杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -2ページ目

2023年3月25日。

 

五代目・江戸家猫八さんの襲名披露興行に行ってきました!

 

会場は上野鈴本演芸場。

 

五代目猫八さんとは大学院時代の学友で、雑誌『かがり火』の連載記事で取材もさせてもらいました。

 

 

知り合った頃はまだ「そのうち小猫」さんでしたが、当時からその洞察力の深さにはいつも驚かされていました。そんな僕の大尊敬する小猫さんが、ついに猫八を襲名……!この歴史的瞬間を見逃すわけにはいかないと、さっそくチケットをゲットしたのでした。

 

 

 

寄席の時間はけっこう長丁場で、落語に漫才、奇術に曲芸など、たくさんの噺家さん、芸人さんたちが登場。めでたい席ということもあり、舞台と会場の一体感がすごかったです。

 

林家正蔵さんらテレビでも見知った師匠方も登場し、実に華やかな盛り上がり。演芸界の大御所たちも、五代目の襲名を心から祝い、応援していることが伝わってきました。

 

もちろんそれは、猫八さんの芸に対する真剣さあってこそ。そして何より、彼の芸が「本物」だということを、みなが知っているからこそでしょう。

 

猫八さんの芸をまだリアルで見たことがない方は、ぜひ演芸場に足を運んでみてください。彼のウグイスは、比喩でもなんでもなく鳥肌モノですよ。僕は何度聞いても感動してしまいます。

 

そして「感動」といえば、やっぱり五代目襲名の口上の場面。

 

師匠方の口上を聴いていると、そんなつもりは全くなかったのに、なぜか涙があふれてきました。

 

いや、師匠方はむしろ笑いを取りにきてるし、僕もいちいち笑ってしまっているのですが、なぜこんなに涙が止まらないのか、自分でも全くわかりませんでした。

 

けれども、口上も終盤にさしかかったころ、ようやくその理由がわかった気がしました。

 

僕がこんなことを言うのはおこがましい気がしますが、会場で同じように感じていた人もいる気がしています。何か確証があるわけでもないので、ここは適当に聞いて欲しいのですが。

 

この口上の場に、先代の猫八さん、つまり、五代目猫八さんのお父さんの存在を感じたのです。

先代は若くして亡くなられましたが、誰よりも五代目猫八の襲名をよろこんでいるに違いありません。むしろこの会場に来ていないはずがないのです。

 

そのお父さんが、ただただ、会場のお客さんのほうに向かって、「五代目猫八をよろしくお願いします」と、何度も深く頭を下げている。そんな姿が見えたような気がしたのです。

 

こんなに愛にあふれた寄席があるのか……。

 

おそらく会場にいた全ての人が、あの奇跡のような空気感を、それぞれのかたちで受け取っていたと思います。

 

そしてもちろん、当日の猫八さんの芸も最高でした。僕は猫八さんの舞台は4、5回くらいしか見ていませんが、爆笑しなかったことが一度もありません。動物の鳴きまねを聞いていると、いやなことなんてすっかり忘れて元気になってくる。これは一体何なのでしょうか?(笑)

 

口上の中で、ある師匠が猫八さんを評し、「襲名以前から、芸はすでに猫八の域に達していた」ということをおっしゃっていて、いや本当にそのとおり、と膝を打ちました。

 

この襲名披露興行、いまは池袋演芸場で開催中で、5月11日からは国立演芸場に場所を移すとのこと。彼の芸をひと目見たら、誰もが猫八ファンになること請け合いです。

 

これから猫八さんの芸は、さらに高みを極めていくでしょう。「俺はあの猫八の襲名披露興行に立ち会ったんだぜ」と、僕は一生自慢するつもりです(笑)。

 

猫八さん、五代目襲名、本当におめでとうございます!

 

江戸家小猫 改メ 五代目江戸家猫八 襲名披露興行
池袋演芸場 4月21日(金) 〜
国立演芸場 5月11日(木) 〜
■チケット販売中・購入方法の詳細はこちら
https://edoneko5.info/free/ticket
■お問い合わせ
落語協会 03-3833-8565

Amazonで本を探していたら、関連書籍としてこんな本が表示された。

 

『102歳、一人暮らし。哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方』。

 

 

 

 

「やっぱ亀の甲より年の功か。もし良い本やったら、ウチの親にでもプレゼントしようか……」などと思いつつ、まず図書館の蔵書を検索してしまうのが小市民の悲しさである。

 

タイトルが長いので、ひとまず「102歳」で検索してみる。すると当たり前だが、「102歳」がタイトルに入った書籍が大量に表示される。

 

それを見た僕は、「え、102 歳って何か特別な意味でもあるの?」などと思ってしまった。すぐに「自分が102歳で検索してるからだろ!」と気づいて、自分のアホさかげんにあきれた。

 

だがちょっと考えてみると、これは案外バカにできないというか、日常生活の中でやってしまっていることでもある。

 

子どもができると、やたらと子連れが目に入るようになったり、あるブランドの服を買うと、そのブランドの服を着ている人ばかりが目につくようになる、という経験は誰もがしているだろう。

 

つまり、誰もが世界をありのままに見ているわけではなく、自分の中で「検索された」世界を見ている、というわけである。

 

ところが、ここでの「検索」は無意識に行われているので、本人はそれを「ありのままの世界」であるかのように認識してしまうことがある。

 

良くも悪くも、その人の「関心」が、その人の生きる「世界」をつくる。

 

「いや、お前がそのキーワードで検索してるからだろ」というツッコミを入れてくれる相方がいたら、その人はあなたにとってとても貴重な存在である(笑)。

 

もちろん、「検索された世界」を生きること自体が悪いわけではない。

 

人間にとっての世界とはあくまで「主観的な世界」であり、僕らが「客観的」と呼ぶものは実際のところ「共有された主観」にすぎない。

 

そんなカントの認識論を持ち出すまでもなく、人間は「ありのままの世界」を認識することなどできない。

 

けれども、自分の見ている世界が「検索された世界」であることは認識できる。「自分の見ている世界」と「他人の見ている世界」が同じではないこと、「世界」のありようはひとつではないということを知ることはできる。

 

自分の日常世界をつくり出している「検索キーワード」は一体何なのか。

 

それを意識することが、「世界を変える」第一歩になるかもしれない。

1回目の鑑賞ですっかりハマってしまい、すぐに原作漫画を収集。映画化されているパートを読破し、今回の2度目の鑑賞に臨みました。

 

1回目の時はトイレを我慢できず、見ることができなかったエンドロール後のシーンを見るのも、今回の大きな目的のひとつです(笑)。

 

まず1回目の時と違ったのは、映画館に行く道中の高揚感。好きなアーティストのライブを聴きに行く時の、あの感じに近いかもしれません。

 

最初は、そもそも期待値がそれほど大きくありませんでした。だからこそ感動できた、という可能性もあります。果たして2回目はどうか?

 

結論から言うと、やっぱり良かった……。2回目も涙。

 

JASSの熱い演奏に、心の中で「カッコええ〜!」と何度も叫びました。

 

1回目の時と遜色ないくらい、おおいに楽しめて大満足。心から「行ってよかった」と感じました。

 

ただ、1回目と2回目では、自分の「感じ方」が変わってくるんだな、ということもわかりました。

 

1回目の時は、気づいたら自分の体がJASSの演奏に合わせてリズムを刻んでいて、それがものすごく心地良かったのを覚えています。

 

2回目となる今回もやっぱり体は動きましたが、1回目と比べると、なんとなく「アタマで聴いている」ような感覚がありました。

 

それはなぜだろう、と考えてみたのですが、おそらくこういうことかもしれません。

 

1回目の時は原作も読んでいませんでしたから、ほぼ予備知識なしの真っ白な状態で、「何も考えずに」鑑賞していました。ところが今回は原作を読み、サウンドトラックなども聴いていたので、比較する要素が存在しました。

 

だから、「ああ、原作のあそこは、こう変わってるんだな」とか、「この楽曲はここで使われてたんだな」とか、「考えながら」観てしまっていた気がします。

 

ざっくり言うと、1回目は「無条件に」「体全体で」鑑賞していたのが、2回目は「比較しながら」「頭で」鑑賞していた、という感じでしょうか。

 

これはどちらがいい、悪いではなく、楽しみ方の違いなのかもしれません。基本的には「1回目」のような鑑賞に理想を感じますが、回を重ねるごとに楽しみ方が変わってくるという、そのこと自体にも面白さがあります。

 

3回目ともなると、その「考えながら」の要素がすでに消化されて、再び「無条件に」「体全体で」鑑賞できるようになるのかもしれません。さすがに3回目に行く予定はないので、そのへんは経験者のコメントを待ちたいところです(笑)。

 

そして最後に、みなさまに大事な報告があります。

 

エンドロール後のシーン、ちゃんと見れました(笑)。

 

ここは原作のシーンを知らずに見たら、もっと感動できたかも!……って、それは無い物ねだりっすね。

 

最近、会う人、会う人に勧めまくっている『ブルージャイアント』。漫画も言うまでもなく最高ですので、映画で興味を持たれた方はぜひ。僕もいまドキドキしながら読み進めています。

 

そして、この映画の音楽を担当されている、ピアニストの上原ひろみさん。以前から注目しているアーティストではありましたが、今回の映画の音楽を聴いて、その才能の底知れなさに震撼しています。

 

音楽ってやっぱすげえなあ。

前回の記事にも書いた映画『ブルージャイアント』。あれからずっと、劇中のジャズのメロディーが脳内で鳴り続けている。

 

映画のサウンドトラックがYouTubeでも公開されていることを知り、それを毎日聴いている。朝から熱いジャズのメロディーに浸り、朝の電車も気分はまるでニューヨークの地下鉄。ジャズすげえな!実際は埼京線なのに!

 

ところで、このサウンドトラックでの「JASS」(主人公たちが組むジャズバンド)の演奏を聴いていて、ちょっと気になったことがある。

 

あらかじめ断っておくが、僕はこの音楽が大好きなのだ。読んでもらえればわかると思うが、ディスる意図は全くないことを、念のためここで声高に叫んでおきたい。というか、僕は音楽のことなんて全然わからないし、素人の戯言だと思って聞いてほしい。

 

さて、僕が思っていることを一言で言えばこうだ。

 

「大、お前そんなもんじゃねえだろ?」

 

このサウンドトラックの演奏は、劇中のストーリーとリンクしている。実際には著名なミュージシャンがプレイしているのだが、物語の登場人物である宮本大(テナーサックス)、沢辺雪祈(ピアノ)、玉田俊二(ドラム)として「演じて」いるのだ。

 

玉田はまだドラムを始めてから一年ほどの設定だと思うので、それを前提としたプレイになっている(……はず。物語の中でも急成長が描かれているが、それにしても上手すぎる!)。

 

他にもいろんな設定があるのだが、ネタバレにつながる可能性があるのでここでは触れません!悪しからず!

 

で、僕が気になった宮本大のプレイ。素晴らしい演奏だと思うのだが、なんとなーく、「まだ余力を残している」感じがするのだ。

 

「いや、それがプロなんじゃないの?」と言われればそうなのかもしれないが、宮本大はそういうプレーヤーじゃない。ステージでは全てを出し切る。それが彼のプレイだ。

 

「余力を残している」というのはあくまで僕の主観なので、他の人は「いや、どこが?」と思うかもしれない。けど、僕はなんとなくそう感じたのだ。

 

もちろん、ストーリーと絡めていろんな説明をすることはできるだろう。そのへんも含めて、いろいろ考えてみた。そして、ある可能性に気づいた。

 

「続編への布石」という可能性である。

 

続編も映画化されるとすれば、大の成長もそこで描かれなければならない。大の成長の表現として最も重要なのは、言うまでもなく「サックスプレーヤーとしての成長」である。

 

その成長をダイナミックに描くためには、いまの段階で上手すぎてはいけない。力がありすぎてはいけない。輝きすぎてはいけない。そういう意図が、この演奏の背景にあるのではないだろうか。

 

だから大に比べて、これから出番がない可能性のある雪祈のピアノ、玉田のドラムは、いろんな制約がある中でも、出し切っている感がある(気がする)。

 

いずれにせよ、これほど話題になり、興行的にも成功しているであろうこの映画は、ほぼ間違いなく続編が制作されるだろう。とすると、この大の演奏の「布石」がしっかり生きてくるわけだ。

 

もちろん、これは僕の完全な主観で、何の根拠もない妄想にすぎない。けれども、そんな自由な妄想を抱かせてくれるのも、いい映画のひとつの条件と言えるかもしれない。

 

僕はおそらく明日、漫画版の10巻を読み終える。そして、2回目の劇場へと足を運ぶだろう。その直前には、必ずトイレにも足を運ぶだろう。

ジャズをやっている友人に教えてもらって観に行ったアニメ映画『ブルージャイアント』。

 

心を揺さぶられて、すぐさま原作漫画『ブルージャイアント』を中古&新刊で買い漁り、8巻まで読み終わった。ちなみに映画の内容は、10巻までのストーリーを再編集したもの。10巻まで漫画を読み終わったら、もう一度映画を見ようと思っている。上映期間中に間に合えば、だが。

 

僕が同じ映画を2回観ようと思ったのは、もしかするとこれが初めてかもしれない。もちろん内容が素晴らしかったのは言うまでもないが、実は理由はそれだけではない。

 

恥ずかしながら、映画の途中から小のほうをずっとガマンしておりまして、たまらずエンドロールとともに劇場を飛び出したのである。「エンドロールの後に続きがありませんように……」と願いながら。

 

しかし運命というのは残酷なもので、こんな時に限って続きがあったようだ。いつもは「エンドロールの後にもうワンシーンあったらいいのにな〜♫」と期待してるのに何もなかった!ということのほうが多いのに。たぶんこういうのを「マーフィーの法則」とか言うのだろう。いまさらやけど、マーフィーって誰やねん。

 

というわけで、そのエンドロールの後のシーンのためにリベンジしたい、という思いもある。上映前は必ずトイレに行き、上映中は水分を一切とらないようにする。僕ならやれると思う。

 

それはさておき、『ブルージャイアント』は、世界一のジャズブレーヤーを目指す青年が、テナーサックスとともに成長していく物語である。

 

その他のいろんなことを犠牲にしながら、毎日ひたすら練習をし続ける彼の生き方は、仏教学者の佐々木閑さんの言う「出家的な生き方」に近いかもしれない。

 

佐々木さんの言う「出家」は、決してお坊さんになることだけを意味しない。そうではなく、いわゆる俗世を離れ、自分の世界をどこまでも追求すること。それを佐々木さんは「出家的な生き方」と言うのである。

 

ただ、自分の世界の追求に時間を費やすことは、その人の生活自体の成立をむずかしくさせる。それを可能にするのは、周りの人たちの支えである。そこには善意が介在していることも多いが、必ずしもそれだけではない。

 

「彼が追求する世界の先には、いったいどんな景色があるのだろう」

「彼なら、その景色を私たちに見せてくれるかもしれない」

 

そんな人々の期待が、出家者を支援させる。強いて言うならば、その期待に応えることが、出家者の、出家者にしかできない、「お返し」である。その意味でこの作品は、ひとりの「出家者」の物語である、と言えなくもない。

 

心を動かされる作品にしばらく出会わないと、「もしかすると、作品がつまらないんじゃなくて、自分の感受性が死んでしまったんじゃないか」と不安になることがある。けれど、『ブルージャイアント』のような作品に出会うと、「ああ、まだ生きてたんやな」と安心できる。

 

映画も、音楽も、漫画も、良い作品には人生を変える力がある。そのことを改めて確信させてくれる映画である。

すっかりごぶさたにしていたこのブログですが、春の気分に誘われて、またぼちぼちリハビリ的に再開していこうかなと思っています。

 

僕は自分で「文章を書くのが好き」だと思っていましたが、最近、それはどうも違うような気がしてきました。

 

文章を書くのが好きなのではなく、実は「タイピング」が好きなんじゃないか、と。それに気付いたことも、このブログを再開しようと思った理由のひとつです。

 

「文章を書くのが好き」となると、ちょっとそれなりの文章を書かないといけない気にもなりますが、「タイピングが好き」なのであれば、もはや内容にこだわる必要もありません(笑)。

 

趣味らしい趣味のない僕ですが、唯一続いているのは、読書と、その本の中で気になった文章をWordにタイピングする、ということです。気づけばその文字数が100万字を超えていました。

 

こんな単純作業が続けられるのは、おそらくタイピングそのものが好きだからだろう、というのが僕の結論です。

 

いまやこのブログにアクセスする人はほとんどいないと思いますが(というかもともと少ないですが!)、これ幸いと、自由気ままに書いていけたらと思っております。

 

さて、ここから映画と漫画が人気の『ブルージャイアント』について書こうと思っていたのですが、もう1時をまわってしまったので、今日はこのへんで。おやすみなさい。

 

「水色ともちゃん」は、涙の粒から生まれた。

 

涙は悲しみの表現でもあるけれど、それを癒す力も持っている。

 

この漫画は統合失調症の大変さを描いているのに、なぜかクスリと笑えてしまう。それはまるで「涙」のあり方そのもののようでもある。

 

本書で解説を担当している、精神科医・成重竜一郎先生によれば、統合失調症とは「脳が感じすぎてしまう病気」なのだという。

 

それはもしかすると、感受性の豊かさとか、洞察力の深さと表裏一体なのかもしれない。

 

歴史に名を残す芸術家や哲学者の中には、今の時代なら「統合失調症」と診断されていた人も実は多いのではないだろうか。

 

と同時に、本当はみんなの心の中にも「水色ともちゃん」がいて、でもみんな、それをどこかに閉じ込めてしまっているのかもしれない。

 

本書の中には、こっそり心のポケットに入れておきたくなるような、気持ちを楽にしてくれる考え方がちりばめられている。たとえばこれ。

 

なにかいいことが少しでもあればその日は「いい日」にしちゃっていいんだ

 

言われてみれば、その日が「いい日」だったかどうかは、自分で決めればいいことなのだ。僕らはけっこう、この逆をやってしまっていることが多い気がする。

 

統合失調症とともに生きる人は、僕には及びもつかない大変な経験をしているのだろう。けれども、だからこそ、人の気持ちを思いやれたり、気づけばいろんな人とつながれる力を持っていたり、そういう一面も確かにあると、僕には思える。

 

「水色ともちゃん」と一緒に一喜一憂しながら、「統合失調症の世界(のひとつ)」を疑似体験できる、とっても素敵な漫画。

 

当事者の方はもちろんのこと、その周りの方にもオススメしたい一冊。

 

 

 

こういう変わった視点を持つ人がいること自体がなんだか心強い。

 

何より印象的だったのは、都築さんが「好きなこと」をやっているうちに、「なりゆき」で編集者になったこと。やはり「好きなこと」は数珠つなぎで「好きなこと」を引き寄せるのだろう。

 

他にも、「企画会議の弊害」についての話、「習う暇があったら作れ」的な考え方など、共感することが多かった。「アマチュアにできないこと」ではなく、「アマチュアにできない量」をやる、というのは金言。

 

自分のやっていることに自信が持てない時、勇気が欲しい時に読みたい本。

 

 

 

カズレーザーと結成した「メイプル超合金」で知られる安藤なつさん。実はヘルパー2級の資格を持ち、20年以上も介護職に携わってきたという。

 

本書では、介護・暮らしジャーナリストの太田差惠子さんが、安藤なつさんにさまざまな「介護のおトクなサービス」をレクチャー。親の介護の不安を具体的に解消してくれる、心強い一冊である。

 

ちなみに僕の両親はといえば、70歳を過ぎてもまだまだ元気。「自分にはまだ少し早いかな……」と思っていたのだが、たまたま著者の太田さんから本書をいただける幸運に恵まれ、これはご縁とばかりにさっそく読んでみた。

 

結果的に、このタイミングで読めて本当によかった。これまでは漠然としたイメージしかなかった「親の介護」だが、具体的な「やるべきこと」がいくつか見えてきて、少し安心できた。

 

なにはともあれ、まずは「地域包括支援センター」に相談に行けばいいんだな、ということがわかっただけでも、心の持ちようが全然変わってくる。なんでも大切なのは最初の一歩だ。その上で、出てくる課題について本書を参照しながら対応していけば、ひととおりなんとかなりそうだ。

 

僕の場合、兄弟が実家の近くに住んでいるのでありがたいのだが、とはいえ、本を読んだり情報を集めたりするのが得意なタイプではなさそうなので、そこは僕がやらないといけない気がしている(決して僕が得意なわけではないのだが)。その意味でも、この本はお守りがわりになりそうである。

 

特にお金の問題は避けて通れないので、そこを詳しく書いてくれているのも心強い。介護はさまざまな制度に支えられているので、「知っているか、知らないか」だけで、ずいぶん大きな差が出そうだ。

 

本書はKADOKAWAから出版されていることもあり、もしかすると、本書を題材にしたドラマなんかもできるんじゃないか、という予感もする。

 

介護の期間は多くの場合、「気合いで乗り切る」にはあまりにも長すぎる。長期戦に備えるべく、まずは、本書を片手に態勢を整えるのが吉だろう。

 

あるいは、あらかじめ本書を親に渡しておくのもよいかもしれない。同じ小説を読んだ人とは少し距離が縮まるように、介護においても、本書を通した「共通言語」を持てたら最高だと思う。

 

 

 

この『火花』という小説のタイトルは、よく「花火」と間違えられる。そう言う僕も最初は勘違いしていたし、実は作者の母も間違えていたらしい(又吉談)。

 

だがそれもゆえなきことではない。というのも、ただでさえ同じような字面で紛らわしいのに、物語はその間違いのほうである「花火」のシーンから始まるのだから。

 

大空に咲く「花火」。
地上で散る「火花」。

 

「花」と「火」という二つの漢字の「転倒」、あるいは「逆転」。実はこの「転倒」「逆転」ということの中に、この小説のテーマが潜んでいるのではないだろうか。

 

さて、ここから先は、小説を読み終えた人だけ読んでください。

 

その「転倒」あるいは「逆転」というテーマが最も象徴的に描かれているのが、物語のクライマックスとも言える、スパークスの解散ライブの場面だろう。ここで、主人公は次のように言う。

 

「世界の常識を覆すような漫才をやるために、この道に入りました」

 

彼は漫才で世界をひっくり返そうとしたのだ。そして最後の漫才で披露したネタは、「あえて反対のことを言う」「思っていることと逆のことを全力で言う」というものだった。

 

その渾身の漫才は、お客さんたちを笑わせるのみならず、大いに泣かせた。常識を覆す「泣かせる漫才」。彼らは世界をひっくり返したのである。

 

そもそも漫才には、この「転倒」「逆転」という構造が、あらかじめ内在しているのだと僕は思う。たとえば「笑いの本質は緊張と弛緩だ」とよく言われるが、これもひとつの「転倒」であり「逆転」だろう。

 

そして漫才の中では、ときに「常識と非常識」の転倒があり、それが「ボケとツッコミ」の逆転として現れることもある。みんなが深刻に捉えていることを笑い飛ばし、一方で、普段は見向きもされない人や出来事に強烈なスポットライトを当てる。

 

失敗も成功も、幸も不幸も、漫才師の手にかかれば等しくネタでしかない。どちらが上でも下でもない。善も悪もない。良いも悪いもない。あるのは「面白いか、面白くないか」だけだ。

 

この「面白いか、面白くないか」の精神を純粋に体現しようとする存在、それが物語の中心人物のひとり、神谷である。神谷は、自分を師匠と仰ぐ主人公に対してこう言い放つ。

 

「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台なしにするかが肝心なんや」

 

この言葉は、神谷の漫才に対する哲学を表現している。と同時に、作者はこの哲学を、この小説そのものにも反映させているのではないだろうか。

 

物語の終盤、まるで奇をてらうかのような、あまりに唐突な展開に驚き、あるいは失望した人さえいるかもしれない。わざわざそんなことをせず、あの解散ライブの余韻のままに、物語を美しく閉じていればよかったのに……と。

 

しかし作者はそうしなかった。作者は神谷の漫才哲学を、小説においても実践して見せたのである。「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台なしにするかが肝心なんや」

 

主人公と神谷との師弟関係は、物語の中で次第に揺らぎ、転倒の様相を呈する。けれども、この「美しい世界を台なしにする」かのような展開を見て、「ああ、主人公も、作者の又吉も、やっぱり神谷のことを尊敬し続けてるんだな」という気がしたのである。

 

ちなみに、又吉が自身のユーチューブ番組で語ったところによれば、彼はこの小説自体を、ひとつの漫才として表現しているそうだ。とすれば、そこに神谷の漫才哲学が反映されるのは、全く不思議なことではないだろう。

 

熱海の夏の花火大会で幕を開けたこの物語は、熱海の秋の花火大会で幕を閉じる。この小説において、「花火」はどんな意味を持っているのだろうか。僕はやはり、タイトルである「火花」との対照関係で考えてしまう。

 

「花火」は夜空に華々しく咲き誇り、多くの人の拍手や喝采を受ける。芸人の世界で言えば、テレビに出てメジャーな世界で活躍することの比喩とも取れる。

 

それに対して「火花」とは何か。この小説では、主人公と神谷、あるいは芸人同士の対決を想起させる。だがそれと同時に、作者の頭にあったのは「線香花火」の美しさではないだろうか。

 

線香花火は、まさに火花そのものである。打ち上げ花火のような派手さはないし、一緒に鑑賞できる人数は少ないけれど、顔を寄せ合い眺めていると、不思議な一体感が生まれてきたりもする。芸人の世界で言えば、メジャーな世界には行けなかったけれど、身近な人たちを笑わせ続ける存在、と言えるかもしれない。

 

神谷によれば、漫才の世界には勝ち負けがちゃんとあるから面白い。だが同時に、そこで淘汰された存在は決して無駄ではない。

 

「一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。ほんで、すべての芸人にはそいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん」

 

芸人を目指す全ての人が「花火」になれるわけではない。けれども「火花」であり続けることはできるし、それは必ずしも「花火」に劣ることを意味しない。それは、ものの見方をちょっと変えるだけで、幸と不幸が「逆転」してしまうようなことかもしれない。

 

ちなみに、又吉が「ピース」を結成する前、別の相方と組んでいたコンビ名が「線香花火」である。

 

「読んだら絶対に嫉妬してまうから読まん」と言ってずっと避けてきたこの『火花』だが、読み終えてみると素直に面白かった。良い小説か、と聞かれても答えようがないけれど、好きな小説であることは間違いない。

 

「これが芥川賞を取るのなら、芥川賞もまだ捨てたもんじゃないな」などとひとり謎のマウントを取ろうとしてしまうのは、やっぱりちょっと嫉妬しているのだろうか(笑)。

 

おかしくて、切なくて、優しい物語である。