ヒマジンノ国 -24ページ目

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。

 
ブルーノ・ワルターの演奏する、モーツアルト交響曲41番「ジュピター」(1956)。
 
ML5014。
 
 
日本で「ジュピター」といえば、平原綾香さんの歌った曲が有名です。あの曲はイギリスの作曲家、G・ホルストの「惑星組曲」中の、「木星(ジュピター)」という曲からの引用に、独自の歌詞を付けたものです。
 
昔からクラシック音楽で、「ジュピター」といえば、モーツアルトの交響曲41番を指します。これは当時のイギリスの興行主が、曲の威容からつけたニックネームで、この「ジュピター」は、ローマ神話の神々の長の名を指しています。
 
モーツアルトの交響曲41番は、彼の最後の交響曲で、モーツアルトにしては力強く、哲学的なために、このニックネームが付きました。神々の長に例えられるような、素晴らしい音楽です。
 
特にフィナーレはフーガとソナタ形式を融合して、新たな地平を切り開きました。同じ旋律を少しずらしながら、和音を作り絡ませていくのがカノンだとすれば、異なる音楽を繰り返しながら和音を作り、絡ませていくのがフーガです(対位法)。
 
先日コンサートでモーツアルトを聴きましたけど、そのヴァイオリン協奏曲を聴いて、モーツアルトの音楽は対話だと思いました。ヴァイオリン・ソロもオーケストラ・パートも喋るように鳴ります。それが漫才のボケとツッコミのように、きっちりとお互いを受け止めるのです。
 
モーツアルトの音楽は時に、人間の「言葉」なのです。
 
このフィナーレにおいて、フーガの異なる主題断片は5つ。それぞれの主題は違った方を向いて、めいめい好き勝手に喋っている人間にも例えられ、ちょっとしたパーティーのようです。
 
しかし、これほど多くの音楽断片が5・6分の音楽の中に詰め込まれ、最後は一本の筋のように解け合っていく様は、正に調和そのものです。
 
第1楽章のオペラ・ブッファのような雰囲気から、調和と壮麗さを湛えたフィナーレまで、南欧風の感触も見せながら、美しさが極まります。
 

 
↑、フィナーレの有名な冒頭。語りつくされているかもしれませんが、「永遠への憧憬」を感じさせる音楽です。「涙をためた笑顔」に例えられる、モーツアルトの音楽の真骨頂です。
 
 
 
↑、遂にラストになって、それぞれの主題が同時に顔を出し始めます(3コマ目)。てんでバラバラのように聴こえますが、それぞれが複雑に絡み合って、一筋の線に溶け込んでいきます。それをモーツアルトは、これ見よがしにやるのではなく、あっという間に、さりげなく流しまうのです。初めて聴いた人は、何が起こったかさっぱり分からないのです。ですが、それでパーティーも終わり・・・。そして、それこそがモーツアルトの音楽なのです。
 
ブルーノ・ワルター(1876-1962)は生前はモーツアルトの権威でした。彼の有名な「ジュピター」のレコードは1960年に録音されたステレオなんですが、あの演奏は弛緩してしまっていて、造形にゆるみがあります。この1956年に録音された、ニューヨーク・フィルと演奏こそ完璧無類でしょう(モノラル)。
 
ヨーロッパ時代にはない、トスカニーニに影響されたと思わせる力強い出だし、きりっとした造形、旋律の純化、そしてよく歌う瑞々しい歌が、まさにモーツアルトにふさわしい。
 
 
↑、晩年のワルター。ユダヤ人である、ワルターはナチスに祖国を追われ、アメリカに移住しました。
 
フィナーレについても、それぞれの旋律の性格を的確に描き出しながら、ふくよかさと、豊かな歌を湛えつつ、良く整理されたまま、壮麗に描き出していきます。聴き手も涙をためずにはいられませんね。ワルターのモーツアルトに関する思いを、痛いほど感じてしまう演奏といえます。モーツアルトの気持ちを代弁しようという、ワルターは本当に素晴らしい。
 
これに匹敵するのはカール・ベームの演奏ぐらいでしょうか。

 

1月28日、サントリーホールへ、佐渡裕氏の演奏するモーツアルトを聴きに行ってきました。ヴァイオリン・ソロは新日フィルのコンマス、西江辰郎氏。

 

今年は月1で良いのでコンサートに行きたいと思っています。しかし、すでに2月は予定が合わず、行けそうになく、頓挫しそうですが・・・(;^ω^)。

 

邦人演奏家はほとんど知らないので、初聴きになります。佐渡裕氏はテレビにも出ている有名人で、バーンスタインに師事したことも承知してますが、まともに演奏を聴いたのはこれが初めてです。話がうまい人という印象がありますが、演奏前にプレ・トークを展開、アット・ホームな感じを出していました。バーンスタインが、1950年代からコンサート前にプレ・トークをしていたのが、きっかけだそうです。

 

モーツアルトのヴァイオリン協奏曲5番から始まるプログラム。モーツアルトのヴァイオリン協奏曲など、録音を含め、何年ぶりに聴くのでしょうか?小編成の小ぶりな曲で、どこにも楽しい旋律が出てくる聴きやすい曲です。

 

演奏者も肩の力を抜いて、中音域の美しい響きを作り出し、ソロの西江氏もそつなくこなし、満足いく演奏でした。サントリーホールの良い音響はこのような中音域の美音が、心地よく響きます。

 

2曲目はメインのジュピター交響曲。3楽章ぐらいまでは結構楽しめました。特に第1楽章は、堂々とした風貌を出そうとしていたように思います。第2楽章も途中でテンポ落としたりして、雰囲気が出ていました。解釈も常識的な感じです。

 

しかし、フィナーレは出だしから気持ち優先で進行したのが分かりますが、個人的にはもう一つ。日頃名演奏の録音ばかり聴いていると忘れますが、モーツアルトの演奏、やはり難しいですね。ジュピターのフィナーレは複数のメロディーが絡まって、壮麗な構築性を発揮します。

 

ここで壮麗さを出そうと力むと、メロディー・ラインが崩れ、メロディー・ラインを整えようと思うと、力感が薄れ・・・となるのでどっちつかずになったり、ガチャついたりします。

 

今回はちょっとガチャついた気がしました。メロディーを聴きとりたい、という気持ちと、壮麗さも味わいたいという気持ち、両方味合わせてくれる演奏はごくまれです。両方望むは贅沢なのかもしれません。

 

最後はバーンスタイン作曲のウエスト・サイド・ストーリーの交響詩。しかし自分はウエスト・サイド・ストーリーは勉強不足で、観てないので、内容は良く分からず。原作を知らずに交響詩を聴けば、当然聴き手は置いてきぼりになります。

 

ただ、この新日フィルが1番良く鳴ったのがこの曲です。強音部もしっとりした部分も、クリアに良く鳴っていました。こういう曲の方が、生きいきしてると思いました。

 

生演奏を聴けた楽しさはありましたが、モーツアルトは演奏者を選ばないとダメかな、と思ったコンサートでした(個人的な見解です)。

 

 

あんまり同じことを書きたくないですが、オミクロン騒動も、もう十分だと思います。感染者が増えたとはいえ、未だに世界中で死者数は30人程度(2月5日、追記:国内だけで1日の死者が100人を超えるとの報道になっています)。明らかにインフルエンザよりも症状は軽い。正直、ちゃんと運動したり日光浴びたりしていれば無視していい程度のはずです。

 

政治家、マスコミ、医者が騒ぎ過ぎだと思うし、特に政治に関しては「結論ありき」の対策しかしません。多数の人間が支持するから正しい、などということはないわけで、今回のオミクロンなどについては、本当に少し調べれば、おかしいと思う事柄ばかりだと思います。

 

知性と洞察力というものが何か、もっとよく考えてみるべきです。

 

感染者が増えれば、ウィルスの毒性が弱くなるのは、ずっといわれていたことです。集団ヒステリーになってどうするといいたいです。特に「感染者数」という「数字」に踊らされすぎでしょう。なぜ怖がるのですか?

 

さらに、みなし陽性もありとなれば、「風邪」の患者もオミクロンと診断されてもおかしくないはずです。いつまで続けるつもりなんでしょうか?

 

このブログを10年以上前に始めました。しかし最近、色々変わったことも書き始めて、当初の予定とは違う内容になってきてしまいました。

 

自分は人と違う趣味が多いので、発信する場がなく、ブログが都合が良いので書き続けてきました。

 

しかしそれも、変えていかないといけないと、感じることが増えてきています。不思議と、理屈でそう考えるというよりは、内面の、気持ちが変わってきた、ということのようです。趣味の話のみだと、どうも安心しない、という感じになってきているようです。

 

趣味の話は今後も書くつもりですが、おそらく、そんな話ばかりだと、社会に参加していない気がして仕方ないと、自分自身が感じるようになった、ということかと思います。

 

極論すれば、読者も多いわけでもないので、そろそろブログ自体を止めても良いのですが、自分の気持ちの整理のためにも書き続けようと思います。

 

アメーバ・ブログはツイッターやフェイス・ブックのように検閲も厳しすぎないので、非常に助かっています。一般人が世の中に色々な意見がいえるというのは、便利で、良い時代になったなと思います。

 

今後も模索をしながらブログを続けようかと考えています。

 

変わった話も増えるかもしれないですが、今後もよろしくお願いしますm(__)m。

 

前回書いた内容はかなり古い内容なので、最近出ている神示の内容と異なってきている部分があります。その辺の修正などをしておきます。

 

もうちょっと、最新のものに合わせるのが筋だと思うので、少し書きます。

 

前回、「守護神」という言葉を書きましたが、近ごろは「守護靈」としているようです。元来「神」という超越的な存在を表す言葉が、人間の支配のために使われてきたこともあり、最新の神示では「神」という言葉の意味が変わってきているようです。

 

特に本当の「神」とは私たちを生かしている森羅万象すべてのことをいい、「意見」などはいわないそうです。「神示」などを降ろすのは「靈団」などといって、靈の集団だそうです。そしてこの「靈団」の集合意識のようなものも、時には「神」と呼んでいるそうです。他にも「宇宙人の靈」もあり、こういうものからメッセージを受け取って、「神」と勘違いするケースも、かつてはあったそうです。審神が必要とされています。

 

「そなたらが申して来た神、仏、天使は靈ぞ。靈団ぞ。色々あるぞ。」

 

とあるように、もう無理をして隷属する必要はないとしています。「大日月地神示」を降ろされている方は次のように述べられています。

 

           【願いを叶える方法】

         〜信じる者は救われる仕組み〜

 

         お正月いかが過ごされましたか?

         初詣に行かれた方も多いことでしょう。

         わたしは京都にて家族と参拝しました。

         大酒神社、下賀茂神社、上賀茂神社

         それぞれに参拝させて頂けたことに

         感謝を申し上げてきました。

         わたしは

         神社で願いごとはしません。

         御挨拶だけです。

         なぜならば

         神社で祀られている御祭神は

         参拝客一人一人の願いごとを

         叶えてくれないということを

         わたしは知っているからです。

         御利益信仰とは

         人によって創作されたものです。

         自分の願いごとを叶えてくれるのは

         自分のことを愛してくれている

        "自分チーム"であることを

         わたしは知っています。

         自分チームとは

         守護靈・指導靈・近親靈たちであり

         あなたを日夜見守り導いています。

         健康になりたい

         恋人が欲しい

         結婚したい

         子供が欲しい

         お金が欲しい

         夢を叶えたい…

         そういう自身の個人的な願いごとを

         叶えてくれるのは

         ほとんどが"近親靈"の御役目です。

         近親靈とは

         あなたを愛している

         先祖の何方かであったり、

         亡くなった家族や友知人、

         ペットたちです。

         愛されている人ほど

         近親靈はたくさん居られます。

         ですから願いごとも

         叶えられ易くなるのです。

         大きな願いごとに対しては

         高次元存在である守護靈や指導靈、

         そして靈団が動きます。

         地域や国、世界に対する願いごとは

         大きな靈団に祈祷することです。

         しかし

         小さな個人的な願いごとは

         近親靈にお願いすることなのです。

         賽銭箱は自販機ではありません。

         「諸経費としてどうぞお使い下さい」

         と募金する気持ちで賽銭を入れれば良いのです。

         神社とは

         靈界における警察署・交番のようなものであり、

         その地域を護る靈人たちが集う場

         と考え参拝することが望ましいのです。

         ですから参拝時には

         「日々わたしたちを御加護下さりどうもありがと 

         うございます。

         今後ともどうぞみんなを御守り下さい。」 

         とお伝えされれば良いのです。

         御祭神とは

         祀られているそのほとんどが、

         昔の時代に生きていた人であり

         靈人なのです。

         ですから礼節をもって長くお付き合いしましょう。

         正月明け特別講座でした。」

 

現代では「守護神」といういい方は止めて、「守護霊」で良いということ。同時に、そのような親近靈と共に生きていくことなどが語られています。

 

また「大日月地神示」を読むと靈性が開発され、こういった靈ともコンタクトがとれるようになるとしています。興味ある方は神人さんのフェイスブックなどをご覧ください。↓

 

神人(かみひと) | Facebook

 

最近の神示では、より高位の存在からの啓示となっているようで、今まで以上に「嘘」というものに対して、厳しい内容が降りてきているように思います。

 

個人的に、大まかには、前回書いたブログのように、大峠は始まっていると考えています。それぞれの魂の選別自体も、以前書いたような内容だと考えています。また、人間を含む生き物は、魂の遍歴を続け、今後もずっと成長し続ける存在だということは、前回の内容同様、変わりないと思います。

 

最近新しく開示されている神示では、いい加減なことを書くなという様な内容が降りてきているので、以上のようなことは、特に修正しておきます。前回のブログは大まかな内容として、取ってほしいと思います。

 

<前書き>

 

今回の内容は、世間的にはスピリチュアル、とでもいうべき内容なのかもしれませんが、興味のない人には全く意味をなさない内容でしょう。というか変わった内容過ぎて、ついていけない人がほとんどだと思います。

 

若干重い内容も含んでいます。ここで書いたことが全部正しいかといわれれば、自信がないところもあります。興味を持ったなら、ご自身でも、納得いくように、色々調べてほしいと思います。

 

ちょっと無理してまとめたところもありますが、興味のある方だけに読んでもらえればと思います。

 

一応、最後の審判や、アセンション、大峠などといわれることの内容をまとめてみました。かなり昔からいわれている内容でもあります。そろそろ書いてみても良い時期ではないかと思って書いてみました。

 

受け入れられないことも多々あるかと思いますが、よろしくお願いします。

___________________________________

 

<地球と我々の魂のこと>

 

世の立て替え、立て直しが早まったという話が出ています。10年が7年に、7年が4年に、という話です。しかし、これもまた、どういうことをいっているのかは定かではありません(直近まで10年かかかるなどとも、いわれていました)。

 

一応の決着が4年後でその後のゴタゴタがあるのか?あるいは、ゴタゴタを含めて4年後なのか?

 

とりあえず、まずは4年後辺りが節目になるということで、考えることにしました。

 

立て替えの中で、昔から最も厳しい時期は3年ほどといわれていて、これを「三歳苦難」といっていましたが、この4年の間に本当の「難」が来る、ということなのでしょうか?

 

2022年がその初めの年になるのでしょうか?数字が出てくると最近は怪しいことばかりで、せいぜい参考程度の話というべきなのでしょうか?中々分からないことが多いです。

 

「二二(富士)は晴れたり日本晴れ」のフジが22です。

 

<0~十は元つ神ぞ。012345678九十(表)と十九876543210(裏)全部で22あるぞ。表と裏が一つなって22を産むぞ。22(フツ)産(ウ)ぞ。フツウは神ぞ。人間はフツウでないぞ。上下に並べてそれぞれ足すと「十」になるぞ。表と裏が一つになって神が形になるぞ。すべてのすべてが神であるぞ。「火」と「水」の十字であるぞ。十が傾いているから×になるのぞ。「火水」は「秘密」ぞ。神は形になるぞ。>

 

実際、世の立て替えと人の選別は始まっているといわれています。

 

多くの人はお正月に「初詣」に行かれたのかもしれません。しかし、世の立て替えが始まると「神」は神社にはいなくなるといわれています(神社には人靈がいるそうです、また、初詣自体にも意味はあるそうです)。神は、「人を宮として入る」といわれているように、神社ではなく、必要なら直接人にかかるようになる、といわれています。

 

ではその「神」が神社にいないのならば、人はどうすれば良いのか?

 

人には生まれながら、その人を導く「守護神」(現代では守護靈、というそうです)と「副守護神」がついているといわれています。指導霊ともいうのでしょうか。まずはこれを頼れ、ということがいわれています。

 

しかし、かつては守護神(靈)たちも、良い存在ばかりでなかったといわれています。ある方の本から引用していきます。

 

 

↑、古い本で恐縮です。佐藤千鶴子さんという方が書かれた本です。26年前の本です。有名な本でも何でもないので、知っている方は少ないと思います。ここに書いてある内容は、今まさに現代に当てはまる内容だと思い、今回はメインで引用していこうと思っています(引用した文章は、ところどころ、修正したり、並びを変えて引用しています)。

 

では、守護神に関わる話の引用です。

 

<平成8年1月7日、日本じゅうのすべての守護神が一同にある場所に集合させられ、太陽神様から忠告を受けました。それぞれの人間の魂の親にあたる守護神は、一人ひとりの人間が生まれてくるときにいっしょに地上に降り立ち、死ぬそのときまで、ずっと魂を神に目覚めさせ善の魂に心を導くのが仕事です。その親神が怠慢だから、悪人が悪魔に心を売って悪のはびこる世になってしまうわけです。幼いころより良いこと悪いことをきちんと指導するのも守護神の役目なのですが、知らないふりをして過ごしてきた年月がいまの世を作ったとも言えます。太陽神のお話では、人びとの守護神に50日の猶予を与え、その間に人びとに、すこしでもカルマを刈らせ、心を神に導くようにと言うことでした。

 

しかしながら、50日目に3分の1の守護神は、地獄の星へいっきに飛ばされてしまったのです。自分の魂の子どもである人間の心をすこしでも良い方向、本来の方向へ導けなかった守護神が3分の1もいたと言うことです。

 

守護神のいなくなった人びとには、その上の神が替わりに降りてきておられます。より強い力で正しい方向へ導こうとされます。厳しく指導されます。今までは、悪いことをしても見つからなかったり、見逃されて来たかもしれませんが、今後は、悪事がばれたり、体で支払わせたりすることが起きてくるでしょう。>

 

悪事を働く人間には厳しい存在かも知れませんが、本来は守護神は人間と共に歩む存在であり、決して怖いものではないといえます。

 

人は「靈」(ヒ)「止」(ト)であり、魂を肉体の中に留め置く存在です。肉体が解かれて、魂になると、それは「波動」とか「波長」という存在になるそうです。それ故、波長が合うもの同士が自然と集まり、集団を形成します。ですので、魂という存在は「似たもの同士」しか集まることができなくなります。そのために、良い人は良い人同士、悪い人は悪い人同士集まることになり、魂の世界(我々のいう、あの世のこと)は、完全な「差別界」になるとされます。階層があるわけです。例えば、泥棒は泥棒同士集まって、納得いくまで泥棒同士で、盗みを続けることになります。

 

しかし、同じ者同士が集まってしまうと、何が正しくて悪いか分からなくなってしまいます。ですので魂の世界では、「泥棒」はいつまでも改心することなく、「泥棒」のまま存在し続けるとことになります。こういうのがいわゆる「地獄」です。

 

そのために我々の世界があったわけです。肉体の中に魂を留め置くために、魂の波長に関わらず、「良い人」「悪い人」が同時に存在することができ、それぞれを比較しながら修正できる場所が与えられている、ということです。しかしこのような世界はとてもまれで、この宇宙には、ほとんど存在しない世界だそうです。今生きている我々は、非常に貴重な機会を与えられているのだといえます。

 

いうなれば「煉獄」(罪を清める世界)に私たちはいる、ということです。

 

ただ今回、このような機会も、終わりに近づきつつあるということのようです。

 

<宇宙には、光の世界と闇の世界があり、それぞれに数多くの銀河系、数億の星があります。現在、唯一の交流地点が地球なのです。光の世界からも、闇の世界からも行き来ができるため、闇の世界(地獄の星)にいた魂でも地球に生まれ変わって、カルマを刈り、人の役に立つことで、永遠の祝福の続く光の世界(神の星)へ行くことが可能だったのです。しかし、この三千年の間に残念ながら、地球はほとんど闇の世界にはいってしまいました。今回の大改革で、地球は五次元の光の星へと移行します。二度と光と闇の世界との交流はなくなってしまうのです。

 

地獄の星に行ってみますと、それぞれの星で程度の差はありますが、胸騒ぎの塊とでもいうべき不安が支配し、人間の姿ではなく肉の塊で、どこに足があるのかわからない魂が集められている所もありました。それでも、人間であった記憶をもっているのです。知り合いに会うこともなく孤独で、まさしく魂の墓場とでも言うべきところでした。地獄の星へ飛ばされてしまった人びとに出会うと、慰める言葉もありません。

 

もし、今回地獄の星に行ってしまえば、永遠の地獄にいることになります。なぜかといえば、この『神の革命』が終わると、地球に住むのは、神の星からのみの生まれ変わりの人間となり、心の美しい人だけで、地球は大切にされるときがくるからです。今回、地獄に行ってしまえば、ふたたび地球に帰れることはほとんどないそうです。「よほどの懺悔のくり返しを何百年、何千年としたとしても、地獄の星から神の星へ移動されることはまずない。」と言っていいくらいたいへんなことなのです。>

 

「神の革命」とは、世の立て替え、立て直しのことを指します。

 

それ故、生きている間が大事だといわれます。現在、私たちは「どこの世界へ移動するかが決まる」時間帯にいるそうです。単純に、「神の星」かあるいは「地獄の星」と呼ばれる星以外にも、もう一度地球に似たような環境で生まれ変わる存在もいる、といわれてはいます。しかし、それも今生でまじめに生きようと努力した人に限られると思います。

 

星界報告 | 長谷磨憲くんち (ameblo.jp)

 

↑、過去記事です。宇宙にはいろいろな世界があるといわれています。

 

<神の革命の中で、日本は3次元より5次元へ移動中です。この移動は4年で終わります。あと数年で5次元になるわけです。いま現在は4次元の中にあるのです。4次元とは靈界です。

 

靈界とは死んだ後に魂が集められる場所ですが、そこから魂の波動で地獄の星と神の星に別れて行くのです。私たちすべての人間がいま、生きたままこの靈界に存在すると思ってください。4次元(靈界)とは、魂が神の星と地獄の星へわけられる場所ですが、もともとは神であった我々の魂が神に目覚めさせられる場所でもあるのです。懺悔の場所とも考えてください。

 

たとえれば、植木鉢を取り除いて、植木鉢の下に太陽の光が降り注ぐ状態になったようなものです。植木鉢の下にはいろいろな虫たちがいます。突然光を浴びてびっくりして動き回ります。この虫たちが人間だそうです。このような光の当たる状態になってしまったなら、この光の中で生きれるように、体質改善しなければ死んでしまいます。これと同じことが起きつつあるのです。体質改善とは、もちろん「心のもち方」にかかっています。すべて勝手し放題の人間は数年のあいだに、改心するように導かれます。改心する気のない者は片っ端から生きたまま地獄へ突入させられて行きます。不幸が訪れたなら、心が神にしかられていると考えたほうがいいのです。心こそ魂そのものなのです。人はだませても神はだませません。

 

5次元になりつつあると言うことはどういうことかと言うと、心が安心でいられる人と、不安におののく人に、別れてくるというと言うことです。不安な心の人は、いまの心のままでは死んだら地獄の星に行くのだと考えてください。地獄の星は、何万年、何億年と胸騒ぎの塊のような不安が持続する所です。一方神の星へ行く者には、心の安らぎが与えられます。ですから、この世はどちら側の星へ送られるか、最終決定される中継地点と思ってください。>

 

この選別によって、地球に残る人、または後に地球に生まれ変わる人、他の星に生まれ変わる人などに別れて行くそうです。

 

優れた人は地球よりも優れたところに行くそうですが、数はとても少ないそうです。

 

別の星で再び修行させられる人も出てきます。しかし、最もひどいことをした人たちは「魂」そのものが抹消されることもあるそうです。政財界の大物に多いといわれています。 


(文章内に4年とありますが、ここではかなり昔の話です。現状に当てはまるか、よく分かりません。一応全体の流れとして、今出ている神示や予言と当てはまるものとして、引用しました。)

 

 

↑、1995年、12月3日。著者の佐藤さんが撮られたという写真で、富士山をバックに2柱の神が立っている写真だそうです。この日「イザナミの命」の岩戸開きがあったそうです。

 

地球での課題をクリアするのには、本来20回ほど人間は生まれ変わりを繰り返すのだそうです。

 

しかし、逆に生まれてきた時よりも、人生の修行をさぼって、魂のレベルを落としてしまうこともあるようです。その際は我々の身近にいる、ペットや家畜などに生まれ変わることも多いそうです。

 

人間というのは、必ずしも魂のレベルから見ると高い存在ではないことが多いようですが、それでも我々は長い年月を通して、本来であれば、人間として学べるレベルに成長してきている存在だということです。

 

また、今まで人間になったことのない存在が、人間になる直前になるのが、ペットとか家畜とかいうケースも多いようです。科学では猿とかチンパンジーが人間に1番近いとされますが、必ずしも魂の視点で見るとそうではなく、身近にいる存在の方が、我々に近いということになります。

 

ラー文書から引用します。

 

「私はラー。第3密度の周期のあいだに、第2密度を卒業して転生してくるケースが最も多いのが、あなたがたがペットと呼ぶ存在たちでしょう。動物と第3密度の存在のあいだに絆が結ばれた場合、それがその動物の個別化をうながします。そうした影響下に置かれると、そうした個別化が、その第2密度の存在の潜在能力をぐっと引き上げることになります。そのため、その存在が身体複合体としての在り方を終えると、その靈/身体複合体は、言うなればその種の未分化の意識に戻っていくことはないのです。」

 

いうなれば、ペットや家畜を育てるというのは、次世代の人類を育てているといっても良いのかもしれません。しかし、逆に考えれば、家畜などを食い尽くすような行為は、我々にとってみると必ずしも善い行いとはいえないように思えます。

 

特に昔から日月神示などでは、食にまつわる書き込みがあることで有名です。次の言葉は、日月神示の「五十黙示録」からです。

 

「四つ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろう。臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ。」

 

進化論のような、今いわれている、科学的見地からではなく、魂の視点から見ると、それぞれの存在の立場によって、あり方が決められている部分があるということです。

 

おそらく本当に世の立て替えがおこなわれるのなら、「肉食」は無くなっていくと思われます。また、現状でも「肉食」を行うと私たちは靈性を落とす可能性があることが、「大日月地神示」には述べられています。

 

 

 

 

 

・・・さて、この手の話で基本的になりそうなことを以上に簡単に書きました。もっと詳しく書こうと思えば書けますが、煩瑣になるので止めます。細かいことを書いてらっしゃる方もいると思うので、興味があれば調べてみてください。

 

また、守護神を頼れ、などといいますが、どうやれば良いのか、という話にもなるでしょう。それはまず自分の心に尋ねてみることです。魂と心は繋がっているそうです。今の自分の心模様が魂の状態です。魂の波長を見るには自分の心模様を見るしかありません。

 

波長が合えば守護神と息が合うといいます。また佐藤さんの本から、守護神に関わる部分を、まとめて引用していきます。

 

「肉体の先祖を祭ると同じように魂の先祖の神様も祭ってください。自分の魂の生みの親である神に感謝し、自分の魂の親である守護神と一体化できるように努めてください。心が真っ白くなって、心が真っすぐになって、守護神様とイキが合う(心が合う)と、守護神様が体の中にはいってきて二心一体となります。守護神様と解け合うことがまず第1段階の目標です。

 

誰の体にも神は降りて来ます。もともとすべての人は神の子であり、肉体は神社だからです。

 

それから、私は神様や靈が見えて話ができますが、これは私の体質です。靈媒体質とでもいうのでしょうか。そのような人は、日本じゅう、世界じゅうにたくさんいます。

 

しかし、神様や靈が見えることと、神が体に降りる降りないとはまったく関係ないのです。見えない人にも神は降り立ちます。きれいな心で生きていれば、いつでも、どこでも降りて来られます。心がきれいな人は神に助けられて、知らない所で守られて生きているのです。

 

神様が降りるとか見えるとか言う人、空気中からものを出す人、または靈能者と呼ばれる人が神様のいる所に近い人と勘違いしてしまいますが、見える、聞こえるは、ただの体質であって、そんなことと、ほんとうの神様との接点とはまったく関係ないのです。見えようが見えなかろうが、神様に会える人は会えるのです。神様が向こうからやって来てくれると思ってはいけません。みずからが神様のいる所まで出かけなくては会えないのです。

 

神様のいる所に行けるかどうかは、ただ一つ、『心のもち方』次第なのです。みずからが神の子であると言う自覚を持ち、神とイキ(呼吸・意気・心)を合わせるように生きることを始めれば、神のいる所を歩き始めているのです。神々がたくさんおられる所を歩けるかどうかは、どんな心で生き、どんな人生を送っているかだけにかかっているのです。ですから、宗教に入っていなくても、会える人は会えるのです。」

 

とのこと(より詳しいことは、新しい神示である、「大日月地神示」をお読みください、特に「後巻」の音読が求められます、その場合は靈験などがあり、実際に守護靈との交流があるとしています、この点は特に留意する必要があると思います、新しい事実として認識する必要があるといえます)。

 

他にも、祈りなども効果があると思います。

 

しかし、外部の状況に、欲望などによって、心が動かされるようなときは、心に問題があることが多いですね。そういう場合は、自らの考えなどに問題があるとして、修正していく必要があります。結局それが1番大変だったりするんですが(;^ω^)。

 

また人生で大きな感動にあっているときは、実は神に出会っているといいますね。

 

何だか、怖いことも含めてぞろぞろと書いてきましたが、無暗に怖がっても意味がないので、まずはいかに普通に暮らすか、ということを考えていくのが、個人的には良いと考えています。特別な修行とかはいらない、ということです。普段から、私たちは如何に人間らしく生活できるか、ということだと思います。

 

そして、世の立て替えなるものが本当にあるのならば、従来いわれてきた、社会で成功するためには努力しろ、というようなもっともらしい言葉なども、無理して信じる必要はない、ということでしょう。もう無理して、必要以上に争う必要はないということです(それでも生活に必要なことはしなければなりません)。

 

今ある社会的な成功や名声を元にせずとも、それぞれの人間が喜べる、また、楽しめる生き方を、本気で考えても良い時期になってきているといえると思います。当然急激には変わりませんが、徐々に変わっていくと思います。

 

人間大体不安とか恐怖を感じるのは、物事を知らないから、ということが多いので、そこをクリアするように努めるのが1番かと思います。

 

 

↑、「大日月地神示」、有名な「日月神示」の続編ともいわれています。現代の神示といって良いと思います。読む価値はあると思います。

 

最後にある神様(現在では、靈的存在とでもいうべきかも知れません)からの言葉が、佐藤さんの本に載っていますので、転載して終わりにいたします。

 

「神様がいま人びとに求めているのは、心のもち方です。心一つで幸福にも不幸にもなります。また他人を幸福にするのも心一つです。幸福とは何かを考えてみることです。行動とは何かを考えてみることです。

 

考えを深いところにもつほど、神様の心に近づきます。考えはこれで終わりということはないのです。深く他人のことを考えてみる心は自分の心を美しく導きます。自分中心に考える人の心はけっして美しくなりません。神々が自分中心に物ごとを考えるということはないのです。

 

自分がつらい、悲しい、理解してほしいと思うまえに、周りの他人のことを考えてみてください。人はみんな同じことで悩み、苦しみ、悲しんでいます。すべてはわがままから不幸が始まります。わがままは他人に迷惑をかけ他人を不幸にします。まず、自分のわがままから直してください。

 

自分が周りの人のことを想うことで、いつかきっと周りを幸福にしていることに気づきます。そして、周りはそのことに感謝をし、また見習っていこうとしだします。そのような考えをもつことは神の心に近づくことになります。

 

まずは他人の立場になって物ごとを考えることです。そして、自分は他人に迷惑をかけていないか反省することです。甘えは時として他人に大きな迷惑をかけます。人間はいずれすべての人が平等に死を迎えます。死してまた同じところでみなが逢えることはめったにないのです。

 

恋人も、親も、兄弟も、夫も、妻も、死して行き先が違うのですから、いまここでめぐり逢っている人びとはそれぞれこの現在だけのつき合いなのです。ですから、死してはもう、謝れない、そして尽くせない、何もしてあげられないし、してもらえない。そう思って現在のこのときを大切に、他人を大切に、他人の心を大切に生きねばなりません。

 

そう生きることがカルマを刈ることであり、神の星に行き着くことであり、悔いなく死に、悔いなく別れられるようときを過ごさねばなりません。他人の心を傷つけることは、神様から見ていかようにも許しがたいことです。他人の心を想いやって、肉体の欲求するわがままを克服することが一番の修行と想うことです。

 

ここにいたい、これがやりたい、あれがほしい、欲求は素直に受け止めていいのですが、他人に迷惑をかけていないか、まず考えてから行動することです。そして、他人の幸福に力を貸し助け合うことが、人間として生まれて来た満足行ける人生と考えて日々を送ってほしいものです。」

 

 

ルドルフ・ケンペによる「ウィーンの夜」。

 

ASD279。

 

 

明けましておめでとうございます。

 

去年の年始同様ルドルフ・ケンペ(1910-1970)の録音で始めます。ケンペはドイツの名指揮者。非常に紳士的な人物だったそうです。演奏は真面目で、聡明、激情にかられることなく、品の良いの指揮をします。

 

 

若くして亡くなりましたが、死後も評価は高まっており、レコードは値上がりするばかりです(;^ω^)。そんなケンペがウィーン・フィルと共に2枚のコンサート・アルバムを残しています。

 

「ウィーンの夜」(1958)と題されたアルバムと「ウィーン・ボンボン」(1960)の2枚です。初期ステレオの名盤でしょう。

 

まずはヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」序曲からの切り抜きです。この曲は、ニューイヤー・コンサートの定番ですね。

 
 
 
↑、誰もが聴いたことのある、楽しい曲です(*^^*)。
 
 
ルドルフ・ケンペによる「ウィーン・ボンボン」。
 
ASD431。
 
 
2枚目は「ウィーン・ボンボン」と題されたアルバムから。ヨーゼフ・シュトラウス2世の「ディナミーデン」と題されたワルツです。薔薇の騎士に出てくるワルツとそっくりな箇所があります(ここでは入れてません)。
 
優雅な曲調でちょっと哀愁を帯びています。
 
 
 
↑、2コマ目は良いところで終わっちゃいました、すいません(;^ω^)。
 
 
年始の超ミニコンサートはこれにておしまいです。今年は多分、ブログの更新は不定期になると思います。
 

 
人生で初めて、年末に生演奏でベートーヴェンの第9を聴くということをしました。28日のサントリーホールで、ジョナサン・ノットによる東京交響楽団の演奏です。
 
ジョナサン・ノットは録音も聴いたことがないので、今回初めて聴きました。イギリスの指揮者だそうです。59歳で、まだ若いですね。
 
 
コロナでクロークが使えず、コートやら手荷物を自分の席で持ちながら、休憩も無し・・・とかでちょっと弱りました。エコノミー症候群になりそうです。おかげで第1楽章は、妙な考え事ばかり頭の中を横切って、ほとんど覚えていません。展開部の初めぐらいまでは記憶がありますが、再現部など、どんな表現だったか記憶にありません(>_<)。
 
第2楽章はティンパニが相当強打されたこともあって、記憶に残っています。結構良かったです。各フレーズの初めと終わりに、味わい深いところを作っていました。第3楽章も、録音で聴くより生で聴いた方が視覚的効果もあって、集中力が落ちずに聴き続けられました。
 
今さらですけど、古い録音ばかり聴いている自分にとってみると、ノットの演奏なんかはアンサンブルが美しく、楽曲の内容も良く整理されていて、明確、分かり易いですね。ハーモニーに曖昧さがなく、第3楽章など、東京交響楽団の弦楽器の合奏は、独特の繊細な美しさが滲み出ていました。響きは割とソリッドな感じです。弦の合奏に、合いの手を入れる管楽器も、子気味良く入ってきます。現代風だな~、と思いながら聴いていました。
 
フィナーレは1番良かったです。録音で第9を聴くと面白いのは第1楽章とかで、フィナーレは1番落ちます。でも実演を聴くと逆になりますね。実演だと、第1楽章は、曲の内容に、ベートーヴェンのオーケストレイションが追い付いてないような気もします・・・という月並みな意見を書いておきますが・・・(;^ω^)。
 
フィナーレは曲想が単純ですが、実演で聴くと、合唱の壮麗な迫力はやっぱりすごいので、感動します。隣の席の人は目頭ぬぐっていたように見えましたけど。その気持ちは良く分かりました。ノットが引き締まった指揮で、素晴らしかったです。
 
 
 
 
・・・ということで今年のブログも終わりです。
 
歳初めはしばらくブログを休むかも知れません。
 
それでは皆さん、良いお年を(*^^*)。
 
 

 

今年もブログを週一ぐらいで書いてきました。

 

書きたくないこともかなり書いてきたので、大変でした。「面倒なヤツ」だと思われても仕方のない記事が多かったと思います。

 

なるべく論点となることを作ろうと思って、書いてきたつもりです。自分が間違っていようが、いまいが、あくまで自分なりに必要なことだと思って、書いてきました。ただ、好き勝手に書いた部分も多々あり・・・気分を害された方には、申し訳ありません、と一言謝りたいですm(__)m。

 

そういう意味では、批判的に見てもらう方が、助かります。

 

やっと冬らしく寒くなってきました。年内、もう1度ぐらい記事を書くかもしれません。

 

皆さんも風邪などひかぬよう。今はオミクロンなんですかね?年末年始も元気に行きたいと思います(*^^*)。