人は誰もが「検索された世界」を生きている | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

Amazonで本を探していたら、関連書籍としてこんな本が表示された。

 

『102歳、一人暮らし。哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方』。

 

 

 

 

「やっぱ亀の甲より年の功か。もし良い本やったら、ウチの親にでもプレゼントしようか……」などと思いつつ、まず図書館の蔵書を検索してしまうのが小市民の悲しさである。

 

タイトルが長いので、ひとまず「102歳」で検索してみる。すると当たり前だが、「102歳」がタイトルに入った書籍が大量に表示される。

 

それを見た僕は、「え、102 歳って何か特別な意味でもあるの?」などと思ってしまった。すぐに「自分が102歳で検索してるからだろ!」と気づいて、自分のアホさかげんにあきれた。

 

だがちょっと考えてみると、これは案外バカにできないというか、日常生活の中でやってしまっていることでもある。

 

子どもができると、やたらと子連れが目に入るようになったり、あるブランドの服を買うと、そのブランドの服を着ている人ばかりが目につくようになる、という経験は誰もがしているだろう。

 

つまり、誰もが世界をありのままに見ているわけではなく、自分の中で「検索された」世界を見ている、というわけである。

 

ところが、ここでの「検索」は無意識に行われているので、本人はそれを「ありのままの世界」であるかのように認識してしまうことがある。

 

良くも悪くも、その人の「関心」が、その人の生きる「世界」をつくる。

 

「いや、お前がそのキーワードで検索してるからだろ」というツッコミを入れてくれる相方がいたら、その人はあなたにとってとても貴重な存在である(笑)。

 

もちろん、「検索された世界」を生きること自体が悪いわけではない。

 

人間にとっての世界とはあくまで「主観的な世界」であり、僕らが「客観的」と呼ぶものは実際のところ「共有された主観」にすぎない。

 

そんなカントの認識論を持ち出すまでもなく、人間は「ありのままの世界」を認識することなどできない。

 

けれども、自分の見ている世界が「検索された世界」であることは認識できる。「自分の見ている世界」と「他人の見ている世界」が同じではないこと、「世界」のありようはひとつではないということを知ることはできる。

 

自分の日常世界をつくり出している「検索キーワード」は一体何なのか。

 

それを意識することが、「世界を変える」第一歩になるかもしれない。