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 ヒマジンノ国

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5月5日。今日は近所にN響が来るというので、鑑賞してきました。曲目はブラームス交響曲4番、グリーグのピアノ協奏曲、武満による3つの映画音楽。指揮者はファビオ・ルイージ。ピアニストはフランス人女性、リーズ・ドゥ・ラ・サール。

 

今日も名演でした。とても素晴らしかったです。

 

武満の音楽は映画音楽というので聴きやすく、前説としては充分という印象でした。メインはグリーグとブラームスのロマン派の名曲です。

 

今年N響を聴くのは4回目なんですが、とにかく今日は音色が美しく、終始驚きっぱなしでした。多分コンサートホールのせいかなという感じがします。今年、最初にN響を聴いたのが文化会館の「パルシファル」。これも美しかったんですが、全部聴けなかったので除外します(泣)。その後文化会館での「ミサ・ソレムニス」。これは音色に関しては、汚なかった印象。多分ヤノフスキのアプローチのせいだと思います。あのやり方なら、古楽器なんか使わないと、音色は結晶化しないんじゃないでしょうか。

 

その後ヤルヴィをNHKホールで聴きました。名演でしたが、1週間後にサントリーホールで読響を聴いて、NHKホールの音の悪さを痛感しました。N響をサントリーホールで聴いたことはまだないんですが、NHKホールがホームグラウンドのN響は色々もったいない気がします。NHKホールは全く残響がなく、音が散るのみ、という感じですね。

 

確かにサントリーホールで聴くと、音が上質に聴こえ、1ランク上がった音楽のように聴こえます。サントリーホールは天井が高く、音が上に抜けます。そのせいで、楽器が自然に鳴り切ります。しかし今日の所沢ミューズは天井がそこまで高くなく、幅も狭い。だからといって音が悪いわけではなく、サントリーホールのように、上空に音が散らないので、歯ごたえのある音がします。音を逃さない、というのか。音の輪郭がくっきりとし、前に音が出てくるのが分かります。

 

そのせいなんでしょうか、とにかく今日はN響の響きの美しさに、聴き惚れました。

 

指揮者のルイージと、ピアニストのラ・サールも、とても良かったです。ルイージを聴くのは2回目なんですが、ブラームスなど、どんな解釈なのだろうと興味がありました。勝手に、直線的な解釈をするのでは?と思っていたのですが、さにあらず、かなり常識的な解釈で、良く歌うブラームスでした。

 

去年聴いたマリー・ジャコのブラームスが変わっていて、直線的な筋を通しながら、楽器をセクションごとにまとめて鳴らすんですね。面白い解釈だな、と思って聴いていました(このことを指摘するのは僕しかいないみたいで、色々書いていて不安ですが(汗))。ルイージも、もっと直線的な解釈かな?と勝手に思っていました。

 

そんなルイージの演奏では、4番独特の苦みはほとんどなく、明るい表現で、贅沢かつ引き締まった響きです。輝かしささえ感じました。深みがどうこうというより、美しい表現です。弦楽器の熟した響きも艶があって素晴らしい。

 

特にフィナーレは内向きに引き締まっていく力強さが、音から感じられて感動しました。

 

オケのアンコールでベートーヴェンの、8番第2楽章をやります。前回聴いたときの感想で、ベートーヴェンの8番はルイージに合ってる音楽じゃないかと書きましたが、実際今回、するするっと、アンコールで演奏しました。

 

N響 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事です。

 

順番が前後しますが、グリーグも美しかったです。

 

前回ルイージを聴いたとき、ピアニストはメルニコフだったんですね。しかし、メルニコフはルイージとは異質なピアニストかと思います。今回のラ・サールはルイージとよく似た個性で、演奏も盛り上がりました。

 

グリーグのコンチェルトは割と誰がやっても失敗しないかな、とは思います。

 

ラ・サールは自然な弾きぶりで、パッションがある人です。第1楽章のカデンツァ辺りから、情熱的な表現を見せてくれました。必要ならピアノから大きな音を響かせて、しっとりとした部分との対比がありました。

 

第2楽章はN響が非常に美しかったです。コクのある柔らかいホルンの音色、涼やかで瑞々しいフルート。この辺も本当にびっくりしながら聴いていました。ノルウェイの自然が目に浮かぶような、清涼な美しさがありました。中々ここまで美しく聴けないかな、と思います。録音したら良いと思います。今さらながら、N響って凄いんだな、て感じた瞬間です。

 

第3楽章はルイージ、ラ・サール共に情熱を爆発させて楽しませてくれました。2人とも似た感情表現で、迫力がありました。

 

しかし、ラ・サールは全身黒づくめ(上腕はむき出し)、下は皮のパンツ、上半身はキラキラのスパンコールだらけで登場してきて驚きました。お前はポップスターか!

 

確かにピアノを弾いていると、スパンコールがキラキラ輝いて、音が輝いているような錯覚を覚えました。面白いですね。

 

会場も盛り上がりましたね。客層も良かったと思います。涼しげな、美しいコンサートだったと思います。

 

 

4月21日、サントリーホールで、オクサーナ・リーニフ指揮、読売交響楽団を鑑賞。曲目はショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲1番」、ボーダナ・フロリャック「光あれ」、ベラ・バルトーク「中国の不思議な役人」組曲。ヴァイオリニスト、ヤメン・サーディ。

 

スラヴ系の曲ばかり、なおかつ、抑圧された人々の作品が多く、演奏家のリーニフがウクライナ人、ヤメン・サーディがアラブ系イスラエル人ということで、政治的な色合いはどうしても感じさせるコンサートでした。

 

フロリャックの「光あれ」は、虐げられた人々の希望を、暗示させようということかもしれません。

 

今回、個人的な目的は、生でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲を聴くことです。

 

いわゆる旧ソヴィエトの「ジダーノフ批判」により、共産主義の目的に合致しない音楽である「形式主義」と批判された、ショスタコーヴィチは、張り紙1枚で、モスクワとレニングラードの音楽院の職を解かれ、圧力に屈します。「森の歌」などで、スターリン礼賛の音楽を書き、名誉を回復しますが、自身は、恋人の前で枕に顔をうずめて泣いたといいます。

 

そしてそのころ、ショスタコーヴィチが体制に迎合せず、秘密裡に書かれた複数の作品のうちの1つが、このヴァイオリン協奏曲1番です。しかし演奏はスターリンの死後まで待つこととなりました。

 

これは名曲なんですね。自分も好きな曲です。しかし中々平日、精神が安定している時には、聴こうとは思わない曲でもあります。少し録音を聴いて、精神を慣らしてから聴きに出かけました。

 

この曲のソロを弾く、ヴァイオリニストのヤメン・サーディはまだ20代、しかも2022年にはウィーン・フィルのコンマスに選ばれている、という人物だそうです。

 

 

↑、ヤメン・サーディ。

 

今日は全曲名演だったと思います。サーディも素晴らしかったです。

 

ヴァイオリン協奏曲、第1楽章はマーラーの交響曲10番を思わせる、冷え冷えとした響きの中、ヴァイオリンが、憂鬱で緊張感のある世界観を描き出します。正直、サーディが若いので大丈夫かと思っていたんですが、繊細な表現を展開し、素晴らしかったと思います。

 

出始めから、音がかすれるようなキメの細かい表現で、音が小さすぎるかと思ったりもしたんですが、そのような寸評も無いようでしたので、あれでよかったのでしょう。自分は前の方で聴いていたので、音は良く聴こえました。一瞬メニューインを思い出しましたが、メニューインのように自然と音がかすれているのかは良く分かりません。意図的にやっていた可能性もあります。先日聴いたタメスティとは正反対で、このやり方で「イタリアのハロルド」をやったら最悪でしょう。

 

内向きに力が働く演奏ぶりで、内照的なショスタコーヴィチ像を丁寧に描いていました。個人的には、演奏が始まってすぐにウルウル来ました。管弦楽も変に神経質にならず、鳴っており、実演でショスタコーヴィチを聴いているという感じがして良かったです。

 

第2楽章もリーニフとサーディは呼吸が良く合っており、激しいテンポで興奮させてくれました。近くで聴いていた人も、このころから身を乗り出して聴いているのが分かりました。

 

第3楽章はこの曲の核心です。第1、第2、第4楽章はショスタコーヴィチ的な良くある響きで、何かを揶揄しているような音作りかと思います。しかし第3楽章は、音の大きな冒頭のパッサカリア主題から、異様な雰囲気を提示し、ヴァイオリン・ソロでは、明らかに、この作曲家が本心の独白を始めます。ヴァイオリン・ソロは回顧的な響きですが、悲哀の情が偽りなく流れ、心を打ちます。そして後半の長大なカデンツァでは一切の感情が排除され、伴奏の無い虚無的な空間に、ヴァイオリンの音色だけが切々と鳴り続けます。

 

サーディはここでも繊細な表現で通します。カデンツァも場面ごとに表情を変えて、飽きさせません。リーニフによる、初めのパッサカリア主題も雰囲気満点でした。

 

素晴らしい集中力で第3楽章を弾き切ったサーディ、リーニフは抜群の反応速度で、休息なく、第4楽章に突撃、子気味良さを発揮しました。サーディ、リーニフ共々集中力ある名演だったと思います。

 

実演で改めてこの曲を聴くと、そこらに沢山ある交響曲よりも、ずっと感動的だと実感します。とにかくヴァイオリン・ソロにかかる比重は重いと思いますが、その分ショスタコーヴィチの思いがそこに込められているのが分かります。ヤメン・サーディは集中力を切らさず、感動的に弾き切ったと思います。

 

コンサート中間部のフロリャックの曲は、10分程度の曲で、どこかドビュッシーの「海」を思い出しました。「光あれ」は聖書の言葉、そして2023年の作品ということも考えると、どうでしょうか。聴きやすいものの、それほど良い曲とも思えませんで、コンサートにこの曲を挟む、というのはやはり政治的な意味合いの方が強いという気は、コンサート中、ずっとしていました。

 

ラストはバルトークの「中国の不思議な役人」です。舞台音楽らしく、自分は物語の内容を知らないので、音と物語の関係性込みで聴くことができません。しかし、バルトークの音楽としては、比較的有名な曲でもあり、管弦楽の嵐のような響きの面白さがあると思います。

 

女性指揮者のリーニフですが、正直実力は良く分かりません。この曲を聴く限り、彼女は曲の内容を決め打ちでまとめ上げており、ハイスピードのテンポで迷いのない演奏を展開しました。複雑な響きの箇所も決して音が濁らず、透明感を保ちます。読響も良くリーニフの指揮についていったと思います。

 

運動性も高く、統率力は抜群で、複雑に鳴り響く音の嵐を1本の筋にまとめ上げていきました。聴後はスカッとした感じで、晴れ晴れとします。これも良い演奏だったと思います。拍手喝采で終わりました。

 

幾分政治的な感じがありましたが、常識的な範囲だったかと思います。曲目自体、地味な演目ですけど、モダンでスタイリッシュな感じもあり、満足できるコンサートだった様に思います。

 

 

昨日はNHKホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、NHK交響楽団を聴いてきました。曲目はベルリオーズの「イタリアのハロルド」、プロコフィエフの交響曲4番。

 

ヤルヴィの実演は初めて聴きます。彼の音源は少しですが、持っていて、オーケストラから色彩的な音を出す人という印象です。その辺は実際に聴くとどうなんだろうと思い、興味深く聴きました。

 

確かに実演を聴くと、メリハリの利いた、艶のある音を出して、歌心もあって良かったです。先日聴いたヤノフスキの指揮が禁欲的だったのに比べると、開放的にも聴こえます。

 

1曲目のベルリオーズの「イタリアのハロルド」は好きな曲で、デュトワとズーカーマンの録音を愛聴してきました。デュトワの演奏はちょっと立体感に乏しい、平面的な演奏ですが、感性が優れていて、瑞々しい響きがします。実際コリン・デイビスみたいな感じだと地味すぎて、曲の美しさが出ないと思います(こちらの独奏はメニューイン)。

 

この曲は、管弦楽を地中海風のカラッとした感性でやって、ヴィオラの独奏は天から降ってきたように、フワッと弾いてくれると、ベルリオーズの鮮烈な感性に触れるようで、全体に艶やかな美しさが出ると思っています。

 

今回はかなり自分の理想に近い演奏で素晴らしかったです。タメスティの初めのヴィオラの入り方も魅力的で、ヤルヴィはN響から、瑞々しい音を出していました。明確で、鮮明です。これぞ「イタリアのハロルド」、という感じがしました。しかもヤルヴィはデュトワと違って、立体感も出せるので、フィナーレの迫力も理想的でした。ラストのオケの咆哮もバッチリ決まります。

 

個人的には第3楽章が美しく、牧歌的な雰囲気の中、セレナードの懐かしい美しさなども良く描き分けられていて、うっとりできました。

 

ヴィオラを弾く、タメスティは一所にじっとせず、オーケストラ内をうろうろしながら場所を変えて弾く様子は、ちょっとした小芝居で、原作のハロルドがイタリアの山々をうろつく様子を表していたようです。

 

 

↑、アントワン・タメスティ。今回のコンサートで初めて知りました(汗)。世界的にも有名なヴァイオリニストだそうです。「イタリアのハロルド」ではヴィオラの独奏部を彼が演奏しました。アンコールはバッハを披露(ヴァイオリンでやってるのか、と思っていたら、ヴィオラ版だそうです)。

 

後半はプロコフィエフの交響曲4番。自分はプロコフィエフの交響曲はほとんど聴いてこなかったので、今回は音源(マリン・オルソップのもの)を買って2度ほど聴いてから出かけました。録音を聴いて、割と聴きやすい曲だと思いながらも、意味は分からない曲だと思っていました。

 

ヤルヴィの演奏はテンポが良く、メリハリが効き、プロコフィエフの作る多彩な、変わった響きをテキパキと創造していきます。第1楽章はオーケストラが面白く鳴る部分が多数あり、聴き応えもありました。

 

第2楽章ぐらいまでは予想通り、響きは変わっているが、そんなに感動しない曲なんだなという印象でした。

 

大体プロコフィエフという作曲家は、存命当時、前衛といわれた作曲家で、一見聴きやすいメロディかと思わせて、そこに不協和音をつっ込んできて、和音で終わってほしいと持っている大衆を、裏切るような響きを作る人です。しかしそんな響きの音楽も、全体として聴いてみると、決してそこまで崩れ切っていなくて、まとまりがあるように書かれています。結局彼は、常識の範囲内で音楽を崩すのですが、その響きの反古典的な面白さが魅力かと思います。そして、この肩透かし的響きが上手くいくと、ヴァイオリン協奏曲1番のような、掴みどころのない幽玄な美しさとなったりします。

 

この交響曲4番も、掴みどころのない曲のように思えて仕方ありませんでした。

 

しかし第3楽章に入って、割と聴きやすいメヌエット風の音楽が繰り返し登場し、「ああ何かやっているな」と感じます。プロコフィエフはこの曲に自作のバレエ音楽「放蕩息子」からの引用を行っているようで、後で調べてみると、メヌエット風の音楽がその引用部分のようです。(イタリアのハロルドのハロルドと共に、放蕩息子も旅に出るキャラクターのようです)。

 

そして、この幾分滑稽さを湛えた、メヌエットの描写的な音楽を聴いているうちに、自分は引き込まれて、なんだか楽しくなってきました。

 

そして第4楽章、フィナーレですが、複数の変わった響きのメロディがリズムよく繰り返されていきます。ここでもその響きは「肩透かし的」で、聴き手を舐めているとしか思えません。「この人、人を小バカにしているな」という感じが自分の心中で浮かんできます。そしてそのメロディが、次々と継ぎ合わされて、リズムに乗って、遂には陶酔的な響きを作り上げていきます。ヤルヴィの指揮はきびきびとして、楽相の彫りも深く明確です。

 

この第4楽章の後半から自分はおかしくてしょうがなくなってきました。明らかに作曲家は人を小バカにしながら、自分に酔っている風なのです(本物の放蕩息子です)。滑稽な音楽なんですが、熱量が高い。ラストはオーケストラが大音量で鳴りますが、連続で聴いてくると、ここはそんな滑稽な作曲家そのものへの賛歌であることがはっきりします(プロコフィエフは自分で自分を褒めている)。「何この音楽」って自分は正直思いました。言葉にしづらいですが、人をバカにする自分を肯定する音楽、といえば良いのでしょうか?プロコフィエフはそんな変わった音楽を、心から喜んで書いているようです。何だこれ?

 

これは一種の狂気なんでしょうが、こんな音楽を堂々と描くプロコフィエフのシニカルな思考は完全に変わり者のそれです。

 

帰って来てから録音でこの部分をもう1度確かめたのですが、同じ感動は得られません。やはりあの快活なテンポと、メロディの性格を明確に描ける指揮者じゃないと、音楽の意味は浮かび上がってきませんね。

 

まあ、こんな変わった音楽、日常聴く人はほとんどいないとは思いますが。多くの人が思っている、クラシックの理想とは異なる音楽だと思いました。

 

ウーム、なんていって良いのやら。

 

・・・ということで、正直かなり面白いコンサートでした。情報量が結構あって、イタリアのハロルドは理想的な演奏だと感じましたし、プロコフィエフのシニカルな音楽を発見できたのは、ヤルヴィのお陰です。

 

昨日は上野でマレク・ヤノフスキによる、ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」を聴いてきました。元々聴く予定はなかったのですが、先日の同指揮者のワーグナーを途中離脱し、悔しかったので、急遽チケットを買い求めました。

 

「ミサ・ソレムニス」はベートーヴェン晩年の傑作のひとつとされています。ベートーヴェンは、交響曲を2曲ずつ発表するのが習慣でしたが、第9交響曲の時はその「第9」と、他の交響曲の代わりに、この「ミサ・ソレムニス」を発表。

 

内容は「ミサ曲」とも思えないような雄弁な内容で、オーケストラの迫力もあり、いうなれば、ベートーヴェンの交響曲10番、とでもいえるようなスケールと密度を備えた作品です。実演ではあんまり演奏されませんので、今回は聴くチャンスでした。

 

演奏の全体の印象としては、小ざっぱりした演奏で、脂っこさのないものでした。演奏時間も75分ほどで、テンポも速めでした。

 

キリエとグローリアは割と平均的な演奏だと思いました。グローリアは速目のテンポの方が音楽の輝きが出ると思うし、ヤノフスキの情熱も感じられる好演でした。

 

クレドの合唱はやや速めに始まり、ヤノフスキらしい演奏かと思いましたが、続く受胎告知の場面ではかなりテンポを落とします。ここは誰でもテンポを落としますが、この指揮者のやり方はかなり明確にテンポを入れ変えるので印象的です。ここぐらいからヤノフスキは場面ごとにテンポを変えるようになり、初めて聴くような響きもところどころありました。

 

テンポが急に速くなる場面が何度かありましたが、高音部がふわふわ鳴るような変わった響きで、この曲にそんな場面あったかな?などと感じます。なんというか、バロックなんかに近い響きなんでしょうか、ちょっと独特でした。しかもテンポを変えるのも、曲想に沿って細かく変えるようなロマン派のようなものではなく、ブロックごとに変化を決めているような、構造的な演奏だったと思います。

 

この指揮者の感じだと、ロマン派寄りの「ミサ・ソレムニス」というよりも、古典派からそれ以前のバロックやアーリー・ミュージック寄りの解釈を、モダン楽器でやっているようなもののように思えます。

 

クレンペラーの演奏で聴くと、重厚で分厚い響きの塊のように響くクレドですが、ヤノフスキの演奏ではかなり軽めの演奏に感じました。

 

後はベネディクトゥスではコンマスの川崎さんが立ち上がってソロを披露、視覚的にも効果があって、良かった場面でした。

 

4人のソリストは前回のパルシファルから3人同じ人物、ソプラノのアドリア・ゴンザレスが初めて加わりました。特に書きたいこともありませんが、テノールのスケルトンは声が小さい時と大きい時がはっきりしすぎていて、ちょっと変わった印象です。必要な時に声は出ていたと思うので文句とかではありませんが、大きい声と小さい声の中間の声がないという感じがしました。

 

演奏はまあまあ良かったかなという感じです。楽しかったとは思います。しかし、ワーグナーをやった時ほど、ヤノフスキと演者、N響は気合は入ってなかったかな、と感じました。

 

ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を改めて聴くと、作曲家が人に聴かせるように色々表現を工夫しているな、と感じさせられました。「ミサ」というより、コンサート作品としても通用させようという目論見があるのかな、と思えました。ベートーヴェンとしても入魂の作品なのではないでしょうか。

 

 

昨日は東京文化会館で、ヤノフスキ指揮のパルシファルを聴きに出かけました。しかし、第1幕を聴き終わったところで、体調疲労でダウン。第2幕と第3幕は聴かずに帰ってきました(泣)。

 

先週は、火曜日昼から金曜日夕方までの泊り仕事でしたが、だいたいこういう時は2日から3日休まないと疲れが取れません。今回は土曜日1日しかコンサート迄の間がなく、休みが不十分で、結局聴き通すことができませんでした。

 

朝起きた時から肩こりがひどかったので、やばいかな、と思っていましたが、やはり頭痛が始まり、1幕後半でも手と足の先がピリピリしていました。自律神経がおかしくなるんですね。以前もコンサート中に同じことになったことがありますが、その時は聴き通しました。

 

しかしワーグナーの音楽は長く、第1幕だけで100分。残りの第2幕と3幕も、1時間ずつの正味2時間です。第2幕開始ぎりぎりまで迷いましたが、どうやっても無理だと思い観念しました。

 

やはり帰りの電車の中ではあくびばかりでます。休みが足りていなのは明らかでした。トホホ・・・。

 

今回のパルシファルは、皆さん書いているように素晴らしい演奏だったようです。ヤノフスキの指揮は速いといわれていますが、現場で聴くとそこまで速いという印象はありませんでした。余分な要素がなく、音楽に必要なことだけしているという感じがします。音楽は自然に流れ、内容に即していたので、おかしさは微塵も感じさせませんでした。N響も精緻で非常に美しい音色でした。引き締まっていますが、パルシファル特有の水色を思わせる音がします。

 

歌手も主役級全員が素晴らしくて、2月初めに聴きに行った、新国のオランダ人とは雲泥の差でした。

 

とはいっても第1幕しか聴いていないので、感想書くのも億劫です。全部聴いた方に教えてもらったんですが、後半尻上がりに良くなっていったそうです。終演後のヤノフスキと演者の映像が「X」で流れてきていましたが、あの表情だと会心の出来だったに違いありません。

 

 

ワーグナー後半の大作は、体調に自信がある時に聴きにいかないと駄目ですね。高い授業料を払った気がします。無念です。

 

今回は完全に自分の個人的な趣味で書くブログです。興味ない方はスルーでお願いします。

 

厨二病全開で書きます。

 

さて、やっとのことで、「バルダーズゲート3」をプレイ、クリアしました。かかった時間は100時間以上で、非常に良いゲームで感動しました。

 

やりたいゲームが久しぶりに新作を出したというので、去年PS5を購入。それが先日書いた「ドラゴンエイジ・ヴェイルの守護者」と、この「バルダーズゲート3」です。「ドラゴンエイジ」は実に10年ぶりの新作、「バルダーズゲート」に至っては23年ぶりの新作となりました。

 

バルダーズゲートは、個人的には首を長くして待っていました。新作を作っている、という情報はずいぶん前から流れてきていました。本当に発売されるのか不安でしたが、遂に2023年に発売。日本語版もローカライズされ、国内でも登場しました。

 

コテコテの洋ゲーで、日本ではそこまで話題になってはいないと思いますが、世界的には良く売れたようです。2023年のGOTYも獲得しました。期待通りの出来で良かったと思います。

 

ということで、以下、興味のない人には、どうでも良い解説などを書いていきます。ネタバレなどもありますので、今後初めてやりたい人なども、スルーでお願いします。

 

バルダーズゲートは米国のTRPG(テーブルトーク・ロールプレイングゲーム)、ダンジョンズ&ドラゴンズ(以下D&D)のビデオゲーム版です。まだコンピューターゲームが発達していない時代、人々は会話とサイコロを使ったゲームでこの欧米風のファンタジーを楽しんでいたそうで、それを1人でも楽しめるように、ビデオゲーム化したのが本作です。

 

おそらく1970年代に登場した、このD&Dシリーズ(コンピューター・ゲームではない)が、本当のRPGシリーズの元祖だと思います。

 

D&Dの世界は既に細かい世界観があるらしく、自分はそこまで理解していません。ただこのバルダーズゲートが出る前では「ウィザードリィ」(1981年の作品)と呼ばれるビデオゲームが、このD&Dのルールに準拠しており、これはやったことがあります。

 

 

↑、初代ファミリーコンピューターに移植されたのを、自分はやったことがあります。簡単なグラフィックでしたが、ゲーム自体は完成されていて、中毒性がありました。レアアイテムのドロップを期待して、何時間もプレイするという、現代のゲームにもあるシステムを、既に構築していました。

 

この「ウィザードリィ」は、日本の「ドラゴンクエスト」シリーズなどの「元ネタ」とでもいうべき作品(ウィザードリィ自身は米国製)で、3Ⅾダンジョンの中でモンスターを倒しながら冒険するという内容のものでした。しかし、モンスターを倒しつつ、経験値とお金を獲得しながらキャラクターが成長していく様子や、モンスターとのコマンド型の戦闘など、ほぼ完成されたシステムで、D&DというTRPG自体の完成度の高さだったともいえるのでしょう。ドラゴンクエストはこのシステムを、ほぼパクっています。

 

その後、ビデオゲームの世界では、和製のRPGが発達し世界的にも、一時洋ゲーRPGは下火でしたが、1999年に初代バルダーズゲートが発売され、再びこの手のゲームが外国でも見直されるきっかけになったといわれています。

 

そんな中、自分がバルダーズゲートをプレイしたのは15年ほど前です。

 

ローカライズしたのはセガで、パソコンのみの発売でした。今でも公式にはバルダーズゲート1・2は、日本語にローカライズされていないと思います(セガはもう関わっていないようです、しかし、有志たちが作った日本語版パッチがあるらしい)。セガによるPC用のボックスは、CD‐ROM5枚になる大作で、こういう沢山のROMでの構成は、現代では考えられない気もしますね。

 

 

↑、セガのバルダーズゲート・シリーズの ゲーム・ボックス。拡張版のテイルズ・オブ・ソード・コースト、アイスウィンドデイルなども持っています。当時のゲームにはちゃんとした取り扱い説明書がついていました。現代ではこういうケースは減りましたね。時代を感じさせます。特にバルダーズゲート・シリーズの説明書は分厚くて、200ページ以上もあります。このシリーズ、セガが再販してくれるのが1番良いのですが、その気配はありません。ライセンスの問題など、どうなっているんでしょうか?

 

日本のRPGに慣れてしまった、当時の自分が、このバルダーズゲートを始めてやると、驚きの連続でした。登場するNPCキャラクターが各自自分の意思を持っているように制作されていて、当人たちの気にそぐわないことがあると、勝手にパーティーを離脱したり、喧嘩を始めたりします。

 

また残酷な場面や、血なまぐさい話もあり、日本の子供向けに作られたゲームとは印象がかなり異なりました。自由度も高く、街の中の人を殺したり、仲間も殺すことが可能で、やり方次第では進行が困難になり、ゲームを詰んでしまうこともあります。

 

日本の「ドラゴンクエスト」などは登場する敵のグラフィックなども可愛く描いてあって、戦いのシーンでも残酷さなど感じさせません。しかし、「バルダーズゲート」シリーズは、現実にこの世界(剣と魔法の世界)が存在していたらこんな具合だろう、と感じさせるようなリアリティのある作りです。

 

特に2の「シャドウ・オブ・アムン」は傑作とされていて、パーティー内の仲間とロマンスが発生したり、複雑な物語の展開と、登場するキャラクターの個性的な魅力などで、当時としてはひと際際立っていたと思います。

 

この「バルダーズゲート3」もその延長線上にある作りで、個性豊かなキャラクターたちが登場し、善とも悪ともつかない複雑な物語を、プレイヤーの判断でこなしていかなくてはりません。

 

バルダーズゲートは2辺りから、元々分岐の多い物語の作りでしたが、今作でも同様に無数に話が分岐し、おそらく100人がプレイすれば100通りの物語が展開されるように作られており、その複雑さや豊かさが見事だと思います。

 

登場するオリジナルのNPCキャラクターにまつわる物語なども良くできていて、引き込まれるものがありました。

 

前作をプレイしている人には有名だったキャラクターの、ジャヘイラやミンスク、ヴィコニア、サレヴォクなどが登場し、ジャヘイラとミンスクに限っては今回もパーティーに加えることが可能です。

 

 

↑、3でも数人のオリジナルキャラクターが登場します。プレイヤーは、一緒に旅をしながら、彼らの濃い性格を堪能します。

 

アスタリオンとかシャドウハートみたいな、3でもオリジナル新キャラはゲーム内で楽しめるとして、2以来のキャラについてちょっとだけ書きます。ゲームをクリアした人にしか分からない話なんですがね。しかし自分には、個人的な思い入れがあります。  


彼らは、フォゴットン・レルムの英雄たちみたいな感じでしょうか。このキャラクターたちは、基本的に物語の後半にしか出てこないことが多く、製作者側のサービスで登場している感もありました。

 

 

↑、マッチョな戦士のミンスク。バルダーズゲートの中で最も人気のあるキャラクターです。123、全てに登場します。ミンスクは、ハムスターのブーと一緒に行動する、頭の弱いキャラでした。上は2の時の画像。下が3でのミンスク。今回は賑やかしの役割でしょうか。3では最後の方にしか登場しません。あんまり使う機会がありませんでした。

 

 

↑、初代バルダーズゲートで、ほぼ初めから登場するジャヘイラ。初代は、まだ若い主人公を、夫のカリードと共に守るという役割でした。ただ第2作で夫のカリードは殺されてしまい、女やもめのまま、主人公と共に旅を続けることになります。2でロマンス対象キャラでした。3では年を取った彼女の姿が描かれます。今回はロマンス対象ではありません。

 

 

 

↑、ヴィコニアも123と登場するキャラクターです。ただ今回はプレイヤーが操作できません。2のシャドウ・オブ・アムンでは、これも男性主人公でやると、ロマンスできるセクシーキャラとして有名でした。自分もそれでやっていたんですが、最後までたどり着いても結局結ばれないという結末になります。ちょっとびっくりするんですよね。何十時間もやって来て結ばれないとか、日本のゲームでは中々ありませんね(どうやっても無理なようになっている)。ただ、ヴィコニアはロマンスを最後までやると、彼女の性格の属性が悪から、中立に変化します。良い人に変化する、みたいな感じですかね。そういうのはゲームに直接関係ないんですが、この細かいこだわりが随所に見られるのが、バルダーズゲートかと思います。3のミンサラとキャラクターは被るかもしれません。

 

 

前作からやっている人は上のようなキャラクターが出てくるので、感慨深いです。前作が四半世紀前の作品なのに、忘れがたいものがありました(とはいえ、自分は15年ぶりですが・・・)。ただ基本は、3で登場するオリジナルキャラクターの物語で構成されていて、それがこのゲームの面白さの重要な部分だと思います。

 

しかし最近のゲームはやっていると、本当によくできていて、ゲームでしかできない体験があると感じさせてくれますね。バルダーズゲートについても、正にゲームでしかできない体験があって、素晴らしいと思います。

 

今回は制作会社が変わりましたが、元々バルダーズゲートはバイオウェア社の制作だったんですね。この作品を元にして、先日書いたドラゴンエイジ・シリーズが誕生しました。実際内容はよく似ていますが、あちらの方は映画的な演出が多めになっています。同様のシステムで世界観をSFにしたのがマス・エフェクト・シリーズですね。

 

ドラゴンエイジの最新作もDEIのコミットがなかったら、もっと評価されたんでしょうけどね。残念です。

 

バルダーズ・ゲート1 |  ヒマジンノ国

バルダーズ・ゲート2 |  ヒマジンノ国

 

↑、過去記事なんですが、今読むと恥ずかしくて自分は読めません(汗)。15年ぐらい前の記事ですが・・・一応リンクしておきます。

トランプ大統領とゼレンスキー大統領の首脳会談の様子が目下話題です。トランプが正しいか、ゼレンスキーが正しいかでSNSでは議論が活発です。公の場で一国の首脳同士が感情むき出しの喧嘩をした、というのは珍しいと思います。ただ、過去の流れを見ればトランプ氏とゼレンスキー氏が決別する可能性はかなりあったはずなので、僕自身はそこまで驚いてはいません。

 

「どちらが正しいか?」という話は置いておいても、米国はこの件でウクライナを支援しないと明言しました。ウクライナは領土を割譲したまま終戦する可能性が出てきたと思います。

 

歴史的に「ブダペスト覚書」から、「マイダン革命」、「ミンスク合意」という流れを見ると、ウクライナ、ロシア共々それなりに思惑はあると思います。ヤヌコビッチの「親ロシア政権」を西側の内政干渉で転覆し、ウクライナ内の民族浄化として、ロシア系住民を国内東方に追いやり、ロシア語の使用などを禁止したのがポロシェンコでした。この時(2014年)からウクライナは内戦状態になり、東方のロシア系住民はロシアに助けを求めていたようです。

 

 

このような国内情勢に嫌気を感じたウクライナ国民が2019年に選んだのが、ゼレンスキーでした。彼は公約でロシア系住民の安全と、ロシア語の使用を認めるといって、大統領に当選。しかし実際には公約は失敗。ロシア系住民への弾圧は収まりませんでした。

 

ゼレンスキーはロシアを煽る結果となり、再び弾圧が激しくなった2022年にロシアはこの内戦に介入を決定しました。

 

この過程の中で、ウクライナ、ロシア共々数々の国際公約を破っていて、当然バックには、西側エリートと、ロシアの確執がありますが、同時にウクライナとロシアのスラヴ系民族問題が絡んでいると思います。ウクライナの内戦では1万4000人ほどのロシア系住民が犠牲になったといわれていますが、ロシアが内戦に介入してからは、この戦争での死者数は100万人を超えている可能性があるそうです。

 

この件に関して、極東の我々がどちらが正しいというのは中々難しいと考えています。簡単に結論が出せるような話ではありません。

 

さて、以下は別の話です。別といってもウクライナ戦争と共に、国際問題になっていた、イスラエルとガザ関係の話です。

 

 

D・トランプが公式アカウントで、ガザ地区のリゾート化映像を流し、批判の的になっています。映像をAIで作成し、黄金のトランプ像や、ネタニヤフとトランプが一緒に並んでリゾート地で寛いでいるような映像などが含まれ、少し人をバカにした感があるような映像です。

 

多くのパレスチナ人が死亡したこの地を、この段階で面白おかしく描き出すというそのセンスは、常軌を逸しているようにも見えます。D・トランプという人物像を考えると、この映像は何かしらのディールで、もっと深い内容が裏にあるという人もいます。

 

しかし、中々深読みしづらいこの映像に、やはりトランプ支持者からも反発があるそうです。

 

D・トランプ氏は以前からガザ地区の200万人のパレスチナ人を、アラブ周辺国に移住させ、ガザ地区を米国が管理する案を提示しています。そしてこれを、中東のリヴィエラ(ヨーロッパのリゾート地)にするといってきました。

 

しかしこれは、イスラエルの行ってきた「民族浄化」と同じではないかという疑念が湧く話であり、イスラエル寄りのトランプ政権の後姿を見せているようにも思えます。

 

 

↑、全てAI画像ですが、他人の土地を勝手にリゾート地にするという話はさすがに悪趣味な気がします。イーロン・マスクだけでなく、ネタニヤフなども映っています。

 

まず僕自身の、個人的なスタンスを書きますが、現状のトランプ政権はある程度まで支持しています。グローバリズムに振れ過ぎた世界を修正する、という意味でです。また、このトランプを支持するしか、世界的に見ても、その方向性の修正はできなかったのだろうという考えです。

 

しかし、同時に彼が度々行う、どちらかといえば「イスラエル」よりの発言には疑問を抱いています。その点は非常に不透明であり、今後の展開次第で意見を決めなけらば行けない案件だと思います。

 

国際的な大物政治家の、トランプ、プーチン、ゼレンスキーなどは「熱狂的な支持者」が多く、反対意見を書くと嫌われます。しかし自分は、このような個人崇拝主義は昔から好きではありません。確かに、政治以外の話になれば、自分にも好きな「アーティスト」などはいます。だから、自分の意見に全く矛盾がないとはいいませんが、個人崇拝は人の理性的な思考を奪うので、特に政治的な意見に関しては、要注意だと思っています。

 

話を元に戻します。

 

そしてやはり、上で書いてきたことの続きですが、トランプ政権において一番疑問が湧くのは、上に書いたような、シオニストとの関係性です。

 

以下は断片的ですが、疑問の内容です。

 

 

↑、イスラエルとハマスの紛争中の映像だと思いますが、トランプの自宅、マール・ア・ラーゴでシオニストたちが集まり、イスラエル国家を合唱したそうです。

 

 

↑、その自宅にある、聖書による遺物「契約の箱」のレプリカ。

 

 

↑、トランプ氏は大統領令で、「信仰局」の発足を明言。そこに統一教会と関係の深い、ポーラ・ホワイトという人物を抜擢。詳しい人は分かると思いますが、日本でも参政党の神谷氏や、東京都知事選に出馬した、田母神氏など、統一教会との関係が噂される政治関係者は、イスラエルとの関係が深い場合も多いかと思います。

 

確かに「シオニスト」、といっても、一概に語れません。例えばD・トランプを批判している、俳優のマーク・ハミルはシオニストです。あと、ガル・ガドットなどもトランプを支持しているかは疑問です。「シオニスト」といわれる人々が全員同じ意見だとも思えません。

 

ただまあ、トランプ周辺の人たちも結構、聖書の終末論者ばかりじゃないのかという気もしており、幾分の怪しさを感じさせます。

 

 

米国副大統領のJ・D・ヴァンス氏が最近目立っています。ミュンヘンでの移民反対の演説や、先日の、米ウクライナ首脳会談でのゼレンスキーとの口論で見るように、意見のはっきりした人物です。

 

 

↑、トランプとヴァンス。トランプ氏が副大統領に指名したそうです。

 

しかしこのヴァンス氏も、トランスヒューマニズムを支持している企業家、ピーター・ティ―ルと関係が深いといわれています。

 

 

こういうのを読んでいると、大丈夫なの?という話です。

 

疑問など |  ヒマジンノ国

 

↑、自分が書いたピーター・ティ―ルに関する過去記事です。自分は、全てのトランスヒューマニズムや、AIによる管理が問題だとは考えていませんが、倫理性が問われるこのような事案は、導入に関して、慎重になりすぎても良いと思っています。特に政治主導でやろうというのは、かなり疑問があると思います。イーロン・マスクにしろ、このピーター・ティ―ルにしろ、元は企業家なわけで、利益などが生まれなければ、何をするかは分からないと思います。当然倫理性は後退する可能性も大きいと考えています。

 

 

↑、大昔、D・トランプ氏の破産を救ったのが、ロスチャイルドだといわれています。

 

とりあえず、支持すべきところは支持しながら、一旦トランプ政権も自分は完全にニュートラルに戻して、内容を見ていきたいと考えています。まだまだ先行きは不透明だと思いますね。

米国はトランプ政権になってから、多くの大統領令を出し、バイデン前政権の極左的な政策を根底からひっくり返そうとしています。

 

そうした中で、勉強不足の自分は、初めて名前を聞いたのですが、「USAID(米国国際開発局)」という、独立機関の解体を発表しました。この「USAID」なる機関は、1961年にJFKによって設立され、国際援助を目的とする組織だったといいます。

 

これが非常に話題となって、「X」上では、日本国内でも多くのインプレッションが見られました。

 

しかしなぜ、我々のなじみのない、この機関の解体が話題になったのか?といえば、そこで扱われている資金がどうやら、多くの極左的な政策に流れていたのではないかということらしいからです。

 

 

USAIDの年間の予算は400億ドル(日本円で5・2兆円)だそうで、米国民の税金で賄われているようです。この資金をUSAIDが優先順位を決めた組織や、団体へと流していたそうです。

 

 

これをトランプ氏やイーロン・マスク氏は無駄使いだといい、削減するとしました。さて、このUSAIDが予算を流していたところがどんなところだったかというと、BBCやロイター、ポリティコなどのメディアや、どんな活動をしているか良く分からないNGOなど。日本のNHKなども槍玉に上がっています。

 

 

これらの資金のおよそ95パーセントを使って、自分たちに都合が良い記事やニュースを流したり、あるいはNGOを名乗りながら、他国の政府に介入したりしてきたのではないかという疑念がもたれています(USAID本来の目的で使われていた資金は、たった5パーセントほどだったといわれています)。

 

先日自分もゲーム業界の記事を少し書きました。

 

ドラゴンエイジ・ヴェイルの守護者 |  ヒマジンノ国

 

↑、トランプ大統領が、USAIDを解体すると発表する、2週間ほど前に、自分は「問題なのはこのようなLGBTQのことだけでなく、BLMなどの人種差別の話を含み、かつ、このような事案はゲーム業界に限らず、ドラマや映画などにも共通で、大荒れしていることでしょう。誰かが主導的に資金を投入して、進めているとしか思えない現状があります。」とこの記事の中で書きましたが、まさにUSAIDはそのような活動の資金源だった可能性があります。そしてこのUSAIDの支配権を持っていたのが、CIAやジョージ・ソロスではないのかといわれています。

 

先週も弥助の問題を扱ったときに、日本国内の、公金の用い方などに疑問を呈しましたが、USAIDは、米国の公金を世界中にばらまいていたわけです。公金チューチューどころではない、まさにマネーロンダリング機関であり、トランプ大統領のいう、DSの資金源の1つだったのでしょう。

 

今日進められてきた、DEI、LGBTQ、BLT、SDGS、などという、歯の浮く様な政策は、世界中の文化的差異や、歴史を内部から破壊する政策であって、本来持っている理念を失っているように思えます。

 

性的マイノリティーや、人種差異への偏見をなくすとか、生活に困った人への援助など、必要なことで、やるべきだと思います。

 

しかし現在行われている政策は、例えば、トランスジェンダーや性的自認の「優越性」というべきものを煽ったやり方で、「(興味がない一般人でも)性転換をするのは素晴らしいことだ」といわんばかりです。

 

また、難民などの移民を受け入れることで、国の労働力を確保するといいながら、実際にはその移民を特別視し、その国で犯罪を犯してもほとんど咎めることなく扱ったり、また、公的資金を彼らに垂れ流したりします。

 

こういうことをすればするほど、国や民族は本来のアイデンティティーを失い、平均化し、分断していきます。また国民の不満も増しますし、国などの治安も乱れ、堕落していきます。

 

なぜこのようなことを、組織的に行っていたかというと、グローバリズムという言葉を合言葉に、これらを進めてきた人たちは、一律の基準や法律で世界を支配したいのですが、そこには各国や民族のアイデンティティーや、独自性が邪魔になるからです。

 

 

日本においても、先日も国連が日本の皇室典範による「男系男子」による皇位継承権が女性差別に当たるとして、勧告を出しましたが、日本政府はこれに反発しました。

 

各国が持つ独自の文化的背景や、歴史的背景などは、世界を一律した基準でまとめようという発想には合わないことが多く、グローバリストにとっては邪魔だ、ということになるのです。

 

そしてそんな中で、やっとのこと、D・トランプがアメリカ第一主義を掲げて大統領に当選し、このような行き過ぎた「グローバリズム」に待ったをかけ始めているということになると思います。その中の1つの政策が、USAIDを解体して、極左政策の資金源を断つ、ということだと思います。

 

今後は、各国はそれそれの独自性を持って良い、ということに当然なりますね。

 

ただこうした戦いは始まったばかりです。2月2日のグラミー賞ではレディ・ガガが、性的マイノリティの連帯を表明し、演説。それをビリー・アイリッシュらが、涙目で見つめている様子が、映像で流されました。このようなグラミー賞での政治的な発言は、当然トランプ政権への批判を込めています。また、D・トランプ氏が、トランス女性の女性競技への参加を認めない大統領令を出しましたが、州によってはこれを拒否したりもしています。

 

日本の地上波もこうしたニュースをやれば良いのですが、トランプ氏を陰謀論者というレッテル貼りして逃れようとしています。テレビばっかり見ている人はこれを信じてしまうんでしょう。日本のテレビ局もUSAIDとの関係を取り沙汰されていますから、どうやってもこうなりますかね。

 

 

↑、日本国内でUSAIDとの疑念がもたれている組織です。

 

これからまだ色々出てくると思います。一応この件で、D・トランプ氏がいっていた政策を、今期は、実地していくというのがこれではっきりしたのかな、とは感じられたニュースかと思いました。

 

もう少し考えておくと、D・トランプ氏もRFK・jrもシオニストである可能性が高いと思っています。イーロン・マスクも旧権力機構の政策は実際は否定していません。

 

 

USAIDも厳密には解体ではなく、再構築のようです。このトランプ革命が終わって、色々暴かれることはあるでしょう。しかしその革命後、結局根幹の政策は変わらずに、政権が極左から極右に変わっただけ、とはならないように願いたいものです。

 

割と有名な話かもしれませんが、フランスのゲーム会社UBIの手掛けるアサシンクリード・シリーズの新作に関する話を簡単に書きます。

 

その前に、先日書いたバイオウェア社の、「ドラゴンエイジ・ヴェイルの守護者」ですが、エレクトロニック・アーツが正式に失敗を認めたそうです。同社の株価は急落し、ディレクターのコリン・ブッシュ氏は同社を退社。自主的に辞めたとなってますが、責任を取らされたのかもしれません。結局初動で、300万本売り上げ予定が、150万本しか売れなかったそうで、バイオウェア社は閉鎖の可能性があるそうです。DEIにコミットしたせいで、大赤字です。酷い話ですよね。バイオウェア社のゲームは好きでしたが、残念です。現在、親会社のエレクトロニック・アーツはバイオウェア社を縮小し、人員を半分にしてしまいました。

 

話を元に戻しますが、UBIソフトの新作は日本を舞台にしたゲームなんですが、これはまだ発売されていません。しかし発売前から、大変炎上していまして、UBIもこれに失敗すると、倒産の可能性もあるそうです。バイオウェア社もUBI社も、欧米では有名なゲーム会社ですが、今回DEIがらみで、非常なピンチを迎えています。

 

UBIの新作「アサシンクリード・シャドウズ」の問題は、戦国時代日本にいた黒人の弥助を主人公に据えたことにあります。彼らはこの弥助を「侍」として扱い、大々的に宣伝しました。ただ、この弥助なる人物はおそらく、間違いなく黒人で、信長に召し抱えられていたのは確かなのだと思いますが、「侍」なのかどうかは、はっきりしていません。

 

しかしUBIはこれを「歴史的事実」を元にしていると主張。多分、「これはフィクションです」、というようないい方であれば問題なかったのだと思いますが、ちゃんとした資料を基にした作品といい出したのが問題でした。

 

その資料の1つが、日本大学准教授トーマス・ロックリー成る人物が書いた書籍で、これが大問題となりました。ロックリーの著作は、歴史的証拠を積み重ねたものではなく、憶測や創造に任せて書かれた部分が多いといわれており、証拠とはなりにくいそうです。またこの著作の中で、ロックリーは「地元の名士のあいだでは、キリスト教徒だろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。弥助は流行の発信者であり、その草分けでもあった。」と書いているようで、この辺は流石に酷いと思います。

 

これは、ロックリーが「日本に黒人奴隷の習慣があった」といっているということになります。どうも、個人的にはこのような発言を見ていると、この教授も、一種の活動家であるとしか思えないんですね。

 

 

さらに彼はこの弥助に関して、英語版のウィキペディアの改変を自ら行ったのではないかといわれており、そこでは自身の未発表の著作を資料にあげ、繰り返し「弥助は侍だった」と主張していたといいます。


日本人に読まれにくい、英国のウィキペディアを書き換え 、とはかなり狡猾です。

 

実際のところ海外ではこうした「弥助が侍」という話が独り歩きを始めており、日本の戦国時代には「黒人の侍」がいた、または黒人の奴隷が存在した、などという、我々日本人が聞いたこともないような話が一部で広がっているそうです。

 

はっきりいって目を疑うような話ですが、日本にいる大学の准教授が、デマを拡散し、また外国のウィペディアなどを使って、嘘を広めようといているというのです。こんなバカな話があるでしょうか?

 

そういう意味ではUBIも被害者ともいえなくもありませんが、彼らもしっかりとした謝罪もせず、未だに外国の自社のPRサイトでは弥助を「侍」として扱っています。彼らがせこいのは、それを日本語版は弥助を「一騎当千」と書き換えていて、外国のサイトとは違う書き方にしていることでしょう。

 

正直にいえば、これはゲームですから、日本を舞台にした作品でも主人公を「黒人」にしても面白いと思いますが、以上のような裏事情が出てくると中々笑えません。

 

今回この「アサクリ」問題が出てきて、ロックリーの悪事がばれたのでまだ良いですが、このままほおっておいたら、とんでもないデマが諸外国では事実とされ、それを元に我々がいわれのない攻撃を受けた可能性があります。

 

 

↑、すでに外国では弥助が侍だったかどうかみたいな議論が始まっているようですが、狂ってますよね。

 

ロックリー准教授ですが、このように悪事がばれて、フェイスブックなどのSNSアカウントを消し、逃亡していましたが、未だに活動しているようです。

 

 

ロックリーは、2025年の1月に滋賀県の安土町で、講演会を開催すると発表。しかし、抗議の電話などで中止になりました。ここでさらに問題なのは、この公演が「万博交流プログラム活用事業」として、公金が出ていた可能性があったということです。

 

問題が多すぎて何から書いて良いのか分かりませんが、日本人のリテラシーのなさ、活動家の暗躍、招致した人間の勉強不足・・・など、ちょっとひどすぎます。

 

日本大学はこの准教授を解雇すべきだと思いますが、問題は知っているのに、問題視せず、まだ雇っています。本当に、他の多くの問題があったにも関わらず、日本大学はダメな大学だと思います。

 

最近はこのように「公金」を扱う部分に、妙な活動家がコミットすることが多く、弱ってしまいます。活動家だけではありません。日本の各都市の首長、つまり知事など、多くの税金を使う場面で何をしているのか分かったものではありません。


奈良県では市民の反対を押し切って、KPOPを推進する山下真知事。イスラム教徒の土葬を市民の反対を押し切って進める、宮城県の村井嘉浩知事など。移民問題では埼玉県の大野元裕知事もひどい。

 

ロックリーの件は、黒人の問題を扱っていますが、上に書いたような、民意を無視して、勝手なことをする知事の扱っている問題の多くも、先日書いたDEI関連です。

 

LGBTや移民問題など人権やらなんやらを「人質」にして、自分たちの勝手ばかり行う、公共機関の人間が多すぎますね。お金のある所に人は集まるのでしょうが、どういう人が集まってくるのか、我々は常々監視していないと、こういうことばっかりになるという、悪い例だと思います。

 

2月1日、新国立劇場、さまよえるオランダ人、千秋楽を鑑賞。

 

オランダ人役のエフゲニー・ニキティン降板で、悪評ばかりのオランダ人公演へ足を運びました。去年の暮れに取ったチケットなので、主役の降板など分かろうはずもなく。それに、2025年シーズンのオペラパレスの演目だと、オランダ人ぐらいしかそそられる演目がありません。「カルメン」は読み替え、「セビリアの理髪師」はキャストがあんまり好みでないので、「オランダ人」しかないかな、と思っていましたが、ニキティンが降板という話なので、ちょっと困りました。

 

ここ数年で、自分は新国に行くのは、今回で5回目なんですが、そのうち4回代役で、さすがに主要キャストの降板が多すぎやしないかと思います。運営は、原因究明しないと駄目な案件だと思います。

 

ニキティンのカバーは日本人の河野鉄平氏。ウーン、どうなんでしょう。非常に人柄の良さそうな人で、悪口とかは書きたくないですが、かといって、感想は書かないと仕方ないので書きますが。

 

河野さんは、メインキャストの中で一番声が出ておらず、オケや他の人の歌声と被ると、ほぼマスキングされてしまいます。声量の問題なのか、発声の問題なのか、専門家ではないので良く分かりませんが、声が前に出ません。どうしてもほかの歌手と比べると、1ランク落ちる印象がありました。3重奏など、ゼンタ役のストリッド、あるいはエリック役のストートンの声と被る時は、河野さんの声がマスキングされてしまい、口だけパクパクしているように見える瞬間が何度もありました。

 

オランダ人が主役の第1幕の有名なアリアも、オケばっかり鳴っている印象でした。全体としてみると、第1幕が1番厳しかったと思います。

 

ただ第2幕以降、ゼンタ役のストリッドが登場してからは、彼女が歌い手の屋台骨になって、機能を始めたと思います。

 

自分は全体を通して聴いた分には、結構感動できたので、出向いて良かったと思っています。

 

キャストが全員揃ってからは、チーム一丸となって良いものにしていこうという、気迫みたいなのを感じました。

 

指揮者のマルク・アルブレヒトは、初めの頃は、割と軽めの指揮ぶりで、手堅い印象でしたが、後半に入ると気迫を前面に出して、畳みかけるような迫力を出しました。その辺もポイントは高かったです。

 

やはりワーグナーの音楽の力なのか、終わりごろは自分は結構ウルウル来てたので、面白いなと思いますね。

 

初めて「さまよえるオランダ人」の脚本を読んだとき、この人(ワーグナー)、女にもてたいだけなんやな、と思ったものです。こんな恥ずかしい脚本、良く堂々と書いたな、とも思いました。しかし結局、この作品も音楽が脚本を救っています。というか、音楽の素晴らしさは中々文句がつけづらい作品なんじゃないか?という感じですね。

 

ブリュンヒルデの原型として、完全に狂気しか感じないヒロインのゼンタですが、オランダ人の救済を語る時の、恍惚とした、あの哀愁に満ちたメロディーを聴くと、何だか彼女の狂気を信じたくなるんですね。この辺はやはり音楽の力です。他にも各種場面で、音楽によって真実と思い込まされるような部分が多数あります。

 

今日も結局、後半になってくると、ワーグナーの音楽に捕らえられて、感動がこみ上げてきました。国際的水準にはとても達しないんでしょうが、観劇したことは後悔していません。河野さんの必死さも伝わってきました。だから満足はしています。

 

まあしかし、それとは別の話で、こう主役級キャストの降板が多いと、運営ももっと考えるべきなんでしょうね。日本でオペラハウスを運営するという、難しい事業に関わっているのは分かりますが、何とかなりませんかね。

 

新国立劇場も色々いわれているようですが、個人的には無ければ無いで困るので、もう少し頑張ってほしいと思います。