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◆ずっと変わらないマイベスト映画!◆
1987年、イタリア・中国・イギリス合作映画。
監督はベルナルド・ベルトルッチ。
主人公・溥儀の自伝「わが半生」がベースになっています。
日本公開当時からマイベスト映画として君臨し続けている作品。
とは言え、中国人に英語のセリフしゃべらせてる時点でもはや時代遅れ。
今回は訣別の意味も込めて観直してみたんですが・・・
やっぱり、 最 高 ! ! !
ということで、また振出しに戻ってしまいました。
どうも、何度離れようとしても私はこの映画に戻ってしまうようです。
赤い糸かしら。
では、気を取り直して映画のアウトラインを。
主人公は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(ジョン・ローン)。
彼は、1908年、わずか3歳にして衰退した王朝の帝位につきます。
しかし、在位4年で辛亥革命が勃発し、あえなく退位。
その後、めまぐるしく国体が変化していく中、皇帝時代からの住まいである紫禁城(今は「故宮」とも)を追われた溥儀は、日本の関東軍の庇護下へ。
1932年、関東軍が建国した満州国の元首となった溥儀は、のち同国の皇帝となりますが、実質は傀儡で、満州帝国の実権は関東軍に掌握されていました。
そして、1945年、第二次世界大戦に敗戦。
中国共産党に身柄を引き渡された溥儀は、戦犯および政治犯として「再教育」を受けたのち釈放され、北京植物園の職員に。
映画では、歴史に翻弄された溥儀の生涯を、戦後の囚人生活と清朝皇帝時代から満帝時代までをパラレルに追いながら見せていきます。
公開当時、空前のスケールが話題になった、大河歴史映画です。
(西太后が溥儀を清朝の後継者に指名する場面。大胆にデフォルメされた映像作り。西太后は太后と言うより魔女に近いイメージで描かれている。)
◆この作品の魅力は、史実かどうかより、美しく壮大な悲劇であること◆
歴史映画、と書いておいてこういう言い方をするのは何ですが、多分この映画に純粋に史実を期待して観ると、ガッカリする要素も多いかもしれません。ドキュメンタリー性はかなり低いと言っていいと思います。
そもそも中国が舞台でありながら英語劇、満州人の溥儀役が、本人に似ても似つかないジョン・ローン。歴史歪曲にもホドがあります(私は歓迎ですけどね(笑))
溥儀の弟・溥傑の妻(嵯峨侯爵家出身の浩)の和装も不可思議だし、細かい部分では史実よりもストーリー性を優先させていますし。
おおどころで史実を違えてはいないものの、史実に忠実であることや時代考証を目玉とした作品では決してありません。
これは、史実をベルトルッチ的美意識(歴史観ではなく)に基づいて再構成した物語であり、物語としての完成度の高さ・美しさが魅力の作品だ、と、個人的には思います。
これほどてらいなくセンチメンタリズムを横溢させながらも(いやもう、ダダ漏れですから)、感傷に流れることなく精緻に完結した作品を、私は他に知りません。
ベルトルッチは詩や小説も書いていたとか。
このとてつもなくリリカルな作品には、まさにベルトルッチの詩人としての感性が生かされている気がします。

(「わが半生」か「紫禁城の黄昏」(※)によれば、彼は7歳まで乳母の乳を飲んでいたということだったと思うがうろ覚え。教育上悪いと判断した大人たちによって乳母と引き離された溥儀の、「あれは乳母じゃない。私の好きな女(my butterfly)だ。」というセリフが印象的。)
◆世界に見限られた溥儀の生涯の中に、美しい悲劇を見い出したベルトルッチ◆
題材が溥儀だということも、当時は新鮮でしたね。
歴史の教科書に登場する溥儀は、権力欲に目がくらんで満州まで行ったものの、関東軍にお飾りとして利用された傀儡。
東京裁判での溥儀の自己弁護は、傀儡だったことは事実にしろ、あまりに(ry・・・多分大戦後の世界で、彼を美化した物語はありえなかったんじゃないでしょうか。
この映画は、そんな溥儀の生涯に類い稀な悲劇性を見出し、エモーショナルな物語に練り上げたもの。
これを錬金術と呼ばずして何といいましょうか。
その着眼点と感性の素晴らしさに、一時期はすっかりベルトルッチ信者と化してた私・・・その割に、これ以外のベルトルッチ作品は何故か好きになれなかったんですが・・・

(16歳で満州人の正妻と側室1人を娶った溥儀。結婚式の夜イギリスに亡命を企てていたが、妻が美しかったので思いとどまる。花嫁のベールを取って妻の顔を見た時の溥儀の感嘆とも諦観ともつかない大人びた表情に心を掴まれた。正妻役はジョアン・チェン。)
◆ループし続ける人生に、せつなさが塗り重ねられていく◆
ベルトルッチは、溥儀の人生を、皇帝から囚人への転落として描くのではなく、一貫して時代の囚人としての生涯と捉えています。
それは、作中で何度も繰り返される、
”Open the door!”(「門を開けろ!」しかし門が開かれることはありません)
というセリフや、外へ出ようとする溥儀の目の前で閉ざされる門のイメージとして、象徴的に見せられていきます。

(1924年、軍閥のクーデターで紫禁城を制圧され、数少ない家族である正妻と側室を連れて紫禁城を退去する溥儀。城を出ることは長年の望みだったにも拘わらず、その望みが叶えられたのは、皮肉にも権威を失う時だった。)
城という塀の中だけの権力の虚しさ。
権力を欲する人間たちに利用される怒り。
しかし、本当の権力を欲すれば欲するほど、愛する人々が遠ざかっていく悲しみ。
塀の外へ出て自由を得たいという思いと、塀の中の権力に固執するアンビバレントなせめぎ合い。
(満州帝国皇帝に即位した溥儀。甘粕正彦ら関東軍に取り込まれていく溥儀から、妻は次第に離れていく。甘粕役に坂本龍一。坂本龍一は、エンディング・テーマをはじめ一部の音楽も担当している。)
清朝皇帝に即位した幼年時代から、満州帝国時代まで、彼の人生はその繰り返しの中で描かれていきます。
まるで、同じ旋律を繰り返しながら次第に高揚感を増していく交響曲のような、あるいは詩のような、これは繰り返しによって構成された物語です。
そして、溥儀の人生が閉じた軌道を一巡りするごとに、哀しみと切なさが塗り重ねられていきます。
この上なくエモーショナルな音楽と映像の波に心を揺さぶられながら、その波に運ばれていく先に、少しでも明るい運命の転換を祈るうちに、163分という上映時間は瞬く間に過ぎてしまいます。
しかし、映画の中で、溥儀の人生に救いが与えられることはありません。
常に歴史の真ん中を歩みながらも、歴史に見放され続けた溥儀は、社会主義中国で、市井の人として生涯を終えます。
ただ、今は観光スポットとなった紫禁城へ行けば、彼が生きた証が確かにそこにある――
そんな結び方で映画は幕を閉じます。
この映画が公開された1987年から約30年、中国も変わりました。
今やすっかり東西冷戦時代の遺物と化してしまったようにも見える「ラスト・エンペラー」ですが、もう一度観直してみると、この作品の驚くべき普遍性に気づかされます。
坂本龍一、デヴィッド・バーン、コン・スー3名のアーチストが手掛けたサントラも「凄い!」の一言。
みなさまぜひもう一度ご鑑賞を。
※ 「紫禁城の黄昏(Twilight in the Forbidden City)」は、本作にも登場する溥儀の家庭教師レジナルド・ジョンストン(本作の中ではピーター・オトゥールが演じています)が執筆したもの。
(画像は映画DVDから抜粋したものです。使用に問題がある場合にはご連絡いただければ速やかに削除します。)