音楽批評家についての論考4 |  ヒマジンノ国

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そのように、宇野氏の批評の素晴らしい部分は多々あると思います。しかし他方で、理解に苦しむ部分もありました。

 

評論家の宇野氏は好き嫌いが激しく、演奏家ではカラヤン、作曲家ではブラームスを毛嫌いしていました。しかしこのような態度は評論家として本当に正しいのでしょうか?公式の批評家として、一体どう考えるべきだったのか、悩むところです。

 

この点について少し考えてみたいと思います。

 

作曲家のいい分を大衆に伝えるのが演奏家の仕事だとしましょう。そしてまた演奏家はその作曲家に精通しなければなりません。宇野氏のいうような演奏家は多分、作曲家の化身のような存在に違いありません。

 

しかし氏は、ストラヴィンスキーやR・シュトラウスの自作自演を必ずしも認めておらず、作曲家が演奏すればよいということでもなさそうです。

 

そしてそのことを含めて、氏のいい分はどれぐらい整合性があるのでしょうか?例えば氏が嫌っていたブラームスの演奏についてはどうでしょう?

 

彼はザンデルリングの演奏を薦めていました。しかしこれ以外にも、有名なところではクナッパーツブッシュの演奏した交響曲3番、あるいはチェリビダッケの演奏した交響曲4番などを薦めています。

 

しかしこのクナッパーツブッシュの演奏は一体ブラームスの本質を突いているといえるのでしょうか?異常なまでの上下のふり幅、らしからぬタメの作り方、重い足取り、鋭い音感。これはブラームスというより、ブルックナーに近づいた、異様な演奏です。また同様に、チェリビダッケのシュツットガルト盤は異常に音色を磨き上げ、まるでフランス音楽のラヴェルかドビュッシーのようです。ザンデルリングの演奏は分かるとはいえ、クナッパーツブッシュとチェリビダッケのブラームスは本当にブラームスの本質を表現できているのか?という疑問が湧きます。

 

 

↑、ハンス・クナッパーツブッシュによる、ブラームスの交響曲3番。激しい上下のふり幅や、緩急に驚かせられる演奏で聴き応えがあります。しかし、これがブラームスの本質を捉えているか、といわれれば「?」マークもつくかと思います。

 

「宇野功芳編集長の本」で、自身がブラームス・ファンであるという、作家の宇神幸男氏(宇野功芳氏の友人)は次のように語っています。

 

かなり説得力があると思うので引用していきます。ここでは、ザンデルリング、ギュンター・ヴァント、チェリビダッケのブラームスの交響曲全集に対する批評をのせます。これらは、当時ほぼ同時に発売されました。

 

<さて、紙数も尽きそうなので、以下は比較的最近の録音からザンデルリング、チェリビダッケ、ヴァントのブラームス交響曲全集に言及したい。

 

・・・中略・・・

 

この3人、奇しくも1912年生まれであるが、演奏は3者3様。あえていえば、完璧志向が異常に強いという点ではチェリダッケとヴァントには共通点があり、ザンデルリングは質実剛健、古武士のような風格がある。

 

チェリビダッケはミュンヘン・フィルのものとシュツットガルト放送交響楽団のもの、新旧2種類ある。ブラームスに限らず、チェリビダッケの演奏は無菌室に案内されたような、塵一つないあまりの清潔さに辟易しないではいられないところがある。

 

・・・中略・・・

 

ヴァントのはトスカニーニ的訓練の賜物というべき無類にエネルギッシュなブラームスで、トスカニーニ美学を継承したセル、カラヤン、ショルティなどが結局は到達し得なかった、幻の演奏の具現かもしれない。『第1』の序奏部が異様に速い解釈はヴァント以外から聴いたことがないが、こんな寸足らずがブラームスであってよいものか。『第4』はよくぞここまでというほど完璧な純音楽的な美演で、速いテンポなのに色々な音が聴こえてくるのは脅威だ。しかし、それゆえに音が聴こえすぎてわずらわしく、なによりこのテンポは味気ないといわざるを得ない。

 

どこか偏執狂みたいなところのある両人とひきかえ、ザンデルリングはいい。謹厳居士ブラームスにも通じる一点一画をおろそかにしない楷書、だが活字の味気なさではない肉筆のぬくもりがある、とでもいったらよいか。重厚で渋く、燻し銀の、少しくすんでしっとりした、ブラームス・ファンにはこたえられない演奏だ。>

 

ブラームスの演奏論に対して、これは個人的には宇野氏の解説よりも説得力があるように思えます。チェリビダッケとヴァントのブラームスは音が透明で、その分曲の内部の見通しが良いわけです。しかしそのせいでブラームスの持つ内向きの性向を感じさせず、音が聴こえすぎるきらいがあり、音が混じりあいません。表現に幾分かの、分解的な作用があるように思えます。このように細かく音の動きを追う演奏は、ブラームスにふさわしいのでしょうか?

 

そしてそのせいで、オーケストラは分厚さよりも感性を前面に押し出した、平面的な響きに聞こえてくる部分が、増えているようにも思えます。

 

宇神氏いわく「どこか偏執狂みたいなところのある両人」の演奏は、ブルックナーを演奏すると大変効果のあるスタイルかと思いますが、ブラームスになるとむしろ逆効果になる場合が増えるのでは?と思えてきます。これはクナッパーツブッシュにしても同様でしょう。

 

つまりここでは、「宇野氏」の理論による相性の問題が、露呈していると思われますが、宇野氏はそれを無視してチェリビダッケが良いとか、クナッパーツブッシュが良い、といっているように聞こえはしないのでしょうか?

 

 

↑、チェリビダッケのブラームス交響曲全集。シュツットガルト放送交響楽団を用いています。音の艶やかさは見事ですが、あまりの透明感がブラームスにふさわしいかは疑問の全集です。確かに第4はチェリビダッケ流のブラームスで、美しいことは確かだと思います。しかし表面的的に聴こえる、といわれても仕方なさそうかとも思えます。ミュンヘンフィルとの演奏はもっと深みが出ていて、テンポも遅く、晩年の演奏になっています。

 

 

↑、ギュンター・ヴァントのブラームス全集。第4交響曲辺りは、チェリダッケと似たような感じがします。透明感のあるブラームスで、こちらも異常なまでに見通しが良い演奏となっています。人間味のないブラームス、といえるのかもしれません。

 

宇野氏はフルトヴェングラーのブルックナーについて、次のように語っています。

 

<フルトヴェングラーのブルックナーは、いずれも彼の人間的でな生々しい体臭がムンムンするような、いわばベートーヴェン風な解釈であり、表現自体はまことに高い次元に属するが、演奏が良ければ良いほど音楽から遠ざかるという矛盾をはらんでいる。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

宇野氏はザンデルリングのブラームスを高く評価すると同時に、チェリビダッケ、ヴァントの演奏する第4なども高く評価しています。しかし、上記のフルトヴェングラーのブルックナー論を読む限り、チェリビダッケやヴァントのブラームスは、ブラームスの持つ人間的な感情から遠ざかり、感覚的な音響体へと変貌してしまっていると思えます。

 

宇野氏の従来からのいい分は「演奏家は作曲家の、いいたい本質を体現してこそ」という主張だったと思っていた自分には、この辺は全く勝手な意見だと思うようになりました。当然ブルックナーとブラームスでは演奏史が違いますし、一概に語れませんが「メータのブルックナーを聴きに行く方が悪い」といった人物の批評としては流石に無理があるように思えます。

 

他のケースでも彼は自分の哲学と、好みをない交ぜにした、独特の論法で押し通すことが多々あるように思えます。この部分が、彼が批判される、最も重要な部分でしょう。「分からないこと」は「分からない」で済ませばよいと思えますが、彼は自分の理解できないことを攻撃する癖がありました。

 

ベートーヴェンの演奏にしても宇野氏はトスカニーニの演奏をそれほど認めていませんが、ベートーヴェンの作りだした、音楽の持つ細かい動機の動きと、トスカニーニのスタイルの持つ、熱烈で機動性の高い演奏の方が、時に氏の評価するフルトヴェングラーの演奏よりも、ベートーヴェンの本質をあらわにしていることがるあるように思います。過去記事です↓。

 

ベートーヴェン・イヤー |  ヒマジンノ国 (ameblo.jp)

 

宇野氏が推薦する、フルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンの交響曲が、作曲家の精神そのものを表していることに異論はありません。しかし明らかにフルトヴェングラーは「時代の子」であり、受けつがれてきたドイツの伝統の流れからいえば、後期ロマン派に属します。それ故、フルトヴェングラーの演奏するベートーヴェンは、ロマン派流に「解釈」されているということも自明かと思います。有名な彼の演奏する第9交響曲は、おそらくは、当初ベートーヴェンの頭に中にあった姿とは、全く違う姿になっていると想像されます。厳密な時代講釈する方からすれば異論しかないとは思いますが、やはりトスカニーニの演奏の方が、ベートーヴェンの思い描いていた第9の姿には近いのではないのでしょうか?

 

宇野氏の評論について、共同で著作を残している中野雄氏は次のように述べています。

 

<宇野先生には前の本のあちこちで、痛烈なご批判を頂戴した。曰く「ケンプは女々しい」、曰く「ギレリスは体育会系」、曰く「バレンボイムは才能の無駄使い」等々。

 

しかし私は全くハラが立たなかった。宇野先生独自の価値尺度、思考方法を、40年のお付き合いの中で熟知していたからである。もし客観的価値判断の次元で論争していたら喧嘩になっていたと思うが、宇野先生は超プロの評論家にもかかわらず私的感情=つまり好き嫌いを表面に出し、主観と客観の絶妙なコンビネーションで音楽評論=特にレコード批評の分野に新境地を開拓された方なのである。だからその論法で攻められたら、当方は苦笑するしかない。>(クラシックCDの名盤、演奏家編」。宇野功芳、中野雄、福島章恭による共著から)

 

これは的確に宇野氏の評論方法をいい当てています。もっといえば、自分にはまだまだ「上品に」宇野氏の論法を批判しているように見えます。

 

 

↑、「クラシックCDの名盤、演奏家編」。宇野功芳、中野雄、福島章恭による共著。3人の立体評で、CDや演奏家を批評する、意欲的な書籍です。

 

確かに宇野氏が自分が主張する「作曲家のいいたいことを、掘り下げて代弁できる演奏家」というのは素晴らしい演奏家だと思います。ただ演奏家の特性は本当にこれだけなのでしょうか?

 

宇野氏の評論は彼が主張するフィールドにおいては有効に機能することが多いように思いますが、一旦そこを離れると、必ずしも有効でもないように思えることも多々あるかと思います。

 

しかし本人は「演奏の好き嫌いと、良し悪しは別に考えなければない」といっていますが、結局これも彼の考える「ルールの中」で有効に機能する意見であって、そこを一旦外れてしまえば、宇野氏は「好き嫌い」でしか評論していないということになると思います。

 

彼の評論では、論理的な倫理性が外れていることがある、ということです。

 

他方で、彼の感性で評論されて、新たな魅力を発見された演奏家や、録音も多く、その部分は評論家としての役目はあったと思います。

 

もう少しこの問題について書いてみたいと思います。