限定だったの? 丸亀製麺「肉汁辛うどん」
先週、丸亀製麺で食べた「肉汁辛うどん」が美味しかったのでまた食べたくなって「いつまでやってるのかな?」と調べてみたらHPのメニュー一覧に載っていない。
「肉汁」自体が短期間限定商品みたいなのでこれもそうだったのだろうか?
たまにしか行かない(うどん札が1カ月で3枚たまらないくらい)丸亀製麺でうまいことカチ合ったものだ。
普通の肉汁とラー油を落とした「辛」があった。寒かったので「辛」を選んだ。
豚肉、ネギ、揚げさんが思った以上にたくさん入っていた。「並」分量のうどんだと具を結構食べて行かないと終いには具だけ残ってしまうくらいだ。
つけ麺なので次第に汁が冷えてくる。アツアツが持続する土鍋のようなもののようなもので提供してくれたらよかったな。
日本レース界のレジェンドが走る サウンド・オブ・エンジン ゲスト3名+1名

鈴鹿Sound of ENGINE今年のテーマのひとつ「'60年代プロトタイプ レーシングマシン~日本のモータースポーツの原点~」。
鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリと第3回日本グランプリを戦ったマシンと伝説のドライバーをゲストに迎え、日本のモータースポーツ原点を振り返る。
現在のマシンに比べると性能や安全性がかなり劣るが、運転技術を駆使して走らせていたんだなぁと感じる。
スカイラインGTやR380など展示されている状態では見たことはあっても実際に走っているのを見たのは初めて。しかもオリジナルのドライバーで! NAのトヨタ7は見ることすら初めてかも。
高齢になられてもレーシングカーをサーキット走行させられるとは凄い。さすがはレジェンド・ドライバーたち。
スカイラインGT 1964年/砂子義一氏
初めて車両を見たのは10年前のトミカ博。
ブルーの車体がとても綺麗で、会場でスカイラインGTのトミカを買ってしまったほっだ。
その次は日産ヘリテージコレクションでだった。
2輪ライダーを経て第2回日本グランプリにスカイラインGTで4輪デビュー。ニッサン&プリンスのワークスドライバーとして活躍。
砂子智彦塾長のパパ。
土曜日の走行写真にサインを頂けるように、動画撮影中に静止画撮影(パソコンが無いと動画から静止画抜き取りできないため)。
日曜日に写真にサインをお願いすると―
「あれ? これは昨日の写真?」と砂子氏。
すると傍にいたスタッフが「今は写真できるの早いんですよ」と。
土曜日の朝サイン帳にもサインを頂いたのだが、この時は控室に招き入れて頂いてサインをして下さった。感激モノです。
プリンスR380 1966年/北野元氏
名古屋ノスタルジックカーショーの企画「桜井眞一郎の世界展」で初めて見た。
その次は日産ヘリテージコレクション。
ポルシェを倒すために造られた日本初のプロトタイプ・レーシングカー。第3回日本グランプリで優勝した。
2輪ホンダ・ワークスライダーとして世界GPやマン島TTに参戦。
4輪転向後、日産ワークス入りしてR381で’68年日本グランプリで優勝。
Gr.Aツーリングカーに星野一義選手と組んでスカイラインGTS-Rで参戦していた。
北野元氏がゲストに来られると知って、ドルフィンが持っている唯一の現役写真を用意した。
スーパーシルエットに代わり1984年富士GCのサポートレースとして始まったJSSにインパルから参戦した時の写真だ。
サインを書いて下さっている時に勢い余って写真の台紙にしていたサイン帳にまではみ出てしまった。
土曜日のR380走行写真にサインを頂いた。
トヨタ7 1968年~70年/鮒子田寛氏
V83000ccエンジンを搭載したGr.7マシン。その後、5000cc、ターボとハイパワー化された。
車両開発・製造はトヨタと協力関係にあったヤマハが行った。
オープンシートでもGCとは異なった雰囲気のGr.7マシン。加えて大排気量の爆音が凄い。
こんなマシンがレースをしていたのだから、当時のファンはたまらなかっただろうな。
トヨタ・ワークスのドライバーとしてトヨタ2000GTでの世界記録樹立や日本グランプリ、日本カンナムに出場。
マキ/フォードでF1GPに参戦。予選落ちこそしたものの日本人初のF1ドライバーとなった。
マキF1もレストアされているのだから一緒に走らせてもらいたかった。
また、日本人で初のル・マン24時間参戦ドライバーでもある。
鮒子田選手といえばこのヘルメット!
ドルフィンはこのヘルメットで富士GCに出場している印象が強い。
土曜日のトヨタ7走行写真にサインを頂いた。
以上のレジェンド3名はSound of ENGINEのゲストだが、もう1名、レジェンドがプライベートで走っていた。
その方は「黒い稲妻」桑島正美氏だ!
タキ・レーシング ローラT70MkⅢ 1968年
トヨタとニッサンのワークス対決に割って入ったプライベーターのタキ・レーシング。「TNT対決」と呼ばれるようになった。
ローラT70は多くのプライベーターに販売され、世界のレースで活躍した名車。
激戦区イギリスF3で優勝、ヨーロッパF2では最高4位を獲得した。
F1inJAPANの練習日に走ったウイリアムズは1/43ミニカーにもなっている。
土曜日の走行後に場内アナウンスで桑島氏がドライブしていた事を知った。そのため走行を静止画撮影しておらず写真にサインを頂く事は叶わなかった。
ゲストのレジェンド3名にサインを頂いた後、大トリで桑島選手にサインを頂いてサイン帳が終了した。
桑島選手に「40年ぶりにサインを頂きました」と伝えると
「40年ぶり! そんな歳に見えないけど…」と感激(?)された感じ
「こう見えても○歳なんですよ。F2時代に頂きました」とドルフィン。
「そうなんだ。一緒に写真撮ろう!」―という展開で一緒に写真を撮らせて頂きました。
'78年JAF GPで頂いた桑島選手のサイン
JAF GPを走る黒い稲妻(左)
星野選手、長谷見選手もやってきて桑島選手と記念撮影
全日本F2選手権を築いた一時代が集結した!
’78年F2・JAF GPを観戦したが、そのレースは他にも生沢徹選手、高橋国光選手、中嶋悟選手も走っていたのだ。
'77F1日本GPでネジをもらったウルフWR1再び Sound of ENGINE
スーパーカー、ウルフ・カウンタックでも有名なウォルター・ウルフ。スポンサーに始まり新チームを興して’77年F1GPに参入。ジョディ・シェクター選手のドライブによりウルフWR1/フォードを走らせた。
新チームで開幕戦優勝。その偉業は2006年にブラウンGPが達成するまでどこの新興チームも成し得なかった。
年間3勝してコンストラクターズ・ランキングで3位となった名車。FOSCO開催の日本GPでも走った。
当時、雑誌によって日本GPでの車両名がWR1だったりWR3だったりとまちまちで「WR3とは何のことだ?」と思っていたが、サーキット特性に合わせてモデファイしたシャシー名で基本同一マシンなのだと近年になって分かった。
トドロキスペシャルが基本シャシーは同一で駆動系だけを変更してT1、T2、T3としたのと似ている気がする?
―なので日本GPで走ったマシンもここではWR1と統一させて頂く。
’77年F1日本GPには資金的に24枚撮りフィルム1本しか持って行けなかったので、失敗したものもありウルフWR1の写真は撮れていなかった。
’90年代に雑誌で筑波サーキット等で開催されていたクラシックF1レースにWR1も参加している記事を読んで「日本で持っている方がいるんだ」と知った。「いつか見たい、写真に残したい」と常々思っていた。
今年の鈴鹿Sound of ENGINEに呼ばれる事になったのでとても楽しみにしていた。
何故そこまで楽しみにするほどウルフWR1が好きなのかというと'77年日本GPを走ったマシンであることはもちろんだが、レース後に潜入したパドックでリアウイングを止めているネジをもらったからである。
マシンの解体作業を見ていたらウルフ・チームのスタッフが外したばかりのネジを「持って行けよ」と分けてくれたのだ。これが最初に所有したレーシングカー・パーツだ。
失くしたり錆びたりしないように一番状態が良い1組を通販で買ったグッズでプラスチック固めにして残している(トップ写真、ミニカー横のもの)。当時はコンパウンドとか知らなかったので、表面がだいぶくすんでしまっている。機会をみつけて磨くつもりだ。
リアウイングを止めるネジ。当時車は黒かった
Sound of ENGINE土曜日の朝、ピット巡りをしたのだがウルフWR1が見つからず「またドタキャンか?」と思っていた(昨年は数台あったので)。ところが、昼からのF1練習走行で走っていたので「あ、来てた。やった~!」と歓喜したのだった。どうやらピットが一番端だったので見落としていたようだ。
グリッドウォークになって間近でたっぷりと見る事が出来た。
映画『 ラッシュ/プライドと 友情 』でも重要キャラクターとして登場するレーシングカー・デザイナーのハーベイ・ポスルスウェイト氏が手掛けたWR1。ウイングカーでもなく、ターボ・エンジンでもないのに速かった。シェクター選手の腕もさることながらマシン素性が良かった事を証明している。
シェクター選手のマシンで日本に在るのはWR1くらいかもしれない。
日本GPでスポット・スポンサードした田宮模型の本社展示場にはリアウイング翼端版しかなかった。
デモレース後、手を振って声援に応えるオーナーさん
濃紺にゴールドのライン。赤いウルフ・エンブレム。実にカッコイイ。
後に2輪の水谷勝選手がライディングするスズキRGV-γ500にもウルフ・ブランド・カラーだったこともあり人気がある。
帝王ロスマンズ、マッチ優勝タイサン、レイトン・ポルシェ962 Sound of ENGINE
Gr.C規定のスタート時から参戦し、世界のあらゆるGr.Cレースで長年に渡って優勝し続けた名車中の名車、ポルシェ956/962。
日本でF1開催が無かった'80年代前~中期における唯一の世界戦・WEC世界耐久選手権で、その世界レベルの速さを見せつけてくれた。
ポルシェの素晴らしいところはWEC元年の'82年こそワークスだけだったが'83年からプライベーターにも販売してシリーズを盛り上げた。
年々プライベーターの熟成度も高くなり「ポルシェの敵はポルシェ」と言われるようになった。
Sound of ENGINEには3台もポルシェ962が走行。Gr.C全盛期を思い起こさせてくれた。
ロスマンズ・ポルシェ962LM 1986年
ワークス・ポルシェの証、ロスマンズ。このマシンにシビレた!あこがれたァ!
ドルフィンがWEC JAPANを観戦に行き始めたのは開催2年目の’83年大会から。この年はワークス2台に加え多くのプライベーター・ポルシェが参戦した。
ポルシェ956も初めてならローリング・スタートを見るのも初めて。スタート直後からワークス2台が他を引き離す展開に圧倒させられた。今でもあの時の興奮を思い出すと身が震える。
最後に見た現役ロスマンズ・ポルシェは'86年WEC
昔はこんな角度で写真撮れなかったなー
ル・マン用にロングテール&ローマウントのリアウイング仕様になっている。
公道走行可能状態&車検にしてあるそうだが、このマシンでどこのガソリンスタンドに入れるというのだ? ちょっとした段差でノーズを磨ってしまうぞ!?
タイサン スターカード・ポルシェ962 1984年
’94年に近藤真彦選手がアンソニー・リード選手と組んで全日本GT選手権に出場。第3戦富士で全日本初優勝を遂げた。
Sound of ENGINEで走ったタイサン・ポルシェはこの時のマッチ選手とアンソニー選手のネームが入っているマシンだ。
カラーは優勝した富士と少し異なっている。
優勝した'94年JGTC富士
「GT」選手権に「Cカー」のポルシェが走っていいのか?―との物議があったものの、創設2年目で台数が少なかったJGTCが「ロードゴーイングカーもあるから」みたいな特例措置でOKしたと思う。
レイトンハウス・クレーマー・ポルシェ962 1988年
早い時期からSound of ENGINEでの走行が決まっていた。
そこでドルフィンは'91年に入手したレイトンハウスのブルゾン(F1デザイン)を着て行こうと考えた。
ところが、探せど探せどレイトンのブルゾンが見つからない。確か愛車がS-MXだった頃は車内に緊急用として着替え一式と一緒に積んでいたはず。―となると、大阪に引っ越した時かモコに乗り換えた時に処分してしまっていたのだろう。残念だ。
’87年鈴鹿でのCカー練習日
外観上の至る所に仕様の違いが見られた
F3000、Gr.C、Gr.Aと全日本格式のクラスで大暴れしたレイトンハウス。
一世を風靡したレイトンハウス・カラー。サーキットではもちろんのこと、街中でもレイトンブルーの服を着た若者が多くみられたほど。
皆がみんなレイトンハウスを着ていたので、ドルフィンはベネトンに走ったのだった。
今回は参加していなかったトヨタ/トムスのCカーも見たかった。次に機会があれば走らせて欲しいものだ。
「きばらし」の ふぐコース でプチ同窓会
富田林の近鉄・川西駅近くにある「はも・ふぐ料理 きばらし」でプチ同窓会を行った。
ここで行うのは2度目だが、美味しい上に大阪市内で食べるより格段に安いのでメンバーに好評なのだ。
大阪の冬はやっぱりふぐでしょ。
ふぐコース
付き出し
ごま豆腐、たい子、きのこの炊いたん
ふぐ皮
てっさ
天ぷら
てっちり
動画でお見せできないのが残念なほど、皿の上でまだピクピクと動いているふぐの身。
〆の雑炊
鍋がふたつ、それぞれに鍋奉行がいるので、お奉行様好みの雑炊に仕上がった。
上は「淡路島のふぐ雑炊風」にしたびしゃびしゃの雑炊。
下は出汁を減らして作った雑炊。
どちらも個性があって美味しかった~。
デザート
半年ぶりに集まった昔の悪ガキども。
高校時代は決して仲が良かった者同士ではなかったが、寮生活をしていたので単なる同級生よりも絆が強い。時間が経つにつれそう感じる。
今となると昔の事は笑って話せる。
そしてこの年になると人間ドックで癌が見つかって取っただのなんて健康話が多くなるのだった。
酒が進むとコースに無い単品を続々と注文しはじめる。
ヒレ酒
青白い炎がポッと出た瞬間を押さえたぞ~!
きずし
サバが新鮮で酢の締め方も頃合い。これは絶品だった。
トリ貝
馬刺し
霜降り過ぎてドルフィンには脂が強すぎたー。
みんな元気でまた会いたいものだ。
日本が挑んだマン島TTロードレース Sound of ENGINE
鈴鹿Sound of ENGINE2016の2輪メインイベントの一つ「ISLE of MAN TT―マン島TT」。
本田宗一郎氏のマン島レース出場&優勝宣言と共に始まった日本車の世界挑戦。その創成期のレーサーがGPスクエア展示されていた。
エンジンサウンド・パフォーマンスも行われたのだが、過密スケジュールのためにパドック裏からGPスクエアまで回る事は出来なかった。
ところで「マン島TTレース」ってよく聞くのだが、イマイチよく分からなかった。3年前にも『クローサー・トゥ・ザ・エッジ マン島TTライダー 』という映画にもなっている。これを機に調べてみた。
1904年に自動車レースとして始まっためっちゃ歴史のあるレース。島の公道を使用したコースで、低い安全性に反比例して最高速が高い。
「TT」は「ツーリング・トロフィー」の略。'80年代に開催されていたTT‐F1クラスとかの「TT」もここから由来しているのだろうか? 正確な記述が見つからなかったので不明だ。
第二次大戦後に世界GPの1戦として開催された。4輪で言うところの世界耐久選手権のル・マン24時間みたいなものか?
安全整備が整わなかったために1976年からはWGPから外され、市販車ベースのレースとなった。
これで「マン島TTってWGPと別モノ?」との疑問が晴れた。
現在は「TT Zeroクラス」が新設。電動バイクの主戦場になっている。TEAM無限がEVレーサー「神電」を走らせている。
ホンダRC142 1959年
マン島TTレース125ccクラスに初出場した。
ホンダRC160 1959年
浅間火山レース用に開発された直4DOHC250ccレーサー。
ホンダRC143 トム・フィリス車 1961年
WGPでホンダ初勝利・シリーズチャンピオンを獲得した。
ホンダRC143 高橋国光車 1961年
日本人初のWGP優勝を遂げた国さんのレーサー。
そのエピソードは『赤いペガサス』内でもF1王者ケン・アカバ誕生の起源として語られている。
ゼッケン「100」は今でもスーパーGTのチーム国光のゼッケンとして走る魂とともに継がれている。
ホンダRC164 1963年
ジム・レッドマン選手の250ccワークスレーサー。
マン島250ccクラスとともに鈴鹿での最終戦・日本GPでも優勝してライダー&メーカーのダブルタイトルを獲得。
ヤマハRD56 1965年
フィル・リード選手がライダー&メーカーのダブルタイトルを獲得した空冷2スト250ccワークス・レーサー。
カウリングされたスタイルは『仮面ライダー』のサイクロン号や『紅三四郎』等昔のアニメのバイクに多大なる影響を与えているようだ。
ヤマハRA97 1966年
ヤマン島TTレース初勝利を挙げたマハ初の水冷250ccレーサー。
スズキRK67 1967年
鈴鹿サーキットのデグナー・カーブの名前の起源となったエルンスト・デグナー選手がライディングしてWGP50ccクラスのチャンピオンを獲得。
京商フェラーリ12探しの旅 ―に出たのだが…

京商1/64ミニカー「フェラーリ12」が発売になった。
新車は599XX EvoとFXX Kの2台であとは以前の焼き回し。このやり方をまだ続けているのか。ランボルギーニのように新車2台だけで勝負して欲しかった。
欲しいのが2台だけなので配置表頼りだが検索してもなかなかUPされない。そうだろう、だいたいは仕事から帰ってからケースを開けてみるものだ。
だが、あまり遅くなると仕事終わりに買う方が増えて“手つかず”のケースから選ぶことができない。ジレンマだ。
「配置表があっても別アソートだったら一緒だ」と、トワイライトの町に車を出すことにした。
見えにくい夕暮れ状態の中で飛び出してくるチャリのおばはんや、無謀運転の原チャリをかわしつつ“いつもの”サークルKサンクスへ向かう。
「シークレットが出たらどうしよう?」「FXX Kだけ2つも引いてしまったらどうしよう?」―などと都合の良い事を考えてしまう。まあ、これがクジの良いところだ。
実際に引いて現実を突きつけられるまで夢を見させてもらおう。
さあ、サークルKサンクスに到着だ。ファミマと統合したせいか陳列が変わっている。
いや、それどころか京商ミニカーすら置いていない!?
店員さんに聞くいてバックルームを調べてもらうと入荷予定はないとのこと。
どんなに スカ 不人気シリーズと思える時でも入荷してくれていた“頼りになる店”だったのに…。この店が置いてくれていないとこの先不安だ。
近くの第二候補店に向かう。
次の店でも置いていない! 店員さんも既に聞かれたのか「ウチは入らないですね」と即答。ガ~ン!
帰り道にあるもう1店に向かう。置いている時と置いていない時がある気まぐれな店だ。
だが、聞くまでもなくミニカーやブラインドBOX玩具一切が無かった。
ファミマとの統合で入荷状況が変わってしまったらしい。
「これで一番近所のファミマに入っていたら大笑いだ」と、念のために家から徒歩圏内にあるファミマに寄ったが、やはり無い。
もうこの近辺では置かなくなってしまった。ミニカーラックも置けるスペースが無くなってきたので、京商コンビニミニカーも卒業の時期を迎えてしまったか?
フェラーリ・レーシング・デイズで見たマシン2種だけあって欲しかったのだが…。
鹿先輩ごめんさないッ! ご当地バーガー1位・KAWAのジビエバーガー
パン工房カワに行くと、新しい「里山のジビエバーガー」(483円)が売られていた。
10月に開催された「全国ご当地バーガーグランプリ」で1位を獲得したらしい。
このテの「ご当地」「限定」モノはすぐに手を出してしまうドルフィン。
パテに和歌山県古座川町産の清流鹿を72%使用しているそうだ。
バンズが黒いのは紀州備長炭と16種の穀物を練り込んでいるから。プチプチと雑穀の感触が心地よい。
焼きチーズのせんべい、オニオンフライ、シカ肉とトマトを煮込んだラグーソースと三宝柑マヨネーズがかけられている。徹底的に和歌山産を使用している。
鹿先輩、ごめんなさい。でも吟味して作られているだけあって実に美味しい。
パテを食べても「ちょっと変わったあい挽?」と思う程度で「臭い」とか「野性味がある」とは言い切れないのだが、歯ごたえがあって噛むと味が出てくる感じが良い。
ハンバーガーとしての総合味が優れていてまた食べたくなる味だ。
いつまで販売されるのだろう?
柳田真孝選手と最後のGr.Cカー、ニッサンNP35 鈴鹿Sound of ENGINE
Gr.Cエンジンのレギュレーションが1991年から自然吸気3.5ℓメインに移行さた。ニッサンが使用するターボ・エンジンではハンデが大きすぎるために開発された3.5ℓV12エンジンと専用シャシーのニッサンNP35。
’92年JSPC最終戦にテスト参戦したものの、世界スポーツカー選手権と全日本戦がともに消滅したために、実践は僅か1戦のみで終わった不遇にして最後のGr.Cカー。
スタイルは当時の最速Cカー、ジャガーXJR-14に似ている。
エンジン規定が’91年から変更されることは前々から分かっていたので、日産でも内々の内に開発がおこなわれていた。
実のところドルフィンは’91年に日産エンジン開発責任者の林義正先生(現・東海大学工学部教授)にお会いする機会があった。その時、日産のスタッフが席を外した隙に“コッソリ”と開発中のV12エンジンの写真を見せて頂いたことがある。
まるで仕事中に生まれたばかりの我が子の写真を見せたい親ごさんのようで「本当にエンジンが好きなんだなぁ」と強く印象に残っている。
渦巻き状の水煙を上げて疾走するNP35
たった1戦のみの実戦で、その後はニスモフェスティバル等で走行しているNP35。
実車は日産ヘリテージコレクションで見たものの走行している姿を目にするのは初めて。
柳田真孝選手がドライブスルNP35のエンジン・サウンドを聞くと「これが“あの時”のエンジンが進化した音かぁ」と感慨深いものがあった。
デモレースで完成されたCカーである星野選手のR92CPとバトルしている雄姿を見ると「開発が進んでいたらジャガーすら凌駕するマシンになって、ル・マンでも好成績をあげられたんだろうな」と思わずにはいられない。
土曜日のデモレース終了ラップにはファンに手を振って応えて下さった
柳田選手にはスーパーGTでチャンピオンを獲得した2クラスの写真にサインを入れて頂いた。
「この時のゼッケンは…」と、しっかりマシンのゼッケンに合わせて数字を書き込んで下さった。その心遣いが嬉しい!
HASEMI TOMICA Z 2010年
星野一樹選手とのコンビでシリーズチャンピオン。ゼッケン「3」。
ドルフィンはこの年からデジカメ一眼+スチールカメラで使用していた望遠で撮影するようになった。
S Road REITO MOLA GT-R 2012年
ロニー・クインタレッリ選手とのコンビでGT500クラス連覇。ゼッケン「1」
ニッサンNP35 1992年
土曜日の走行写真。ゼッケン「23」。
星野選手がトークショーで「上下関係厳しいからねぇ。今日も日産の先輩方(砂子氏、北野氏)の送り迎えしてるよ」と話されていた。
当然のように一番若い柳田選手はそれ以上の気配り様が見てとれた。あれだけの大御所に交じって若い者が一人だけって結構辛いものがありそうだ。












































































