フョードル・ドストエフスキー6 |  ヒマジンノ国

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ドストエフスキーの小説には「予言的」といわれる側面がある。地下室の手記で描かれているような「地下の住人」は、インテリゲンチャの出現と合わせて登場した、「自意識過剰の人々」を明確に描いている。

 

「外」の世界に触れることなく暮らそうと思えばできる現代だが、それは一つ間違えれば、人生の大事な時期を、何の挫折を知ることもなく、生きていくことになるかもしれないということを、示してもいる。

 

それは単に、「気位」だけが高く、協調性のない人間を作ってしまうことにもなりかねない。現代に起きる「引きこもり」の人々の中にはもしかしたら、このドストエフスキーの描く人物像に「自分自身」を発見するのかもしれない。

 

自分もまた、学生時代にドストエフスキーの「罪と罰」を読んで、衝撃を受けた者の1人だ。

 

現実を知らない人が、時に自分を「優れた人間」と考えたがる理由を、ラスコーリニコフは見事にいい当てている。

 

少し話はずれるが、実際、今の日本社会は大事な青年期を学生生活で、観念的な「学問」をさせて過ごさせる。それはもしかしたら「現実的な世界」を知らない人間を大量に作っている可能性がある、といえるのかもしれない。

 

彼らは自然と、頭で何事も考える癖がつき、実感を待たないまま大人になっていくという可能性がある。そして実感を持たない人間はおそらく現実を怖がるようになるだろう。

 

戦前(第2次世界大戦前のこと)は本当に勉強などしたくない人間なら、12、3歳程度で社会に出て、働かざるを得なかった。大学などに行くというのなら、本当に「勉強」ができる人間である必要があった。だが、今は技術的に試験さえ通ることができれば、本当に必要でなくとも、大学まで行くことができる(経済的な問題もありますが)。このような人間は、ドストエフスキーにいわせれば「知恵のある獣」になりやすい、ということだろう(偏見であることは承知しています)。

 

人間が生きる、ということは「頭で考えて生きる」ということ「のみ」ではない。確かに「頭で考えること」も必要だ。しかし「頭で考える」だけでは何事も成就しない。その上、同時に「現実を避ける」ようになると、「何かうまい考え」を見つけ出して、それで生きていこうとする(行動せずに)ようになる。これは詐欺師とか泥棒にも似た考え方に、近づき易くはなりはしないのか・・・?

 

「獣」とは「楽をして生きよう」、つまり「困難を避けて生きようとする」人間の性をいっている。そして、それが上手くいくようになってしまうと、自然と人間は動物的になっていくものだ。

 

こうした人間が巷にあふれていくこと、若者に増えていくことを心配していたのが、ドストエフスキーだった。

 

そしてそのような人間社会の行く先を、「カラマーゾフの兄弟」の中の「大審問官」で語っているわけである。

 

今日的にいえば、「大審問官」は第2次世界大戦で明らかになったように、「ファシズム」の到来を予言していたといわれている。

 

この「世知辛い世の中」で人々は絶望し、人間性の獲得をやめてしまう。「とにかく生きることさえできればいい」という一群の人たちに対して現れるのが、ラスコーリニコフがそのまま挫折もせず成長したような、例の「大審問官」である。彼は狡猾で、その道においては、経験が豊富だ。だから、人々の「望み」を熟知している(つまり、ラスコーリニコフが嫌がった、スヴィドリガイロフのように)。

 

人間は「責任」など負いたくないのである。それをまとめて引き受けてくれる人がいれば、多くの人は、喜んで自分を投げ出すだろう。

 

独裁者や、英雄と呼ばれるもの、または自分の信じ切った国家体制に対して、人々は自己の判断を投げ出してしまう。その時に何が起こるのかいといえば、人間の「獣性」の覚醒であり、責任の転嫁である。

 

自分が「正しい」かどうかを自分で客観的に見られぬ人にとってみると、彼らが望んでいるのはそんな自分を、「正しい」としてくれる「偶像」なのである。そしてそのことを知っている「支配者」は、それを自ら買って出るのである。

 

つまりここでいう「ファシズム」というのは、個々の人間の怠惰が呼び起こす、独裁制ということになる(言葉上の「ファシズム」でなくて、その原因の根幹にあるもの、という意味において)。それは共産主義でも、資本主義でも、いわゆるファシズムでも、どのような主義やイデオロギーに関わらず、条件さえ整えば現れてくる、人間の背徳への崇拝と一致するだろう。

 

そして時代を追うごとに人類は、大多数の人々が、その傾向を徐々に強めているのだと、大審問官の寓話は語っているのだ(これは、単純に主義、主張では断罪できないし、より分けられないことである。つまり、主義主張は、その正当性を欠くのなら、人間の背徳への志向への、隠れ蓑でしかないということだ)。

 

ドストエフスキーは1881年に亡くなった。まだ世界戦争が起こる前であった。20世紀に入り、ドストエフスキーの文学で描かれた内容は「現実」として表れてきた。

 

それは我々が今生きている社会の隅々に蔓延している、利己主義を正確に描写しており、それがとどのつまり人間の、「獣性」に結びつことであり、反対にそれを克服することが人間の「神性」に結びついていくことを、看過しているといって良いと思う。

 

私たちが何を基準に生きるか、それがひどく重要な問題である。「神性」なのか「獣性」なのか?文章だけでここまで人間の内部に内在する価値観を、はっきりと書いた作家は彼しかいない。

 

そのため、彼の小説を読む者は一時的に精神を、病むのかもしれない。しかし、それは逆にいえばその読者が、人間の「神性」というべき資質に気づいた瞬間ともいえる。

 

打算的でなく、狡猾でもない、いわゆる「普通の人間」にこそ、その「神性」ともいうべきものはある。ドストエフスキーの小説はそのことを明確に示しているといって、過言ではないといえるだろう。