クラシック音楽について、批評は切っても離せないし、また必要なことだと考えています。
亡くなる前まで、日本の音楽批評の世界で有名だったのが、宇野功芳氏(1930-2016)です。個人的には好きで、彼の著作はよく読んでいたころがあります。ただ読んでいると、問題もあるような気がして、色々と考えるようになりました。

↑、音楽批評家の宇野功芳。自身で指揮もする方で、存命時は日本のクラシック評論界で最も有名な人物の1人でした。名曲1曲に対して、原則決定盤1つ、というようなスタイルで評論をしていました。ただ、これは昔1枚のレコードが高価だったころの名残ともいえ、勢い、その選に漏れた音源の苦言を呈するので、反対者も多数存在しました。
晩年、彼が存命の時は、日本の音楽批評界では吉田秀和氏も亡くなり、国内では1番有名な批評家で、影響力も大きかったともいます。
まずはその辺を簡単にまとめたいと思います。
個人的には、彼の音楽批評の大きな点は、「作曲家の意図を表現したもの」に対する評価が高いということです。他方、演奏家の側に立ったものは評価が低いということがいえると思います。
彼の批評を読み始めたころは、そこにある種の基準があるように見え、それが何かということが、気になったものでした。
彼の主張は、演奏家は作曲家が意図した内容を、表現できるから優れているのであって、決して演奏家自体が、それに優先するということではないということでしょう。
聴き手の本来の目標は、作曲家のいいたいことを「聴きたい、知りたい」のであって、それを捻じ曲げることはあってはならい、ということでもあると思います。これは作曲家を1番に尊敬する、という態度になっていくことを意味しています。
当然こういう意見だけでなく、演奏家の感性、能力が作曲家と同等でなければ、一流の演奏ではないという意見も加味されるかと思います。
彼の批評の一部を抜粋しながら見ていきます。
<指揮者のみならず、ピアニスト、ヴァイオリニストなど、すべての音楽家に共通するのは、どのような名曲であれ、演奏家の手にかかれば、その名曲は演奏家の才能の水準にまで下がってしまうということだ。技術が優れ、音楽性が高くても、精神的に浅い演奏家が演奏すれば、モーツァルトであろうとベートーヴェンであろと、浅い音楽、低い水準の音楽として聴こえてくる。こんなに怖いことがあろうか。同じ≪エロイカ≫なのに、つまらなくて平凡で退屈し切ってしまうことはざらにある。>(宇野功峰対話集、「演奏の本質」から)

↑、宇野氏と演奏家や、その他評論家との対談をまとめた、ムック本「演奏の本質」。
このような思想は演奏家が高いレベルにあり、また、作曲家のいいたいことを演奏家が、根っこから理解できる(楽譜上に残された不完全な思想を超えて)人物でなければないといけないということになります。故に彼の褒める演奏家は、その作曲家の演奏家として、エキスパートともいえる存在かと思います。
過去記事で引用した彼の思想があります。
ブルックナー5番 | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
世界的に評価の高いフルトヴェングラーのワーグナーの演奏についても、彼は次のように述べます。
<ヨーロッパでも、フルトヴェングラーのワーグナーは神格化されているようだが、僕には少なからぬ疑問がある。それは彼のブルックナーを高く評価し得ないのと同じ理由によるものだ。クナッパーツブッシュにしても、マタチッチにしても、朝比奈隆にしても、ブルックナーをすばらしく演奏できる指揮者は、ワーグナーもまた見事である。ブルックナーとワーグナーでは一見何の共通点もないようだが、造形感覚と客観的で透明なひびきが似ているのであろう。ワーグナーにおいても、その造形はソナタ形式的ではなく、細部をじっくりと積み重ねてゆくやり方で進めるべきだし、色彩感はブルックナーよりもずっと官能的ではあるが、どこまでも透明感を失ってはならない。つまり人間味が出すぎてひびきを濁らせてはならないのである。
ブルックナーの場合と同様に、クナッパーッツブッシュのワーグナーを最高のものと考える僕にとって、フルトヴェングラーの演奏はあまりにもソナタ形式的であり、意志的、主観的、人間的でありすぎ、つけ加えられたドラマがありすぎる。したがって音楽自体が自然に息づかず、ワーグナーを聴くよりはフルトヴェングラーの音楽を聴く感じが強い。彼のブルックナーほどの抵抗はないしても、僕はもっと雄大なワーグナーの世界に浸りたいのである。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

↑、「フルトヴェングラーの全名演名盤」。ウィルヘルム・フルトヴェングラーの残したすべての音源(当時)に対して、批評を加えた、宇野氏しかやらないような仕事の記録です。姉妹本に、ブルーノ・ワルターについても書かれたものがあります。
フルトヴェングラーは歴史上の大指揮者であり、ドイツ音楽の権威として、多くの人が認めるような存在です。そのフルトヴェングラーの、ブルックナーやワーグナーが良くない、というのは明らかに日本の音楽評論の歴史に一石を投じるものであり、刺激的であるといえます。宇野氏以外の、過去の多くの人は、批評家も含め、フルトヴェングラーのワーグナーやブルックナーを無批判に、受け入れていたのかもしれません。しかし彼はそれに公然と反旗を翻しました。
ティタニア・パラスト | ヒマジンノ国
↑、この過去記事の最後に、個人的なフルトヴェングラーの評価を書いています。自分もドイツ最高の指揮者として、フルトヴェングラーを挙げることに異論はありません。
しかし、宇野氏の掲げた反旗は、全く根拠不明な理論ではなく、それなりに説得力があるものでした。
彼の評価したワーグナーの演奏家はハンス・クナッパーツブッシュであり、これは確かに非常に説得力あるものです。
ゲッター・デメルング | ヒマジンノ国 (ameblo.jp)
↑、自分が書いた過去記事です。この中で、クナッパーツブッシュのことを書いています。
クナッパーツブッシュはフルトヴェングラー同様、19世紀生まれの指揮者で、当時、万人が知る有名なフルトヴェングラーに対し、クナッパーツブッシュは日本人にとってみると、ローカルな存在であり、知る人ぞ知るというような存在でした(現代では知らない人はいないんでしょうけど)。このような国内で無名の演奏家を世間に知らしめたことは、宇野氏の功績の1つといって良いでしょう。
そして、そんな無名な指揮者の方が、フルトヴェングラーよりも、ブルックナーやワーグナーの演奏が優れているというのだから、驚きだったわけです。
しかし、確かに聴いてみると、クナッパーツブッシュの持つ能力は、上の宇野氏の書いたようなワーグナー論にぴったり当てはまるものであり、ワーグナーの持つ音楽の雄大な世界を描き切っていると思います。
これは明らかに、作曲家と演奏家の相性が問題になっている案件でした。
このような作曲家と指揮者の相性を宇野氏は尊重する傾向があり、ベートーヴェンであればフルトヴェングラー、モーツアルト、シューベルトでればブルーノ・ワルター、ブルックナーであればクナッパーツブッシュやシューリヒト、ということですね。
過去記事でも書きましたが、このような傾向は人間の生理的な傾向とも結びついていて、生まれながらの性質も加味されているともいえます。そのために今度は、先にも引用しましたが、フルトヴェングラーがワーグナーを演奏してもそれほどの効果は得られないという、宇野氏の論理ができあがっていきます。
世間の趨勢と反することを、意に介さない、彼の論理は一種の反逆的な論理ともいえなくもありませんでした。
そして問題発言の多い、そんな彼の著作に、有名な言い回しがあります。
<ある音楽雑誌の読者のページで、「メータに失望」という記事を読んだ。メータがイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団とともに来日し、ブルックナーを指揮する、というので聴きに出かけたが、いかにも表面的に皮相な演奏であり、がっかりしたというのだ。
僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナーなど聴きに行く方が悪い」。知らなかった、とは言ってほしくない。ブルックナーを愛する者は、それぐらいは知らなくてはだめだ。>(「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」から)

↑、「宇野功芳のクラシック名曲名盤総集編」。宇野氏の代表的な著作で、名曲の解説と同時に、その曲を代表する音源を彼独自の視点で記したもの。
上の発言は、最近の世の中の傾向なら、普通に問題になりそうな発言です。相性の良くない指揮者は演奏してはいけない演目がある、といわんばかりです。
過去を振り返ると、近代的ではない昔の演奏家は、自分の感性に属さないことが、技術的にできないことがあったようです。評論家の遠山一行氏が、この宇野氏との対談で次のように語っています。
パリに留学時代、彼が実際に聴いた、名ヴァイオリニスト、ジャック・ティボーの感想です。
<(ジャック・ティボーが演奏する)ブラームスのコンチェルトを聴いたけど、そうしたらめちゃくちゃなの。あの人は技術まで自分の音楽と一体なんですね。だから、自分が本当に感じないものをやると、技術までおかしくなってしまう。あれは本当の音楽家だなと思いました。技術屋さんじゃない。本当はなんでも弾けるということは、なんにも弾けないということであって・・・。>(「宇野功芳編集長の本」から)

↑、「宇野功芳編集長の本」。宇野氏が編集長を務めた体で、まとめられたムック本。この本は非常に面白い本で、色々と勉強になりました。
遠山氏の話は、これは近代の指揮者がどんな曲目を演奏する、という傾向とは真っ向対立しますね。特に最後の「本当はなんでも弾けるということは、なんにも弾けないということであって・・・。」という言葉は一定の重みがあると思います。
そんな中でも、宇野氏の場合は特にブルックナーに対する思いが強く、ブルックナーやワーグナーに関しては、上のような表現になったのだと思います。しかし当然これに異なる反応する人たちもいました。
以下は評論家の吉田秀和氏の言質です。
<ブルックナーといえば、まず、あの重厚さ、荘厳さ、金管の重量感あるファンファーレと、壮麗な旋律、和声の妙、対位法の面白さだなどという人もいる。そうにはちがいないが、それよりもブルックナーといえば、まだ、何か1通りのきき方、つまりは1つにきまった演奏しかなく、これを達成しているだけが真のブルックナーで、あとは芸の境にいたらぬもの、不完全なもの、あるいは邪道であるというふうにきめてかかるような気配が濃厚な、この国のブルックナー・ファンの在り方が、私には、あんまりわからないのである。ひいきの引き倒しというか。いかに好きだといってもこう自分の好みにしがみつき、他人を排斥するのは感心しない。ブルックナーといっても もう少しの専門家しかやらない時代は、とっくに過ぎ去ったのである。それはこの作曲家生前から死んだ直後のシャルク兄弟とかリヒターとかの頃の話だ。その後フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ヴァルター、ヴァインガルトナー、クレンペラー、メンゲルベルグ、ベイヌム、ヨッフム等々の錚々たる大家たちが競ってブルックナーに対するそれぞれの見解を示し、その神髄と信じるものを演奏によって公衆に提出したあと、今日では、ブルックナーを全くやらないという方がその人の音楽観と音楽性を極端に示すという時代にはいっているのである。いまではクレンペラー、ジョージ・セルからごく若いメータにわたる広大な年代の層にわたる指揮者たちが、こぞって彼をとりあげている。>(吉田秀和著、「カラヤン」から)

↑、批評家吉田秀和氏が、名指揮者カラヤンにたいして書いたものをまとめた本。個人的にはここに書かれていることは、自分の感覚にも良く合い、吉田氏のカラヤンに対する意見に自分はおおむね賛成です。
これは頭の良い、バランス感覚に優れた吉田氏らしい意見だと思います。確かに「この作曲家に対して、この演奏しか認めない」という宇野氏の論理に対する明確な批判です。宇野氏を暗に批判しているのは明らかです。
ただ個人的にはブルックナーに対しては当時の国内のファン(自分もそうでしたが・・・)には、まだブルックナーという作曲家は、理想的な形で演奏されていない、という認識があったというのも事実だったともいます。
例えばブルックナーの第8に対しては、自分などは、宇野氏が推薦するクナッパーツブッシュのような造形が欲しい、と直感的に感じていました。多くの国内のファンも、そうだったのではないでしょうか?あのような立派な造形で、演奏されたブルックナーは、まだ当時それほどなかったと思います。
しかしながら、クナッパーツブッシュの使用する楽譜は原典版といわれる他人の手が入ったものでした。第8の原典版においては、ブルックナーのオリジナルとの差異は少なく、宇野氏は問題ないとして、ヴァントなどが理想的な演奏をする(1990年代半ばまで)までは、これを決定盤として挙げていました。しかし改めて聴くと、その響きは当時流行したワーグナーの音楽に近づけられていて(4楽章の第1主題の再現など、クレッシェンドしている、これは明らかなブルックナーとは違う思考法です)、必ずしも厳密なブルックナーとはいい難いものがありました。
やはり、ギュンター・ヴァントやチェリビダッケの録音が出てくる前ぐらいまでは、多くの国内ファンはまだ満たされていない思いだったということは、自分にも良く分かりました(国内では朝比奈隆の存在があった)。そういう意味では吉田氏の、ブルックナーの造形観に対する思想は正確ではないと思えました。(ブルックナーは、マーラーと同じく20世紀終わりごろから21世紀初めぐらいまで、まだスペシャリストが理想を追い求める余地は充分あったと考えられます。ベートーヴェンに関しては、20世紀前半で既に各名指揮者がやり尽くしていた感がありますが、ブルックナーやマーラーに関してはまだ極限まで解釈されていないという感じがありました。)
だからといって、他の演奏を排斥してよいという理論になりませんが。
吉田秀和氏は学者的な批評家であって、宇野氏のような感性に頼った批評をあまりしてないように思います。吉田氏の、他者の演奏家を排斥する思想は良くない、というのには共感できますが、同時に、宇野氏のいうようなブルックナーの演奏を極めたものがまだ存在していないという意見にも、自分は賛成でした。