思考の場1 |  ヒマジンノ国

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ユング派の心理学者、河合隼雄氏は自著で次のように述べています。

 

<結婚式を目前にして、最愛の人が交通事故で死んでしまったひとがある。このひとは「なぜ」と尋ねるに違いない。「なぜ、あのひとは死んでいったのか。」これに対して「頭部外傷により・・・云々」と医者は答えるであろう。この答えは間違ってはいない。間違っていはないが、このひとを満足させはしない。なぜ、この正しい答えが、このひとを満足させないのか?それはこの「なぜ」(Why)という問いを「いかに」(How)の問いに変えて答えを出したからである。医者は  How did he die?  (どのように死んだか)について述べたのである。>(ユング心理学入門から)

 

WhyがHowに変換されてしまう、ということは「科学」が進化した現代では良く見かけるようになりました。

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ギリシアの哲学者にゼノンという人がいました。

 

 

↑、ゼノン、B・C335ーB・C263。禁欲的なストア派で、ギリシアの哲学者。

 

当時、哲学者タレスが創始した幾何学は順調に発達していましたが、それに疑問を持ち、パラドクスを投げかけたのかゼノンです。

 

その中のパラドクスの一つに「アキレスとカメ」があります。今回はこれを元に数の概念について考えていきたいと思います。

 

そのパラドクスとは以下の通り。

 

「アキレスとカメ」

 

<カメがアキレスより少し前のスタート地点にいて、同時に出発した。今、アキレスがカメのスタート地点まで来ると、カメはこの分前にいる。このことは、どこまでの続くので、アキレスはカメに追いつくことができない。>

 

タレスは他にもいくつかパラドクスを考えだしましたが、今回はこの単純な問いについてだけ考えてみます。

 

実際、これは我々が数字に持つ、根源的な問いを内包しています。

 

たとえば1+1=2、について考えてみます。

 

A、リンゴの話

 

<同じ大きさのリンゴ1個と1個を足すとする。リンゴは2個になる。しかし、もし家族が4人いるとすれば、その2個のリンゴを4個かそれ以上の数に割ることになる。リンゴの数は「数」の上では4個か、またはそれ以上にすることができる。つまり、一例とすれば1+1=4となった。>

 

B、粘土の話

 

<それぞれ同じ大きさの粘土が2個ある。それを足してみる。そうすれば粘土は1個になる。つまり、ここでは1+1=1となる。>

 

C、本の話

 

<AとBの話は質量の話であれば解決できる。では、我々は本の大きさがさまざまでも1,2,3,4・・・と数を数えることができる。これはどう説明するのか?>

 

以上は数字に含まれる、2種類の概念について考えた時に起こる、疑問になります。「アキレスとカメ」についてもこれと同様の疑問が提示されているわけです。

 

今日物理学の影響は絶大で、社会全般に及んでいます。物理学は自然科学と、技術科学の基礎になっており、これによって我々の生活はすっかり変わってしまいました。数字はこうした物理学の根本にある概念で、「数字」がなければ物理学は成立しません。そして一見世の中すべてを説明できるかと思われる物理学の存在は、もしや我々の生活すべてを「数字」で表せるのではないかという幻想を抱かせるものです。

 

今回はそんな数字の存在について考えていきます。

 

では有名な「アキレスとカメ」について考えてみます。

 

分かり易く考えるために条件を付けて考えてみます。まず、カメはアキレスの10分の1の速度で進むものとする。アキレスは1秒間に10メートル進み、アキレスとカメの間の距離は100メートルあるとする(厳密に考えるために、ここではアキレスとカメの足裏の幅は考えません)。

 

アキレスはカメを抜こうとして進みだします。しかし、アキレスはカメを抜くことができません。何故ならアキレスがカメのもとにたどり着いたとき、カメは常にアキレスの進んだ距離の10分の1だけ前にいるからです。アキレスが、カメが元いる位置にたどり着く回数が増えるにつれて、アキレスはカメに近づいていきます。しかし、何度繰り返しても厳密な意味においては追いつくことができません。アキレスがカメより速いのは確かです。

 

アキレスが元カメがいる位置についたとき、カメは10メートル前方にいます。再びアキレスがその前方10メートル先についたとき、カメはさらに1メートル前方にいます。

 

アキレスがさらに1メートル進むと、カメはその10センチ前方にいます。この工程はさらに繰り返され、2者の距離は1センチ、0・1センチ、0・01センチ・・・と限りなく小さくなっていきます。しかし、どんなに小さい値になっても距離は存在します。私たちは2者の距離をゼロになるようにしたいのですが、それが不可能なのです。私たちはアキレスとカメが並ぶ瞬間を予感するのみです。

 

さて、このことは距離とともに時間の問題でもあります。以下に数学的にアキレスとカメがどう説明されるか、ということを含めて見てみます。

 

アキレスが、もとカメのいたところに達するには・・・

 

100メートル÷10メートル=10秒 が必要で、その10秒間にカメは

 

1メートル×10=10メートル 前進しています。アキレスが、この10メートル先のカメのいたところに達するには・・・

 

10メートル÷10メートル=1秒 を必要とします。その1秒間にカメは、

 

1メートル×1=1メートル 前進します。・・・という具合に続けると、アキレスがもとカメのいた場所まで来るのに必要な時間は、

 

10+1+0・1+・・・・・+0・000・・・1=11・11・・・1秒ということになり、ところがこれは

 

11・111・・・1・・・

 

と、どこまでも1が続く数になります。ところが、さらにこれは9分の100であるから、以上の話ではアキレスがカメに、9分の100秒以内には追いつくことは出来ない、といっていることになります。つまり、時間はアキレスがカメに追いつくにつれて、流れるのが遅くなっていくようです(時間の密度が濃くなっていく、といっても良いかもしれません)。これはまるでアキレスがカメに追いついた瞬間に時間が止まってしまうかのようです。

 

数学的な説明は時間の濃縮を説明しただけで、我々の質問に答えていません。つまり、なぜ、我々は無限に距離や時間を細かく考えてしまわなければならないのか、という質問に対して答えていないのです。Howに答えてもWhyには答えていないのです。

 

そしてそのWhyに答えようと考えだされたのが、デモクリトスの「原子論」です。デモクリトスは、ある距離を何者かを「単位」として構成されていれば説明がつく、と考えたのです。アキレスとカメの間が定規のように1ミリメートルという、単位としてできていたらどうでしょう。アキレスとカメの差が1ミリメートルになった時、次の瞬間アキレスはカメに追いつくしかありません。なぜなら、1ミリメートルを単位にしている、ということはいい換えると、1ミリメートルよりも小さい距離がない、ということを意味しています。

 

デモクリトスは連続性を無限分割した末の「無限小」は不可分の量であり、それを「原子」と名付けたわけです。しかし、その「原子論」にも次ような反論が出ました。

 

今原子に量が・・・

 

「ない」とすると、いくらそれらを集めても、もとの連続量にもどらない。

「ある」とすると、それはさらに分割できるはずである。

 

つまり、これは今までと同じパラドクスを繰り返します。我々は、どうも頭の中で考える限り、物事を無限に細かく考えうる、といって良いようです。「原子論」は、アキレスとカメから抜け出すことは出来ませんでした。

 

ここで少し確かめておきますが、我々が今考えているパラドクスは、単位とすべきものが「連続量」なのか「単位」なのか、ということであるようです。

 

トルストイは次のように語っています。

 

「アキレウスがぜったいに亀に追いつけないという命題のおろかさは、単に、アキレウスの運動も亀の運動も連続的におこなわれているのに、運動の個々の単位を勝手に認めたところからうまれたのである。」(レフ・トルストイ著「戦争と平和」から、工藤精一郎訳)

 

足し算の話で結局我々が理解できなかったこと疑問点とは何なのでしょうか?それはまさにデモクリトスの「原子論」のパラドックスと同じということになります。

 

我々が混同してしまうのは、数字の単位としての性質つまり番号や数(1、2、3・・・と数えるもの)と呼ばれる性質と、量(リンゴや粘土の場合、質量と考えると分かり易い)と呼ばれている性質です。

 

例えば2という数字が2番目のもの、という意味での2か、2グラム、という意味での2か、という意味です。

 

番号で数字を考える場合、その数字を構成する「もの」は完全な「剛体」でなければなりません。これは分割不可能である、という意味でです。そうでなければ「番号」は成立しません。

 

逆に「量」であるならば、それが「完全な剛体」であることはありません。分割できねばならないからです。

 

そしてこの「完全な剛体」というものは現実には存在しません。また同時に、分割されたものは、必ず1個の何らかの「個体」にならなければなりません。故に「数」というものは現実に存在するうちは必ず「番号」としての性質と「量」としての性質を「同時に含んでいる」ということになります。アキレスとカメでも、そこで表される数字が「番号」か「量」かを明確に規定する条件を設定していないので、その時々にどちらでも取れるようになっています。これによって、無限の分割と同時に無限の連続が起きるわけです。

 

他方、この「番号」と「量」という概念は頭の中には存在しています。そしてそこがまたミソになります。現代の量子物理学では、「完全なる剛体」と「連続性のある量」は同じものの「変化した姿」であることが証明されています(量子力学)。

 

しかしこのような問いを設定するとき、私たちは「完全なる剛体」と「無限分割可能な量体」を頭の中に設定せざるを得ません。そして「設定せざるを得ない」ということは、我々が思考の中では、現実に存在しない「完全なる剛体」と「無限分割可能な量体」を想像し得ているということになります(「無限分割可能な量体」もまた、現実には存在していないことが分かります、というよりも、無限分割可能ということは、無限大の量を持つ必要があるのでしょうか?どう認識してよいかさえ、実は難しいのかも知れません)。

 

故に、ここにきていえるのは、人間が思考の中で理解しうることは、現実にはないような「完全なる概念」として設定しうるということにもなります。思考の中には存在しているわけです。

 

だからアキレスとカメのように、現実世界に投射せず、机上の論理で考えると、人は人間の「思考の世界」が持つ「完全性」にとらわれ、現実が理解できなくなるのです。

 

逆にいえば、「頭の中で考えていること」と「現実に表れている現象」は別の流儀で存在しているということです。

 

仮に数字の「1」について考えてみます。数える場合の「1」です。

 

豆腐が1丁あります(便宜上1個と考えます)。しかし豆腐はもろく、「1」という個体を保つことは簡単ではありません。持ち上げてしまえば崩れてしまうかもしれません。そういう意味では、我々の生活圏内では、豆腐1個という状態を保つのは簡単ではありません。

 

しかしボウリングの玉1個であればどうでしょう。これは簡単には崩れません。この場合、我々は数える意味での数字の「1」という概念自体、維持しやすいことになります。

 

しかしもっといえばボウリングの玉でさえ、強力な力を加えれば「割る」こともできます。そうなってくると、数える場合の意味での数字の「1」という概念は完全には通用しません。