杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -3ページ目

新年明けましておめでとうございます。

 

昨年はブログの更新をほぼ完全にサボっておりましたが、そんなこととは関係なく西暦は着実に更新され、僕もみなさんと共に2023年を迎えることとなりました。

 

これを機に怠惰な自分に鞭打って、ブログをちょくちょく更新していく所存です。よろしければお付き合いいただけるとさいわいです。

 

さて、年末には大阪の実家に帰省し、両親の元気な顔を見ることができました。

 

「あんた、久しぶりやなあ。3年ぶりやろ」

 

と母は言いましたが、僕はその前の年末も帰省しているので、1年ぶりのはずです。

 

「おかん、すっかりボケてるやん!」と突っ込みましたが、いや、よくよく考えてみると、必ずしもそうとは言えません。もしかすると、僕のほうが勝手に「1年」と思い込んでいるだけで、その間に実は3年が経っていたのかもしれないのです。

 

言われてみれば僕自身、1年にしてはずいぶん老け込んだ気がしないでもない……。これが100年ともなれば明白なのでしょうが、3年となると微妙です。

 

暦を見直して確認しよう……とも思いましたが、いや、そんなことよりも、この〝プチ浦島太郎気分〟を持続させることのほうが価値があるのではないか?という気がして、野暮なことはしないことにしました。

 

さあ、今年は何年が経つことやら……。

 

そんなこんなで、2023年もよろしくお願いいたします。

子育ては誰にとっても手探りである。それが「障がい児の子育て」ともなればなおさらだろう。
 
知らない場所を旅するときにはガイドブックが頼りになるように、「障がい児の子育て」という旅(冒険?)にも、ガイドブックがぜひ欲しい。せめて地図だけでも持って行けたら、いったいどれだけ心強いことか……(しかも、できるだけわかりやすいやつ!)。
 
そんな親御さんたちの切実な願いを、本書は見事に叶えてくれる。障がい児の子育てにおける最高のガイドブック、いや、「バイブル」ともなりそうな一冊である。
 
著者のひとりである竹之内幸子さんは、自身が「障がい児のママ」であり、障がいのある息子さんを立派に育て上げた経験を持つ。言わば「障がい児の子育て」の先達である。「そうそう、それが知りたかった!」と思わずひざを打つ内容は、彼女の実体験があってこそだろう。

 

子育ての悩みや不安を、「毎日やってくるアドベンチャーだ!」と笑いに変えてきたという竹之内さん。そんな彼女の明るさの秘訣が、本書にはぎっしり詰まっている。
 
そしてもう一人の著者である田中佑樹さんは、「障がい者就労支援のプロ」である。就労は、自分で生計を立てるための現実的な手段であり、一面においては「子育ての出口」とも言えるだけに、親御さんにとっては大きな関心事のひとつだろう。その点を、「企業のニーズを熟知し、障がい者一人ひとりの希望や個性とマッチングさせてきた現場のプロ」がしっかり押さえてくれている。このことが、本書の実用性をより高めている。
 
ちなみに、「就労支援のプロ」というと、「とにかく『就職させること』しか考えてないんじゃないか」と思われる方もいるかもしれない。だが田中さんのスタンスは全く異なる。彼は自身の考える「支援」について、次のように語っている。
 
「『本人の行きたい方向に行くために、ともに考えること』、これが支援です。支援者がここに連れて行ってあげたい、という場所に本人をお連れするという話ではありません」
 
このような「支援」の大切さは、なにも「障がい者」に限ったことではないだろう。そして本書を読んでいると、このように「あれ、これって障がいのあるなしに関係なく、めっちゃ大事やな……」ということが、とてもたくさん出てくるのである。たとえば、竹之内さんの次の言葉もそのひとつ。
 
「私はずっと、働くというのは『人に喜んでもらってナンボだよ』と教えてきました。どんな作業をするかより、喜ばれているかが大事」
 
会社で日々の業務を淡々とこなす中で、この言葉にハッとさせられる人も多いのではないだろうか。そして部下を持つ上司には、彼女のこの言葉も役に立つと思う。
 
「もちろん、子どもに任せると面倒なことも増えます。でも、一時的には面倒でも、ちょっとだけ先を見据えて、まずはやらせることが大事です。将来的に本人ができることは、ちゃんと習慣化できるように身につけてあげたいですからね」
 
子どもの育て方は、部下の育て方にも通じる。どちらも簡単なことではないが、いつもとちょっと違う視点を持つことで、案外スッと実践できるようになるかもしれない。
 
さらに本書は、人生論に通じる側面も持っている。
 
「どの選択をしたとしても、せっかく行ったからには『そこで何を得られるか』もお子さんと一緒に考えられるといいですね」(竹之内さん)
 
人生は選択の連続である。その中で「ああ、こっちじゃなかった!」と思うことだってあるだろう。けれどもそこで過去を悔やみ続けるのではなく、『そこで何を得られるか』を前向きに模索する。こうした考え方の大切さも、障がいのあるなしには全く関係がない。
 
あと、苦手なことが多い人や、得意なことを活かしたいという人には、田中さんのこの言葉も響くだろう。
 
「たとえ集中力が切れやすいという特性を持っていたとしても、絵描きになるという夢があれば、毎日、何時間も好きな絵を描き続けるかもしれません。つまり、私たちは夢や目的が明確で、それを叶えたいという思いが強ければ強いほど、弱点を克服するきっかけになるのです」
 
やりたいことを続ける過程で、苦手なことが克服されていく。この考え方は、僕にとって目からウロコだった。
 
正直な話、そのへんの自己啓発本を読むより、本書を手に取るほうがよっぽど実りがあるのではないか。「そんなわけないやろ」と思われるかもしれないが、そこにはもちろん理由がある。
 
というのも、人が生きる上で大切なことは、本来とてもシンプルなことのはずだ。そして本書は「障がい」というフィルターを通すことによって、結果的にその「本質」の部分だけが見事に抽出されているのだ。
 
そしてそれを可能にしたのは、「支援する側」と「支援される側」を分け隔てるのではなく、その共通点に目を向ける彼らの考え方だろう。障がい児の成長をサポートするためには、サポートする支援者も共に成長しなければならない。そして実はお互いの存在が、お互いの成長を支えている。そのことに本書は気づかせてくれる。
 
「『自分の人生をより良くしたい』という要求は、障がいのあるなしに関わらず、誰もが持っている健全な欲求です。その意味では、支援する側も、される側も共通した思いを持っているのです」(田中さん)
 
障がいや子育てとは関わりがないという人が読んでも、生き方のヒントを汲み取れるだけの深みがある。読み終わったあと、「すげー本やな」と思わずつぶやいてしまった。
 
だが何より本書の出版は、障がい児に関わる人たち、そして子育てに四苦八苦する全ての親たちにとって朗報と言える。わからないことだらけの子育ての中でも、「知ってしまえば全く心配いらない」ということはたくさんある。
 
「とりあえずこれを読んでおけば大丈夫」と言える一冊の価値は、個人にとっても社会にとっても計り知れない。自信を持っておすすめしたい、掛け値なしの良書である。

 

 

 

 

楽天お買い物マラソン開催!11月4日~11日まで!

 

 

 

 

『地域人』で取材させていただいた「しかのいえ」さんが、ベテラン編集者・大久保雄策さんを招いて貴重な講演会を開催されるそうです!題して「人生の大航海に小説(コンパス)を」。小説・文芸が好きな方はぜひ!

■11月3日(木)13:00~15:00@空中階(北千住駅から徒歩約5分)
https://peatix.com/event/3382030/view

大久保雄策さんは、某有名出版社で文芸畑一筋、数多くの作家さんの作品を世に送り出し、定年退職後は出版社の立ち上げを目指して活動をされているそうです。

「小説が読まれなくなりつつある今こそ、生きる糧となるような小説を復興したい」という強い文芸復興の思いにしかのいえさんが共感し、今回のイベント開催に至ったとのこと。

さらに、「書き手を育てたい」との思いもあり、この講演会の後は、作家養成の講座「大久保塾(仮称)」も設けていく予定だそうです。

小説や文芸好きな方、そして作家を目指している方は、要チェックや!!←古い

当日はユーチューブでのオンライン視聴もあるそうです。
FBのイベントページ↓
https://fb.me/e/246irGcwU

◆日 時◆
 2022年11月3日(木)・文化の日 13:00(開場12:45)~15:00
◆会 場◆
 空中階(くうちゅうかい)
 /足立区千住4丁目 北千住駅から徒歩約5分

大久保さんのプロフィール、イベントの詳細&お申込みは
こちらのPeatixをご覧ください↓
Peatixのこちらのページでご予約下さい
https://peatix.com/event/3382030/view


 

 

この映画で描かれる「サンカ」とは、かつて日本の山々に実在した山の民である。

 

彼らは日本の近代化とともにその姿を消してゆくが、それゆえに「前近代的なものの象徴」として描かれることも多い。また、この映画のパンフレットでも説明されているように、その実態がよくわかっていないがゆえに、まるで猟奇的な存在であるかのようにして、人々の好奇心をあおる描かれ方をしてきたという歴史もある。

 

つまり、サンカが描かれるとき、そこには「われわれとは異なる存在」という視点が常に置かれてきたのである。

 

本作においても、「近代/前近代」という対比が重要な位置を占めていることは言うまでもない。だが、本作の面白いところは、そうした「違い」が描かれながらも、観る人はむしろ「近代人」と「サンカ」との、「共通点」のほうに惹き付けられるというところである。

 

主人公の父親は近代的価値観を象徴するような存在で、いわゆる「成功者」である。ところが、決して幸せそうには見えない。むしろ「苦悩する存在」として描かれているような気がする。

 

それに対して、「貧しくとも豊かで、幸福な存在」としてサンカが描かれているのであればわかりやすいが、そういうわけでもない。サンカもまた苦悩しているのである。

 

誤解を恐れずに言えば、われわれ「近代人」も、「サンカ」も、どちらも「自由」を求めているのだと思う。だが、そうでありながら、「近代人」が求める「自由」と、「サンカ」が求める「自由」は、同じものではない。

 

「近代人」が求めるのは、「みずから(自ら)のままになる」という自由であり、「サンカ」が求めるのは、「おのずから(自ずから)のままになる」という自由である。

 

とはいえ、「近代人」もどこかで「おのずからのままになる」ことに憧れているし、「サンカ」が「みずからのままになる」ことを否定しているわけではない。そんなに単純に割り切れるものではない。

 

都市とは、一面において、人間が「なすがまま」に作った空間である。にもかかわらず、人間たちはその中で「思うがままに」振る舞うことは許されない。それどころか、「みんなが想定できるであろう行動」の中に、閉じ込められてしまっている。

 

それに対して、サンカが生活する山は、自然の力が支配的な空間である。そこで人間は、ただただ「あるがまま」でいることは許されない。自らその空間に手を加え、ある意味での「小都市」を作らなければならない、とも言える。

 

「なすがまま」を求める心と、「あるがまま」を求める心。

 

前者の主体が「個人の意志」であるとすれば、後者の主体は「自然の意志」あるいは「世界の意志」と言えるかもしれない。

 

そして、そのどちらもが、完全に成就することはあり得ない。

 

全てが思い通りにならないことは言うまでもない。だからといって、全てを自然に委ねることもできない。そこに、人間の悲しさがある。

 

だが、その「悲しさ」のもとでこそ、「われわれ」と「サンカ」は、本当の意味で出会うことができる。「悲しみ」を共有することで、「われわれ」は共に生きていくことができる。

 

この映画は、主人公の心の葛藤を通して、そんなことを語りかけているような気がする。
 

 

 

 

32歳。いきなり介護がやってきた。

 

高齢の両親を持つ身としては、全く他人事ではない。著者の立場に自分を重ね合わせ、「俺やったらどうするかなあ……」といちいち考えながら読むことになった。特に次の部分は、「ほんまにそうっす!」と心の中でつぶやかずにはいられなかった。

 

「誰か連れて行きたい人がいて、連れて行きたい場所があるなら、少し無理してでもできるうちに行っておいた方がいい。脅すつもりはないけれど、行けなくなるときは突然やってくる」

 

僕もあるとき同じことを思って、両親にハワイ旅行をプレゼントする計画を立てたことがある。今までの親不孝を、これで帳消しにしてもらえれば……という下心もあった(笑)。飛行機もホテルも予約して準備万端。さあ、あとは出発日を待つだけ……というタイミングで、「いきなりコロナがやってきた」。

 

結局ハワイ旅行はキャンセル。何でもそうだが、一発逆転を狙おうとしてもなかなかうまくいかない。日々の積み重ねが大事なのである……と、このままでは僕の人生反省会になってしまいそうなので(笑)、本の話に戻りたい。

 

このエッセイは、「親子の関係の結び直し」の物語でもある。親子の関係が変化するタイミングはいくつかあるけれど、介護の始まりや、死別の体験というのは、その最たるものだろう。それは能動的な選択というよりも、往々にして「変化することを迫られる」形でやって来る。しかも、本のタイトルにもあるように「いきなり」やって来るのである。

 

普段はあまり意識することがないにしても、その「いきなり」に対して、ほとんどの人が潜在的な不安を抱いているのではないだろうか。この本は、そんな僕たちに最高のシュミレーションの機会を与えてくれる。「あれをしておけばよかった……」という後悔を、ちょっとだけ減らすきっかけになるかもしれない。もちろん、そういう思いが完全になくなることはないと思うけれど。

 

親の介護や死別をすでに経験している人は、ポケットにハンカチを忍ばせておいたほうがいい。未経験の僕でさえグッときてしまったのだから、経験者はもう号泣必至ではないだろうか。それでいてユーモラスでやわらかいトーンなのは、著者と両親との関係性が、そこにそのまま表れているからなのかもしれない。

 

ところで、著者のあまのさんには以前、雑誌の仕事で取材をさせてもらったことがある。その時の彼女の言葉が、いまも強く印象に残っている。

 

「好きなことが仕事になる人もいれば、仕事にしたくない人だっているけど、それを続けている人は、やっぱり面白い」(「そんな生き方あったんや!」『かがり火』181号、2018年)

 

彼女は2018年の当時から、絵はんこ作家、ライター、イラストレーター、ボーカリストなど、さまざまな活動を展開していた。「好きなこと」を捨てることなく、ずっと続けてきたのである。

 

現在は東京から岩手県紫波町に移住し、2022年5月26日には新刊『チェコに学ぶ「作る」の魔力』(かもがわ出版)を上梓した。自分にとっての「好きなこと」が相互に結び合いながら、新しい作品が生まれていく。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、これはクリエーターにとって、ひとつの理想形ではないだろうか。

 

口で言うのは簡単だが、それを実現するのは容易なことではない。その容易ではない実践を、これまでさまざまな形で支え、そしていまも支え続けているのが、本書に登場する、著者の家族なのかもしれない。

 

「大変やなあ……」と思いながら読んでいるのに、心は不思議とあたたかくなる。大切な人を大切にしようと思える、そんなやさしいエッセイである。

 

 

32歳。いきなり介護がやってきた。

 

 

チェコに学ぶ「作る」の魔力

 

 

今回の正月は、久々に大阪の実家へ帰省した。

 

そこにはなぜか『鬼滅の刃』が全巻揃っていて、ここぞとばかりに読破した。

 

聞くと、親父も全部読んだという。

 

「ほんまかいな」と思った僕は、「誰が一番強いん?」と聞いてみた。

 

「そりゃあ、あれや。親方や!」

 

「なんでやねん!」とすぐさま突っ込んだが、よくよく考えてみると、確かに親方様は強い。もちろん戦闘力という意味ではゼロに近いかもしれないが、その心の強さ、魅力、統率力の強さで言えば、確かに「一番強い」と言えなくもない。

 

そうか、『鬼滅の刃』は、いろんな「強さ」の表現であったのかもしれない……。

 

親父のわかったようなわからないようなコメントで、『鬼滅の刃』の新たな一面に気付かされたのであった。

 

 

 

「〜への愛」「家族愛」「自己愛」「他者への愛」「隣人愛」などのように「愛」に限定詞がついているときには用心しなければなりません。真の「愛」とは、大きな一つのものであって、ある方面にだけ向かったりするはずはないからです。「愛」のある一つの側面を便宜的にそう呼ぶことはあっても、それが他の「愛」と排他的な関係になってしまう時は、その「愛」が偽物ではないかと疑ってみる必要があるのです。

 

精神科医・泉谷閑示さんの著書『「普通がいい」という病 』(講談社現代新書)の一節である。

 

泉谷さんは本書の中で、「愛」は洋の東西を問わず「太陽」に喩えられることが多い、と指摘する。それは、全方向に分け隔てなくエネルギーを注ぐ。ここでの「愛」とは、「分別を超えたもの」なのだろう。

 

とすれば、こうも言えるだろう。

 

「愛とは常に具体的である」と。

 

具体的であるということは、僕の理解では「体を具えていること」であり、具象としての「体=世界の全体」と結びついている、ということである。

 

それは決して個別的なものを無視しているのではない。その個別的なものは、必ず全体性と不可分に結び合っている。そのような現実性をもって「具体的」というのである。だから個別的なものは、全体的なものと、本質的に「分けることはできない」。

 

その反対は「抽象的」ということになるが、こちらは逆に「分別の世界」である。たとえばひとつのリンゴを見たとき、そのリンゴを、他とは無関係に成立した排他的な存在として見るならば、それは抽象的なリンゴとなる。しかしそのリンゴの存在が成立するためには、それを取り巻く「世界」が必要である。そしてそのリンゴを認識している「自分」も、その「世界」の一部である。

 

そのリンゴの周囲にある空気がもしなかったら。そのリンゴが置かれた机がもしなかったら。そのリンゴが育つ過程で得た水がもしなかったら。そのリンゴの実がなっていた木の下の地面がもしなかったら。そのリンゴの存在はやはりあり得ないだろう。

 

そのような「現実性」を排除するのは人間の理性であり、分別である。だが、本当の「愛」はそのような分別を超えるものである、と泉谷さんは言っているのだろう。

 

それは「息子への愛」や「他者への愛」を否定しているのではもちろんない。冒頭の引用にあるように、「それが他の『愛』と排他的な関係になってしまう時は、その『愛』が偽物ではないかと疑ってみる必要がある」。つまり、それが排他的な関係になってしまうのならば、それは「愛」の姿をした「欲望」にすぎないのかもしれない。それが泉谷さんの主張だろう。

 

この「愛」の存在のありようは、「時間」の存在のありようとも似ている。

 

と、これが言いたいばかりに、わざわざこんなことを書いてみたわけである(笑)。

 

賃労働のあり方を見れば明らかなように、現代を生きる僕たちは、それぞれ「自分の時間」を所有している、ということになっている。そしてその「自分の時間」を私的に所有しているということが、近代的な意味での「自由」である。

 

けれども、それは僕たちの頭が生み出したフィクションにすぎない。数値化できる「時間」も、「私的所有」の権利も、さらには「自分の時間」を所有する主体としての「個人」(individual=これ以上分けることができない!)も、分別が生み出した「抽象的」概念である。

 

もちろんそれらの概念をナシにすることはできないけれど、その概念が持つ抽象性が具体性を覆ってしまえば、僕たちの人生は現実性を失ってしまうのではないか。その意味で、「愛」というのは現実性の認識そのものである、という気がする。

 

いわゆる「自分の時間」が大切なことは言うまでもないけれど、それをことさらに他者の時間と分け、効率的に使おうとすると、まるで「顧客や社会への貢献ではなく、自社の存続自体が目的となった営利企業」のような腐敗が生まれてくる気がする。

 

ここまで書いておいて何だが、「愛」についても、「時間」についても、こうして考えることはできるけれど、僕にはぜんぜんわからない(笑)。わからないから書いているとも言えるわけで、それはそれでいいのだけれども、読者の方には「ごめんなさい」と言いたい気分である。

 

でも、僕は「ごめんなさい」と言わずに「ありがとう」と言うことにしている。もし、僕が死ぬ間際に「ありがとう」と言ったなら、その8割ぐらいは「ごめんなさい」でできている、と考えていただきたい(笑)。

こんにちは。「時間と人間との関係」について細々と研究している杉原です。

 

時間論の面白いところは「答えがない」ということですが、それゆえ無限地獄にハマったりもします(笑)。ひとりでウダウダ考えているとなおさらです。

 

そこで、僕がこれまで考えてきたことを適当に話すという、独りよがりな会を催すことになりました。

 

題して「『時間』の時間」。

 

とはいえ、僕の与太話を聞くだけでは参加者の不満が爆発する恐れがあるので、会の後半は、『時間』をテーマにみんなで雑談する時間にしたいと思っております。

 

幸いにも、会場となる立石BASE281はカフェなので、終わりの時間がきてもそのままカフェトークに移れます。素晴らしいですね。

 

ちなみに、僕の立石BASE281での平均滞在時間は6時間です。ここはたぶん時空が歪んでいるのだと思います。『時間』について語り合うにはうってつけの場所ではないでしょうか。

 

さて、第1回のテーマは、仮に「『自分の時間』とは何か?」にしようかと思っています。

 

「しゃーないなー、杉原の与太話に付き合ってやるか」という心優しきみなさまのご参加を、心よりお待ちしております!

 

一緒に無駄な時間を過ごしましょう!

 

【日時】2021年11月20日(土)14:00〜15:30
【参加費】1,000円(ワンドリンクチケット付)
【場所】立石BASE281

東京都葛飾区立石2-8-1(葛飾警察近く)
Twitter:@Tateishibase281

おそるべき文才。

 

小気味良く毒をまき散らしまくる芸風が、現代では出版不可能な奇書を誕生させた。

 

無難な「良書」が溢れる中で、「あ、本当に人間が書いてる」ということが感じられて、なんだか安心感を覚えた。

 

個人的には次の文章が気に入った。

 

「そして世の中が平和になり、不幸な人がいなくなったら、幸福な人もいなくなります。誰もいなくなり、本当の平和が訪れます」

 

なんとなくミシェル・フーコーを思わせる刺激的思想。

 

楽しい「つづり方」教室

 

 

詩人・谷郁雄さんがコロナ下で生み出した詩集。

 

たぶん1日1ページくらいのゆっくりしたペースで読むのが一番いい気がするが、僕はついつい一気に最後まで読んでしまった。

 

冒頭の詩「裏返し」から笑わされて、「朝の風景」でしっとり……。何気ない日常の風景なのに、ときおり胸に込み上げるものがある。

 

ひとつの詩を読むたびに、自分の過去の記憶や、いろんな感情が呼び起こされて、時には音楽が聞こえてきたり……。

 

最後に収録されている詩「スニーカー」の、次の言葉にはハッとさせられた。

 

大切なのは

夢じゃない

何かを

夢見たときの

心のときめき

 

がぜん谷郁雄さんのことが気になって、本書の出版に関するインタビュー記事も読んだが、これも面白かった。

 

 

人生にはときどき未来を暗示するような出来事が起こるものだ。

 

あと、谷さんは大学を中退されているらしく、その点にもすごく親近感を感じた(笑)。

 

本当は詩の一篇ずつについて感想を述べたいくらいだが、きりがないのでこのへんで。

 

とにかく好きな詩がたくさんあって、「朝の風景」とか読んでいるとなぜか涙が出てくる。

 

「時間とは何か?」と問われたときに、「ここにあるよ」と手渡したくなるような本。

 

人生の中でふと立ち止まった時、ぜひ手に取って読んで欲しい。