第30回東京国際映画祭『アケラット-ロヒンギャの祈り』ほか3作 | シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

10/25から始まった東京国際映画祭。

今年は連日雨続きですが、さすがに日本最大の映画祭になると多少のことでは客足には影響ないんでしょうか?

私も、ほんの少しだけ国際映画祭の空気を吸いに行ってきました。

4本観たうちの2本は、いつもの友人と一緒に。

観賞後のお楽しみ・映画語りは、今回は友人の悩みのほうがシリアスだったのでほどほどに・・・他の問題で大変な中で映画に付き合ってくれたことにとても感謝しています。

以下、観賞した4本の感想を手短に。この映画祭でしか観られない可能性が高い作品優先ということで、邦画は選びませんでした。

 

『ナポリ、輝きの陰で』(Crater [ Il Cratere ]) <コンペティション>

 

【映画祭公式サイト掲載の概要】

治安の悪さで揺れるナポリ。ぬいぐるみの露天商で家族を養う男は、娘の歌の才能に希望を見出し、歌手として売り出そうと懸命になるが…。

本作の舞台となるナポリ近郊に横たわる地域を監督たちは「クレーター」(原題)と呼び、ナポリの光に隠れる形で、なかば独立し隔絶された場所として描いている。本作はこの低所得者層の地域に生きる人々に密着した物語である。この閉じた空間から出ていくにはどうするのか。そこから娘を利用する父のストーリーが誕生していった。監督たちは取材の過程で地域に暮らすロザリオとその一家に出会い、彼を脚本執筆に参加させている。この作品はロザリオと娘のシャロンの実際の日々の姿であり、彼らが地域を象徴するような人物に扮したフィクションでもある。そして住人が感じている閉塞感を強調するために、カメラは人物に極端に接近し、彼らを周囲から浮かび上がらせていく。ドキュメンタリー出身監督ならではの手法を存分に生かし、驚くべきリアリズムで父の思いを活写する迫真のドラマである。

公式サイトの解説を読んで、ナポリの中でも「クレーター」と呼ばれる地域の独自性に興味が湧き、選んでみました。

 

作品に登場する父(ロザリオ)と娘(シャロン)を演じるのは実の親子ロザリオとシャロン。彼らは俳優業の経験はなく、現実にもナポリの露店商なのだとか。

監督が偶然露店で彼らを見かけ、映画の主演にスカウトしたのだそうで、この半ドキュメンタリー的なキャスティングが作品の大きな魅力になっています。

 

ただ、良くも悪くも顔のクローズアップの多用が特色。

この映画にイタリア人にしか抽出できない濃密なナポリのエッセンスを期待していた私にとっては、ナポリの街や人の営みが殆ど映らず、父と娘の表情ばかりが続いたことは正直残念ではありました。

もっとも、2人の表情、特に父親の顔に刻まれた年輪には、多分この映画が表現したかった、クレーターと呼ばれる地区に暮らす人ならではの生活感がくっきりと映し出されていて、そういう形での「ナポリの素顔」は味わえた気がします。

 

キャスティング以外で特筆したいのは、冒頭のシーン。

娘のシャロンが、鏡の前でポーズを取りながら写実主義について語る(といっても、学校の宿題で教科書を暗記したような棒読みで)という、一見それ以降のシーンとはつながらない場面です。

その意味不明さが後を引くものの、物語が進行していくと、実はこのシーンで作品のコンセプトをシャロンに語らせていたのだということが分かってきます。

冒頭で写実主義というキーワードをインプットされることで、その後のやや冗長に思えるクローズアップの連続も、レアリズモの表現手法として受け止めることができ、作品全体が引き締まった印象に。

鏡を見る少女のたわいもないひとりごとに見える言葉が、あとあとじわじわと効いてくる、効果的なワンシーンになっています。

 

上映後のQ&Aで姿を見せた父と娘は、「娘を一家の金ヅルにとやっきになって彼女のデビューを画策し、娘を束縛する父親と、歌手になるより年齢相応の自由を手にしたい娘」という映画の中の彼らとは全く逆で、絵に描いたようなラテン系の気質の「露店のマドンナ」シャロンが恒星、父親は彼女の従えた数ある惑星の一つという構図が見え見え。

この地区の生活の閉塞感を描き出そうとしていた監督の思惑は、抑圧感など微塵も感じていないように見える素顔のシャロンの登場によって脆くも崩された感が。

映画の中のシャロンと素のシャロンとのギャップが見せてくれた、「外側からクレーター地区を見る人と現にそこに暮らす人の感覚との温度差」のほうが、映画そのものよりもずっとリアルで興味深いものがありました。

 

『グレイン』(Grain [ Buğday ]) <コンペティション>

 

【映画祭公式サイト掲載の概要】

いつとも知れない近未来。種子遺伝学者であるエロールは、移民の侵入を防ぐ磁気壁が囲む都市に暮らしている。その都市の農地が原因不明の遺伝子不全に見舞われ、エロールは同僚研究者アクマンの噂を耳にする。アクマンは遺伝子改良に関する重要な論文を書いていたが、失踪していた。エロールはアクマンを探す旅に出る…。

セミフ・カプランオール監督はベルリン映画祭グランプリ受賞歴があり、現在のトルコを代表する監督のひとり。前作までのいわゆる「ユスフ3部作」は陽光眩い自然美に満ちていたが、7年振りの新作は一転してダークなディストピアを描く近未来SFとなった。しかし映像美はむしろ研ぎ澄まされ、シャープなモノクロ映像が人類居住区域のリアルな混乱と居住不能地域の不毛な美しさのコントラストを際立たせている。監督の母国トルコがシリア難民で溢れたように、作品の構想中に現実世界は激動し、その事象が映画に反映されていった。人類を救う特殊な麦の粒を探し求める旅は、難民問題やエコロジーというマクロな事象を経て、次第に人間心理を司る宗教や信念やエゴイズムといった内面の旅へと至るだろう。『惑星ソラリス』や『2001年宇宙の旅』の系譜に連なる、知能中枢を刺激されるアート系SF大作である。主演は『グラン・ブルー』のジャン=マルク・バール。

説明文にもあるとおり監督はトルコ人ですが、トルコからの視点というよりは、一段高い位置から世界を眺めた国際感覚豊かな作品、今回4本観た中で最も完成度が高いと感じました。

この作品は、いずれどこかのミニシアターで上映されるんじゃないでしょうか。

 

メイン・テーマは人間による環境破壊。

ただし、移民の侵入を阻む壁の存在など、特定の国を連想させる設定もあり、無人偵察機も飛んでいたりと、非常に排他的で抑圧された管理社会を背景に描いています。

虫一匹すらいなくなってしまったほどの自然破壊の原因が、自然を強引にコントロールしようとしてきた人間たちの支配欲にあることを、国境の高圧電流塔や無人偵察機の恐ろしさが暗に物語っているよう。

ディストピアの世界観にもぬかりがありません。

 

終盤までは、主人公エロール博士が探し求めるアクマンという研究者の研究成果が一体どう現状を打開してくれるのか見えてこず、終始もどかしさを感じながらの観賞でしたが、一匹のアリの姿に未来への一筋の希望を見せるクライマックス・シーンで、わだかまりが一気にカタルシスへ。

最後は学問による解決ではなく、自然の力・自然への畏敬へと物語を収束させる流れが、謙虚で清々しい。

希望という言葉に真っ直ぐには結びつきにくいエロール博士の初老の風貌も、迷い、疲れ果てながらもかすかな希望へと導かれていく人類の紆余曲折の道筋を感じさせてくれて、深い余韻が残りました。

 

『アケラットーロヒンギャの祈り』(AQÉRAT (We the Dead) [ 阿奇洛 ]) <コンペティション>

 

【映画祭公式サイト掲載の概要】

台湾行きを願うフイリンは貯金を失った結果、奇妙な仕事に手を出す。それはロヒンギャ移民に対する残虐行為に関わるビジネスだった。そんな彼女にとって一筋の光は、フイリンを昔の知り合いだと信じている若い病院スタッフのウェイだった…。

現代マレーシアの転移(ディスプレイスメント)と倫理観についての野心作である。ヨウ監督は新作の舞台を、多文化多言語が自然に同居したはずのマレーシアとタイの国境付近の街に設定した。そしてその「理想郷」が現在ミャンマーから逃れるロヒンギャの人々をいかに扱うかを描き、現状に対して問題を提起する。自国マレーシアのみならず、アジア全域の歴史や文化に意識を巡らす懐の深さがヨウ監督を大器ならしめているが、その真骨頂は社会問題と詩情溢れるラブストーリーの融合である。監督の前作に続いての主演となるダフネ・ロー演じるヒロインは思いもよらず人身売買ビジネスに関わるが、やがて物語は時空と生死の境を越え、ドキュメンタリーとフィクションの境も越える。そして「ロヒンギャの来世」はより身近な存在となっていく。真摯な哀悼の念と、未来への希望の祈りを込めた入魂の1作である。

早稲田大学卒だという監督のエドモンド・ヨウは、過去にもTIFF参加経験があるそうですね。

今回監督がテーマとして取り上げたロヒンギャ問題は、ミャンマー・バングラデシュなどロヒンギャの歴史的居住地域だけでなく、ロヒンギャ難民が押し寄せるアジア諸国でも大きな問題。

マレーシアでは、2015年に人身売買組織に拘束された後なんらかの経緯で死亡したと思われるロヒンギャの遺体が数百体見つかるなど、衝撃の事実も明らかになっています。

 

本作では、多民族国家マレーシアの中で、社会的弱者である人々が、より弱い存在であるロヒンギャ難民の虐殺に関わっていく心理・出口を求めて足掻く人々の姿が、華僑の主人公フイリンを通して描かれていきます。

 

社会問題の描写だけでなく恋愛という要素を加えたのは花マルでしたが、中盤以降映像詩的なトーンになっていったのが少し唐突で戸惑いました。

上映終了後のQ&Aで主演女優ダフネ・ローが見せた目から鼻に抜けるような聡明な応答も印象深かったことの一つです。

 

『ビオスコープおじさん』(Bioscopewala)   <アジアの未来>

 

【映画祭公式サイト掲載の概要】

父を事故で亡くしたミニーのもとに、父の知己という老人ラフマトが現れる。彼は幼い日々にミニーがお気に入りだった巡回ビオスコープ(のぞきからくり)屋のおじさんだった。インドとアフガニスタンをつなぐ愛と映画の物語。

「ビオスコープ」はのぞきからくり。のぞき窓から覗くと簡易な映画が観られる装置で、日本の紙芝居屋と同じように、インドでは子供たちがビオスコープ屋が来るのを楽しみにしている様子が作品に描かれています。

主人公ミニーの知人であるビオスコープおじさんは、アフガニスタン人。

彼は郷里の村で小さな映画館を開いていましたが、映画を悪と見做すタリバンに映画館を焼かれた上、命も危なくなり、家族を置いてインドに逃れた難民。

しかし、人助けのために殺人を犯してしまい、長い年月を刑務所で過ごすことに。その間におじさんは認知症も患ってしまいます。

ミニーの亡き父親が、彼の恩赦のために運動していたことで、ミニーがその遺志を受け継ぎ、釈放後のビオスコープおじさんの面倒を看ることになります。

 

この映画はインド映画ですが、アフガニスタン難民を受け容れたインドの側からの目線で描くだけでなく、実際に主人公がアフガニスタンを訪ねるという形で、より難民の視点に寄り添った内容になっています。

心から映画を愛していたビオスコープおじさんが、映画上映を弾圧するタリバンに郷里を追われた悲しみ、映画を通じて彼に元気を取り戻してほしいと願うミニーの想いは、映画愛という共通項を通して観客の心にも深く沁みわたります。

 

主人公が父親の富を受け継いだ女性だという点が、少し物語の起伏を削いでいる気はしましたが、映画と自由・反戦をリンクさせた共感しやすいテーマが秀逸。

今も危険な状態が続くアフガニスタン、故郷を失った人々の存在を、柔らかい視点で世界に突き付けた貴重な作品です。