「チョコレートドーナツ」(Any Day Now) | シネマの万華鏡

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◆B級映画としては異例のヒット作◆


2012年公開のアメリカ映画。監督は、トラヴィス・ファイン。

日本では2014年に公開され、シネスイッチ銀座での単館上映から、最終的には140館を超える拡大公開(ちなみに今週公開の話題作「バードマン」は155館で上映開始)に至ったという、B級映画としては異例のヒット作。


舞台は、1979年のアメリカ・カリフォルニア州。

ドラァグクイーンのルディ(アラン・カミング)と弁護士のポール(ギャレット・ディラハント)という、異色のゲイカップルが主人公です。

2人は、身寄りをなくしたダウン症の少年・マルコに出会い、彼を家族の一員として育てようとしますが、ゲイカップルであることを理由に監護権が認められず、マルコと引き離されてしまい――


◆原題と邦題◆


原題”Any Day Now"(今すぐにでも、いつでも)に対して、邦題は原題とは関連のない「チョコレートドーナツ」。

一度聞いたら忘れられない、キャッチーなタイトルですよね。

邦題に関しては批判も目にするものの、観たくなるタイトルであること間違いなし!

このネーミング、興行的な成功にも貢献したんじゃないでしょうか。


ところで、何故「チョコレートドーナツ」なのか?なんですが・・・

映画の中で、チョコレートドーナツが登場する場面があるんです。

ルディとポール、そしてマルコの3人で夕食のテーブルを囲むシーン。

何も食べようとしないマルコに、ポールがマルコの好物の(チョコレート)ドーナツを与えます。

ルディは、

「夕食にドーナツなんて体に悪いから・・・」

と反対しますが、

「たまになら害はないよ」

と言うポール。

そして、ドーナツを頬張ったマルコの、嬉しそうな笑顔が映し出されます。


何か、喉に小骨が刺さったように、映画を観終わった後もずっと心にひっかかり続けるこのシーン。

食事時に子供にドーナツを食べさせるなんて・・・私の感覚は、ルディと同じ。

子供を思う良い親なら、そんなことはしないはずだと思うわけですよ。

でも、よく考えてみたら、本当にそうなんでしょうか?
大人が匙加減を心得ていてきちんとコントロールできれば、ポールが言うように、時にはそんな日もあっていいのかもしれない。

何も食べず空腹のまま眠るのと、ドーナツを食べて笑顔になって眠るのと・・・一体どちらが、いいんだろう?


ポールがマルコにチョコレートドーナツを与えるシーンが投げかけてくる疑問は、まさにこの作品のテーマにも通じるもののような気がします。

多くの人が絶対と信じて疑わない「良識」が、実はケースによってはより適切な判断をくだす上で妨げになることも多々あるのでは?

例えば、子供にとっての幸せは、本当の親と一緒に暮らすこと・・・という固定観念が場合によっては大きな間違いだということは、まさにこの作品の結末に示されているわけで。


個人的には「チョコレートドーナツ」はこの物語の核心を突いたタイトルだと思います。


◆固定観念が招く悲劇◆


同じく’70年代のゲイ差別の問題を取り上げた「ミルク」などの作品でも分かる通り、この時代のアメリカ社会の、ゲイに対する偏見と差別には、にわかには信じがたいほど凄まじいものがあります。

作中の監護権をめぐる裁判での家庭局側の弁護士の発言からも、ゲイとドラッグ・淫行・少年への性的虐待はワンセットという前提のもとに裁判が進められていることは明らか。

その固定観念のみにとらわれて、マルコの本当の意味での幸せを誰も考えようとしていないのです。




マルコを孤独な死に追いやったもの――それは、偏見と固定観念で真実を見抜く眼を曇らせた社会そのもの。

この作品の時代背景は、ゲイ人権運動が盛り上がり始めたばかりの’70年代で、その後状況は大きく変わった部分もあると思いますが、そんな時代がほんの少し前まであったことは確かだし、恐らく今も社会の根底からは消えていないのではないでしょうか。


◆3人の絆が築かれるエピソードが足りない◆




人気ドラァグクイーンのルディ(いやはや、並の女には太刀打ちできない艶っぽさですわ)ですが、彼の本当の夢は、歌手になること。

それもあって、ルディの歌唱シーンは本作の中で大きなウエイトを占めています。

各シーンで歌われる曲は、シーンの内容にリンクしたもの。既存の曲が使われているものの、ちょっとミュージカル風のテイストも織り込まれています。

ルディ役のアラン・カミングがミュージカルでも実績ある俳優ということで、こういう構成になったんでしょうか。

選曲は、’70年代のディスコミュージックや、ボブ・ディランなど、’60~’70年代の名曲。あの時代の音楽が好きな人には、歌唱シーンも楽しめるかもしれません。

個人的には、アラン・カミングの歌よりは原曲をBGMで聴きたかった気もしますが・・・そこは完全に好みの問題ですね。


ただ、歌が占めるパートが多い一方で、ルディとポールがマルコと暮らした日々の中で、彼らの絆や愛情が深まるエピソードが絶対的に足りない気がします。

当時の社会の中でひどい疎外感を味わっていたはずのゲイのルディが、ダウン症で友達もなく母親にさえ愛されない孤独なマルコに通じ合うものを感じ、彼に癒されていく・・・という流れは、観る側が時代背景などから補えば理解できるとは言え、それが映像として伝えられる場面がほとんどないのは、物足りません。

ハリウッド映画張りの暑苦しいトラジディーとは対極の、B級映画っぽい散漫な展開は私好みなんですが、やはりまずはお互いの絆の形成を見せられないと、別れの哀しみも十分には伝わってこない・・・そこは、どうしても不満として残ってしまいます。


◆今のアメリカでは、どうなんだろう?◆


もう一つ、観終わって何となく引っかかるのが、時代設定が40年近く前だということ。

この物語は、’70年代、障がいを持ち母親に育児放棄された子供をゲイが育てたという実話にヒントを得て作られたフィクションで、’70年代という設定は実話に沿ったもの。

ですが、’70年代と現在では、多分かなりセクシャルマイノリティーを取り巻く環境も変わっているはずです。

今のアメリカだったら、3人は一体どうなるんでしょうか? 

個人的には、そこがとても気になります。

この辺もまた個人の好みの問題の領域に入るのかもしれませんが、社会への問題提起を含む内容の作品に見えるだけに、今のアメリカではどうなのか?今の社会への問いかけが欲しかった気がします。


◆結局、泣いた・・・◆


号泣必至の作品という触れ込みなのに、全く泣けなかったな・・・と思っていたら、ラストシーンの、ポールが裁判に関わった人々に宛ててマルコの消息を綴った手紙の下りで、やっぱり御多聞に漏れず泣いてしまいました。

淡々と手紙を読み上げるだけのモノローグなのに・・・ラストシーンの静かで重い衝撃に、その他諸々への不満はすっかり押し流された気がします。

まったく、最後の最後で完全KO・・・

やはりティッシュは必需品です。



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