今年のコンサート評を最後にして、年内はブログを終えたいと思います。
今年は9回コンサートに通いました。以前も書きましたが、自分は仕事の予定がせいぜい3か月先ぐらいまでしか分からないので、中々本当に行きたいチケットが取り辛いです。
そんな中でも、自分なりに色々工夫して、コンサートに通いました。
以下はその感想です。あくまで素人の私見ですので、内容はご容赦ください。
印象に残っているのは、ミュンヘン・フィルとソヒエフによる「ブルックナー交響曲8番」と、新国立劇場の「トスカ」です。他にもノットによる「大地の歌」、マリー・ジャコによる「ブラームス交響曲4番」も気に入りました。
↑、ジョナサン・ノット。個人的には、現代的感覚とロマン派の感覚をうまく融合している感じがしています。
↑、マリー・ジャコ。女性の指揮者を初めて聴きました。躍動感のある指揮ですが、音はきつすぎず、柔らかく鳴っていた印象がありました。
以上4点は満足した演奏会でした。ピアノのコンサートについては先日書いたので、割愛します。
ミュンヘン・フィルとソヒエフのブルックナーは、賛否ありまして、「X」(旧ツイッター)ではそれなりに肯定した意見が多かったです。アメブロではネガティブな意見が多かった気がします。
ブルックナーについての論評は未だに揉めることが多いので、先も書きましたが、あくまで以下は僕自身の個人的な見解ということでお願いします。
正直ブルックナーの大作を、コンサートで初めて聴くということもあり、その音像の大きさなど、初めての体験となりました。壮大で、音の大きさを必要とする曲ですから、1度実演で体験したかったのが今回実現できて良かったです。
演奏は中々のスロー・テンポで、特に第1楽章にそれが顕著でした。ミュンヘン・フィルはチェリビダッケがかつて音楽監督だったこともあるので、ブルックナー演奏には定評があるところです。スロー・テンポというのはチェリビダッケの代名詞みたいなもので、このソヒエフの演奏も、初めはそのチェリビダッケの演奏が頭をよぎるような演奏でした。
スロー・テンポになると、音楽は細部がクローズアップされ、全体のまとまりが弱くなる場合があります。チェリビダッケの演奏なども、気を許すとそんな感じになりそうな演奏法でした。ソヒエフの演奏もそれを彷彿とさせるような、テンポに思えました。
↑、トゥガン・ソヒエフ。現代最高の指揮者という人も多いみたいです。
ただ、当然ながら、チェリビダッケと全く同じではなく、ソヒエフ流のブルックナーだったと思います。他のSNSで自分が書いた文章を再録します。
「先日のソヒエフ、ミュンヘンのブルックナー8番はネット上では賛否両論。自分はポジティブに捉えます。またソヒエフの演奏をチェリビダッケと較べる話題が多く、皆同じことを考えるんだと感じました。自分も初めはチェリビダッケみたいだと感じました。
しかし、チェリビダッケは、彼の演奏哲学の、内声を膨らませて、響きの豊かさを獲得するやり方が、偶然?ブルックナーと合致するので、名演になるのだと思います。彼の場合、曲想よりも響き作りを優先させて、解釈を嫌います。だから時折、響きそのものがぶっきらぼうに聴こえさえします。
しかしソヒエフは、楽曲を自分はこう読む、という姿勢がはっきりしていて、全編に文脈を感じました。ソヒエフ流の読み込みがあるブルックナーで、ぶっきらぼうなところはなく、ミュンヘン・フィルの響きの美しさも相まって、自分には貴重な体験でした。
また生のミュンヘン・フィルの響きは、旧EMIのチェリビダッケ録音集のように、枯淡に枯れた印象の音ではなくて、このアルトゥス盤のように、みずみずしい豊かな音でした。」
かつて、評論家の遠山一行氏が次のようなことをおっしゃっていました。
「チェリダッケは独特な美学をもっているわけでしょう。楽譜というのは出発点にすぎない、お料理の手引きみたいなものだという。演奏家というのは結局は自分のしたいようにしていいと僕も思ってはいるけど、しかし、最後まで作曲家の大切な部分につきあっていなきゃいけない。最後に作曲家から離れたって、それは仕方がない部分があるけれども。楽譜は出発点だけだと言われちゃうと困るんだ。彼の場合はそういうところがある。後は自分の音楽にする。」(宇野功芳編集長の本から)
これは的を得た意見だと自分は思います。彼は独自の哲学を持ち、「オーケストラで音を鳴らす」という行為を、「楽譜」を離れて正当化した指揮者だと思います。
↑、過去記事、チェリビダッケに関する記事2件です。
上の記事の中でも述べていますが、指揮者が「音を鳴らすこと自体が芸術」という意識に目覚めた、ともいえるのかもしれません。晩年のカラヤンなども同じですが、長く専門に指揮者を務めればありうる話だと思います。チェリダッケの場合はそれを「現象学」や「仏教」の思想で、補強しています。また現代の指揮者の多くは彼らの影響を強く受けており、ネルソンスやティーレマンなどの録音を聴いていても、これらの指揮者の影響を受けているとしか思えない時があります。
チェリダッケの場合、ブルックナーに関しても「曲の意味」を追うというよりは、「音を鳴らす」ことに集中しており、その彼の芸風がブルックナーと合致しているからこそ、効果が大きいのだと思います。だから曲の場所によっては「意味」が欠落して、「ぶっきらぼう」に聴こえるのだと思っています。その分、音響の立派さを優先します。
さて、いつもながら前置きが長くなりましたが、ソヒエフの場合は、彼はそのような「鳴らすこと」に集中するよりは、彼自身がはっきりと「自分の眼」で読み込んだブルックナーであり、チェリビダッケのような音の立派さはないかもしれませんが、初めから最後まで自分は「こう読む」という姿勢が一貫しており、そのおかげで連続した文脈が備わった演奏でした。
その「解釈」も決して曲想を離れたものではなく、その場その場に応じた工夫があったと思います。幾分内省的で、柔らかさを基調としながらも、壮大さも兼ね備えた演奏だったのではないでしょうか?アダージョの頂点も極めて美しく、しかし鋭すぎない響きで大変感動しました。
細部にこだわった、という意味においてはチェリビダッケにも似たところがあったと思います。
しかし、自分みたいな感想を書いている人がいないので、ちょっと心配になって少し調べたのですが、似たような感想を書いた人がいたので、勝手に引用させていただきます。
↑、北京で同じ演目を聴かれたという方の感想です。自分としてはほとんどつけ加えるもののないぐらい同じ意見です。このツアーでは東京のほか、北京、上海で同じ曲目を披露したそうです。正直、自分と同じ意見の方がいて、ちょっとほっとしました。
↑、この方も書かれているように、終楽章の第1主題の展開部直前の再現も、上下に振れるよりは、横に横溢した響きを広げたように聴こえ、今まで聴いたことにない解釈を聴かせました。テンポをゆるぎなく取ったせいでしょう。この方のいう通り、後半はギアチェンジした場面もありました。
ブルックナー8番初稿(1887年稿)と、この決定稿(ハース、あるいはノヴァーク稿)の1番の違いは、第1楽章をはっきりとした「悲劇」として書き直したことだと思います。レーヴェに理解されなった、第8の初稿、第1楽章は彼の成功作である第7の延長線上のように書かれており、とりとめのない、いいたいことが分からない内容になっています。そのおかげで、後に続く楽章の意味が見いだせず、聴き手は途方に暮れてしまいます。
しかし第1楽章を悲劇に書き直したことにより、かの巨大な第3楽章が、その悲劇に対する癒しであることがはっきりします。これほど深い、癒しというのも珍しいほどの内容です。そして回復したブルックナーは、終楽章で再び、活力を取り戻し、巨大な歩みを始めます。
終楽章におけるコーダは、この音楽の全楽章の回顧が見られます。ベートーヴェンが第9の終楽章冒頭で行った、他の楽章の回顧を彼は第5シンフォニーにおいて真似をしましたが、ブルックナーは第8においてそれを終楽章の最後に置き換えました。
終楽章のコーダにおける回顧は、これは既に「初稿」のときから書かれていた内容です。
この「初稿」を聴く限り、第1楽章の回顧は音楽をコーダに上り詰めさせる、経過区として機能しており、ブルックナーの計画性をうかがわせます。しかし先の「初稿」は、曲全体の、起承転結がはっきりしないせいで、このコーダも単なる思い付きのように聴こえてしまうのです。
しかし、改訂された決定稿は、当然のように、第1楽章の回顧は心に刺さるような悲劇に書き換えられており、これによって、遂にこの巨大な音楽の伏線の回収に成功するわけです。
そのコーダにおいては、第1楽章の心に刺さるような悲劇の後、スケルツォの主題がまるで、夕日を背景に、輪郭をはっきりさせた、アルプスの頂のように、ゆっくりと、巨大に姿を現します。そして、緊張感をはらんだ、厳粛な静けさの中、第3楽章の主題が、この曲の結末へ向けて準備を始めると、音楽は異様な俯瞰的構図となり、気の遠くなるような印象を聴き手に与えていきます。まさに「神の視点」を思わせるような場面です。
同じような構図は、彼の第4交響曲の結末でも見てとれるかと思います。どこまでも地に足の着いた音楽を書いた、ワーグナーとは違う、ブルックナーにしか書けない音楽がここにはあります。そして遂にラストに至って、音楽は全楽章の主題が重ねられ、第5交響曲のフィナーレに匹敵するような強力な歓喜を生み出して、曲を締めくくります。この辺の音楽は本当に素晴らしいです。
第8は、まさにブルックナーの音楽の総決算ともいえる作品だと思います。
ソヒエフの演奏も、コーダの感動は良く出ていたと思います。また彼は第1楽章を、他の楽章よりもやや大柄に演奏していたのも印象的でした。このコンサートは自分にとっては素晴らしいものとなりました。
次に、新国の「トスカ」です。
個人的に「トスカ」については2つの基準を持っています。「歌手主体」であるか「指揮者主体」であるか?という基準です。
例えば、マリア・カラスがタイトル・ロールを演じるステレオのレコードでは、カラスの他に、テイト・ゴッビ、カルロ・ベルゴンツィの競演であり、聖なる怪物がそろい踏み、その迫力は比類がありません。まさに歌手主体の名演だと思います。
方や、カラヤンのグラモフォン盤などを聴いていると、歌手にはそれほどの力はありませんが、カラヤンの正確な全体の見通しによって、劇的起伏は見事であり、魅力的なオペラとなっています。
ヴェルディの「トロヴァトーレ」などは歌手主体でやらないと、厳しいと思いますが、プッチーニの「トスカ」は「歌手主体」でも「指揮者主体」でもどちらでもやれるという印象を持っています。
今回の新国での主役は、指揮者のマウリツォ・ベニーニでしょう。自分は、初めて聴く指揮者でしたが、歌劇を中心に活躍している方らしいです。メトロポリタンで指揮していた時には、イタリア・オペラを担当していたそうです。
↑、マエストロ、マウリツォ・ベニーニ。
彼は日本のオーケストラから、味の濃い音色を引き出し、性急でありませんが、引き締まった指揮をしていたと思います。どの場面でも、踏み外しがなく、素晴らしいと思いました。
歌手も超一流というわけでもないんでしょうが、ベニーニの指揮に応えるだけの力量はあり、素晴らしい場面もありました。
舞台のセットも良くて、非常に記憶に残りました。
他にも今年はブルックナー・イヤーということで下野さんのブルックナーなども聴きました。その辺の話も書こうかと思っていたのですが、今回のブログもかなり長くなってきたので、これぐらいにしようかと思います。
また来年もよろしくお願いいたします。











