、こういう人が多すぎるのも、実際は政治の停滞に繋がっていると考えています。

 

一応過去記事を引用しておきます。

 

自民党総裁選 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

選挙後 |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

総裁選の話だけに絞ると、高市さんに麻生さんが付いたので、高市さんはあれだけ善戦したのだと思います。石破さんは議員に人気がないといわれていますが、実際は高市さんも議員には人気がないといわれていて、多分戦いは互角だったと思います。

 

占いの話で恐縮なんですが、麻生さんは戌亥空亡で、高市さんの辰巳空亡の逆位置です。戌亥空亡と、辰巳空亡の関係はお互いの「運気を止める」関係といわれていて、運気が良い時に近づけば、運気が下がる関係だといわれています。

 

逆に運気が悪い時に近づいても、悪運が止まる、といわれていて、運気が悪い時はむしろ良い方に働きます。例えば戌亥空亡の人が大病で、命を懸けた手術が必要な時は、辰巳空亡の医者にお願いすると、手術は成功しやすいわけです。その逆も然りです。

 

ですので、劣勢だった高市さんは麻生さんのおかげで、あそこまで善戦し、逆に麻生さんは高市さんを応援したので、自民党主流派から撤退せざるを得ない結果になったのだと思います。

 

しかし、石破さんの政権ってどうなんでしょうね。短命に終わり、自民党を瓦解させるのか、思ったよりもうまい政権運営になるのか。

 

早めの解散総選挙で、民意を1度問うてほしいと思います。

 

真田広之氏主演の米国ドラマ、「SHŌGUN」が、米国のエミー賞を獲得したそうです。史上最多の18冠、作品賞はもちろん、主演男優賞を真田広之氏、主演女優賞をアンナ・サワイの両日本人が、初めて獲得するという快挙です。

 

 

↑、ニュージーランド系日本人の、アンナ・サワイ。

 

賞を総ナメにする、とはいわれていたので、そういう意味では予想通りでしょうか?個人的には助演男優賞に浅野忠信氏が選ばれてほしかったです。これは落選で残念でした。

 

もともと第1シーズンだけの、リミテッド・シリーズだったのが、世界配信されたドラマとして、再生回数歴代1位ということで、続投が決定したようです。同じディズニー・チャンネルでも、妙な政治色のあるポリコレ作品「アコライト」(スターウォーズの新シリーズだった)が人気なく、シーズン1で打ち切りになったのとは対照的ですね。

 

そのおかげで、エミー賞では、リミテッド・シリーズとは違う、ドラマ部門のコンペに参加できたとか。シーズン2(シーズン3まで決定しているといいます)への続投がなければ、これほどの成果はなったでしょう。

 

SHŌGUN |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。この中で真田氏がチャンバラ時代劇への批判をした、ということを書きましたが、実際は最近の時代劇に対する批判だそうです。間違っておりました、訂正しますm(__)m。

 

 

要は時代考証をしっかりした、リアルなものを作らないと駄目なのでは?ということでしょうか。

 

この以前の記事の時も書いたのですが、確かに日本人でも見ていられる時代劇に仕上がっているとは思います。しかし、ドラマの作り方はやはりどこか西洋式かな?とは思いますね。日本版の起承転結で描いたドラマ、というよりも、ソナタ形式で描かれた時代劇ドラマ、とでもいうような感じの作品だと思います。

 

𝗦𝗵𝗼𝗴𝘂𝗻 𝗦𝗲𝗮𝘀𝗼𝗻 𝟭 𝗘𝗽𝗶𝘀𝗼𝗱𝗲 9 (𝗥𝗲𝗮𝗰𝘁𝗶𝗼𝗻 𝗠𝗮𝘀𝗵𝘂𝗽)

 (youtube.com)

 

↑、ネタバレしている動画です。これから「SHŌGUN」を観る人は、観ないでください。これは外国人が「SHŌGUN」を観た時のリアクションを集めた動画です。彼らが、本当にびっくりしながら観ているのが分かります。こういう効果を狙って撮影されたのは間違いないでしょう。日本人だとここまで驚かないと思います。日本人には少し分かりにくい作りなのかな、という気もしますし、少しツボも違うと思います。

 

日本のことを伝える作品としては、これぐらいのものの方が良いということなのでしょう。日本人としては各役者の頑張りなどが見どころかな?と思います。

 

とにかく歴史的な偉業ですね。一視聴者として、真田広之氏には改めて、頭が下がります。おめでとうございます。