まわりから『ありがとう』と言われて、生きていきたい
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可変式センサー搭載の繊細さん^_^

最近、流行りの『繊細さん』

少し、気づくことがあった。

 

私に対しての周りからの評価は、しばしば、『堅い』。

出遭って、37年を超え、今も仲良しの妻をはじめとして、

家族からの評価は、『融通無碍』

自身の評価は『融通無碍』

 

同じ事柄に対しても、時と場合によって、

『堅さ』のレベルを調整する。

関わる人の満足度が最大になるように。

 

ときに敏感に。

ときには、鈍感力を発揮して。

 

芯に秘めることは、公平さ。

 

法や正義に基づいて、

関わる人が公平に扱われることを大切にしている。

『チカラ』関係でねじ伏せることも、

ねじ伏せられることも大嫌い。

 

とは言え、

『力のない正義には半文の価値もない』

これも、受け入れざるを得まい。

 

でも、自分は、これを絶対に使わない。

力のない者の言葉にも、公平に耳を傾ける。

むしろ、誠実さの足りない者の言葉には(๑>◡<๑)

 

私のどんな側面が、目に留まったか…

 

それによって、評価が真っ逆さまに違うのだろう。

 

『言語化』してみた。

自分をさらに理解するためにも。

She passed away when she was 46...

I just found “ひこうき雲 sing by はいだしょうこ” on YouTube.
I’d had a melancholic heart to listen to that.

My mother passed away when I was 27,it was when my father was 58...
Now I’m 58,and my elder daughter is 27...
Fortunately my wife is fine.
How happy I am!
I say thank you for all!

Then, thinking about the heart of my father at that time...I can’t guess...or can’t express what he felt by any words that I know...
More than words can say...
I really appreciate that all my family members are fine now.
My daughter and I become “the same age”...with keeping our health!
Mom...Dad... I’ve been enjoying my life.
Thank you, thank you for everything.

世界で2番のキミへ

試合に敗れて、ふてくされないで。
試合に敗れて、ふてくされることのできるキミたちは、幸せなんだよ。
敗れて、ふてくされたり、大声をあげて泣ける舞台を与えられているのだから。
(それは、その試合が予選の予選の、そのまた、予選の1回戦負けだとしても同じこと)

年をとって、『あの時の試合は。。。』
と、今や老いふけり、筋肉の落ちた腕でクラスを持ち、
同じ顔をした往年のライバルと酒を酌み交わすことができるのだから。

観客席で応援することになった補欠では、そうも、行かない。
彼らは、大声で泣くことができない。
舞台にあがることができなかったのだから。

自分のチームの敗北と、最後まで舞台にあがることのできなかった自分と。
ふたつの悲しみをこらえて尚、人前で大声を張り上げて泣く自己主張を与えられていないのだ。

選ばれしスポーツ選手と呼ばれる世の若者たちよ。
試合に敗れて、彼らの前で大声で泣くな。
ましてや、ふてくされるな。

泣きはらした真っ赤な目はあることだろう。
キミたちは自ら戦い、敗れた。
出場した者にしかわからない深い悲しみがあろう。

それでも、舞台に立てなかった者に、
照れ笑いをしながらでも、
『負けちゃったナ』
って、声をかけてくれよ。

そしたら、
『遊びに行こうか!』
って、肩をたたいて誘うからさァ。

舞台に立てなかった彼らは、
この日、出場したメンバーと遊んだひとときを一生大切にするさ。
もしかしたら、試合内容以上に忘れられないものかもしれない。

出場者にとっては、その試合は青春の輝かしい一場面かもしれない。
翻って彼らは、年老いても、その日の試合を自分の体験として話す口を持っていない。

一緒に遊んだその思い出が、ずっと、いい思い出であるように。
ふてくされたら、台無しだよ。
彼らだって、共に戦い抜いたのだから。


ここでの『補欠』とは、もちろん、同じチームの。。。でもあり、
世界の頂点を決める決勝戦を目指したが出場することの叶わなかった、すべてのプレイヤー・スタッフをも念頭にしています。

 

支援者に届ける言葉は『ありがとう』のはずだ

近年の理系のノーベル賞受賞者(日本人)が、社会科学というものを全く知らないことに憤りを感じる。

投資回収に関する公平性について、これほどまでに不見識であることに、いささか鼻白む。

研究結果に対する金銭的要求についてだ。

受賞者さん、よかったね。
研究結果が花開いて。

でもさ、花開いた研究結果について、その研究が、まだ、海のものとも山のものともわからないうちから、あなたの生活費まで丸抱えで支えてくれたんでしょ⁉️その支援企業は。

その投資をしてくれた企業に対して、研究がうまくいったから、金よこせ⁉️

いいよ…
もし、本当に、あなたが、研究を始めた際に、企業と約束していたのならば。

もし、研究が、うまくいかなかったら、支援してくれた全ての経費を返済します…と。

うまくいかなくても、研究費は返さないけれど、うまくいったら、『たんまり頂戴』って…投資の世界では、あり得ない発言だよ。

ノーベル賞受賞が、自分たち研究者の成果だと思わない方がいい。

少なくても、研究結果は支援企業のものだ。

そうでなければ、どうして未来投資ができるんだ⁉️

『金よこせ』が、産声をあげるかどうかの頃から、オシメの取り替えまでしてくれた支援者に、いう言葉かね⁉️

見苦しいよ。

支援者に、語りかける言葉は
『ありがとうございます』
だろ‼️

なぜ、僕は投資家の道を歩んでいるのだろう

僕がロバート・キヨサキの本を読んだのは、そんなに昔のことではありません。
10年くらい前だと思います。

30年ほど前になるかしら。
学校の見知らぬ後輩からの電話。
卒論向けのデータ採りアンケート。
質問は
『バブル崩壊によって、余剰となった資金は投資に流れると思うか?』
でした。

この質問に対する僕の回答は、ずっと以前に記事にした記憶があります。

今思えば、あの頃から、投資に対する基本的な考え方は、変わっていない気がします。

ロバート・キヨサキを読んだとき、たくさんの点で、共鳴しました。

それまで、僕がやってきたこととオーバーラップすることが、わかりやすく説明されていたから。

そして、それでも、ちゃんと理解できなかった部分がありました。

9年前は『相手の発する言葉で、この人のクワドラントが、わかる』という話を信じられなかったし…
(笑)

2年前まで、ビジネスオーナーと投資家の違いを明確に説明できる僕ではなかったから。

4年前、ビジネスオーナーとして成功している人から言われた言葉があります。

『私の前職は、会社の雇われ取締役。所詮、中間管理職だったから。あなたは、社長さんなんだよね〜』

って。

めっちゃ違和感が、ありました。

子どもの頃から、
『社長にだけはなりたくない』
と思っていたから…

大変でしょ?
『社長さん』って。

子ども心にも、
『なるのならば、ビジネスオーナーだ』
って思っていました。

だから、わからなかったんです。
ビジネスオーナーと投資家の違い。

5年3ヶ月のサラリーマン生活。
独立して22年間の『社長さん』生活。
今は、ビジネスオーナーをちょっとと投資家生活。

どうやら…という感じて、明確に区別できるようになったのは、ホント、この2年くらい。

先日、質問されたので、クワドラントの違いを僕なりに、まとめてみました。

備忘録として書き留めておくことにしました。

Employee

いつ、どこで、誰とともに働き、いくらの報酬を受け取るのかを自分で決められない現状を、当然のこととして受け入れ、または、やむなきこととして自身を納得させている人。

会社の提供している福利厚生や経済的な保証に関心が強いが、収入、所得、キャッシュフローの違いを明確には区別しないまま生活している。

年収、待遇、労働環境、休みの日などの言葉を使う。

つきまとい、克服しなければならない恐怖は、漠然とした、そして、とどまることのない今以降への不安感。

会社の倒産から解雇まで、本当は、一番不安定なポジションにいるが、そのことに気づかないでいることも多い。

働けば、賃金はもらえることが当然であると信じて疑わないが、老後の生活への不安は、薄々感じている。

Self employee

自分の能力に自信を持ち、自らの手で開拓をしていくことに強い誇りを持つ人。

他人と時間給を比べて、自らの時間給の高さに優越感を感じたりする。

高い表彰台で、公衆の面前で、表彰を受けることに強い喜びを感じる。

1番であることには、こだわる。

自分の組織の中では、ポジションも技術もトップ。

経済的に豊かになれば、なるほどに、時間的な自由を失いがちだが、高いステージに立ち続けて、人からの賞賛を受け続けていられる派手な立場にいられれば、精神を病みにくい。

よく、『忙しくて、ありがたい』と言う。

本当は、少し、人に任せて、休めたら…とも思うが、信じて任せて失敗したとき、顧客からの信頼を取り戻すことが大変なので、どうしても任せきれず、自ら現場に戻ってしまう。

言葉が外圧的。

相手を負かすことを意味する言葉でも平然と疑いなく使ってしまう。

歳を重ねた結果、全てを失う人も多い。

つきまとい、克服しなければならない恐怖は負けること。

相手を負かしてでも自分が勝つことは、やむなきことと思う。

売買差益、コミッションという言葉を使う。

『売り抜けた』『いくら儲かった』という言葉を使う。

本当は、時間的な自由が欲しかったとしても、どうやら経済的自由を犠牲にしない限り、手にできないことを薄々感じているが、そこは見ないことにして目を背けている。

Business owner

能力のある人の能力を活用することで成功するビジネスモデルを創造できる人。

『この人のためならば』と感じさせるなにかを持っている。

小さな元手で、大きく稼げる可能性を探り出す能力がある。

つきまとい、克服しなければならない恐怖は人材不足。

いつも、能力のある人を探している。

能力のある人を見いだし続けられるシステムまでを構築できたら、BとしてまるでSのようにステージに立ち続けて賞賛を得続けたい欲求の人と、Iとして、有名税を支払うことなく、ひっそりと大金持ちを楽しみたい人に分かれる。

Investor

Bが創り出したプラットホームの先に確実なマーケットが見えたとき、Bの提供する商品を買ってみる人。

リバレッジや時間を味方にする時空認識に長け、マネーリテラシーが高い。

『ちょっと違和感があるんだよね』
という言葉を使う。

つきまとい、克服しなければならない恐怖は莫大な借金。

いつも、内部収益率と最悪の状況下での投資の出口をマネジメントできるかどうかに注目している。

インカムゲイン、パッシブインカムという言葉を使う。

有名税を支払う状況を居心地が悪いと感じ、肩書きを持つことも嫌う、選択の自由をこよなく愛する隠れた大金持ち。

事業を立ち上げるような才能はなく、むしろ凡庸で怠惰な自分を知るからこそ、この道を選んだのだろう、と薄々感じている。

住宅難民。。。善良な人々を守るために本当に必要なルール

生活に困窮している人や、ご高齢の方、シングルマザーが

住宅費用に収入の多くを占められて困っている。

日本の政策に課題があるのでは?

 

というステートメントがあった。

 

大家の立場として、大いに『課題』に共鳴する。

 

ただし、この課題は

『異常なほどのテナント保護ルールに始まっている』

ことに気づいてほしい。

 

大半のテナントさんは、いい人たちだ。

大半の大家も、いい人たちだ。

 

もちろん、ごく一部の『無茶な当事者の乱暴な利己主義』から、

善良な人々を守るためにできている不動産賃貸の各種ルールであることは理解する。

 

けれども、現行ルールは、善良な人を犠牲にしている。

 

何でもかんでも、費用は全て『大家持ち』。

ところが、費用を持たされているのは大家にもかかわらず、

『いざ、権利行使』と思っても、

実際には、ほとんど、なにも行使できない。

ルールに縛られて。

 

丁寧に部屋を使ってくださっていれば、原状回復費用も安い。

 

でも、今は、丁寧に使おうが、荒っぽく使おうが、

原則、全部、大家の負担で、原状回復だ。

 

当然、酷い使い方をするテナントさんが増えてくる。

 

丁寧に使ってくださる大半の善良なテナントさんにも、

『荒っぽいテナントさん』の分の費用が按分して計上される。

 

是非を問わず、これは経済行為として、当たり前だ。

 

家賃滞納が恒常化しても、退去してもらうための手続きに、

とんでもない費用がかかる。

 

これも、長期的に見れば、

善良なテナントさんに、平たく経費按分される。

 

善良なテナントさん、善良な大家が、

一部の『荒っぽい人』のために、割りを食っているのだ。

 

建物が古くなれば、家賃は下がっていく。

それだけで、ちゃんと経時劣化の恩恵を

大家からテナントに与えるマーケットになっている。

 

にもかかわらず、政策的に、原状回復は、

これをほぼすべて経時劣化と看做し、全部、大家負担。

 

これを『原則テナント負担』にするだけで、

部屋を丁寧に使うテナントさんは、きっと、救われる。

 

『荒っぽい人』の所業は、本来、

『荒っぽい人』の負担であるべきだ。

 

丁寧に使う善良なテナントさんの原状回復費用は安価だ。

その恩恵は、善良なテナントさんが受けるべきだ。

 

残念な政策が、

善良なテナントさんの家賃を高止まりさせている。

 

また、家賃滞納が恒常化すれば、

速やかに退居していただけるルールにすれば、

ちゃんと払ってくださる大半の善良なテナントさんは救われる。

 

もちろん、一部の荒っぽい大家の所業を制裁するルールには

大賛成だ。

 

けれども、一部の荒っぽいテナントさんのために、

ひどい仕打ちを受けている善良な大家が結構いることも

理解した方がいい。

 

善良な大家が、きちんと守られていれば、

家賃のマーケット価格は、いずれ下降することに

間違いはない。

 

一部の荒っぽいテナントさんが

『善良な大家に対してかけている無茶』までもが、

政策によって守られてしまっていることが

家賃高止まりの最大の原因なのだ。

 

善良なテナントさんこそ、

この異常な状況を創り出している政策に

異を唱えたらいいと思う。

 

お互いに責任を持ち、

テナントさんと大家の権利が対等になれば、

善良なテナントさんの家賃は

長期的には必ず下がるはずだから。

 

 

あれから4年

2014年12月24日
腰椎椎間板ヘルニアの発症原因となるオーバーワークをしてしまいました。
実際に発症したのは、26日。

あれから4年。
手術を回避して保存療法。
当時、医師から、
『4年の保存療法と手術による結果は、同じくらいだ』
と言われました。

左膝の違和感や痛み、そして、右に比べて左大腿四頭筋の弱さは、ハッキリと残っています。

そう、あの日、ジムが空いていて、
『思う存分』やっちゃったんだよなぁ…
(≧∀≦)

翌日、自分たちのFit Club
その夕方からは、ソファに座りっぱなしのミーティング。
そして、翌々日。
水槽に水を入れるために、しゃがんだら‼️
(≧∇≦)

いろいろ、後遺症は残っているけれど、今日も、ダンベルデッドリフトを予定通りできました。

守ってくださっている存在がいるのならば、感謝します。

ありがとうございます😊


この国は資本主義経済国家

ロバートキヨサキが提示したキャッシュフロークワドラント。

その4つの報酬形態に、それぞれ異なる4つのリスクがあることを『アオバのタナカキヨアキ』さんが論じていた。

あまりにも、わかりやすくて、9年間、自分には明確に説明できなかったBとIの違いに気づいた。

僕は『I』だ。

だから、Bのポジションでうまくいかないのだ。

そして、『タナカ』さんがいう『君の言葉は理解されない』からね。

という言葉をめっちゃ理解した今日だった。

豊かになるのは誰なのか。

そんなの…(笑)

飾らない

もうすぐ、57歳。

人生を、全くというほどに着飾らなくなって、

何年経つだろう。

 

素のままの自分を見ていただいて、

お相手から見えたものが、

その人にとっての私なのだろう。

 

私にとっての私は、私から見えた私だろう。

 

そして、私の満足は、私の理想が少しずつでも、

実現していっている、という感覚の中で生まれる。

 

称賛を得られれば、もちろん、感謝。

 

とはいえ、称賛を得るために、

自分の行動や感性を変えたりしない。

 

自分の理想に変化があれば、

話は別だが。

過去、学んだ実績を持ち、

その後、怠ってしまった人ほど、

自身を有能だと『勘違い』している。

 

『亀の歩み』とはいえ、

道の凹凸に難儀しながら歩き続ける人の口から、

『自身の有能』を聞くことはない。

 

歩めば歩むほど、

自身の無知に気付かされざるを得ないから。

 

自身の知らない世界や

思いも寄らぬ価値基準のあることに、

いつでも、心を馳せておく。

 

傷ついた自分を回復させることは

自身でできる範疇のものかもしれない。

 

しかしながら、

傷つけてしまった誰かの心の回復に

その本人が努めるかどうかを

傷つけてしまった人が決められるはずもない。

 

人は、『傷つけられた』。。。と言う。

 

しかしながら、実際のところ、

イジメを除けば、お互いに、

傷つけ合うやり取りをしているのだと感じる。

 

その発端が、どこにあるにせよ。。。

 

自分は傷ついてもいいから、前に進む。

などと言う言葉を聞くことがある。

 

人は、そんなに安易に人を傷つけたりしない。

 

『自分が傷ついても』などと言う

『美しそうな言葉』の陰に、

自分が傷ついた『ワケ』からは

相手を『傷つけてしまった』ことによる反撃がみえる。

 

モトは、自分かもしれないことに

気づきもしない。。。

 

誰も『傷つけないこと』。

自分が決めた自分の『正しさ』という刃で、人を切らない。

 

このところ、この手の『正しさ』で、

相手を傷つけている姿を見かける。

 

そして、決まって、遠く耳にするのは、この言葉。

 

私が『正しい』のに、

その『正しい私』が『正しい』と言っただけなのに。

 

数えきれぬほどの『正しい』と言われる価値観のある中で、

自身にとっての『正しさ』の中には、

普遍性などないものが多いのだ。

 

気づきたい。

『無知の知』に。

 

他山の石として、自身への戒めも込めて。

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