音楽批評家についての論考5 |  ヒマジンノ国

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

<フルトヴェングラーのトリスタンは名演なのか?>

 

演奏家と作曲家は別人であり、いいかえれば、違う個性なわけです。確かに演奏家が作曲家に従う時、作曲家の方が立場は上のような気がします。ですが、演奏家が作曲家の個性とは違う時、演奏家は必ずしも、作曲家に従う必要があるのでしょうか?

 

演奏家と作曲家の関係でもう1つ、気にしなければならないことがあるとすれば、それは「個性と個性のぶつかり合い」という部分を強調した演奏だと思います。

 

宇野氏の演奏論によれば、いくらかは演奏家の資質が、作曲された、曲の性格に合致せねばなりません。その演奏家の性質に会わない曲というのは、曲の本質を外す可能性が高くなるといういい分でもあるように思います。氏はフルトヴェングラーの演奏したシューベルトの「未完成」について以下のように述べています。

 

<いかにもフルトヴェングラーらしい「未完成」の名演である。彼はこの曲を振る前は、そわそわと落ち着かなったそうだが、曲想が彼の表現とぴったり合致していないので、演奏しにくかったのだろうと思う。しかし、このCDでは、一応やりたいことをやり尽くし、フルトヴェングラーなりにきわめ尽くしている。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)

 

それ故、宇野氏が勧めるのは、(シューベルトに資質の近い)ブルーノ・ワルターによる「未完成」となります。曲の内部に入り込んで、自在の演奏ができる演奏家が、宇野氏のいうようなスペシャリストです。

 

しかし逆に自分の資質に合わない場合、演奏家は固くなる時があります。

 

宇野氏との対談で、作曲家の佐藤真氏が次のように語っています。イン・テンポの問題について語っていて、面白い内容なので引用します。

 

<トスカニーニは、イン・テンポの指揮者だと言われているけど、とんでもない。イン・テンポの指揮者という人がもしほんとうにいたとしたら、僕それ、音楽が分からない人だと思う。

 

僕は昔、学生の書いたものを試演する目的で、オケを振る機会があった。学生の曲だから出来栄えにむらがある。いいところもあれば、悪い全然だめなところもある。振っていて音楽の分からないところに差し掛かると、指揮者は必ずイン・テンポになる。>(「宇野功芳編集長の本」から)

 

つまり演奏家は自分が理解できないところに来ると、音楽が固くなるということでもあると思います。この話は演奏家が、「生理的に」苦手な曲については演奏がしっかり機能しない、と主張する宇野氏の意見とも、幾分合致するように聞こえます。

 

そしてこのような演奏論のもと、考えなければならないのが、20世紀の新即物主義といわれた「ノイエ・ザッハリヒカイト」です。以前も少し書きましたが、楽譜は専門の教育を受けた人なら誰でも読めるわけですから、仮に曲の内面に対する知識や理解がなくとも、演奏できるという思想です。

 

なぜ演奏家が曲の内容を掘り起こす必要があるのか、という問いの論点は作曲家としてベートーヴェンの存在を論じる必要があると思いますが、今回は論点がずれるので止めます(音楽による、抽象概念の存在が認識されたということ)。

 

ただ、佐藤氏のいう如く、指揮者が分からないところに来るとテンポが「イン・テンポ」に成るという指摘は、この新即物主義の思想によって、より強く認識され、肯定される下地ができたように思います。確かに、音楽が分かっている場合と、分かっていない場合では「イン・テンポ」の意味が変わってくるのも道理でしょう。ただ自身の体質に合わない音楽をやる時、どんな名演奏家でも、「イン・テンポ」にいくらか近づくというケースは、多いように思います。

 

しかし、フルトヴェングラーのワーグナーように、テンポを動かさなくとも、ある程度まで、まじめに演奏し(イン・テンポに近い感じで)、曲の内面を暴かなくとも、演奏が正確で美麗であれば、むしろ作曲家よりも演奏家の個性が前に出て、「名演」となる下地ができたともいえましょう。つまりこれも宇野氏の意見とは、逆の意味を提示する例となります。

 

あるいは曲の内面が求めているような表現とは違う動きを出しても、その曲の別の側面を引き出して、今までにない名演を生み出すこともあるでしょう(グールドのバッハなど)。それも演奏家の「演奏主体」となりうるから発生する現象だと思います。

 

そしてフルトヴェングラーというのは、シューベルトの未完成を振ると、幾分ぎこちなさを感じさせた、という指摘と同様に、ワーグナーについても同様のことがいえるのだというのが、宇野氏の主張でしょう(逆にベートーヴェンをやると、水を得た魚のように生き生きとなる、本質的にフルトヴェングラーは作曲寄りの演奏家だと思います)。そうなると結局、ベートーヴェンでは音楽を散々動かす、フルトヴェングラーでも「ワーグナー」においては、イン・テンポのような演奏になり、まるでザッハリヒのように聴こえるということになると思いますね。

 

そして、このような、「イン・テンポ」、あるいは「客観的でクール」な演奏の録音を多く残したしたのは、フルトヴェングラーの後継だった、ヘルベルト・フォン・カラヤンでした。

 

元から、宇野氏によれば、演奏家の資質によって、演奏家が何かのスペシャリストになることを推奨しているように聞こえます。だけれどもカラヤンはそのようなことを一切気にしませんでした。宇野氏が嫌う理由も分かろうというものです。

 

スぺシャリストというのなら、フルトヴェングラーであればベートーヴェンのスぺシャリストなのでなのでしょうか?

 

しかしカラヤンのように自分の資質に関係なく、どんな作曲家でも、別け隔てなく演奏する(何でも屋 、とも揶揄されますが)となれば、演奏は先の佐藤氏の発言もないですが、「イン・テンポ」になるとか、ザッハリヒになって行くというのが、結局その本質かと思います。

 

そしてこのような、フルトヴェングラーのワーグナー(ここではトリスタンとイゾルデとします)やカラヤンの多く録音を、指揮者の資質の向き不向きから「名演としない」ということが本当に可能かどうかという議論になるわけです。

 

資質が合わないから、つまりフルトヴェングラーのワーグナーはワーグナーの本質は表現できないというのが宇野氏ですが、他方、ほとんどブラームスの本質を表現しているかどうか疑わしい、クナッパーツブッシュの演奏が素晴らしいと絶賛しているわけです。ここは明らかにダブルスタンダードな意見で、おかしいわけです。

 

宇野氏は確かにブラームスの音楽を嫌っていて、正当な評価をしているか疑問です。彼が溺愛した、クナーッパーツブッシュのブラームスの演奏を1番に持ってくるということではありませんが、しかし、クナの演奏はブラームスの本質を消し去っているようにも聴こえます。

 

いみじくも宇野氏がクナッパーツブッシュのブラームスが素晴らしいと認めたということは、つまり、演奏家の資質と異なる作曲家の音楽を演奏家が演奏しても、演奏家と作曲家との化学反応とでも呼ぶべき別の効果によって、名演になりうるということを示しているということになると思います(クナッパーツブッシュのブラームスはイン・テンポではありませんが)。

 

こうなってくると、カラヤンの多くの録音や、フルトヴェングラーのワーグナーもどうして名演でないか、という話を、指揮者の資質の問題だけでなく、他の情報を含めて語らなければ嘘ではないでしょうか?

 

その上でフルトヴェングラーの残した「トリスタンとイゾルデ」の録音が、どうして今日まで聴き続けられてきたのかという話を、考えてみるべきだと思います。

 

フルトヴェングラーの演奏した曲が持つ、和声上の豊かな響き、そのような傾向と、イン・テンポ(イン・テンポと断じてしまうのは問題だと思いますが、あくまで彼のベートーヴェンの演奏などと比較した場合の意見です)で演奏がされる故に、きめの細かい豊かな表現を可能たらしめた、劇的な効果などが相互に作用し、この録音は聴き手をワーグナーの特異な世界観へと導いていきます。

 

以下は名盤案内に記された、國土氏のフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」評です。

 

「<トリスタンとイゾルデ>の演奏を語る上でも欠かせない録音であり、フルトヴェングラーの音楽性でも欠くべからざる録音である。フルトヴェングラーのドイツ的な音作りの最大の特徴は、和声感へのこだわりである。美しい和声感へのこだわりである。美しい和声感を形作るには音程の良さは不可欠である。ドイツ・ロマン派の和声発展の臨界点である<トリスタンとイゾルデ>こそが、フルトヴェングラーの音楽性を最も生かせる生かせる作品であるのは、正に自明の理であろう。当時のフィルハーモニア管弦楽団の状況から鑑みても、何人たりとも達成していないこの入念な音程は、フルトヴェングラーによって生み出されたのだ。」(「クラシック不滅の名盤1000」から、國土潤一氏穂批評)

 

 

自分自身も、多分このような評価こそがフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」に対する正当な評価であるというべきであるように感じます。

 

つまりロマン派の最後の砦であった、フルトヴェングラーの演奏は、旋律を豊かに歌わせる能力とその効果が、ワーグナーの音響体にイン・テンポながら豊かに寄与しています。なおかつ、ドイツの指揮者ならではの、抽象性の高さと、内面にある思考性が彼の場合、まさにドイツのエトスの発現そのものであり、ドイツの「ロマン派」に合致します(音楽が音楽以外の抽象性を生むことがなければ、ロマン派は生まれることがありませんでした、フルトヴェングラーの演奏はそれを表現しうるものです)。

 

 

↑、ウィルヘルム・フルトヴェングラーによるワーグナー「トリスタンとイゾルデ」、全曲。LP。歴史的な録音としても有名です。

 

ALP1030ー1035。

 

 

カラヤンの場合も同様に、「パルシファル」のようなワーグナーのオペラは極力イン・テンポで通します(ローエングリンなどは散々テンポを動かしている)。しかし、そのことによって音の官能性を芳醇化し、演奏の合奏度を上げることによって、かつて聴いたこともない精巧なワーグナー像を作り上げています。

 

このカラヤンのワーグナーも駄演というのは無理があると思います。「名演」といわれるべきでは?という気になります。

 

これも宇野流にいえば、カラヤンはワーグナーに向かない指揮者ということでしょう。しかし現在はこの録音も多くの人に認められています。一見不得意に見えても、実際にカラヤンが演奏すれば、名演になった、といえるものではないでしょうか?

 

 

↑、カラヤンによる、ワーグナー「パルシファル」。CD。音を美しく練り上げて、陶酔的な美の空間を作り出す、カラヤンの芸術が、極度に発揮された例だと思います。ここでは厳粛な宗教的楽劇の苦みが薄れ、美しい音色による、曲全体へのコーティングが成功した録音でしょう。