音楽の現象学 |  ヒマジンノ国

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セルジュ・チェリビダッケ「音楽の現象学」(石原良哉訳)。

 

指揮者チェリビダッケが自らの音楽哲学を一般に講演した記録です。後半は、訳者でチェリビダッケと交流のあった、石原良哉氏がまとめた、この指揮者の解説に充てられています。

 

チェリビダッケが音楽理論を学生以外に、一般に公開したのは、この時だけらしく、当時の講義の録音を、文字おこししています。

 

現象学(偏見なく目の前の現象を研究し、行動の基礎に置く哲学)を元に、この特殊な指揮者の考えが述べられています。フッサールの哲学を基礎に置くのは、エルネスト・アンセルメ(「人間の意識における音楽の基礎」)の音楽理論と共通し、「人間の存在が前提」になる音楽哲学といえます。

 

前半のメインである、指揮者の「音楽理論」、後半の指揮者の人柄を知る石原氏の書いた「解説部分」、共に面白かったです。

 

チェリビダッケに習った者は、「人に教える存在」になることが多いそうですが、彼の哲学は「音楽」を超えた汎用性があり、今日の世界に足りない、認知の問題に対する、回答のモデルケースの1つのようにも思えます。「科学」だけを元にしても、今日の煩瑣な問題は解決しないということでしょう。世界は、機械論だけではまとめられないということです。

 

とにかくも、先日書いたような、チェリビダッケの残された録音を聴くために、このような書籍は大変役に立つと思います。講義の内容は必ずしも長くはないですが、その他、禅の思想などとつなげて考えてみると、かなり知的な興味が広がりますね。

 

以下は自分個人による、彼の「哲学」の超訳です。純粋にチェリビダッケの理論ではなく、かなり自分個人の主観と偏見が混じっています。チェリビダッケの理論を知りたい方は、直接この本を読むことをお勧めします。

 

 

さて、チェリビダッケにとってみると、「音楽」とは「解釈」されるものではなく、その時々に生成する行為そのものであって、「音楽が分かる」というような言葉は、何も意味をなさないということになります。

 

例えばオーケストラの「響き」は、それを演奏する「会場」、オーケストラの「人員」など各種の条件によって決まるもので、初めから「こう」と決めつけてしまうものではないということです。おそらく、それはどの「指揮者」でも、ある程度までは同じ考えなのでしょうが、それを徹底することで、その時々の状況にあった演奏ができるということになっていきます。

 

「楽譜」に書かれた音符を、聴き手の耳に良く聴こえるようにするには、しっかりと演奏者がその楽器を演奏できるだけの「時間」と「スペース」が必要であって、指揮者が勝手にコントロールするものではないということになります。当然演奏するホールによって響きも変わってくるので、それに見合った妥当な響きを、その時々に見つけなければなりません。

 

よくチェリビダッケのテンポは遅いといわれますが、彼によれば「初めにテンポ」を設定しているのではなく、楽譜に書かれた音が良く聴こえるように、それぞれのオーケストラのパートや、演奏者の演奏しやすい状況を作っていくと、必然的にそうならざるを得ないということだそうです。複雑な音楽ほど、一種の解きほぐしに近い状況ができ、テンポが遅くなっていきます。それ故指揮者はその時々の状況を、出てくる響きをしっかりと見据えながら、調整する役目であり、指揮者が音楽を「こういうものである」と押し付けないことが重要になります。

 

それが上手くいくと、演奏者と指揮者、そして聴衆が「音楽」(楽譜)をよりどころに、1つの有機的な存在として一体になれるといいます。

 

以下の引用は本文からです。

 

<超越できる精神は、相対関係にあるものの一つ目の部分にも、二つ目の部分にも留まることなく、両方を超えて行き、それら二つをまとめ、本質的に類似した、そしてお互いに関わり合う関係のエッセンスを自分のものにします。関係は消えるでしょうか?・・・消えない?そう、物質的に知覚可能な領域、そこに音楽は登場して消えるわけですが、その音たちのようにこれらの関係が消えてしまうのではありません。そうではなく、この関係は人間の精神にとって永久に機能することのできる、残るものとして、新しい種類の、より高度な、部分を超越した統一体になるのです。>

 

このチェリビダッケの言葉によれば、音は消えても人間の意識が、それらを記憶し、まとまった総体へと造り上げるということになります。

 

 

↑、陰陽の太極図。チェリビダッケのいうような、意識が、互いに異なる2者をまとめ1つにしているという、模式図。そして異なるものから、本質的なことを捉え、統合していこうという働きが、人間本来に備わっているということです。

 

<意識は、何かを捉える前に実存的にそこになくてはなりませんが、捉えることで初めて、それは何かについての意識になります。そして捉えたら―――意識によって捉えれられた何かがどうしてまだ純粋であり得ますか?ヨガ行者たちが瞑想するときに繰り返し弟子に勧める「自分を空しくせよ!自分の意識の万能の光を、浮かんでくる何かに曇らされることのないように」とは、どういう意味でしょう?いかなる思考の対象をも純粋な意識から遠ざけるというのは、無関心ということでしょうか?それとも無理に避けようとしているのか?あるいは万能の光を無調整で体験しようとする、つまり最高に積極的ということでしょうか?述べてきたように、これを言葉にすることはできません。体験するしかないのです。>

 

そこで鳴る音楽の「響き」のみが真実である時、その「響き」を媒介として、各人の意識に何かしらの変化があります。その変化は各人によって多様であって、「響き」、あるいはその「音楽」というものが、同時に各人の共通概念として表れることによって、「多様性」と「一体性」が同時に達成できるということになります。「音楽」は直接人間の「心理」、または「意識」に語りかけるので、人々は内面からの一体感を感じ取るということになるでしょう。

 

空の思想と仏教1 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教2 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教3 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教4 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教5 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、「禅」についての過去記事です。「仏教」とは現在考えられているような、死後の極楽浄土を求めるような宗教ではなく、ヨーロッパの科学思想、哲学思想に近い、「認識」の宗教である側面があります。これは「現象学」に近い考え方といえます。その辺りが、東洋思想と西洋思想の出会う点でもあります。

 

しかし、このような音楽思想で演奏できる音楽は、チェリビダッケの流儀に合うものである必要があります。当然彼も各種、音楽を演奏してきましたが、ベートーヴェンなどは必ずしも、積極的に取り上げなかったように思います。ベートーヴェンの音楽は、「感情」(音楽)の圧縮が数多くあります。このような音の動きは、チェリビダッケの得意なやり方では、おそらくやりずらいだろうからです。

 

特に第9は、ガスタイクザールで手兵のミュンヘン・フィルとは1度のみの演奏しかしていないそうで、興味深いものがあります。

 

個人的にはチェリビダッケの第9の演奏が少ないのは、苦手意識でもあったのかもしれないと思っていましたが、後半の著者の石原氏によると、彼がフルトヴェングラーの第9を身近に聴いていた結果ではないか、という意見を述べています。

 

あのような創造性に富んだ、ベートーヴェンの演奏はフルトヴェングラー以外には、無理です。あえて、自分の師匠の得意な演目を、自身の現象学で追及する気は起きなかったのかもしれません。チェリビダッケは口の悪い指揮者でした。作曲家や同業の指揮者に対する悪口は数知れず。

 

しかし、作曲家ではブルックナー、そして指揮者ではフルトヴェングラーへの悪口はほとんどなかったそうです。フルトヴェングラーのことは敬愛していた、と述べていたそうです。

 

 

↑、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。チェリビダッケが尊敬した数少ない指揮者の1人。死後、彼と同じタイプの指揮者は、未だ出ていないように思います。ティーレマンが近いという人はいますが・・・。

 

さて、最後になりますが、チェリビダッケのオーケストラ思想は、現代の「社会」そのものにも当てはまるようなものだと、考えています。現代のような極度なピラミッド構造では、いずれ社会が瓦解するのは目に見えています。

 

トップたちがもらう必要以上に大きな収入。あるいは権威者などによる、社会的独善的な意見の創出。これらが無自覚な大衆性に支えられることによって、今日の社会的なピラミッド構造が出来上がっています。しかし、結局トップが必要以上に高い位置にいれば、下支えをする者たちとの断絶を生みます。

 

これでは社会はずっとおかしくなり続けます。

 

いくらかのピラミッド構造は必要でしょうが、最終的にはもっと水平な構造に近づいた、お互いが共感、共生しあえる社会が必要になるでしょう。

 

チェリビダッケのオーケストラ哲学は、ミニチュア版ながら、共生の思想を生んでいる組織哲学として、かなり面白いと思います。