[2021マッシュ春旅]2021年5月11日・岩手県・平泉町
 「世界遺産・平泉・中尊寺」武蔵坊弁慶のお墓です。
( ̄ノ ̄)/Ωチーン (´-ω-`)人 i~ 合掌

武蔵坊弁慶墓碑
中尊寺表参道入口前の広場は、中央が竹の垣根囲いとなっていて、大きな松が生えています。その根本に五輪塔があり、武蔵坊弁慶の墓と伝えられています。傍らには「色かへぬ松のあるしや武蔵坊 素鳥」の句碑があります。(昭和54年5月22日特別史跡指定)


 

2021年5月11日 13時40分 晴れ
「金鶏山(きんけいさん)」を無事、降りて義経妻子のお墓に別れを告げて中尊寺を目指して歩いて行くと昨年お世話になった【平泉 翁知屋】さんです。この時、秀衡塗の素晴らしい工芸品を買いました。


翁知屋さんの通りを歩いて行くと近くに町営中尊寺第1・第2駐車場(350台/有料)入口に弁慶のお墓の案内板です。


何度も訪問している平泉の公営駐車場、武蔵坊弁慶のお墓に初めてお参りです。
立派な石碑に墓地内も綺麗に手入れがされていました。


文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、源義経の居館、衣川館(現・高館義経堂)を攻撃され際、義経と義経の正室・郷御前(さとごぜん)、そして4歳になる義経の子を守り、追討軍の前に立ちはだかったとされるのが、武蔵坊弁慶。死後、亡骸が松の根元に埋められたと伝えられ、そこに後世立てられたのが武蔵坊弁慶墓碑です。

色かへぬ松のあるしや武蔵坊 素鳥の句碑

 
武蔵坊弁慶の武勇伝に関しては『義経記』など後世の創作で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、義経郎党の一人として名が記されているのみで、堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘し、身体に矢を受けながらもその場を退かず、立ったまま命が絶えたという「弁慶の立ち往生」も後世の創作ということらしいです。
 
歌舞伎の『勧進帳』も江戸・河原崎座で7代目・市川団十郎の弁慶、2代目・市川九蔵(いちかわくぞう)の市川九蔵(後の六代目團蔵)の富樫左衛門、8代目・市川團十郎の義経、そして海老蔵の弁慶により初演。現在見られる型は明治時代、九代目・市川團十郎により完成されたものです。
 
平泉にある弁慶堂も、元々は火伏せの神として勝軍地蔵菩薩を祀る愛宕堂だった堂。義経・弁慶の木像を安置し、明治の神仏分離以降、市川團十郎による『勧進帳』の隆盛を背景に弁慶堂になったものです。

2021年10月5日「歴史公園・えさし藤原の郷」にて撮影。


 
弁慶のお墓参りを済ませてから中尊寺金色堂にお参りします。

[壁]ω・`)チラッεεε゙(ノ´・ω・)ノタッタッタッεεεチラッ(´・ω[壁]

 

武蔵坊 弁慶(むさしぼう べんけい、武藏坊 辨慶- 文治5年閏4月30日〈1189年6月15日〉?)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。武蔵坊弁慶 - Wikipedia
 

・『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは、義経に仕える怪力無双の荒法師として名高く、ほか創作の世界でも義経と並んで主役格の人気があり、怪力の者や豪傑の代名詞としても広く用いられている。ただし、武蔵坊弁慶の武勇伝に関しては『義経記』など後世の創作で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも、義経郎党の一人として名が記されているのみ。
つまり、堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘し、身体に矢を受けながらもその場を退かず、立ったまま命が絶えたという「弁慶の立ち往生」も後世の創作ということに。
 
・歌舞伎の『勧進帳』も江戸・河原崎座で7代目・市川団十郎の弁慶、2代目・市川九蔵(いちかわくぞう)の市川九蔵(後の六代目團蔵)の富樫左衛門、8代目・市川團十郎の義経、そして海老蔵の弁慶により初演。現在見られる型は明治時代、九代目・市川團十郎により完成されたものです。
 
「武蔵坊弁慶墓碑」
 
中尊寺表参道入口前の広場は、中央が竹の垣根囲いとなっていて、大きな松が生えています。その根本に五輪塔があり、武蔵坊弁慶の墓と伝えられています。傍らには「色かへぬ松のあるしや武蔵坊 素鳥」の句碑があります。(昭和54年5月22日特別史跡指定) 
 
・所在地 平泉町平泉字衣関地内
・連絡先 中尊寺
・電話 0191-46-2211
・交通アクセス(JR) JR東北線平泉駅下車 徒歩20分(タクシー5分)
・交通アクセス(車) 東北自動車道平泉前沢ICから国道4号を一関方面へ5分
駐車場 600台
・時間 午前9時から午後4時まで
・料金 普通車 400円