ヒマジンノ国 -25ページ目

 ヒマジンノ国

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個人的に、自民党の憲法草案の「基本的人権」の意味が分かりかねる、というのがあります。改憲反対派が憲法改正で「基本的人権」が削られるというと、賛成派は第3章11条辺りを出してきて、「基本的人権」は守られると主張します。

 

しかし「基本的人権」とは何でしょうかね?結局、正確な定義は難しいように思われます。

 

ただ現状の日本国憲法の「人権」は、おそらく西洋流の「天賦人権」(生まれながら自由平等であるという説)から来ていると思われ、それ故「個人」というものも尊重されえます。

 

第3章13条、現行憲法には次のようにあります。

 

「すべての国民は、個人として尊重される。」

 

ところが自民党による、新しい改憲案は次のようになっています。

 

「すべての国民は、人として尊重される。」

 

「個人」という言葉を消して、「人」という言葉に直しています。なんでこんな風に自民党の憲法草案は直してきているのか?ほかの条文でも「個人」という言葉は削ってきています。従来の、個人尊重の立場は避けたいのかもしれません。しかし、「個人」と「基本的人権」は同居するのでは?

 

ウィキペディアには次のようにあります。

 

<自由民主党の日本国憲法改正草案では、天賦人権説は西洋的な「神の下の平等という観念を下敷きにした人権論」なので、日本独自の考え方によって「第11条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である」に改めるとしている。>

 

一応見方としては、西洋風の個人主義を避ける、とでもいいたいのだと思います。そこに全く意味がないかといえば、そうでもないとは思います。

 

行き過ぎた人権主義による、社会的混乱というものもあります。社会的弱者は守られねばならないかもしれませんが、今度はその擁護が行き過ぎれば、逆差別ということも起こりえます。「権利」の乱用は社会をいびつにします。

 

ただ、それをいうのならば、今度は、人権の話だけでなく、近代憲法について考えるなら、西洋流の思想は無視できませんし、そこに付随するキリスト教の考えも無視できないはずなんですけどね。本来、その辺の論述もいるでしょう。

 

では次に、逆にいうのならば、日本独自の「人権」の考え方って何?という話になります。かつての、天皇制の場合は国体論などと一体になっていて、これを是とするのならば、西洋風に、人間が「個人的に」生きるというのは、ちょっと日本の風土と合わないとでもいうのでしょうか。・・・だとすると、その当時の人権とは?天皇主権と基本的人権の関係は・・・?

 

明治憲法であれば国民主権ではないので、「人権」というものがどの程度のものなのかは、今になってみると、中々正確には分かりません。おそらく時代ごとに違ったものになると思います。

 

だから、やはり、強く「人権」が意識されたのは、戦後だと思うんですけどね。結局「天賦人権」という意味での「基本的人権」として、我々は理解してきたわけです。

 

だから自民党の書いている「基本的人権」というのは従来から我々が味わってきた「人権」の考え方とは、恐らく異なるであろうということです。そして生まれながら持つ「天賦人権」でなければ、一体その人権の基礎はどこにあるのか?ということになります(「天賦人権」という言葉のよりどころが西洋の「神」、つまり「ゴッド」にあるとすれば、我々には問題となるのでしょうか?仮に「ゴッド」という観念を削ったとしても、「生まれながらの権利」という考え自体は、それほどおかしくないようにも思えます)。

 

この説明を自民党案はしていませんね。そして自民党案のいう「基本的人権」とは何なのか?これも分かりません。だからちょっと怖さがあるのは、当然ともいえます。緊急事態条項にも「基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。」としていますが、もしこの自民党案の「基本的人権に関する規定」なるものの考えが、憲法にのみ尊重され、記述されている部分の意味合いだけになるとしたら?これは明治憲法に近づく考えではないのですか?

 

例えば「天賦人権」であれば、立法的な根拠を超えて、いくらかは「超法規的」な概念といえます。人権がやや治外法権の位置にあるというのか。そのために「天賦人権」は全体主義のストッパーになりうるんですね。

 

しかし、「人権」の概念が憲法のみで規定されるとなると、他の条文との兼ね合いで解釈する、ということになってくるしかないのでは?つまり「人権」に対する「解釈」挿入の余地があるのが、自民党案であると思います。

 

自民党の憲法草案の字面だけ読んで「基本的人権」は保障されているなんていうのは、やはり微妙ですよね。「人権」の意味合いをいじってしまえばそこまでですから。

 

仮に従来型の「基本的人権」に問題があるとするのなら、まずはどういうものが我々には妥当か、そういうところからちゃんと議論すべきなんですよ。この点については本当にそう思いますけど。こういうのをさぼるから、どんどん世の中おかしくなるんです。権利の乱用がなく、同時に、全体主義にはちゃんとブレーキとして働くもの、少なくともそういう意味での「人権」はどの程度のものなのか、議論されても良いと思います。

 

今の自民党案のように、自分たちの考えのみを「するっと」書き込んでくるのは、疑い深い自分にとっては、ちょっと不気味に見えますね。

 

自分が感じていること | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、色々問題ある書き方かもしれませんが、過去に書いた記事です。ちょっと過激に書きすぎたかもしれませんが(;^ω^)、一応参考程度にのせておきます。究極的にいえば、どんな憲法でも扱う人たちがしっかりしていれば、それほどひどいことは起こらないとは思います。しかし、逆にどんな憲法でも扱う人に問題があれば、大問題となるでしょう(それをいったらおしまいか・・・?)。

 

自分は元々「国防」を問題視するなら、まずはその部分だけ改正するべきではないかという考えです。

 

よく今の日本国憲法は「無効」だ、という人もいますが、今さらそれをいって何になるでしょうか?もっと現実的に進めるべきでは?

 

天皇を元首にする、という話もかまわないとは思いますが、それに付随する可能性のある話などは、もっと論議してからだと思います。正直1世代待っても問題ない議論だと思います。例えば、今が人権や、国の思想的体系を論ずる、あるいは意識するという意味で、「始まりの時期」とすれば、それが今後どうなっていくかは、その時代に生きる人たちが決めることであって、初めから「国の形がどう」という事柄は決めてしまうべきではないと思います。

 

現実に、喫緊に必要なことを論議しつつ、ちょっとづつ憲法を改正してくのが筋なんじゃないのかと思いますけどね。

中国の人権問題から、北京冬季オリンピックへの外交的ボイコットという話が、欧米から出ています。中国政府はウイグル族100万人を、新疆地区の収容所に拘束しているといわれています(どこまで正確な数字かは疑問もありますが)。拷問などの痕跡もあるそうです。

 

IOCもオリンピックを政治化するな、などといいだしましたが、一体どの口がいうのか?

 

 

米国は北京冬季オリンピックへの判断は各国に任せるとしています。日本はこの問題に対して、ずっと及び腰で、問題が多いように思います。国内も親中派の議員が多いので、ちょっとこわいところです。こういうことはちゃんと調べて、必要なら議員にさせないようにしないと、後々後悔しそうです。

 

そして米国同様にいち早く、冬季オリンピックへの外交的ボイコットを発表したのがオーストラリアです。これは人権の問題に対する妥当な発表のようにも思えます。

 

中国に対する国際政治上のプレゼンは必要なんでしょう。ただ、本当に中国だけが問題なのか・・・?

 

・・・そのオーストラリアは自国内に対して、コロナワクチンの強制接種を始めようとしているのではないかと、いわれています。オーストラリアは日本よりもコロナ感染者や、死亡者は少ないといわれています。

 

 

また、フランスやドイツ、オーストリアなど欧州はワクチン・パスポートを使った国家統制を行おうとしているように見えます。

 

この調子でいけば、いずれ欧州も、オーストラリアも、中国と何ら変わらない国家になってしまうのでは?

 

無思慮な人たちに政治を手渡すとどうなるか、良く考えてみなければなりません。中国の問題もオーストラリアの問題も、我々は他人事ではありません。経団連は当然ワクチン・パスポートをやりたがります。利権の巣窟になるのは目に見えています。また、中国の問題にうるさい保守はしっかりとした議論なく、改憲の問題を進めたがります。自民党の改憲案は、強制接種をさせることができる内容になっています。

 

声を上げていく必要がある時期に来ていると思います。マスコミはこういった報道をあまりやらないんです。日本でも、情報の統制がずっと続いていて、テレビしか観ない人はどんどん為政者の思惑通りに流れていきます。

 

そして、国内でもワクチン3回目の接種が始まったそうです。

 

最近よく聞くのは、スポーツ選手など激しい運動をする人の死亡例や、体調がおかしくなったという話です。

 

浜崎あゆみさんが11月6日にアナフィラキシーで病院に運ばれましたが、10月27日(推測)に、2度目の接種を受けていたのではないかといわれています。ライヴ直前で激しく動いていたことが予想されます。ワクチンだけが原因でもないかもしれませんが、疑いも消えません。

 

海外ではサッカー選手が次々と倒れており、心停止が圧倒的に多いようです。これも因果関係を見つけるのが、難しいといいだすのでしょうが、これ如何に?

 

 

他にもバスケット選手、ボディ―ビルダーなど。ちょっと異常かな、という気はしますが。

 

 

ワクチンに含まれるスパイクタンパクが血液に入ると、やや凝固して粘性を帯びるという話があります。これが本当であれば、血流に問題が出るということはありそうです。脳や心臓付近の血管が詰まる、ということでしょうか。

 

また、国内の超過死亡者数については、国内の死亡者が年々増えてきているので、今年増えているからおかしくないという人がいますが・・・。それもどうなんでしょうか。

 

 

やはりワクチンはマスコミがいうから、専門家がいうから、ということで打つのではなく、1度は自分で調べてみて、ちゃんと自己確認すべきだと思いますね。

 

セルジュ・チェリビダッケ「音楽の現象学」(石原良哉訳)。

 

指揮者チェリビダッケが自らの音楽哲学を一般に講演した記録です。後半は、訳者でチェリビダッケと交流のあった、石原良哉氏がまとめた、この指揮者の解説に充てられています。

 

チェリビダッケが音楽理論を学生以外に、一般に公開したのは、この時だけらしく、当時の講義の録音を、文字おこししています。

 

現象学(偏見なく目の前の現象を研究し、行動の基礎に置く哲学)を元に、この特殊な指揮者の考えが述べられています。フッサールの哲学を基礎に置くのは、エルネスト・アンセルメ(「人間の意識における音楽の基礎」)の音楽理論と共通し、「人間の存在が前提」になる音楽哲学といえます。

 

前半のメインである、指揮者の「音楽理論」、後半の指揮者の人柄を知る石原氏の書いた「解説部分」、共に面白かったです。

 

チェリビダッケに習った者は、「人に教える存在」になることが多いそうですが、彼の哲学は「音楽」を超えた汎用性があり、今日の世界に足りない、認知の問題に対する、回答のモデルケースの1つのようにも思えます。「科学」だけを元にしても、今日の煩瑣な問題は解決しないということでしょう。世界は、機械論だけではまとめられないということです。

 

とにかくも、先日書いたような、チェリビダッケの残された録音を聴くために、このような書籍は大変役に立つと思います。講義の内容は必ずしも長くはないですが、その他、禅の思想などとつなげて考えてみると、かなり知的な興味が広がりますね。

 

以下は自分個人による、彼の「哲学」の超訳です。純粋にチェリビダッケの理論ではなく、かなり自分個人の主観と偏見が混じっています。チェリビダッケの理論を知りたい方は、直接この本を読むことをお勧めします。

 

 

さて、チェリビダッケにとってみると、「音楽」とは「解釈」されるものではなく、その時々に生成する行為そのものであって、「音楽が分かる」というような言葉は、何も意味をなさないということになります。

 

例えばオーケストラの「響き」は、それを演奏する「会場」、オーケストラの「人員」など各種の条件によって決まるもので、初めから「こう」と決めつけてしまうものではないということです。おそらく、それはどの「指揮者」でも、ある程度までは同じ考えなのでしょうが、それを徹底することで、その時々の状況にあった演奏ができるということになっていきます。

 

「楽譜」に書かれた音符を、聴き手の耳に良く聴こえるようにするには、しっかりと演奏者がその楽器を演奏できるだけの「時間」と「スペース」が必要であって、指揮者が勝手にコントロールするものではないということになります。当然演奏するホールによって響きも変わってくるので、それに見合った妥当な響きを、その時々に見つけなければなりません。

 

よくチェリビダッケのテンポは遅いといわれますが、彼によれば「初めにテンポ」を設定しているのではなく、楽譜に書かれた音が良く聴こえるように、それぞれのオーケストラのパートや、演奏者の演奏しやすい状況を作っていくと、必然的にそうならざるを得ないということだそうです。複雑な音楽ほど、一種の解きほぐしに近い状況ができ、テンポが遅くなっていきます。それ故指揮者はその時々の状況を、出てくる響きをしっかりと見据えながら、調整する役目であり、指揮者が音楽を「こういうものである」と押し付けないことが重要になります。

 

それが上手くいくと、演奏者と指揮者、そして聴衆が「音楽」(楽譜)をよりどころに、1つの有機的な存在として一体になれるといいます。

 

以下の引用は本文からです。

 

<超越できる精神は、相対関係にあるものの一つ目の部分にも、二つ目の部分にも留まることなく、両方を超えて行き、それら二つをまとめ、本質的に類似した、そしてお互いに関わり合う関係のエッセンスを自分のものにします。関係は消えるでしょうか?・・・消えない?そう、物質的に知覚可能な領域、そこに音楽は登場して消えるわけですが、その音たちのようにこれらの関係が消えてしまうのではありません。そうではなく、この関係は人間の精神にとって永久に機能することのできる、残るものとして、新しい種類の、より高度な、部分を超越した統一体になるのです。>

 

このチェリビダッケの言葉によれば、音は消えても人間の意識が、それらを記憶し、まとまった総体へと造り上げるということになります。

 

 

↑、陰陽の太極図。チェリビダッケのいうような、意識が、互いに異なる2者をまとめ1つにしているという、模式図。そして異なるものから、本質的なことを捉え、統合していこうという働きが、人間本来に備わっているということです。

 

<意識は、何かを捉える前に実存的にそこになくてはなりませんが、捉えることで初めて、それは何かについての意識になります。そして捉えたら―――意識によって捉えれられた何かがどうしてまだ純粋であり得ますか?ヨガ行者たちが瞑想するときに繰り返し弟子に勧める「自分を空しくせよ!自分の意識の万能の光を、浮かんでくる何かに曇らされることのないように」とは、どういう意味でしょう?いかなる思考の対象をも純粋な意識から遠ざけるというのは、無関心ということでしょうか?それとも無理に避けようとしているのか?あるいは万能の光を無調整で体験しようとする、つまり最高に積極的ということでしょうか?述べてきたように、これを言葉にすることはできません。体験するしかないのです。>

 

そこで鳴る音楽の「響き」のみが真実である時、その「響き」を媒介として、各人の意識に何かしらの変化があります。その変化は各人によって多様であって、「響き」、あるいはその「音楽」というものが、同時に各人の共通概念として表れることによって、「多様性」と「一体性」が同時に達成できるということになります。「音楽」は直接人間の「心理」、または「意識」に語りかけるので、人々は内面からの一体感を感じ取るということになるでしょう。

 

空の思想と仏教1 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教2 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教3 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教4 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

空の思想と仏教5 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、「禅」についての過去記事です。「仏教」とは現在考えられているような、死後の極楽浄土を求めるような宗教ではなく、ヨーロッパの科学思想、哲学思想に近い、「認識」の宗教である側面があります。これは「現象学」に近い考え方といえます。その辺りが、東洋思想と西洋思想の出会う点でもあります。

 

しかし、このような音楽思想で演奏できる音楽は、チェリビダッケの流儀に合うものである必要があります。当然彼も各種、音楽を演奏してきましたが、ベートーヴェンなどは必ずしも、積極的に取り上げなかったように思います。ベートーヴェンの音楽は、「感情」(音楽)の圧縮が数多くあります。このような音の動きは、チェリビダッケの得意なやり方では、おそらくやりずらいだろうからです。

 

特に第9は、ガスタイクザールで手兵のミュンヘン・フィルとは1度のみの演奏しかしていないそうで、興味深いものがあります。

 

個人的にはチェリビダッケの第9の演奏が少ないのは、苦手意識でもあったのかもしれないと思っていましたが、後半の著者の石原氏によると、彼がフルトヴェングラーの第9を身近に聴いていた結果ではないか、という意見を述べています。

 

あのような創造性に富んだ、ベートーヴェンの演奏はフルトヴェングラー以外には、無理です。あえて、自分の師匠の得意な演目を、自身の現象学で追及する気は起きなかったのかもしれません。チェリビダッケは口の悪い指揮者でした。作曲家や同業の指揮者に対する悪口は数知れず。

 

しかし、作曲家ではブルックナー、そして指揮者ではフルトヴェングラーへの悪口はほとんどなかったそうです。フルトヴェングラーのことは敬愛していた、と述べていたそうです。

 

 

↑、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。チェリビダッケが尊敬した数少ない指揮者の1人。死後、彼と同じタイプの指揮者は、未だ出ていないように思います。ティーレマンが近いという人はいますが・・・。

 

さて、最後になりますが、チェリビダッケのオーケストラ思想は、現代の「社会」そのものにも当てはまるようなものだと、考えています。現代のような極度なピラミッド構造では、いずれ社会が瓦解するのは目に見えています。

 

トップたちがもらう必要以上に大きな収入。あるいは権威者などによる、社会的独善的な意見の創出。これらが無自覚な大衆性に支えられることによって、今日の社会的なピラミッド構造が出来上がっています。しかし、結局トップが必要以上に高い位置にいれば、下支えをする者たちとの断絶を生みます。

 

これでは社会はずっとおかしくなり続けます。

 

いくらかのピラミッド構造は必要でしょうが、最終的にはもっと水平な構造に近づいた、お互いが共感、共生しあえる社会が必要になるでしょう。

 

チェリビダッケのオーケストラ哲学は、ミニチュア版ながら、共生の思想を生んでいる組織哲学として、かなり面白いと思います。

 

 

チェリビダッケによるブルックナー「交響曲7番」(録音年不明)。

 

HQーAUDー605~606。

 

 

今回はチェリビダッケのレコードについて少しだけ書いていきます。この指揮者のレコード自体、それほど数は出ていません。自分はチェリビダッケが好きなので、いくつかレコードを聴いています。その辺の感想を書いていきます。

 

ベルリン・フィルハーモニーのシェフの地位は、世界最高峰ということで、何時も誰が監督になるか話題になります。チェリビダッケも戦後の短い間、ベルリン・フィルを率いたことがあったというのは、有名な話です。

 

録音嫌いで知られ、一時期、幻の指揮者といわれたセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)。フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの後任に彼を考えていたといわれますが、結局フルトヴェングラー亡き後、ベルリン・フィルはカラヤンを選択・・・。

 

その後チェリビダッケは、色々なオーケストラに客演することによって研鑽を積み、あの特殊な音楽に対する解釈・・・!!(おそらくチェリビダッケの最も嫌う言葉だろうけども)を身に付けていきました。

 

それは従来の指揮者たちとは違う、オーケストラへのアプローチであって、有機的に広がる音響の芸術です。

 

ルーマニア人で、仏教徒。伝統的な解釈は拒否し、自身の哲学的な考えによるオーケストラ美学は現在でも異彩を放ち、聴き手に驚きを与えます。

 

チェリビダッケを聴く。その1 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

チェリビダッケを聴く。その2 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、チェリビダッケに関する過去記事です。旧EMI音源に対する感想です。簡単なブルックナー論も述べています。

 

 

↑、性格は傲慢で色々問題発言の多い指揮者でした。しかし、ドイツやイタリアの伝統からかけ離れたルーマニア人が、東洋の仏教と禅を学び、西洋哲学と融合させて、自分独自の音世界を作り上げたという事実は、彼が一個の天才であったことの証だと思います。

 

彼のいう通り、録音で彼の真価というのは分からないのかもしれません。しかし、現状最早録音でしか彼の音楽を聴くことはできないのですから、これらを聴くしかその理解は進みません。

 

正規盤がないころ、チェリビダッケの音源は米国のAUDITOR、あるいはMETEORという2社(両社ともすでに解散)から沢山出ていました(海賊盤です)。しかも、音質、演奏共に、後に出た正規盤をしのぐものが多く、チェリビダッケの、ブルックナー最高傑作といわれる、リスボン・ライヴ(1994)もAUDITORから出る始末。altus、またはソニーから出ているブルックナーも良いものはありますが、自分はやはり、これら海賊盤の記憶が強く、チェリビダッケの原体験はこれらのCDによります。

 

 

↑、右の緑のジャケットがAUDITOR。左の紫のジャケットがMETEOR。緑のジャケットが、リスボン・ライヴといいわれるものです。両社とも面白い音源を沢山発売していました。自分もベームのブラームスや、クーベリックのチャイコフスキーなどを愛聴していました。

 

今回のLPもすでに解散した、米国の会社AUDITORのものです。AUDITORはチェリビダッケのLPをいくつか発売しています。他に、チェリビダッケのLPは altus、ワーナーがブルックナーのものを正規盤として出しています。ワーナーのLPはつい前日発売されたばかりです。altusについて、自分は2枚組のものを自分は所持していますが、後に3枚組にして販売されたようです(かなり音質が改善されたのこと、自分は未聴)。

 

 

↑、ワーナーから出たブルックナー交響曲4番。残っている音源を全てLP化してくれるとありがたいです。

 

チェリビダッケの音源は、LPにするのは中々難しいように思います。特有の面で広がるようなオーケストラの響きが、LPでは出にくいように思います。CDよりLPの方が音の線は太いとはいわれます。しかし、LPは旋律が線として表現されやすく(その分、弦などには向く)、面として響きづらいように感じています。先日書いたバーンスタインの演奏などもそうでしたが、面で響く様子はCDの方が自然に聴こえるように感じています(個人的な見解です)。

 

 

↑、altusのLP。ワーナーのものもそうですが、チェリビダッケの演奏としては線が細く聴こえます(これはこれで面白いです)。

 

ワーナーから発売されたブルックナー4番のLPは音は非常にクリアで、旋律が聴こえやすく、爽やかに聴こえます。CDで聴いてきた時とは全く違う印象で、一瞬別物かと思いました。こういうのも悪くないですが、今まで聴いてきた、チェリビダッケとは随分印象が変わってしまいました。altusの2枚組のLP(ブルックナー5番と8番)も、ワーナーのLPと似たようなところがあり、音の線がチェリビダッケとしては細いように聴こえました。多分、後に3枚組にして再発売したのは、そういう部分を修正したかったからではないでしょうか?

 

このAUDITORのLPは、2枚組ながら、そんなチェリビダッケのものとしてはかなり満足のいくものだと思います。ワーナーのLPに比べると、音はややクリアさが落ちますが、リアルな雰囲気や音の太さ、深みなどかなり良く出ていると思います。音が分離しすぎていないのが、良いのかもしれません。

 

 
 
 
↑、ブルックナー交響曲7番冒頭。4番と共にブルックナーを代表する名曲。ブルックナーの「最も優美な言葉」ともいわれる曲で、滑らかな初めの2つの楽章が美しいです。チェリビダッケによって、空間的な、深々とした響きが出ています。こういう意味深い響きが、晩年のチェリビダッケの特徴だと思います。チェリビダッケのブルックナーだと9番、7番あたりが、彼の至芸が堪能できる名演かと思います(リスボンの8番はまた別格でしょうけど)。彼は、指揮者とオーケストラの共鳴が生まれると、響きがよりパワフルになるといっています。
 
ブルックナーという作曲家が持つ、作為的ではない音楽(パレストリーナとワーグナーの融合)という特質が、チェリビダッケの唱える、禅と現象学を主体とした、音楽哲学に適合します。個人的にはブルックナーの正当な解釈者はオイゲン・ヨッフムとギュンター・ヴァントあたりだと思いますが、チェリビダッケは異質です。
 
元々チェリビダッケの演奏は感情を排した、即物的なところがあり、ドイツ人がドイツ音楽に込めるような、情念の世界がありません。チェリビダッケの場合、生成する「音」の有機的なつながりと、響きを、特に注視するものであって、人間の生の感情とは切り離されています。しかし、その徹底ぶりによって、指揮者が創り出す新しい音の世界を世間に知らしめました。
 
元来、指揮者は作曲家と聴衆の中間的な位置にいて、作曲家のいいたいことを聴き手に伝える役割だったように思います(音楽を、人間の感情として伝える役目、響きそのものの芸術ではなく)。それ故、それぞれの作曲家のいいたいことを、伝えられる素質の指揮者こそが、名演奏家でした(楽譜に忠実という、現代的な意味合いとは異なります)。ところが聴衆の求めるような作曲家がいなくなり、指揮者が媒介者としての必要性を必ずしも必要としなくなった時、指揮者は己の望むような音の世界を作り出すことを、許されたのです。これは晩年のカラヤンも同様だと思います。
 
当然楽譜は大事ですが、既に過去の指揮者たちによって、それぞれの曲については、一定の「解説」がなされ、現代の聴衆はそれを聴いてきており、理解は進んでいます。
 
このような傾向の中から、オーケストラの実験者とでもいうべき、チェリビダッケのような指揮者が現れてきました。指揮者という存在が、新たな「指揮芸術」とでもいうべきことを、試行錯誤しながら、行ったわけです。あの融通無碍なフルトヴェングラーでさえ、作曲家のいいたいことからは離れようとしませんでしたが、チェリビダッケやカラヤンは、必要なら、作曲家のいうことも無視します(ここでは先に書いたことと同様、楽譜に忠実、ということとは違う意味で書いています)。そしてチェリビダッケはそれに成功したように思います。
 
彼の場合、譜読みが深い、というよりも、オーケストラの響かせ方に特殊な深みがあります。
 
そのチェリビダッケの追求したスタイルと、ブルックナーは非常に相性がいいわけです。有機的に広がる、壮大な音の世界が楽しめます。テンポがものすごく遅いので慣れる必要はあるのですが。
 
しかし、この指揮者が創り出す豊饒な響きというのは、オーケストラの音として相当に程度の高いものだと思います。この指揮者を嫌いな人も多いですが、楽しむつもりがあるのなら、あの超スローテンポに、とにかく慣れるしかない、ということですね。
 

 
レナード・バーンスタインによるマーラー「交響曲9番」(1979)。
 
4861176-4861177。
 
 
米国の出身で、ユダヤの星であったレナード・バーンスタインは、生涯に1度しかベルリン・フィルハーモニーを指揮しませんでした。バーンスタインは、米国独自で育った偉大な音楽家。当時米国で、指揮者といえば欧州から招聘されるのが普通でしたから、彼は史上初めての、「米国産の偉大なる指揮者」、という存在です。
 
ベルリン・フィルは世界最高のオーケストラといわれますが、当時の音楽監督だったカラヤンは、どうしてもベルリン・フィルに呼びたくない指揮者が、複数いました(と伝えられている)。
 
カルロス・クライバー、セルジュ・チェリビダッケ、そしてこのレナード・バースタインです。
 
・・・とはいえ、どこまでこの話が真実かは分からないですがね。
 
天才だったカルロス・クライバー、異端でしたが実力者だったチェリビダッケ、そしてカラヤンの最大のライヴァルと目されていたレナード・バーンスタイン。俗人は誰が1番か、という話が好きですね。政治的な話です。このバーンスタインとベルリン・フィルの事件もよく話題になります。
 
しかし、カラヤンが1番、バーンスタインが1番・・・色んな話は散々聞いてきたので、この手の話は、ここではしません。実際カラヤンがバーンスタインにベルリン・フィルを使わせたがらなかったのか否かは、自分にはよく分かりません。色々いう人がいますしね・・・実はカラヤンでなく、ベルリン・フィル側が嫌がった、とか、いやいや、ベルリン・フィル側はバーンスタインとやりたくて仕方なかった・・・とか・・・どうなんでしょうね、真相は分からないままです。
 
ただ、カラヤン、バーンスタインそれぞれの関係者が折衝を繰り返して、実現にこぎつけたそうです。そして、結果的にバーンスタインはベルリン・フィルハーモニーを生涯に1度しか指揮しなかったということになります。
 
 
↑、レナード・バーンスタイン(1918-1990)。米国生まれの作曲家にして、指揮者。「オン・ザ・タウン」、「キャンディード」、「ウエストサイド物語」などの作曲家として有名。指揮者としては若いころはやや深みに欠ける、まさにヤンキー的な指揮者でしたが、ヨーロッパに客演するようになってから、ヨーロッパの伝統を吸収し、深みのある演奏をするようになりました。特に晩年の演奏は、しつこいぐらいに粘る演奏が多く、好き嫌いが分かれる場合があります。
 
1992年、この演奏がCDになった時に、自分も早速聴きました。バーンスタインの、2回目のマーラー・チクルスの録音と時間が近いこともあって、コンセルトヘボウ(1985)との録音と比べて聴いたのを思い出します。コンセルトヘボウ盤と比べてみても、解釈はそう変わらないと思います。
 
 
↑、CD。最近は高音質盤が出ていますが、自分のは違います。左がコンセルトヘボウ盤。右がベルリン・フィル盤。後にイスラエル・フィル盤なども出たようですが、未聴です。
 
この1979年録音のマーラー9番の録音は、好きな人はすごく好きで、興奮して感動を語ります。それは、これがまさに一期一会のライヴだからで、そういうスリルのある演奏ではあります。逆にいえば、一期一会のライヴであるのでミスも多く、嫌う人もいます。
 
練習時間が思うように取れなかったそうですが、天下のベルリン・フィルとも思えないような失敗が出ています。特に第4楽章のミスが有名で、自分もそのミスに気付いて、驚いたことがあります。昔はネットも発達していなくて、このミスを誰にも伝えられなくて、もやもやしてました。マイナーな趣味を持つ者の悩みです(;^ω^)・・・自分はそんなことばっかりですがね。そのせいで(?)、現在はブログを書いていたりするわけですが。今はネットがあるので、このミスについて詳しく書いている人もいます。他人の書いているのを読むだけでも結構すっきりします。
 
マーラーの交響曲9番、その第4楽章は20分以上かかる長い音楽ですが、後半のある部分で、弦楽器がいつもより早く出始め、さらにはトロンボーンで吹かれるべき、必要な旋律(118小節)が丸々と出てきません。
 
聴いている方も「あれ!?」と思うんですね(初めて聴いた人には分からないとは思います)。
 
トロンボーンのところは正に完全なミス!あのベルリン・フィルが?という感じでね。バーンスタインは、録音に残るぐらいに、足音を踏み鳴らし、オケをコントロールしようと必死です。録音もこの1日しかしなかったそうで、修正で直せないということです。
 
コンセルへボウとの録音もライヴですが、複数日録音して、ミスのある部分は他の日の録音で修正しています(ベルリン・フィルとギュンター・ヴァントの録音なども同じやり方)。
 
自分は初めてバーンスタインとベルリン・フィルとのライヴ盤を聴いたときは、「傷物」だと思いました。それは多分にコンセルトヘボウ盤があったからです。コンセルトヘボウ盤は深みとスケール感が増し、ミスもなく、このマーラーの大曲を聴くにはちょうど良い、完成度の高いものだと思います。「マーラーの音楽そのもの」を聴こうと思うと、ミスのない方が、曲の理解には向いていると思ったものです。
 
片や、ベルリン・フィル盤は、ライヴ盤の白熱が味わえるもの、という認識ができないと楽しめないということですね。
 
グラモフォンのレコード(LP)でバーンスタインのマーラー・チクルスは発売されていますが、オリジナル盤は高価です。CDでよく聴いていた音源なので、無理して買うか迷っていましたが、このベルリン・フィル盤が出る(求めすい価格です、いずれプレミアがついてもおかしくないと思います)というので、購入しました。正直、この録音をまともに聴くのは一体何年ぶりでしょう?(この演奏についてはLP盤はちょっと音の線が細い気がします。CDの方が交響曲としての立体感は出ていると思います。)
 
聴いてみて、改めて、自分の中ではマーラーはバーンスタインだな、という感慨が蘇ります。歳をとったせいで、昔のように、曲そのものを聴こうとも思わないところもあって、ライヴ演奏としても面白いと思いました。
 
バーンスタインは、ニューヨーク・フィルとの旧チクルスも素晴らしかったです。しかし旧盤でのバーンスタインは円熟味が足りず、時折情熱が上滑りします。2度目のチクルスではバーンスタインは完全に曲と一致し、細部までえぐられ、バーンスタインの情熱なのか、または曲に示された表現なのか、分からないほどに消化されています。
 
1979年のこの録音も、2度目のチクルスとほとんど同じように聴こえます。かなりの没入感でもって演奏していると思います。
 
フルトヴェングラーのスタイルによく似ています。後期ロマン派そのものの表現です。マーラーの音楽は現代的な機能的オーケストラで演奏しても面白いですが、ロマン派の雰囲気を湛えたマーラとして、バーンスタインの演奏は最右翼でしょう。
 
 
 
↑、第4楽章のクライマックスです。バーンスタインは思い入れ一杯に、音楽にのめり込み、ベルリン・フィルからフルパワーの音楽を引きだしています。
 
マーラーの交響曲9番は、自分の死を予感した作曲家が書いた、巨大な交響曲です。死の床にある、厭世的で不安が募る怪しい世界を、リアルな雰囲気で描いています。しかし、音楽そのものは美しく、耽美です。絶望を美しい感情で昇華させる効果が、この音楽にはあると思います。
 
チャイコフスキーの「悲愴」交響曲はフィナーレが静かにアダージョで消える音楽でした。「悲愴」を書いた後にチャイコフスキーは他界します。アントン・ブルックナーは第9交響曲を作曲中に他界、しかし第3楽章までは完成しており、奇しくもチャイコフスキーの「悲愴」のごとく消え入るように終わります。
 
マーラーはこのようなことを踏まえ、第4楽章を壮大なアダージョにして、音楽を消えゆくように終わらせていきます。絶望と焦燥感の募る第2、第3楽章と比較して、この第4楽章はこの世からの告別と呼べるような、感動的な音楽になっています。
 

 

ショルティの「リング」(この記事では「ニーベルングの指輪」のことを指します)は、CDで良くでよく聴いてきたせいもあって、アナログ盤で集めないでおこうと思っていたのですが、「ワルキューレ」(1965)が安価で出ていたので、結局購入してしまいました(;^ω^)。

 

SET312-316。ED2、初出。

 

 

一応解説すれば、「ワルキューレ」はR・ワーグナーの超大作「ニーベルングの指輪」(歌劇で、上映に4日を要し、演奏時間は14時間を超えます)の第1日目(初日は前夜祭の「ラインの黄金」が上演、新たに第1日目としての「ワルキューレ」)に当たります。「ワルキューレ」の上演時間自体は4時間ほど。北欧の神話を元にした作品になっています。

 

「ワルキューレ」は運命の双子、ジークムントとジークリンデの物語です。

 

小人アルベリヒの作った「権力の指輪」を取り戻そうとする、神々の長ヴォータン。そのために彼は人間界に下り、人間に産ませたのが、デミゴットともいうべき、ジークムントとジークリンデです。彼らは幼いころに離別し、別々に育てられますが、運命の綾で引き合わされます。

 

そして兄弟であるにも関わらず、彼らが愛し合い生まれるのが、英雄ジークフリートです。歌劇「ジークフリート」、これは翌日の上演演目になります。

 

「ワルキューレ」の場合、神々の長ヴォータンと、その娘たち(ワルキューレ、英語でいうところの、ヴァルキリー)が登場し、活躍します。この戦乙女、ワルキューレに付けられた音楽が有名で、どんな人でも1度は聴いたことがあると思います。この音楽のために有名になった、といっても良いほどの作品です。ワーグナーのリングの中では1番メロディアスで、聴きやすいかもしれません。この作曲家の代表作の1つです。

 

 

↑、9人の戦乙女、ワルキューレの長兄に当たるブリュンヒルデ。アーサー・ラッカムの挿絵から。空を飛ぶことのできる馬に乗って、最終決戦ラグナロクのために、死んだ英雄たちの魂をヴァルハラに集めています。

 

ショルティの「リング」については、このブログでたびたび書いてきているので、また繰り返しになってしまって恐縮です。ショルティ盤こそは、音楽が録音メディアに記録されるようになって、長らく「ニーベリンングの指輪」の、最もスタンダードな音源として知られてきました。

 

このワーグナーの大作を聴こうと思うと、昔はこの録音が筆頭になってきました(最近は選択肢が増えましたが)。スタジオ録音で「リング」全曲を入れた初めての録音でもあり、有名なプロデューサー、ジョン・カルショーによって、初期ステレオにとても鮮明な音として記録されました。その点でも画期的な音源で、世界中でヒットした商品でもあります。

 

この有名な音源を、自分はずっとCDで聴いてきました。しかし、最近の自分は完全なアナログ派になってしまい、CD派の人たちには申し訳ないですが、CDでショルティのリングを聴くのは、自分にとってかなり苦痛になってきました。CDだとショルティ特有の、呼吸の浅さが目立って仕方なく、長時間聴いているとイライラしてきます。

 

それがアナログ・レコードになると、音の懐が深くなるので、断然聴きやすくなり、色々とショルティの指揮を見直すきっかけにもなりました。ショルティの演奏するワーグナーは全てが良いとも思えませんが、この「ワルキューレ」は彼の中でも名演の部類に入ると思います。

 

今自分の手元には「パルシファル」(LP)、「マイスタージンガー」(旧盤、LP)、「タンホイザー」(LP)、「ローエングリン」(CD)などがありますが、「マイスタージンガー」などは、ぱっとしませんね。「リング」でも「神々の黄昏」なんかはもう1つだと思っています。

 

ショルティのパルシファル | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。「パルシファル」とか「ローエングリン」のような、しとやかな曲調でも良い演奏をするのが、自分にはちょっとした驚きです。

 

ショルティは、悪いいい方をすれば、デリカシーがない指揮者で、ざっくばらんに音を鳴らしすぎるきらいがあります。音楽そのものに詩的な表現が多いと、のっぺりとしたり、ガサガサしたりする時が出てきます。しかし逆に思い切り音を鳴らすときは、ケレン味なく思いっきり鳴らすので、爽快感が出ますね。

 

「ワルキューレ」の第2幕は、かなり詩的な表現が必要だと思うんですが、その2幕以外、他の場面は機動力に満ちた音楽が多く、ショルティらしい豪快な響きが功を奏している場面が多いと思います。そして何より、ショルティ自身、この録音に対しては、かなり気合が入っており、雷が轟くような迫力が、興奮した感情と共に、ところどころ発揮されています。

 

特にウィーンフィルを豪快に鳴らし、金管群の、泥臭いが迫力ある音色など、味が濃く、聴きどころでしょう。

 

ドイツ流のゲルマン魂はない演奏ですが、全体に近代的な音の生々しさがみなぎり、かなりギラついた「リング」になっているのが、ショルティ盤の特徴かと思います。

 

 

↑、第1幕、ジークムントは、裏切り者の汚名を着せられ、追手から逃げ込んだのが、敵の狩人フンディングの小屋でした。そのフンディングの妻が、本人の意に反して娶られていた、彼の双子の妹、ジークリンデでした。

 

 

双子の2人は出会った瞬間に恋に落ち、ヴォータンが用意した、聖剣ノートゥングをトネリコの樹から引き抜くと、駆け落ち同然でフンディングの小屋から逃亡を図ります。

 

 
 
↑、第2幕の前奏曲。ショルテイらしい思い切りの良さが出た、名演だと思います。
 
冒頭、高らかに鳴るのは、「聖剣ノートゥング」のテーマ(ライトモティーフといいます)で、トランペットによる輝かしい響きは、聖剣の輝きそのものを表しているといっても過言ではないでしょう(上のレコード・ジャケットの写真そのもののような音楽!)。それがすぐに「愛の逃亡」のテーマに引き継がれ、フンディングの小屋から逃亡を図る双子の様子を描きます。中間部は「愛の陶酔」のテーマから、その双子の悲しい運命を暗示し、一転、迫力ある「騎行」のモティーフが、天翔ける天馬の訪れを告げていきます。遂には雄渾な「ワルキューレ」のテーマでこの前奏曲の幕を閉じます。このワルキューレこそ、この物語最大のヒロインである、ブリュンヒルデです。そして、場面はフンディングの館から、神々のヴァルハラ城へと移っていきます。
 
ワーグナーの作ったライトモティーフ(指示動機)は、100種類以上にわたるといわれ(分類の仕方にもよる)、それぞれの音楽が、登場人物や小物の特徴、あるいは感情や、状況などを表しています。それが縦横無尽に絡んでいくことで、全体の音楽を形作っていきます。
 
R・ワーグナーは北欧神話の「エッダ」と、ゲルマン神話の「二―ベルンゲンの歌」を掛け合わして、彼流の新たな「神話」を書きました。人間が意図的に、また人工的に、「神話」を作る行為は、ここから発しているといっても過言ではないでしょう。心理学者のジークムント・フロイトが、人間の深層心理の存在を暴くのよりも前に、R・ワーグナーは物語の内部に潜む「暗喩」の存在を理解しており、表面的に描かれている物語と、その暗喩との結びつきを、歌劇の創作でもって新たに作り出していきます(他にも「トリスタンとイゾルデ」、「ローエングリン」など)。そしてこの人工的な「神話」を作るという行為が、後の人々にも受け継がれていったのです(ジョージ・ルーカス、トールキンなどに)。

ちょっと古い話ですが、生意気なことを、書いていきます。今回の内容も、あまり理解されないということは百も承知です(;^ω^)。

 

 

自分としては、岸田総理になり、河野太郎氏が退けられたことは良かったと思っています。河野太郎氏と岸田氏が決選投票になった場合、事前に高市早苗氏側が応援するという構図にはなっていたそうです。

 

前菅首相、河野太郎氏、小泉進次郎氏などは、その動きや意見をみている限り、新自由主義者なんだと思います。米国(ジャパンハンドラーズやCIA)の指示で動く人たちだと感じています(グローバリスト)。それに比べれば、比較論にすぎませんが、岸田文雄氏、高市早苗氏はナショナリスト、ということになると思います(外部から見ると、自分からはそう見える、ぐらいの意味合いです)。

 

今回については、ナショナリストがグローバリストを退けた形にはなったようです。その後の内閣の布陣を見ると、必ずしもグローバリストを排したともいえませんが・・・とりあえずは、河野太郎氏を総理にはしなかった、ということです(自民党の幹事長や外務大臣に親中派が選ばれたそうですが・・・)。

 

今日日本でグローバリストとなると、親中派、あるいは米国でいう、バイデン政権よりということになるじゃないかと思います。イデオロギー的には共産主義よりともいえなくもないですが、表向きはグローバル企業向きともいえるわけです(本来共産主義を批判するなら、資本主義も批判すべきです。共産化は世界全体の独裁統一を目指し、資本主義は既存国家を資本に売り渡すことで、国家の解体と資本化を促します。この両輪がセットになって、世界情勢は今日まで進んできたわけです。国家を解体しつつ、世界を1つにしようという試みであり、もとよりこれらは別々のものではない、ということです)。

 

ナショナリストはこれに反抗します。究極の形はナチ党ですが、これは肯定しがたいですね。ではグローバリストたちが正解かといえば、そうではなく、最終的に世界的な独裁制になる可能性が高いと思われます。

 

端的にAが正しい、Bが間違い、とやりだすと、ウロボロスの蛇のように、闘争を無限に繰り返しながら、自分たちの首を絞めていく、という仕組みです。

 

国のあり方は一重に「バランス」と「人の質」にかかっていると考えます。これがなくてはどのような政治運動もいずれは頓挫するか、失敗するように思われます。今のような「紋切り型」の「イデオロギー」に頼っていては、かなり厳しいと思います。相互の話し合いができませんので、これを続ける限り、人の質とバランスは獲得されないと考えています(中間部が生まれない)。

 

総論としては以上のような意見ですが、現状は各種の利権が絡み、どこへ政治が流れていくかは未知数です。

 

内閣改造? | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、以前も引用した自分の過去記事です。このころから菅義偉氏ら新自由主義者と岸田文雄らナショナリストの駆け引きは始まっていたのだと思います。

 

 

↑、参考に載せます。前菅内閣の支持団体です。岸田内閣になって、統一教会関係者が減ったのは良かったと思います(彼らは韓国に便宜を図っているとしか思えませんが・・・どうなのでしょう?8人から5人になりました)。片や、菅義偉氏、河野太郎氏、小泉進次郎氏はナショナリストが好む「日本会議」に所属していないのが面白いです(しかし、公明党含め、宗教団体が、政治家たちの票田になっているのは、問題ありだと考えています。公明党は中国との関係が指摘されていますし、自民党の改憲案は日本会議抜きでは語れないでしょう。完全な政教分離ができないのは分かっているんですが、「筋」ぐらい通せよ、とは思います。「けじめ」がなさすぎだと思います)。

 

安倍内閣は第一次と第二次でその内容がかなり異なっていたと思っています。第一次は小泉内閣を引き継いだ、新自由主義よりでしたが、第二次はトランプ出現以降、ナショナリズムに移行しつつあったように思います。その第二次の流れを引きついでいるのが、岸田氏や高市氏なのだろうと思えます。

 

自分は今いるナショナリストといわれる人たちを、評価する気はありません。しかし、新自由主義者よりはかなりマシだと思います(現状で、今後の流れではどうなるかは分かりません)。

 

先日書いた、維新の会についてはバックに竹中平蔵氏がいて、おそらくは新自由主義よりなんですね。結局、小さな政府、緊縮財政、グローバル企業誘致などです(個々の議員さんのことをいっているわけではないです、維新の会全体をみると、「そうみえる」、ということがいいたいです)。

 

しかし、意見の違いを超えて、憲法改正については、新自由主義者、ナショナリスト、これらの人たちはまとまる可能性があります。ナショナリストに限界を感じるのはこういう時ですね。以前からいっていることを繰り返しますが、憲法改正をやるならなら「内容」についてもっと議論すべきです。現状出ている案では問題ありだというのが持論です。まだまだ考える余地は沢山あると思います。

 

よく現行憲法に「意味がない」とか「価値がない」という人がいますが、ベトナム戦争や湾岸戦争で、日本の軍隊が出ていかずに済んだのは間違いなく、今ある憲法のおかげです。正直かなり機能していたと思います。ただ、今後のことを考えると、そろそろ限界が出て来ている、という大方の保守系の人たちがいっている通りだとは思いますね。耐用年数を過ぎつつある、ということではないでしょうか。

 

ただ、今の日本国憲法は多くの保守層がいうように、決して悪い憲法とは思えないし、改憲するなら、そこに対する正当な評価をしてからだと思います。

 

この辺の話は要注意だと思ってみています。

 

第一次安倍政権のころから考えると、政治全体をみる限り、各種問題が整理されて、全体の見通しが良くなってきていると思えるようにはなりました。個人的には、第一次安倍政権なんて、頭に来てしょうがなかったです。あの頃は今日的な意味で、グローバリストとナショナリストがそれほど分離していませんでした。そのような違いが徐々に表にも出て来て、分かり易くなってきたように思います。

 

グローバリズムという、聞こえの良い言葉に惑わされて、世の中おかしくなってきたせいでしょう。

 

それにしても、最近のグローバリストは、以前同様、かなりひどいですね。そして大衆の、多くの人たちが、ワクチン・パスポート、地球温暖化、SDGSなどを何の批判もなく受け止めているようですが、このような政策の行き着く先はどのようなものになるのか、ちょっとでも考えたことがあるのでしょうか?これらのほとんどが市民の権利のはく奪に役立つということが、なぜ分からないのかということです。

 

岸田さんもCOP26で金を出す約束をさせられ、日本の石炭火力をもっと減らせとかいわれましたが、本当にに下らないと思います。

 

(11月12日追記:なんだか岸田さんもグローバル路線に流れそうという感じがしてきてますね(;^ω^)。安倍路線から外れていくのかもしれません。)

 

米国ではバイデンがワクチンパスポートを強権的に進めようとして、かなり支持率を下げています。テレグラムで、俳優のキアヌ・リーブスがレッド・ウェーブが来る、とかいってましたけど、本当ですかね。ストームが来ている、ともいってましたけど。

 

今後も日本の政界情勢は、まずは米国次第でしょうか。

今回の選挙で、維新の会が伸びているという話。確かに維新の会には面白い議員がいます。伸びるのは分からなくもないです。

 

しかし、各政党色々噂話はあります。

 

以下に書くことは自分の勝手な考えです。書いたところで、真に受ける人も少ないでしょうけど。

 

今の維新の会の、政党としての、彼らの考えは分かりませんけど、昔党首だった橋本徹氏が良くいっていたのが、道州制の話です。

 

自分など、道州制が今必要かといわれれば「ノー」ですよね。というか、やる必要なんてあるんでしょうか?道州制は、どうなるか、やってみないと分からないことばかりだと思うんですが、そこまで現状変えないといけないのか、どうなんでしょう?自分は必然性がないと思いますね。

 

元々維新の会にお金を出していたのは、よくよく売国奴呼ばわりされる、竹中平蔵氏だとか。彼は評判が悪いですね。一体どの方向を向いて仕事してるか分からないような人物?・・・ということなんでしょうか。

 

さて、道州制の区割りをみると、大昔、戦勝国が日本を分割支配しようとして行った区割りとそっくりなんですね。実際には、これは実現しませんでしたが・・・。

 

道州制で復活?それって偶然なの?って思う人もいると思います。今回は当然日本人が国内で、自分たち自身で分割する、ってことですけどね。

 

 

しかし、昔の分割の区分をみる限り、ロシアが北方四島を譲るわけなどないんだろうな、と思わせますね。彼らは今だって、北海道や東北地方が欲しいに決まっています。

 

道州制については、当然「大阪都構想」はこれを全国に広めたいからなんだろうと、思うわけです。しかもかなりしつこく維新の会はそれをやろうとしています。そんなに頑張る必要ってあります?そういうのを見ていると、ちょっとおかしいとは思うんですよね。維新の会ができる前から道州制の議論があるのは知っています。ただその時から、自分は道州制はちょっと胡散臭いと思っていました。菅前首相も道州制は支持してましたけどね。

 

連邦制に近づくというのか。地方はもっと権力を持てるようになるんでしょうけど。日本程度の国土でそんなの必要ですか?

 

日本は徳川家康が頑張ってまとめた国です。そういう経験のない国なら連邦制でも、とは思ったりしますけど。「小国」の集まり、という感じでね。しかし、今さら日本にはいらないんじゃないのかなあ。

 

要は、「道州制の導入」は、日本を分割するお膳立てになる、という感じがするんですね。

 

下らない妄想の話をしますけど。例えば、東日本大震災級の災害がもう1度あったとして、日本政府が機能しなくなったとします。その時は国連かなんかが日本に入って来るんですかね。当然その際は道州制が導入されていた方が良いのでしょうかね。しかし国連なんて昔の戦勝国の集まりですけどね。

 

まあ、妄想の話ですけどね。こんなことを書いても、話が飛躍しすぎ、ってのが一般的な反応なんでしょうけど。

 

橋本徹氏は他にも次のようなことをいっています。

 

<日本は法律上、二重国籍者が立候補することも政治家をやることも禁じていない。民進党の蓮舫代表が「二重国籍じゃないか」と騒がれたけど、仮に二重国籍であったとして蓮舫さんは法律上国会議員を失職しなければならないわけではない。

 

僕は二重国籍者でも「有権者がそれでいいと言うならいいじゃないか」という立場。有権者の判断に任せるという考え。いつものように「それはポピュリズムだ!」と批判されるだろうけどね。さらに二重国籍を飛び越えて、僕は外国人が政治家になってもいいじゃないか、とも考える。>

 

自分は右翼とかじゃないです。しかし、「国」という体裁を考えると、現状どうしても、二重国籍の人が政治家になるとかは「原理的」におかしいとは思いますね。ポピュリズムがどうのこうの、という以前の問題ですよね。上の発言は結構狂っていると思います。

 

これをやりだすと国が成り立たなくなります。ちょっと考えれば分かることだけれども。橋本氏は、さもヒーローっぽくいってますが・・・本当に甘言です。彼の話は一元化を分解するような話が多いですね。現状そこまで必要だとは思えない話が多いです。

 

2国が余程友好的ならいざ知らず、そうでもない他国人が選挙や政治に介入しだすと、最早その「国」はどこの「国」ですか?ということになります。国の乗っ取りだって、できるかもしれないですね。

 

橋下徹氏は、政治的手腕があるとかないとかいう以前に、話をよくよく聞いていると、ちょっと危ない思想の持ち主だと思っていて、昔から信用していません。こういう話も、大阪の人には怒られるんかな。

 

維新の会が躍進したとなると、今後は政権側にまわる可能性もあるんですが、この橋本徹氏のような思想からは、離れていてほしいと、個人的には思っていますね。

 

 

 

しかし、今イタリアでやってるG20もねえ・・・COP26もやる必要あるんかね。

本当に投票したいところ(政党)がないです。比例代表制は止めてほしいです・・・。

 

自民党も、減ったとはいえ、相変わらず内閣に統一教会関係者などがいますし・・・。野党も政権交代自体が目的になってしまって、どんどん論点がおかしくなってきてる気もします。

 

個々の政治家で面白いと思う人はいますが、投票できる選挙区にいるわけでもなく・・・。

 

色々見ていると与党も野党も、その公約(?)の元を追っていくと、諸外国の利権が関係ある場合が多いような気がするんですよね。

 

米国、中国、韓国・・・どこの国の利益を代表しているんだろうと、そう考えることが多くなりました。

 

政治的な無関心が続くとこうなっていくのかと、思わざるをえないことばかりです。

 

 

久しぶりにF・ハーバートのSF小説「デューン」が映像化されるというので、映画館で鑑賞してきました。

 

過去にはD・リンチの映画版(1984)米国、カナダ、ドイツで作られたテレビドラマ版(2000)などがあります。リンチの映画版は完全な駄作で、原作主体で作品を観ると、かなり厳しいものがあります(D・リンチの作品としてみると、面白いという人はいます)。それに比べると、テレビドラマ版は幾分マシで、原作の物語の忠実な再現を狙っています。しかし原作の雰囲気を、美術的に納得いくように再現できているかといわれれば、個人的にはかなり微妙です。

 

こうした作品に比べると、今回はかなり良く出来ていました。映像化するのは難しい世界観です。ハンス・ジマーの音楽も良作だと思います。

 

 

ただ詳しいことを調べず観に行ったのですが、タイトルには「PART ONE」の文字が・・・。

 

本来原作は「砂の惑星」、「砂の救世主」、「砂丘の子供たち」の3部作ですので(その後も続編があります、そこまで含めれば6部程度になるのでしょうか?自分は3部までしか読了していません)、その第1部・・・という意味かなと思っていましたが、さにあらず。どのシークエンスも長尺で、やたら丁寧に描かれています。これはとても全部収まらないのでは、と思っていたら・・・やはり・・・。

 

第1部「砂の惑星」を2部か、あるいは3部に分割したものの1部、ということらしいですね。しかも監督はまだ2部制作の正式契約を結んでないという情報も聞きました。今回の興行収入如何によっては、続編なく終わる可能性もありそうです。

 

「映像化不可能」といわれていた原作ですが、同様に映像化不可能といわれていた「指輪物語」は、空前の成功をおさめました。今日の技術力であれば「デューン」も映像化は充分可能だと思います。

 

大昔「原作」の感想をこのブログに書いた記憶がありますが、自分もブログを始めて初期のころですし、内容もひどいので、再び今回簡単にまとめ直しておきたいと思います(;^ω^)。

 

 

↑、最近文庫版は新装丁で、第1部3巻構成で再発売しているようです。自分の所持しているのは、4巻構成の旧装丁版(矢野徹訳)です。D・リンチの映画版の写真が使われているのが、印象的です。

 

「デューン」は環境問題に熱心だった新聞記者、フランク・ハーバート(1920-1986)が1960年代半ばに発表したSF小説です。大学教授J・R・Rトールキン(1892-1973)が書いた「指輪物語」同様、今日のSFやファンタジー世界を描いた諸作品(映画、小説、ゲームなど)の根本的な観念を造り出した、20世紀の古典の1つですね。

 

 

↑、F・ハーバート。

 

「指輪物語」同様「デューン」も小説という媒体を使いながら、その内部に緻密なパラレル・ワールドとなる「準世界」を構築した偉業といえます。空想世界ながら、現実に思えるようなリアルさが作品内にあります。小説を読みながら、未知の世界を探索できる喜びがあるわけです。これは20世紀になってから生まれた文学の形態であり、科学、あるいはそのほかの学問が密に小説に反映された結果です。例えば、トールキンの作品においては、「言語学」の反映があり、作品内に現実にはない「言語」が作られています。当然、それだけが特色ではありませんけども。

 

今日映画でも「スター・ウォーズ」のような作品があるため、「準世界の創造」について、人々は既に理解がありますが、本来なら「デューン」や「指輪物語」がパイオニアだといって良いと思います。

 

そして「デューン」の場合においては、環境問題への特化という側面が挙げられます。この作品については、この点が非常に大きいポイントとなりますね。

 

自分が説明するよりも、原作の邦訳の解説の方が分かりやすいので、引用しましょう。訳者の「あとがき」からの引用です。

 

<環境生態学が今ほど世間の話題とならなかったころから、新聞記者としてのフランク・ハーバートはその道での権威の1人だったらしいが、生態学的な考えを存分に取り入れたこの作品は、発表後歳月がたつにつれてその真価を認められ、昨年(1972年のこと、「映画化」とは、おそらく頓挫したホドロフスキー版を指すと思われる)ついに超大作映画化されることが決定したらしい。

 

アーサー・C・クラークは本書を評して「現代SFにおいて、その登場人物の性格描写の深さといい、みずから作り出した世界の異常なほど詳細な点といい、驚嘆すべきもの」と言い、変わったところではクロウダディ紙の1972年1月16日号でポール・ウィリアムズとデイヴィット・ハートウェルが選んだ60年代における重要なSFリストのトップに、本書『砂の惑星』がおかれている。>

 

砂漠という厳しい環境に生きる、フレーメンという人々。彼らは自分たちの住処が他の星から来た人々に脅かされていると感じています。彼らはサンド・ウォームを頂点とする、惑星アラキスの生態系の1部であり、メランジ(非常に価値のある香料)を求めて押し寄せる、権威的な人々とは一線を画します。

 

 

作者はこのような特殊な人々を、惑星の生態系から考えだし、人間の欲望がこの環境を脅かすのだといっているわけです。

 

当時としてはこれは先進的な内容でありました。

 

再び「あとがき」からの引用です。

 

<実のところエコロジーは、この時代、いやいかなる時代を通しても、最も重要な科学だといえよう。その目的はジョセフ・ウッド・クラッチの言う、”生命のあやなす偉大な巣”の理解を助けることにある―――ひとつの”宇宙”における、全ての生物が作り上げている形態(ゲシュタルト)、それとそこにある資産に対する生物の関係、そして生物それぞれの間の関係。その原理を愚かにも、あるいは故意に無視するなら、われわれはまわりの、ひとつの大陸の、ひとつの惑星の資源を荒廃し枯渇させてしまい、われわれ自身の生存をおびやかす結果となる。

 

それこそ、フランク・ハーバートがアナログ紙に連載した『砂の惑星』の基礎とした科学であり根本概念なのだ。『砂の惑星』は明らかに、現代SFの作り出したひとつの里程標となるものであろう。>

 

このように、空想世界が、地球規模の現実の問題意識と結びつくということが、後の創作家たちを刺激したと思います。

 

例えば、日本ではこの作品の影響を受けたものとしては、宮崎駿氏の「風の谷のナウシカ」がある、といういいかたは、決して間違ってはいないでしょう。特に漫画版の方に影響を見ることができます。「腐海」という厳しい環境に住む「虫使い」という人々。その腐海には王蟲(おそらくは「ウォーム」、あるいは「ワーム」、英語でいうところの「長虫」または「竜」という言葉のもじりから来ているのではないかと推測します)という巨大な虫を頂点とした生態系があります。当然読み手への、環境問題を促す視点が作品内に存在しています。

 

当初ナウシカも「虫使い」を率いる「英雄」的なものとして構想していたそうです(フレーメンに対するポール・アトレイデのように)。しかし、その間違いに気づき、その内容は後に撤回されました(「デューン」においても、F・ハーバートは第3部の「砂丘の子供たち」において、人類の欲望の問題の解決を図りますが、個人的にこの解決策は間違っていると思います。特定の人間が人類全体を救うという欺瞞)。

 

「風の谷のナウシカ」については、日本の作品として、とてもレベルが高いと思われます。国内でも評価は低いとはいいませんが、もっと評価されて良いと思います。この作品には他にも先のトールキンや、アン・マキャフリーなどの影響も見て取れます。そういうことを知っていくと、ほぼ無限大の視点を提供してくれます。

 

このような宮崎作品を経て、近ごろではジェームス・キャメロン監督の「アバター」(ジェームス・キャメロン氏は宮崎作品からの影響を公言しています、当然「デューン」のことを知らないわけもないですが)などがあります。

 

このような作品たち(スター・ウォーズなども含まれます)に多大な影響を与えた作品として、「デューン」は今でもその特異な価値を失っていません。こういうことを知っておくだけでも、観る側は違うと思います。

 

さて、長くなりましたが、この新しい映画版の「デューン」ですが、2部が作られるなら、この作品の「決定版」となるか、それに準じるものになる可能性があります。しかし、この物語は「指輪物語」よりもずっと(あえていうのならば)哲学的に見えるはずなので、大衆を喜ばせることができるかは中々微妙です。多くの人々は初めてワーグナーのオペラを鑑賞する時のような、退屈さを感じるでしょう。果たして、今作は次回作を創作するに足る興行収入を得ることができるでしょうか?

 

個人的にはなんとか完結させてほしいと思っています。

 

<蛇足>

 

「デューン」で描かれる「砂漠」という特殊な環境は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という宗教性を持つ人々にとって、一種の宗教的故郷であるということが指摘できます(和辻哲郎の「風土」を参照のこと)。これら一神教は全て「砂漠」という環境で生まれたからです。そういうことからいえば、ハーバートが砂漠を舞台に選んだのも、実に面白いと思えます。

 

フレーメンには幾分か、イスラム的な風味を感じるのは自分だけではないと思います。このような視点で「デューン」をみるとき、その内容に対して、東洋人の我々としては何かしら異質なものをみるのかもしれません。

 

また、現代の環境問題としては「地球温暖化」を思い浮かべる人が多いと思います(個人的には数年前まで、それを現実と思っていました)。地球環境の変化は実際に起こっていると思います。しかし地球温暖化が原因になっているという話は非常に危険です。これは一部の人が自分たちの利益のために考え出した、利権とそのビジネスモデルである可能性が高いと、考えておいた方が良いと思います。

 

「炭素税」をいい出す人々や、彼らのアイコンである、グレタ・トゥーンベリの背後にいる人々について、1度調べてみることをお勧めします。この問題については、色々いってくる人はいます。「陰謀論である」などと。しかし、さらにそれを超えて調べて考えていかなければ、本当の意味で、「思考世界の娑婆」には出られないでしょう。その上で、改めて、地球環境の問題を考え直していくべきです。

 

日本人のノーベル賞受賞などもありましたが、これも気を付けたほうが良いように思います。

 

地球の気温は、「温暖化推進者たち」がいうように、常にどの地域でも上がっているのではなく、下がっている地域もあります。地軸が徐々に傾くことによって、地球全体の気候自体が変化している可能性があるわけです。こうした証拠は、直ぐに、簡単には出てこないでしょうが、注視していかないと、いわれのない方向に人類史が流れていく可能性があることを、指摘しておきます。