「〜への愛」「家族愛」「自己愛」「他者への愛」「隣人愛」などのように「愛」に限定詞がついているときには用心しなければなりません。真の「愛」とは、大きな一つのものであって、ある方面にだけ向かったりするはずはないからです。「愛」のある一つの側面を便宜的にそう呼ぶことはあっても、それが他の「愛」と排他的な関係になってしまう時は、その「愛」が偽物ではないかと疑ってみる必要があるのです。
精神科医・泉谷閑示さんの著書『「普通がいい」という病 』(講談社現代新書)の一節である。
泉谷さんは本書の中で、「愛」は洋の東西を問わず「太陽」に喩えられることが多い、と指摘する。それは、全方向に分け隔てなくエネルギーを注ぐ。ここでの「愛」とは、「分別を超えたもの」なのだろう。
とすれば、こうも言えるだろう。
「愛とは常に具体的である」と。
具体的であるということは、僕の理解では「体を具えていること」であり、具象としての「体=世界の全体」と結びついている、ということである。
それは決して個別的なものを無視しているのではない。その個別的なものは、必ず全体性と不可分に結び合っている。そのような現実性をもって「具体的」というのである。だから個別的なものは、全体的なものと、本質的に「分けることはできない」。
その反対は「抽象的」ということになるが、こちらは逆に「分別の世界」である。たとえばひとつのリンゴを見たとき、そのリンゴを、他とは無関係に成立した排他的な存在として見るならば、それは抽象的なリンゴとなる。しかしそのリンゴの存在が成立するためには、それを取り巻く「世界」が必要である。そしてそのリンゴを認識している「自分」も、その「世界」の一部である。
そのリンゴの周囲にある空気がもしなかったら。そのリンゴが置かれた机がもしなかったら。そのリンゴが育つ過程で得た水がもしなかったら。そのリンゴの実がなっていた木の下の地面がもしなかったら。そのリンゴの存在はやはりあり得ないだろう。
そのような「現実性」を排除するのは人間の理性であり、分別である。だが、本当の「愛」はそのような分別を超えるものである、と泉谷さんは言っているのだろう。
それは「息子への愛」や「他者への愛」を否定しているのではもちろんない。冒頭の引用にあるように、「それが他の『愛』と排他的な関係になってしまう時は、その『愛』が偽物ではないかと疑ってみる必要がある」。つまり、それが排他的な関係になってしまうのならば、それは「愛」の姿をした「欲望」にすぎないのかもしれない。それが泉谷さんの主張だろう。
この「愛」の存在のありようは、「時間」の存在のありようとも似ている。
と、これが言いたいばかりに、わざわざこんなことを書いてみたわけである(笑)。
賃労働のあり方を見れば明らかなように、現代を生きる僕たちは、それぞれ「自分の時間」を所有している、ということになっている。そしてその「自分の時間」を私的に所有しているということが、近代的な意味での「自由」である。
けれども、それは僕たちの頭が生み出したフィクションにすぎない。数値化できる「時間」も、「私的所有」の権利も、さらには「自分の時間」を所有する主体としての「個人」(individual=これ以上分けることができない!)も、分別が生み出した「抽象的」概念である。
もちろんそれらの概念をナシにすることはできないけれど、その概念が持つ抽象性が具体性を覆ってしまえば、僕たちの人生は現実性を失ってしまうのではないか。その意味で、「愛」というのは現実性の認識そのものである、という気がする。
いわゆる「自分の時間」が大切なことは言うまでもないけれど、それをことさらに他者の時間と分け、効率的に使おうとすると、まるで「顧客や社会への貢献ではなく、自社の存続自体が目的となった営利企業」のような腐敗が生まれてくる気がする。
ここまで書いておいて何だが、「愛」についても、「時間」についても、こうして考えることはできるけれど、僕にはぜんぜんわからない(笑)。わからないから書いているとも言えるわけで、それはそれでいいのだけれども、読者の方には「ごめんなさい」と言いたい気分である。
でも、僕は「ごめんなさい」と言わずに「ありがとう」と言うことにしている。もし、僕が死ぬ間際に「ありがとう」と言ったなら、その8割ぐらいは「ごめんなさい」でできている、と考えていただきたい(笑)。