「淀川長治映画ベスト1000」。
ずっと欲しいと思っていた書籍です。過去に6度ほど装丁を変えて出版されているようですが、本屋で見かけるたびに、本はボロボロだったりしました(おそらく売れずに、長く置かれていたのだと思います)。今回また新たな装丁で発売されていたので購入しました。
映画は詳しくないので、とても参考になります。
淀川長治氏は、日曜洋画劇場で司会を務めていたのを、自分も良く覚えています。明治、大正、昭和、平成と映画を観続けてきた人なので、生き字引みたいな人だったのではないでしょうか。とりあえず自分は映画を観た後はこの淀川長治氏の本と、双葉十三郎氏の書籍を確認することが多いですね。
古い映画を観て、それがどんな映画か、良く分からない場合があります。この前も「陽の当たる場所」(米国、51年)を観たんですが、もう一つ意味が分かりませんでした。
淀川長治氏はこの映画の悲劇は、アメリカが裕福になって「お金ができたために起こった悲劇。アメリカの堕落ですね。」と書いています。双葉十三郎氏は「現代青年の弱点を深くえぐった佳作。」としています(「現代青年」とありますが、要は20世紀半ばの「青年」、ということです)。
「陽の当たる場所」では確かに当時の青年の、「理想と現実」に揺れる曖昧な態度、というものが描かれていますが、これが今(令和)の時代には理解できない程度の内容なわけです。現代風のリアルさがないので、もう一つ意味が伝わりません。
こういう時はどうしても過去の映画を評論したものが欲しいのですが、これは実はとても少ないですね。
「陽の当たる場所」は当時の「時代の空気」を知っていないと、理解できないものだと思いました。「アメリカが豊かになったこと」と同時に「青年のモラルの問題」が結びついている、ということが上の2人の批評から分かります。しかし映画の内部では、そのような時代の説明などないわけですから、これはその時代を体験してきた人でないと理解しずらい案件だと思います。
↑、貧しい青年ジョージ(モンゴメリ―・クリフト)は富豪の令嬢アンジェラ(エリザベス・テイラー)と恋仲になりますが、彼にはアンジェラと知り合う前に関係を持ち、妊娠させた貧しい娘アリスがいました。アンジェラとアリスの間で葛藤するジョージの様子が描かれます。
おかげでこの映画のことを、少し理解できた気になりました。
話は変わりますが、北野武監督が駆け出しのころ、全く理解されなくて、入場者も少ない、興行収入も少ない、みたいな時、淀川長治氏のような映画人が、不遇時代の北野監督を誉めそやしていたのを覚えています。
彼の作品を、本物の映画だと思ったのだと思います。北野監督も珍しいぐらい神妙な顔をして、それを聞いていたのが印象的でした。
自分もこの監督の映画を観た時、「その男凶暴につき」の、内容はバイオレンスだが、逆に美しい、黒と白を基調としたフォトジェニックな映像の強烈な印象に驚きました。同様に暴力的でもある、「3対4x10月」での、極楽鳥花の花の色合いなど、観た当時はゴッホのような燃えるような色彩に見えて、非常に驚きでした。
あまり映画のことを分からない自分でも、お金儲けが目的で作っていないことが明白でした。内容も強烈だった記憶があります。
↑、バイク事故に至るまでの北野作品には怪しい緊張感がありました(「ソナチネ」ぐらいまででしょうか)。バブル経済と高度経済成長末期の日本の在り方、また同時に少し人気に陰りが出てきたコメディアンの「ビートたけし」としての心情が良く表れていました。「成功と人気」の裏側にある「悲劇」というものを、嫌でも見ないといけないような状況になりつつある、当時の北野監督の生き方が、彼の映画をかなりスリリングなものにしていたと思います。しかも、その「悲劇」が、彼の場合は非常にリアルに感じられました。当然大衆には受けませんでした。
淀川氏は「北野監督はまさに映画の詩人です。日本映画の中でもずば抜けています。」とキッズ・リターンの評論に書いていますが、見事にその本質をいい当てていると思います。
この本の冒頭に「映画を頭で見たら、つまらないね。もっと感覚的に見てほしい。」と書いてありますが、まさに感性の鋭さを感じさせる評論が多いです。ただときどき、遊び心が過ぎるのか、評論になっていないような文章もありますけど。しかし、淀川長治氏は、それを許してしまえるような人柄の持ち主だったと思います。
「古くて素敵なクラシック・レコードたち」、村上春樹著。
クラシック・レコードファンの間で話題になているようなので買ってみました。面白い本です。村上春樹の小説は一冊も読んでませんけど、こういうのを読むとちょっとばかり興味が出てしまうかもしれません。
元々はジャズ・ファンなのだそうで、クラシック・レコードは全体の2割程度らしいです。
クラシックについてはオリジナル盤などに拘らずに、ジャケットの意匠の良さや、気になるものを手に取って買い集めているそうです。評論を読む限り、かなりのリスナーであることは明白で、一文一文に相当の説得力があります。有名ヴァイオリニストについて、簡単に書いてあったりしますが、中々興味深いです。
<オイストラフが常に優等性的な演奏を聴かせるのに比べると、メニューインという人には「脆さ」がある。美しさと表裏一体の脆さだ。その辺りが魅力でもあり、弱点でもある。>
読んでいるとまさに納得、という感じです。異論をはさむ余地がないというか・・・。
有名曲も紹介されていますが、渋い室内楽や、名前もあまり知らないオーケストラのショウ・ピースのような曲が多いです。
自分もアナログ・レコードを買うようになって気づいたのですが、レコードは海外のものが主流(特にUK)で、日本のレコード事情とはかなり違うということです。
おそらくアジアにおいて日本は間違いなくレコード先進国で、海外のコレクターでも日本のレコードを所有していることもあります。
ただ、UK辺りがレコード産業の主流だったということは、アーティストの選出も当時はヨーロッパと米国が主流なのが当たり前で、それらのレコードが大量に出回ります。
その1人が英国の指揮者、サー・トーマス・ビーチャムです。著者は彼のことを、わざわざ一章設けて紹介しています。
<日本でのビーチャムの人気はそれほど高くないので、当然ながら中古レコードの価格も低く抑えられている。おかげで僕はビーチャムのレコードをかなり買い込ませて頂くことになった。ビーチャムの優れた点は、音楽的に外れがほとんどないということだ。どのレコードの針を落としても、概ね気持ちよく音楽が鳴っている。「感動的な名演奏」みたいなものはとくに思い浮かばないが、楽しい演奏ならたくさんある。>
トーマス・ビーチャム卿のことは、以前自分も少し書きましたが、日本ではオリジナル盤などもかなり安く出回っています。
トスカニーニやカラヤンという指揮者が、メディアや録音媒体を使って、西洋のクラシック音楽を世界に広めました。極東に住む、我々日本人の場合も例外ではないでしょう。クラシック音楽の聴き始めを、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュから始める、という人はほとんどいないはずです。やはり、カラヤンで聴き始めたという人は多いはず。
また、同時にオペラなどは「言葉」の問題があるので、簡単には入り込めないきらいがあります。しかしドイツ風の古典派やロマン派の「絶対音楽」は、「音」を聴いているだけでも、分かるようになります。本来カラヤンやトスカニーニは歌劇場の指揮者という感じですが、日本ではそういう感じでもないと思います。単純にオーケストラの指揮者だと思っている人は、多いと思いますね。
そういう、ドイツ風の?・・・「音楽言語」を理解することが前提での、「日本のリスナー」という在り方が、世界基準(?)ではないので、ビーチャムのようなどこか「道楽者」の音楽というのは、日本では理解されづらいのだと思います。日本人は真面目ですね。
ビーチャムは3大B(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)をあまり好まず、ハイドン、モーツアルト、シューベルトを愛しました。そして同時に、シェヘラザード、アルルの女、ディーリアス、ペール・ギュントなどのオーケストラのショウ・ピースともいえるような音楽にも愛着を示しました。
3大Bの音楽は・・・音楽を理屈で聴くことが多いというべきでしょうか。しかし、オーケストラのショウ・ピースのような音楽は音質やその雰囲気も重要です。これらは個人的見解をいわせてもらうなら、CDのときよりもレコードの場合の方がずっと面白いですね。
恐らく村上春樹氏もそう感じているんじゃないかと、生意気にも、勝手に考えています。
この本を読んでいると、やはりレコード好きならではの選択が多いと感じました。他にもマルケヴィッチのことなども紹介していて、かなり面白い本です。
↑、自分の手持ちのビーチャム卿のレコードです。
↑、第3幕、デラ・カーザの歌う伯爵夫人のアリア。抜けきった甘美な美しさ。心の余裕がなければこういった品の良さは出ないと思います。いつも表情豊かなギューデン、シエピも格調高く歌い上げていて、最高です。
これを手に入れる前はドイツで作られたUK盤そっくりな、重量復刻版(UK盤と同じマトリックス番号で、1990年代につくられた)を聴いていましたが楽器のソロの部分など、音がにじんで仕方なかったです。オリジナルは復刻版ほどの音の厚みはないですが、無駄のない音で実に素晴らしいです。
クリフォード・カーゾンとジョージ・セルによるブラームスのピアノ協奏曲1番(1962)。
SXL6023。ED4(オリジナルはED1)。
これは素晴らしい名演。
その名演の功績は多分、指揮者のジョージ・セルによっています。クリフォード・カーゾンはシュナーベル、ランドフスカ、ブーランジェなどの良き時代のヨーロッパの影響を受け、よりスマートで洗練したものに折衷したスタイル。特にピアノの音色の美しさに定評があり、本来ブラームスの持つピアニズムとは異質のものといえます。
それに比べると、ジョージ・セルの引き締まった演奏は、正にブラームスにふさわしいものがあります。
ブラームスの音楽は本来筋肉質で、ロマン派特有の叙情的な旋律があるとはいえ、必ずしも歌い過ぎる必要はないので、セルのような無駄のない演奏であると、余計にその男性的でキリッとした曲想が引き立ちます。
このころのセルは、レコードで協奏曲の伴奏にまわることが多く、たとえばフランチェスカッティの伴奏でメンデルスゾーンなどを入れていますが、フランチェスカッティはともかく、セルはやや引き締まりすぎて、メンデルスゾーンの持つ歌に欠くところがあります。
しかしそのようなマイナスを差し引いても、セルのような存在は多分、多くの同業者から信頼があったと思われ、良くも悪くも、オーケストラの伴奏者としては安心できる存在だったと考えられます。
その伴奏者としてのセルの資質が最高度に良い形で表れているのが、このブラームスではないでしょうか。
ブラームスのコンチェルトは2番の衒学的な曲想に対して、若書きの第1番はもっと男性的で一本気な部分があり、それがセルによって見事に近代的に表現されていると思います。ジョージ・セルの良さが出ていると演奏だと思います。
カーゾンの音色などは本来モーツアルトなどに向くといわれます。ここでもややブラームスにしては美しすぎるピアノの音色に様な気もしますが、セルに良くつけて、壮大なこのコンチェルトの世界を描き切っていると思います。
↑、ジョージ・セル(1897-1970)。ショルティ、ライナーなど米国で活躍したハンガリー系指揮者の一人。マジャール気質というのか、ハンガリー系の指揮者は情緒的、というよりも実務的な指揮者が多く、オーケストラを「歌わす」よりも「鳴らす」ことに長けているといえます。セルの場合は、細部までミスのない合奏力に定評があり、人によってはそれをメカニックと見る向きもあります。
ユング派の心理学者、河合隼雄氏は自著で次のように述べています。
<結婚式を目前にして、最愛の人が交通事故で死んでしまったひとがある。このひとは「なぜ」と尋ねるに違いない。「なぜ、あのひとは死んでいったのか。」これに対して「頭部外傷により・・・云々」と医者は答えるであろう。この答えは間違ってはいない。間違っていはないが、このひとを満足させはしない。なぜ、この正しい答えが、このひとを満足させないのか?それはこの「なぜ」(Why)という問いを「いかに」(How)の問いに変えて答えを出したからである。医者は How did he die? (どのように死んだか)について述べたのである。>(ユング心理学入門から)
WhyがHowに変換されてしまう、ということは「科学」が進化した現代では良く見かけるようになりました。
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ギリシアの哲学者にゼノンという人がいました。
↑、ゼノン、B・C335ーB・C263。禁欲的なストア派で、ギリシアの哲学者。
当時、哲学者タレスが創始した幾何学は順調に発達していましたが、それに疑問を持ち、パラドクスを投げかけたのかゼノンです。
その中のパラドクスの一つに「アキレスとカメ」があります。今回はこれを元に数の概念について考えていきたいと思います。
そのパラドクスとは以下の通り。
「アキレスとカメ」
<カメがアキレスより少し前のスタート地点にいて、同時に出発した。今、アキレスがカメのスタート地点まで来ると、カメはこの分前にいる。このことは、どこまでの続くので、アキレスはカメに追いつくことができない。>
タレスは他にもいくつかパラドクスを考えだしましたが、今回はこの単純な問いについてだけ考えてみます。
実際、これは我々が数字に持つ、根源的な問いを内包しています。
たとえば1+1=2、について考えてみます。
A、リンゴの話
<同じ大きさのリンゴ1個と1個を足すとする。リンゴは2個になる。しかし、もし家族が4人いるとすれば、その2個のリンゴを4個かそれ以上の数に割ることになる。リンゴの数は「数」の上では4個か、またはそれ以上にすることができる。つまり、一例とすれば1+1=4となった。>
B、粘土の話
<それぞれ同じ大きさの粘土が2個ある。それを足してみる。そうすれば粘土は1個になる。つまり、ここでは1+1=1となる。>
C、本の話
<AとBの話は質量の話であれば解決できる。では、我々は本の大きさがさまざまでも1,2,3,4・・・と数を数えることができる。これはどう説明するのか?>
以上は数字に含まれる、2種類の概念について考えた時に起こる、疑問になります。「アキレスとカメ」についてもこれと同様の疑問が提示されているわけです。
今日物理学の影響は絶大で、社会全般に及んでいます。物理学は自然科学と、技術科学の基礎になっており、これによって我々の生活はすっかり変わってしまいました。数字はこうした物理学の根本にある概念で、「数字」がなければ物理学は成立しません。そして一見世の中すべてを説明できるかと思われる物理学の存在は、もしや我々の生活すべてを「数字」で表せるのではないかという幻想を抱かせるものです。
今回はそんな数字の存在について考えていきます。
では有名な「アキレスとカメ」について考えてみます。
分かり易く考えるために条件を付けて考えてみます。まず、カメはアキレスの10分の1の速度で進むものとする。アキレスは1秒間に10メートル進み、アキレスとカメの間の距離は100メートルあるとする(厳密に考えるために、ここではアキレスとカメの足裏の幅は考えません)。
アキレスはカメを抜こうとして進みだします。しかし、アキレスはカメを抜くことができません。何故ならアキレスがカメのもとにたどり着いたとき、カメは常にアキレスの進んだ距離の10分の1だけ前にいるからです。アキレスが、カメが元いる位置にたどり着く回数が増えるにつれて、アキレスはカメに近づいていきます。しかし、何度繰り返しても厳密な意味においては追いつくことができません。アキレスがカメより速いのは確かです。
アキレスが元カメがいる位置についたとき、カメは10メートル前方にいます。再びアキレスがその前方10メートル先についたとき、カメはさらに1メートル前方にいます。
アキレスがさらに1メートル進むと、カメはその10センチ前方にいます。この工程はさらに繰り返され、2者の距離は1センチ、0・1センチ、0・01センチ・・・と限りなく小さくなっていきます。しかし、どんなに小さい値になっても距離は存在します。私たちは2者の距離をゼロになるようにしたいのですが、それが不可能なのです。私たちはアキレスとカメが並ぶ瞬間を予感するのみです。
さて、このことは距離とともに時間の問題でもあります。以下に数学的にアキレスとカメがどう説明されるか、ということを含めて見てみます。
アキレスが、もとカメのいたところに達するには・・・
100メートル÷10メートル=10秒 が必要で、その10秒間にカメは
1メートル×10=10メートル 前進しています。アキレスが、この10メートル先のカメのいたところに達するには・・・
10メートル÷10メートル=1秒 を必要とします。その1秒間にカメは、
1メートル×1=1メートル 前進します。・・・という具合に続けると、アキレスがもとカメのいた場所まで来るのに必要な時間は、
10+1+0・1+・・・・・+0・000・・・1=11・11・・・1秒ということになり、ところがこれは
11・111・・・1・・・
と、どこまでも1が続く数になります。ところが、さらにこれは9分の100であるから、以上の話ではアキレスがカメに、9分の100秒以内には追いつくことは出来ない、といっていることになります。つまり、時間はアキレスがカメに追いつくにつれて、流れるのが遅くなっていくようです(時間の密度が濃くなっていく、といっても良いかもしれません)。これはまるでアキレスがカメに追いついた瞬間に時間が止まってしまうかのようです。
数学的な説明は時間の濃縮を説明しただけで、我々の質問に答えていません。つまり、なぜ、我々は無限に距離や時間を細かく考えてしまわなければならないのか、という質問に対して答えていないのです。Howに答えてもWhyには答えていないのです。
そしてそのWhyに答えようと考えだされたのが、デモクリトスの「原子論」です。デモクリトスは、ある距離を何者かを「単位」として構成されていれば説明がつく、と考えたのです。アキレスとカメの間が定規のように1ミリメートルという、単位としてできていたらどうでしょう。アキレスとカメの差が1ミリメートルになった時、次の瞬間アキレスはカメに追いつくしかありません。なぜなら、1ミリメートルを単位にしている、ということはいい換えると、1ミリメートルよりも小さい距離がない、ということを意味しています。
デモクリトスは連続性を無限分割した末の「無限小」は不可分の量であり、それを「原子」と名付けたわけです。しかし、その「原子論」にも次ような反論が出ました。
今原子に量が・・・
「ない」とすると、いくらそれらを集めても、もとの連続量にもどらない。
「ある」とすると、それはさらに分割できるはずである。
つまり、これは今までと同じパラドクスを繰り返します。我々は、どうも頭の中で考える限り、物事を無限に細かく考えうる、といって良いようです。「原子論」は、アキレスとカメから抜け出すことは出来ませんでした。
ここで少し確かめておきますが、我々が今考えているパラドクスは、単位とすべきものが「連続量」なのか「単位」なのか、ということであるようです。
トルストイは次のように語っています。
「アキレウスがぜったいに亀に追いつけないという命題のおろかさは、単に、アキレウスの運動も亀の運動も連続的におこなわれているのに、運動の個々の単位を勝手に認めたところからうまれたのである。」(レフ・トルストイ著「戦争と平和」から、工藤精一郎訳)
足し算の話で結局我々が理解できなかったこと疑問点とは何なのでしょうか?それはまさにデモクリトスの「原子論」のパラドックスと同じということになります。
我々が混同してしまうのは、数字の単位としての性質つまり番号や数(1、2、3・・・と数えるもの)と呼ばれる性質と、量(リンゴや粘土の場合、質量と考えると分かり易い)と呼ばれている性質です。
例えば2という数字が2番目のもの、という意味での2か、2グラム、という意味での2か、という意味です。
番号で数字を考える場合、その数字を構成する「もの」は完全な「剛体」でなければなりません。これは分割不可能である、という意味でです。そうでなければ「番号」は成立しません。
逆に「量」であるならば、それが「完全な剛体」であることはありません。分割できねばならないからです。
そしてこの「完全な剛体」というものは現実には存在しません。また同時に、分割されたものは、必ず1個の何らかの「個体」にならなければなりません。故に「数」というものは現実に存在するうちは必ず「番号」としての性質と「量」としての性質を「同時に含んでいる」ということになります。アキレスとカメでも、そこで表される数字が「番号」か「量」かを明確に規定する条件を設定していないので、その時々にどちらでも取れるようになっています。これによって、無限の分割と同時に無限の連続が起きるわけです。
他方、この「番号」と「量」という概念は頭の中には存在しています。そしてそこがまたミソになります。現代の量子物理学では、「完全なる剛体」と「連続性のある量」は同じものの「変化した姿」であることが証明されています(量子力学)。
しかしこのような問いを設定するとき、私たちは「完全なる剛体」と「無限分割可能な量体」を頭の中に設定せざるを得ません。そして「設定せざるを得ない」ということは、我々が思考の中では、現実に存在しない「完全なる剛体」と「無限分割可能な量体」を想像し得ているということになります(「無限分割可能な量体」もまた、現実には存在していないことが分かります、というよりも、無限分割可能ということは、無限大の量を持つ必要があるのでしょうか?どう認識してよいかさえ、実は難しいのかも知れません)。
故に、ここにきていえるのは、人間が思考の中で理解しうることは、現実にはないような「完全なる概念」として設定しうるということにもなります。思考の中には存在しているわけです。
だからアキレスとカメのように、現実世界に投射せず、机上の論理で考えると、人は人間の「思考の世界」が持つ「完全性」にとらわれ、現実が理解できなくなるのです。
逆にいえば、「頭の中で考えていること」と「現実に表れている現象」は別の流儀で存在しているということです。
仮に数字の「1」について考えてみます。数える場合の「1」です。
豆腐が1丁あります(便宜上1個と考えます)。しかし豆腐はもろく、「1」という個体を保つことは簡単ではありません。持ち上げてしまえば崩れてしまうかもしれません。そういう意味では、我々の生活圏内では、豆腐1個という状態を保つのは簡単ではありません。
しかしボウリングの玉1個であればどうでしょう。これは簡単には崩れません。この場合、我々は数える意味での数字の「1」という概念自体、維持しやすいことになります。
しかしもっといえばボウリングの玉でさえ、強力な力を加えれば「割る」こともできます。そうなってくると、数える場合の意味での数字の「1」という概念は完全には通用しません。
ベートーヴェンは有名な第9交響曲を完成させるために四半世紀をかけたといわれています。
この作曲家が頭の中に抱いた、高い理想はその完成までに長い時間を要しました。そしてその理想(この場合は第9交響曲のこと)は長い間、彼の「頭の中」にだけあった、ということになります。
先に見てきたように、私たちが「頭の中」で得た「理想」はそのままでは現実には全くマッチさせることができません。ですので「現実に合う」ようにその理想に手をいれなければなりません。彼の場合は自分の理想を表現するのに必要だったのは、作曲上の技術だったのでしょうか?あるいは人生の経験だったのでしょうか?いずれにせよ、単に「頭の中に理想がある」としても、それを現実に実現するには「理想」以外の他の情報を含まなければなりません。そして実際「現実」に完成させた理想に関しても、初めにひらめいた「理想」の一体何パーセントの完成度なのかは、それをひらめいた本人にしか分かりません。100パーセント合致する、ということは先の考察から見てもまずありえないでしょう。
しかし逆にいえば、私たちが「現実」を生きる際、「頭の中の理想」は必ず必要で、それがない限り、私たちは日々の行動を指針を失うのは間違いないわけです。もっといえばおそらくは100パーセント絶対に無理だろう、その理想に対して(現実と理想の差がある故)、一体どこまで迫れるか、私たちは日々試されているといって良いと思います。
政治思想などにしても、「原理主義」といわれる人たちは「頭の中の理想」のみで生きている人たちといって良いと思います。彼らは自分の理想のみを求めます。しかしこれも先に見てきたように、現実上では「思想」とか「理想」というものは常に「逆の考え」を含みます。
数字のたとえ話でいうのなら「数字」は「数」と「量」の概念両方を必ず含みます。政治においても「中央集権」と「市民政治」のような、一体への志向と、拡散への志向は同時に表れてくるもので、これをどの程度のものにするのかということが現実への対処となります。「原理的」に「中央集権」だけでは人々は圧政に苦しむ可能性がありますし、「市民政治」のみであれば国としてのまとまりを欠く可能性があるわけです。
もっといえば数の多い少ないということもありますが、右翼といわれる者も左翼といわれる者も、結局はそれを両方含む「思考の場」から各自が自分に都合の良い意見を抽出した政治思想でしかなく、自分たちの思想だけでは存在できないという状況を、その対立自体が説明している、ということになります(まさに原理的に)。そして「頭の中のみで考える」者は頭の中で考える行為の特徴である、「ほかの純粋概念を放棄させる」行為となり、自分と異なる考えを一切認めようとしなくなります。そしてそのように動く限り、現実への対処法を失っていくか、強権的にならざるを得なくなります。
いずれにせよ「思考」というのは頭の中で考える限り「純粋概念」として働きますが、現実にそれを合致させようとすると、「思考」は「思考の場」というべき、対蹠的な意味を含む、複数の情報を網羅した1種の「場所」へと導きだされる、ということです(点ではなく)。
これを知らないものが現実に物事を行う時には必ず混乱を伴うでしょう。このような二局面について、あるいは、純粋概念についての観察は、人が考えているよりも重要であることが多いといえます。日本人はヨーロッパのやり方(二元論)をやるとカッコよく思えるのか、やりたがりますが、結局その元となる状況を無視してやるので、形だけになります。あるいは真面目過ぎて、そのまま二極にこだわることだけを「是」としたがります。二元化を一元化する、という方向に向かわずに、一元化を二元化する、ということになります。それは元々日本人が、一元化を自然なものとして考えていたゆえだと思います。今の人は中途半端に西洋哲学を学ぶので、結局バラバラになっていきます。
「思考の場」の意味を理解するのなら、私たちはどの状況も「実は一体化された状況の一場面に過ぎない」ということを理解するわけです。
以前引用したラー文書の言葉です。
<私たちは「一なるものの法則」に属しています。私たちの波動の中では、あらゆる両極性は調和しています。あらゆる複雑なことがらは単純化しています。あらゆる逆説(パラドックス)は解明されています。私たちはひとつです。それが私たちの性質であり目的なのです。>
パラドクスの解明はそれぞれの立場が結局、全体の中の一部でしかない、ということと同時に、その一部がなければ全体も存在しないということを理解することです。その時に初めて自分の立ち位置と、他者への理解となります。
それができないものは自ら崩壊を望むものでしかないでしょう。
「そなたは、現実世界のことばかりより分からんから、現実ことばかり申して、一に一足す二だとのみ信じているが、現実界ではそのとおりであるが、それが平面の見方、考えかたと申すもの。いくら極めても進歩も弥栄もないのじゃ。一に一足す一の世界、一に一足す無限の世界、超現実、靈の世界、立体の世界、立々体の世界のあることを体得せねばならんぞ。」(日月神示、月光の巻)
ワクチンを打たれた方が増えているので、ワクチンに対する否定的な意見は中々書きづらくなってきています。
各国の、8月終わりから9月初めまでの新規死亡者のパーセント数ですが・・・必ずしもワクチン接種国の死者数が少ないわけではなく、むしろ多数であることが多いようです。特にイスラエルではワクチン接種者が多いにもかかわらず、死者数と感染者数が増えているようです。
ADEじゃないかと思うんですけどね。日本では阪大が調べているようです。一応デルタ株以上のものにウィルスが変異すれば、中和抗体が効かないという可能性は存在するようです。当然その場合は自然免疫の方が有効になります。マスコミはほとんど報道しません。日本では何もないことを祈ります。
まあ、あんまり接種者を怖がらせるような内容ばかり書いても仕方ないですかね。しかしちょっとでもネガティヴな意見などあると、最近は脊髄反射的にどんどんマスキングされますからね。反ワクチン的におかしな話もあるとは思うんですが、逆にそうでないものもあると思うんですけどね。
報道のバランスは明らかにおかしいと思います。
ワクチン接種後の死者数の問題も、日ごとの死者数が、本来日本人の死ぬ数と比べればおかしくないなんて意見もありますが、そんな馬鹿な話あります?インフルエンザワクチンと比べれば明らかに異常な数値です。そこには合理的な疑いがあるわけです。
仮の話ですけど、もしワクチンが直接の原因でなくとも、老人や体の弱い人の死の遠因になっているというのなら、その死を犠牲にして健康な人の重症化を防ぐ免疫を得ているということになります。これは知らなかったとはいえ、生きるものと死ぬものの選別をワクチンでしていることになります。こういうのを人道上、怖い話だと思わないというのも自分には厳しいかな。
発言者の意図とは別に、期せずして「仮の」話ではありますが、上の話が事実なら、ナチの「優生思想」とほぼ同じ考えです。そしてこの集団接種のもう1つの問題は、そこに接種した人々が無自覚に参加させられる、ということです。
この「怪しさ」が今回の集団接種初期のころからずっとあるわけで、そこに「倫理」的な問題が介在しています。この辺の話を書いている方も稀にいらっしゃいますが、ごくわずかのようです。
「因果関係不明」という言葉に問題があります。これは「因果関係が」・・・「ある」ともいえるし「ない」ともいえる言葉なので、ここは詰めるべきです。
また、その先に超過死亡者の議論が出るわけで、実際にどうなっているか、本当に確認すべきですよ。責任放棄だと思うけどなあ。問題あるかないかは、ちゃんと調べれば分かるわけだし。被害がなければそこで問題なしですし、あるなら程度の少ない状態で「知らなかった」ということが免罪符にもなります。しかし被害があってそれが拡大している場合、「知らなかった」では済まなくなります。
当然ワクチンを打たなくてコロナで死ぬ、というケースもありますから、そういう点も調査すべきです(確かにこの点も倫理的な問題が存在します)。両方調べないと本当のことは分かりませんよ。そういう意見は、もっといっていくべきだと思います。
ワクチンのメリット、デメリットがはっきりして、初めて「自己責任」という言葉が有効になります。
・・・とまあ・・・書いてみたものの・・・。
どうなることやら・・・。
確かにワクチンが何事もなく済めばベスト・・・ということでしょうかね・・。そうなる可能性もあるとは思います。
心配し過ぎだ、ともいわれそうです。
また、これだけ周りの人が打ち、国が推奨してるとなると普通打ちますよね。自分も好き好んでこんなこと書いてるわけでもないので。
結局は・・・現状あらゆることをひっくるめて、「自己責任」・・・ということです。そういわざるを得ないと思います。
当然ながら各人に任せられている、ということです。本音をいわせてもらえば、自分はそれなりにワクチンの疑問点について書いてきたつもりなので、その点については、お役御免といいたいですね。
あと一点書きます。
PCR検査のCT値の話になります。CT値が上がるとウィルス増殖量が増え、陽性が出やすくなります。
以下はネットからの引用です。
「国際医療福祉大学の高橋泰教授はPCR検査には以下のような問題点があると指摘しています。
PCR検査でどこから見ても元気な人を捕捉することには大きな問題があると考えている。PCR検査はコロナウイルスの遺伝子を探すものなので、体内に入って自然免疫で叩かれてしまい他の人にうつす危険性のないウイルスの死骸でも、陽性になってしまう。発症可能性がゼロに近い抗体陽性者でも、再度新型コロナウイルスが体内に入った時点で検査を行えば陽性になる。
PCR検査陽性でも無症状の人は、喉の粘膜に新型コロナウイルスくっついて汚染されているだけで感染は起こしていないのです。」
米国ではPCRでの陽性者判定を年内で止めるといっています。CT35以上だと誤判定が出るともいわれているようです。培養率が異様に高まるんですね。その陽性者は本当にカウントする必要があるのか、ということも起こりうるわけです。
ワクチンをどんどん打たせている、米国、日本、英国は高い値で検査しています。陽性者が増えるのはこれが原因の1つである可能性があります。感染者が多いといわれれば皆、ワクチンを打ちたがる、という構図ですね。
興味のある方は参考までに書いておきます。
何回かのブログを使って、ワクチンについて確認すべき事項は一通り書いてきたと思います。ワクチンパスポートの話題はまた別にします。
自分は少数派でしょうが、必要だと思うことは、今後も書いていきたいと思います。
不思議と日本人がコロナにかかって死ぬ可能性は低いですね。この理由って何なのでしょうか?
別にコロナを軽視しようということでもないんですが、マスコミなんかちょっと騒ぎ過ぎではないかと思います。
死者数が少ないのは、今の菅さんが頑張っているからだ、みたいな意見があります。菅さんが頑張っているのか・・・はちょっと分かりませんが、個人的には今の政権が民主党であろうと共産党であろうと、この死者数はあんまり変わらなかったのでは?と思ったりします。
それでもって、日本人には元々コロナに対する耐性がそれなりにあるんじゃないかと思ったりします(理由は分かりませんけど)。死亡率はインフルエンザ並みだそうです(これを少ない、というつもりはないです、しかしパンデミックかはどうなんでしょうか?)。
日本って本当にパンデミックなのかさえ・・・実は疑問だったりします。日本はPCRの感度を、諸外国に比べ、高めてるとも聞きました(これも理由が分かりません)。
確かにコロナは感染者が増えて、インフルエンザに比べると入院する人なんかも多いようです。年中流行るかもしれませんし。そういうところは簡単には行かないでしょうけど。
ワクチンも死者数を抑えるとはいえ、元々の死者数も相当少ないので、どこまでこだわるかですよね。ワクチンも口コミで、ネガティヴな意見も広まりだしていますしね。はじめいっていた「薔薇色」の特効薬ではない、ということです。
それにまた、ワクチン接種後死亡の、因果関係不明、とかいうの何とかなりませんかね。不誠実だと思います。厚労省の血栓が起きない、という話も信用できませんね。そういうところですよね、本当に、行政を完全に信用できないのは。ちゃんと調べたのかな?
・・・先日救急車のサイレンが多いと書きましたけど。
やはり東京都内は相当出動しているんですね。
日本は「本当は」コロナを抑え込んでいるのに、何でこんなことになるのか、という話で・・・。
個人的には最近の政治家はサイコパスに見えることも多いです。小池さんなんかかなり・・・この頃かなり狂ってるようにも見えなくもない・・・。パラリンピックを児童に観戦(感染?)させる、とかいうんですよね。そこは中止でいいやん。
そんな話はさておき、今の問題は逼迫する医療・・・ということ・・・?
医師会に問題があるとかいうことも聞きます。分科会もね。
それに比べると、政治家を弁護する意見も聞きます。5類の件は政治家よりも医師会などの方に問題があるということなのかな・・・?
現状でも国内のコロナ問題は外国のようにワクチンにこだわらなくとも、やり方次第で、そこそこ収まりそうな気もするんですけどね。大げさに考えすぎるのが1番の問題かもしれませんね(自分もですが(;^ω^))。
大阪府の方からワクチン接種にポジティヴなものが出されました。ワクチン接種者は重症化した方や死亡した方がいないというデータです。
これを見る限りワクチン効果は出ているように思われます。ただ分母が示されていないので、どう読んで良いか分からないところはあります。31歳から39歳までのデータが抜けていたり、ワクチン接種者の具体的な比率なども分かりません。
<個人的な見解など>
以下はあくまで自分個人の意見です。
自分は世間では「デマ」呼ばれているような人たちの意見もSNSで覗いているので、そこも気になっています。人は簡単に「デマ」といいますが、ファイザーの元副社長や、モンタニエ博士なども必ずしも「おかしい人」といってしまっていいのか疑問です。今回のワクチンについては、マイケル・イードン氏やモンタニエ氏以外にも、多くの専門の医者たちが疑問を呈しているのが特徴なのだと思います。ですので、多くの推進派がいても簡単にはそのワクチンの危険性の疑いが消えないのです。
彼らはワクチンの効果について言及するよりも、その後の副作用などについて言及していて、やはりここがクリアされないと本当の意味での治験が終わったといえないのではないかと考えています。
ワクチン専門家のファンデン・ボッシュ博士は本来ワクチン推進者ですが、今回のコロナワクチン接種には反対しています。
今回のワクチンは当該のコロナウィルスは抑えますが、そのワクチンが強力なために、本来の人間の持つ免疫能力が効かなくなるといっています。
やはりこういうのを読むとまだ数年はどうなるか分からないので、自分としては様子見だと思いますけどね。上は集団免疫についてのコメントかと思います。
例えば冬場にインフルエンザが流行り、ワクチン接種者はコロナは抑えるが、本来の自然免疫が効かないので、インフルエンザは広まったり、重症化したりなどしないのか、とういうようなことを知りたいですね(ボッシュ博士は別のところで、ワクチン接種者の自然免疫が弱体化するだろう、と述べています)。
もう一点。ちょっと先走った話で、まだ未確認ですけど。少し書いておきます。間違っていたら、すみません。今後の確認事項だということです。
厚労省は7月30日までにワクチン接種後に919人が死亡したといっていますね。また、直近でも実はコロナで死んだ方よりも、ワクチンで死んだ方のほうが多い、という情報も出て来ています。
また厚労省から人口動態調査の速報が出たということで。
これはユーチューブで解説している方から無断でスクショ取ったものですが・・・(;^ω^)。
20年以上の分を縦軸に死亡者数、横軸に月でまとめてあるもので、直近だと黒が2021年、青が2020年、ピンクが2019年、緑が2018年です。最近は日本社会が高齢化しているので、昔に比べると月ごとの死者数は増えてきています。しかし、隣あう年同士では、それぞれ同じ月同士であるならば、それほど死者数に変化がないのが普通だそうです。
ところが、2011年3月の東日本大震災のような大型の災害がある場合、同月の死亡数の変化は9000人を超えているそうです。このような大きな変化が2021年と2020年の4月5月に現れているといいます。4月だと5000人以上の差、5月だと1万人以上の差があります。果たしてこれらは一体何が原因なのか、ということです。
2021年の4月5月分は速報値だそうで、まだ決定ではないそうです。また6月7月がどうなるか見てみないと何ともいえないかもしれません。しかし5月分の変化は多いので不気味です。
厚労省が発表している、919人の接種後の死亡者が、氷山の一角ではないかといっている人も多いです。実像はその20倍になるかも、という話も聞きます。
コロナで死んだ人よりも、ワクチンで亡くなった人が多い、などとなることは本当にないのでしょうか?
現在のワクチンは効果は180日だといわれていますが、これを毎年2度も打つとなるのは中々勇気がいる気もしますね。
ですので再三書いてきてますが、後追い調査をしてほしいと思っています。
しかしこれも実は製薬会社が先手を打ってきています。
おそらく政府と企業は事前に契約を結んでいるということだと思います。芸能人やプロスポーツ選手など、ワクチンで死んだり、あるいは病気になったりと思えるような報道がありましたが、ワクチンと因果関係は出せないようになっているということでしょう。つまり政治家が自分の保身のために、薬害要件を表にださないようにしている可能性は、十分あるのではないかと考えています(苫米地さんの情報については今かなり議論があって、そのような合意はない、という人も多いです)。
今コロナは2類(厳密には2類ではないらしいですが・・・)の分類のなので、患者は隔離などが必要とされているようです。しかしそのせいで、ちゃんと隔離できない病院では見れないために、患者がいても病院をたらいまわしにされ、そのうちに重症化してしまうそうです。
余談ですが、最近は救急車のサイレンの音が本当に多いです。
しかし、重症化する初期の段階で、治療をすればコロナは重症化を防ぐことができるということです。幸いにも日本ではまだまだコロナの死亡率が低く、マスコミが騒ぎたてるほどのことはないはずです。
この程度の死亡者であればインフルエンザなどと変わらないわけで、区分を5類に落とし、コロナの初期症状の内に町医者で良いから対処すれば、被害は相当程度防げるのでは?
自分は専門知識などないので、実際は良く分かりませんが、5類に落とした方が良いといっている方々の意見をいくつかみましたが、決しておかしなことはいっていないと感じました。
今のままだとその2類相当を自宅で隔離・・・?みたいなことをやっているわけで、自宅は専門の隔離室などないわけです。やっていることが無茶苦茶では?矛盾していると思うんですが。そんなに危険な存在を、自宅療養っていうのはおかしいと思います。5類に落とす特別区を作って、一旦実験的にやってみても良いと思うんですよね。
やはりワクチン証明の話が出始めています。
仮に神話を信じるのなら、こういうこと自体、ある程度形にならざるを得ないのかもしれません。「道を分ける時」です。人と獣を分ける道です。
何を信じるのか?黙示録通りになるというのなら、今現在進行形になっているということかもしれません。受難の時です。
うるま記念病院でクラスターが発生し、64人の方が亡くなったというニュースがありました。この死者の内訳は分かりませんが、ワクチン接種者である可能性もありえます。うるま記念病院は沖縄の市指定のワクチン接種会場だそうで、沖縄タイムスによると、ここの職員の約9割は5・6月中にワクチンを2回接種しているということらしいです。
内訳が分からないのでどういって良いか分かりませんが、おそらくワクチン接種者も死んでいるのでは?(後記:ワクチン2回接種者での死亡はないとのこと)
ツイッター、フェイスブック、ヤフー共にワクチンについては言論統制を敷いています。非常に愚かなことです。
今一度ここで国民全員が立ち止まって、ワクチン接種後の死者、あるいは後遺症などのしっかりした調査をし直していくべきだと、自分は繰り返し述べておきます。
仮にADEが発生しているのだとしたら?ワクチンを打つたびに、接種者がスプレッダーとなり、感染を広げ、重傷者や死者も出るのでは?そしてそれを防ぐために強権的な政治体制が必要だ、という論調が展開されるのでは?そしてその繰り返しが、果てしなく演じ続けられる可能性もあるのでは?ADEが原因であった場合、ワクチン接種を止めない限り、感染は止まらない可能性もあるのでは?
感染が止まらない限り、接種者は年に2・3度もワクチンを打たせられるわけです。
デルタ株、ラムダ株といわれますが、実際ADEであったのなら、そういった変異株の存在なども、どの程度の物なのか分からないわけです。
まずはADEでないと本当に証明してから、せめてその後に3度目のワクチン接種などにした方が良いのでは?と自分は思います。
それに変異株の話であれば、元々今回のウィルスはRNAウィルスで、変異が早く、根絶ワクチンができないことは初めから分かっていたはずです。それなのに病床を増やしたり野戦病院を作る予算がありながら、事前に作ってこなかった理由は?感染症の区分も2類から5類に落とさない。それで自宅療養になるのは当然です。それで病床逼迫だといい、人流を抑えるためにワクチン証明が必要とは?そんなことを本当に専門家たちが分からなかったということでしょうか?












































