まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい -155ページ目

『横取り』してきた『贈りもの』

今日、仕事仲間から、
素敵な贈りものをいただきました (*^-^*)


いえ、
正確に申し上げますと、
『横取り』してきました (笑)


別の仕事仲間が、いろいろあって、
少し、落ち込んでいました。


そうしたら、仲間みんなが、
寄り添ってきて・・・・・


ひとりじゃないって・・・・・
自分のペースで、
『楽しんで』『やる』


仕事は、それで、大丈夫!!


って (*^-^*)


その中に、こんな言葉がありました。


私向けに発信されたわけではないけれど、
メッセージが前を通ったとき、
さっと、自分のポッケに、いれました。


あなたの職場で、
あなたが落ち込んだとき、
こんなメッセージ、
何通来ますか?


私は、この仕事に出会えて
本当に、よかった ♪♪♪


その、メッセージ、ちょっと、ポッケから・・・ (*^-^*)
       
      
         ↓↓↓


●成功を信じてくれる人のために、成功しなければならない!

●成功を信じてくれない人のために、成功しなければならない!



(Happy 名語録 から)

●幸せを手に入れるんじゃない。
幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ


ポッケが、熱くなってきた!!

どうして20歳からおとな?

どうして20歳からおとな?


これは、前回の記事でアップした、
小学4年生の娘からの質問、


『ひとは、いつから、おとなになるのか』


に、続いてきた質問。


文章にまとめるため、
回答は、翌日回しとなった(笑)


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆


今の日本では、
被選挙権(ひせんきょけん)を除(のぞ)くと、
すべての市民的権利(けんり)と義務が、
満年齢20歳で、
すべての人に与えられる。


つまり、
自分の心と体と行動(と財産も)を
法(ほう)と正義の下(もと)で、
すべて自分で管理する権利と義務が与えられる。


『おとな』になるのだ。


法と正義の下である理由は、
この権利は法と正義の下でしか存在できず、
また、庇護(ひご)されないものだからだ。


法と正義の庇護がなければ、
弱いものは強いものに踏み潰されてしまう。


自分が不当に踏み潰されないためにも、
法と正義の下であることを
強く認識(にんしき)して、
『おとな』の権利を行使(こうし)しなければならない。


もっとも、
この法と正義は、
最低限、民主主義の下でしか、正しく機能しない。


民主主義でしか、
法と正義を正しく護(まも)ることができないということだ。


この民主主義というシステムも、
『最高!』とは言い難(がた)いが、
確実に言えることは、
今のところ他のシステムよりは『マシ』ということだ。


前述(ぜんじゅつ)の権利と義務によって、
まだ小さいからといって『だめ!』
と言われることもなくなるが、


まだ小さいから『しかたない』
と許されることもなくなる。


また、このくらいの年齢までで、
自然な肉体的成長がほぼ終わりを告げ、


精神的には、
個々人(ここじん)の価値(かち)基準(きじゅん)の大もとが
固まってくる、
と考えられている。


人間は、その後も精神的にどんどん成長を続けていくが、
自分が生きていく上で、何を大切にしていくか、
という価値基準の根本(こんぽん)は、
この頃までに受けた教育や生活環境に基(もと)づく経験を通して、
かなり固まってきており、
その後の生き方に大きく影響を与え続ける。


『人生』は変遷(へんせん)をし続けるが、
『生き方』はこの頃までにほぼ決まるということだ。


勿論(もちろん)、例外は存在し続けるが、
個々人の『生き方』がそろそろ固まってきた、
このころを以(も)って一人前の『おとな』
と定(さだ)めたものだ。

ひとは、いつ、おとなになるのか

□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


ひとは、いつ、おとなになるのか


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■


ひとは、いつ、おとなになるのか


上の娘が小学校4年生のときに、
尋ねてきた。


3時間、自分と向き合って、
次のように答えた。


小学校4年生向けだったので、
ルビは、ご愛嬌。


内容は、今、彼女が、わからなくてもいい。
大人になって、思い出せば、それでいい。
と思い、綴ったもの。


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆


自分の都合が判断基準に反映(はんえい)しなくなった時。


法と正義を基準に行動できるようになった時。


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆


勿論、人間が生き物である以上、
自(みずか)らの生命・人体に危機を感じる場合だけは、
自分の都合を優先させることを以って、
おとなであることは否定(ひてい)されない。


これは法や正義でも許容(きょよう)していることであるが、
視野(しや)の狭(せま)いものは、すぐにこれを忘れる。


それに比べれば些末(さまつ)なことにあたる、
地位や名誉(めいよ)や財産、面子(めんつ)などは、
判断基準に反映するな。


特に自分のそれらは。


本来、地位や名誉や財産、面子など、
おとな以外が持つべきものではない。


『おとな』だからこそ、
地位や名誉や財産などが、
備(そな)わる社会でありたい。


これは理想論(ろん)過(す)ぎるか。


しかし、
ひとたび生活の全てを投げうってでも
正義を通した人を見たら、助けてあげよう。
少なくとも、骨を拾ってやろう。


また、ここでいう『法』とは、
過去(かこ)数百年の常識を鑑(かんが)みたもの、
『正義』とは、今、この地における良識の集合体でありたい。


今の日本では
被選挙権(ひせんきょけん)を除(のぞ)くと、
すべての市民的権利(けんり)と義務が、
満年齢20歳で、
すべての人に与えられる。


これには賛成(さんせい)するが、


これを以って、
『おとな』とするは
甚(はなは)だしき悪(あく)平等(びょうどう)と心得(こころえ)よ。

幸せの基準

□■□■□

幸せの基準

□■□■□


私の幸せの基準


家族みんなが毎日3回、飯を食えて、
子供が靴磨きの仕事もせずに
元気に学校へ通っていること。


これだけです。


そのほかに、くっついてきているものは、
たまたま今、くっついてきているだけで、
明日には、なくなっちゃうかも。


まあ、しかたないか。くらいです。


この基準なら、
とりあえず、私、今、毎日幸せです。


まあ!謙虚な基準。
と思った日本人は多いのでしょう。


でもよく考えてみてください。


世界の中では、どれくらいの人々が、
毎日3回飯を食えるかご存知ですか。


ある統計によれば、15%程度だとのこと。


その中で、さらにわが子に生活費稼ぎもさせずに、
学校へ(それも元気に)通わせることができるなんて、
どれほどわずかな確率でしょう。


ご自身の学校の成績を思い出してください。
どれほどの努力をしたかを思い出してみてください。


学歴偏重しているわけではありません。
ただ、ひとつの喩えとして申し上げているまでです。


あなたは上位数%のところにいらっしゃいましたか?


確かに、日本人として生まれれば、
上記のような幸せの基準は低くみえるかもしれません。


でも、周りの国々の人の声が聞こえませんか。


私は子供のころから、仕事の合間に必死に勉強した。
成績だってすごく良かった。
おかげで自国では、まだ、ましなほうだけれど、
日本で生まれてさえいたら。って。


ちなみに、上記の統計によりますと、
今日、1度くらいは食事にありつけそうだという人は、
全体の45%程度、


あとの人たちは、
たぶん、今日は食べられない、
という確率の高い人だそうです。


あなたが不幸せな理由?
まだわからないの?


『侘び』『寂び』の文化

『侘び』『寂び』の文化


最近、どうも、『詫び』『錆び』の文化に
なっていると思わないですか?


どうなっちゃうんだろう???

なって欲しいあなた

なって欲しいあなた


成人式を間近に控えたあなたに伝えたかった言葉です。


今のあなたには少し難しいかな。


一言で言うと、
『一筋縄ではいかない人』になって欲しい。


繊細な心配りをする大胆なひと。
根性論の科学者。
保守的な道徳心を大切にする進取の精神の持ち主。
怒りっぽいのに、『優しい』って言われるひと。
優しいのに『厳しい』って言われるひと。
知的なのに『馬鹿』になれるひと。
機敏なのにゆっくりしているひと。
計算高いのに情にもろいひと。
勝ち負けにこだわらない勝負師。
失敗をおそれない堅実派。
理想を追い求めるリアリスト。
厳格なのに融通無碍なひと。


数え上げたらきりがない。

求め始めたらきりがない。

せめて、
ひとから、陰でこっそりでも、
『ありがとう』って、言ってもらえるひとになれ。


これが一番難しいかな。

「ねぇ、おとうさん、サンタクロースって」

娘が、小学校2年生のときに、
訊いて来た、質問。


そして、そのときの、私の回答。


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆


「ねぇ、おとうさん、」


「んん?」


「サンタクロースって、ほんとうにいるの?」


「いるよ。」


「ほんとう?」


「うん。でも、サンタさんはひとりじゃないんだ。」


「その子にとってね…。
サンタさんというのは、
その子のことをとっても大事に思っていて、
その子も、とっても大切に思っている人のことなんだよ。」


「今の玲子なら、おとうさんとおかあさんかな。」


「玲子のサンタさんは、玲子のことが大切だから、
玲子がいい子だとうれしいんだよ。」


「だから、やさしくて、人から大切にされる子が、
とっても大切にしている人の数だけ、
サンタクロースはいるんだと思うよ。」


「それに大切に思っているどうしだから、
いつも一緒にいたいと思っていて、
それがかなうなら、いつもできるだけ近くにいるもんなんだよ。」


「だから、空を飛ぶソリも、
暖かい赤い服もいらないサンタさんがいっぱいいるんだよ。」


「でもね、いろいろなことがあって、
大切な人の近くにいられない人もいるんだよ。
その人たちの、やさしくて、せつない気持ちが
空を飛ぶサンタクロースになったんだと思うよ。」


「おとうさんは『あっ、この人サンタさんだな!』
っていう人をいっぱい見たことあるよ。」


「でも、トナカイのひくソリで空を飛んでいるサンタクロースは
目をつむらないと見えないんだよ。」

「自販機の横には分別の回収箱を」を読ませていただいて

2003年10月7日の読売新聞の「気流」欄に
「自販機の横には分別の回収箱を」


という記事があった。


子供の純真な目から見て、
自動販売機のまわりに散乱する空き缶をみて、
「自販機の横には分別の回収箱を」
と思われたのであろう。


すばらしい子供である。
未来に、明るさを感じる。


ただし、社会を運営していく『技術』は
全く欠落している。


当たり前ではあるが。


よって、当事者として、
下記の投稿をさせていただいた。


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°


私は家の前に自販機を置き、管理をしている者です。


管理者としても、一消費者としても、思います。
本当に記事のようにしてやっていける日が来るといいですね。


でも、私のところでは、一切の回収箱を設置していません。


理由をあげます。


多くの善良な方々が分別してくださっていても、
わずかな心ない者の
残飯、たばこ、電池、ゴムぞうりなどの投げ入れによって、
全てが不衛生なゴミと化してしまう。


上記を再度分別するだけのインフラは、
零細の小売店頭管理者のためには用意されていない。
(自前でやるだけの経費も粗利の中には想定されていない)


火をきちんと消していないたばこを投げ入れられて、
ボヤが起きた。 という事実。


割れたガラスを入れられて、回収の際に大怪我をした。
という事実。(被害者が、従業員でなく、私で、よかったが)


これらの危険を冒してまで
ゴミ回収箱を設置、回収をしていることに
世間様の理解(感謝の念)は得られていない。


全てがゴミになるくらいなら、
善良なる方が購入なさったものだけでも
リサイクル等に回ったほうが良いと考える。


などです。


結果として、心ない者が、
自販機の前に空き缶等を置き去りにしていきますが、
気が付くたびにこちらで回収してリサイクルに回しています。


心苦しいのですが、
どこか、遠くで、
ポイ捨てされていることもあるのでしょう。


一消費者としては、
近くにあり、便利に利用できる自販機ですが、
ポイ捨てに対し、
法的に厳罰をもって処しても、目に余るようであれば、
自販機は、その社会において存在できないものとなるのでしょう。


まずは


ポイ捨てに対し、法的に厳罰をもって望めるように法改正をする。


危険で、継続可能な開発型社会にも反するので、
自販機の脇には回収箱を置いては『いけない』。


そのかわり、一日に数回、
店頭巡回、ごみ回収ができない場所には
自販機設置を認めない。
(これで、実は多くの自販機が、『撤去』となることは、
 想像できるでしょうが)


リサイクルゴミをきちんと分別して出す市民や企業の負担減、
循環できないゴミを出した市民や企業の負担増。


などのルール(上記はたいへん大枠ですが)を
作っていかなければなりません。


それでも駄目な社会なら、
販売者としては辛いことですが、
自販機は社会変化への対応に遅れ、
使命を終えたものと判断せざるを得ません。


皆が便利に商品を手にすることができる世の中を維持するためには、
上記のルール以外にはないと信じています。


よい世の中になって欲しいものです。


そのために現場を知る者としての私ができることとして、
これを提案します。


気流に載せられる文字数でないことは、
充分承知の上、信じるところを述べました。


貴紙の所見だけでも伺いたいものです。


*・'°☆。.:*:・'☆'・:*:.。.:*:・'°:*:・'°☆*・'°☆


と。


約4年の歳月が流れたが、
読売新聞は、一度も、『所見』を表明してこない。


読売新聞に関わる方が、いらっしゃって、
不愉快な思いをなされるかもしれないですが、
あえて、申し上げます。


知識も知恵も情報量も、たいしたものなのでしょうが、
たいしたことのない人の集まりに、みえますよ!


と。


反論なら、聞いてみたい。

新型サイバーナイフ全機回収に思うこと

2005年8月


申請手続きに問題のあった、
新型サイバーナイフが、
医療機関の現場より、
全機回収、撤去が行われた。


今日、明日、
命に関わる手術を執刀しなければならない、
そんな、環境の中で。


申請手続きのトラブル、
というだけで。


これは
「法と正義との間に歪みが生じた場合、
その社会は、いかに対応すべきか。」
という問題である。


民主主義法治国家の社会の一員としては、
平生は、法を守り、
後に、ないしは、同時に、
正義に基づいた法への改正を請願する
というのが正しい姿であろう。


しかし、危機においては、
法と正義では、
正義のほうが上位規範であることを
肝に銘じなければならない。


なぜなら、
法とは、過去100年程度の常識の平均であり、
正義とは、今、この時代、この場所、の常識だからだ。


そして、危機の時とは、
当該事項に関して、
特段の知識があるわけでもない一般市民でさえも
「このままではまずいことになるぞ。」
と感じる時である。


日本は人治国家ではないのだから、
そんな危機の時こそ、
主権者の名代たる政治家や
国家権力を後盾とした行政官の
想像力や判断力の問われる場面である。


待ったなしの患者を抱えて、
旧型のものより優秀な新型サイバーナイフを
全機回収は、『ない』だろう。


たとえ、
申請ミスで、法的には不当であっても、
権力側の対処方法は間違っている。


主権者である国民に
不正義なる医療機器が使われることのないように
厚生労働省が責任をもって監視してくれていることは、
ありがたい。


しかし、患者のことを考えれば、


当該医療機器に関し、
許可がおりるまでは主権者である患者が
結果責任を全て負うことを条件に、
継続使用への道を探り、


無事許可がおりたら、
今回の事態に限り、
諸事、
許可が事前におりていたものと同様に扱う、
など、
「主権者のために」
を、第一義的に発想して、
判断してもらいたいものだ。

どうも、西洋の法律を
噛み砕くことなく輸入した我が国では、
非遡及原則について、
いささか履き違えてみえるほど愚直である。


申請ミスをした輸入元等には
患者に迷惑のかからない時期と方法で
法は法として充分に処分すればよい。


生命、人体、に影響を及ぼさない、
と考えられる食品添加物問題を
あれだけの大事件として取扱い、


結果、
多くの食品を廃棄させ
(世界には今日も餓死した子供たちがいるというのに)、


かたや、
フェロシアン化物は、
諸外国からの批判を避けるため、
どこからも使用許可申請がでていないのに
使用許可を出している。


国内のどこからも、
科学的データの蓄積と解析の報告も申請もなしに、
行政は、許可している。


厚生労働省は、誰のために働いているのだ。
官庁の面子か、職員のことなかれか。


同省職員の家族の中にでも
サイバーナイフで
直ちに治療をする必要のある患者でもいない限り
想像力も働かないのか。


改正食品衛生法にもあるように、
広くパブリックコメントを求める義務が
この場合にもあるだろう。

『名誉教授』と『教授』、どっちが偉い?

読売新聞2002年8月16日夕刊
よみうり寸評を読ませていただいて


御仁が、『名誉教授』の職を、
受ける、受けない、って、駄々こねています。


『名誉教授』と『教授』、どっちが偉い?


普通は、『名誉教授』を、

『誉れ高き名声を持ち合わせた、最上級の教授』

と、『読み取る』のでしょう?


でも、『名誉教授』の実態は、


『名誉』だけは『教授』待遇にしてもいいけれど、
報酬や発言権はそこまでいかないよ。


だって、あなた、もう、過去の人だもの。


最近、あなたの過去の栄光に惑わされないで
『素晴らしい』と評されている研究発表ありましたっけ。


そろそろ後進に、
『あなたの【過去の栄光】の研究成果』
を伝える『お役目に専念する』こと
を頼みますよ。


もう、専門家なら誰でも出来ますが、
『あなた』が伝えると、
まだ半人前の後進はありがたく聞き入りますから。


あっ、でも、
現在や未来の本学舎の方針には口出ししないで下さいね。
だって、あなた、
最近の研究結果、追いかけきれていないでしょう?


ということではないかしら。


私は、そう考えているんですが(笑)。


みなさんは、どうお考えでしょうかね?


先の御仁も、『名誉教授』なんて、
『教授』より、評価低いじゃないか!!


と、怒っているのなら、
よくわかるんだけれど、


『名誉教授』に対する『ケチ』のつけ方で、
所詮、『教授』よりも『名誉教授』の方を
高評価しているところがお笑い種ですね。


大の大人になって、
他人様に評価されて、
いただくものに『ケチ』つけているようではいけませんよ。


ご自身が評価する身にならなけりゃ。


ご自身が、ご自身に、
金メダルでも、なんとか賞でも、なんとか章でも、
くれてあげればいいのです。
その価値は本人様が一番よくご存知でしょ。


それを自分にあげられない人が、
たまたま『評価する身』と称される他人の好みに合ってしまうと
悲劇が起きるのです。


『教授』よりも『名誉教授』の方が偉そうだ
と思う固定概念に捕らわれているうちは、
たいしたことないですよ。


そんな程度の御仁なら、
ありがたく、

『受けておきなさいよ。』

『名誉教授』


あっ、読者の皆さん、
意味不明になってしまいましたね!


ここから先、知りたい方は、
『読売新聞2002年8月16日夕刊よみうり寸評』

を、取り寄せてくださいね。


この記事は、
この御仁を高く評価し、
『名誉教授』を受けない彼を
高く評価している、『寸評』の筆者あてに
読者投稿したものの一部。


せめて、投稿を『読みました』
くらい、返信すれば良いのに。


どう、評価するかは、別にして。


マスメディアって言うやつは、
自分を何様だと思っているのかねぇ?


了見狭い!


って、
ネガティブな意見のつもりは
ないんですけれども (笑)


負け犬の遠吠え(笑)