https://youtu.be/22TuT-69C80
学校の勉強をすることを「悪いこと」と考える人はいないでしょう。
先生の言っていることは「正しいこと」だと考えている人が多いでしょう。
でも、本当にそうなのでしょうか?
もちろん勉強することは「良いこと」でしょう。
知らないよりは知っていた方が、
できないよりはできる方が良い。
でも、それはあくまでも「自分がより高いレベルにいく」ことが目的なはずです。
あなたは、あなたのお子様は、こんな風に勉強していませんか?
「先生に言われたから」
「宿題だから」
「テストがあるから」
「入試があるから」
もちろん、それらの現実に対応することは必要なことです。
それこそが「社会で生きる」ことでもあるからです。
ただし、これらが動機となった勉強は、例えば、
「先生に言われなくなったら」
「宿題がなければ」
「テストが終わったら」
「入試に出なければ」
やらないというものになってしまいます。
…あれ?
おかしくないですか?
多くの人が「勉強は大切なもの」と思っているのに、多くの人は、テストがなければ勉強しないのです。
分かっている人にとってはとても単純なことですが、
でも、多くの場合、それは学校や学校の先生の間でも、
勉強に関する大事な部分が、実は、見逃されてしまっています。
だから、多くの時間をかけて、たくさんの量の宿題をこなし、
先生の言われた通りにやっていても、いや、やっていた方が、
成果が出ない、ということになってしまうのです。
あなたの、あなたのお子様の先生は、こんな課題を出していませんか?
「新しい漢字をノートに1行びっしり練習してくる」
「新出の英単語を10回ずつ書いてくる」
もちろん、漢字などは特に「書いて覚える」というのが大切です。
ほとんど自分では勉強しない人には、
「宿題」という名のしばりを与えて勉強に向かわせる、
というのも、大事なことかもしれません。
しかし、やっぱりここでもきちんとゴールを見ておかないといけない。
ここでのゴールは、
「新しい漢字を覚える」
とか
「覚えた漢字を使える(活用できる)」
というものでしょう。
で、まずは覚えさせるために、
たくさん書いて覚えるというのが「良いこと」だという考えがあるから、
「1行練習」とか「10回書く」という課題が出されるのでしょう。
何と短絡的な、浅い考えなのだろう。
子どもたちはただその苦役のような作業を、
「宿題だから」
「テストがあるから」
「成績が悪くなるから」
という一心でがむしゃらにやります。
こうなると子ども達の目的は覚えることではなく、
「早く1行埋める」ということになってしまうのです。
こうした宿題を出す先生は知っておられるのだろうか。
子ども達は、3回目、3コ目くらいまでは、
意味のある練習になっているけど、
それ以降はただの惰性の作業にしてしまっていることを。
親御さんはぜひそうした課題が出ていた場合、
作業の様子、ノートなどを見てみて下さい。
注意していないと、多くの場合、
3コ目あたりから字は雑だし、
1画違ったり、1文字抜けていたり…
徐々に徐々に間違っていき、しまいには、
間違ったものをくり返し書いていたりします。
はっきり言います。
こんな勉強であればやる意味はない!
今までは自分が直接見られる範囲の子どもたちには、
その親御さんにだけは、ちゃんと伝えよう、と思っていました。
でも、もう我慢なりません。
先の宿題の例はほんの一例にしか過ぎません。
一見それっぽいし、「良いこと」のように思えることも、
学校や先生という「権威」、昔からみんなやっているという「慣習」、
そんな枠組みを取っ払うと、実はけっこう無意味なことをさせられています。
もちろん、やる側の意識が違っていれば、
それだって意味のあるものにできます。
でも、それを先生が、勉強歴の浅い小中学生にやってはいけないと思う。
それならば、きちんと勉強のやり方、やる意味、を教えてあげないといけない。
その部分は伝えないのに、テストや成績をちらつかせて、
何の意味があるかよく分からない、
きっと先生自身だってツッコんだらよく分かっていない作業、
そんなことをやらせるのは完全にアンフェア―です。
きっとこの思いに共感して下さる方もいるでしょう。
もしかしたら僕が思っているより多くの人が同じように思っているかも知れません。
でも、多くの人は、先生が付ける「成績」のために、
それすら表に出せずにいるのかもしれない。
もしかしたら、いろんな変なことに気づいているけど、
でもどうしたらいいのかよく分からないという人もいるのかもしれない。
僕自身が直接顔を合わせ、声を届けられる範囲の人には、
受け止めてもらえるかどうかは別にして、伝えてきたつもりです。
少なくとも自分の手の届く範囲で、と思ってきました。
でも、もしかしたら、その範囲を広げることで、
日々の勉強が、
もっと意味のあるものに…
「自分のレベルアップ」にちゃんとつながるものに…
これからの人生を切り拓くための強い武器を手にするものに…
そのようにデキる人が増えるのではないかと思ったら、
「やらなきゃ!」って改めて思いました。
別に自分の正義をふりかざすつもりはありません。
これも一つの価値観です。
「それは違うでしょー」
って思う人もいることでしょう。
でも、少なくとも学校や先生、テストや入試などの、
「権威」のようなものを振りかざして強いる「勉強」なんかに、
僕の価値観は負けません。
だって、僕が考える「本当に意味のある勉強」は、
テストでだって、入試でだって、
学校や先生という価値観の中でだって、
十分に「優等生」にもなれてしまうものです。
別に特別な裏技を伝えようというわけでもありません。
なんなら、僕のお伝えすることの方が、
本来の「勉強のあるべき姿」だとさえ思っています。
「学校」とか「先生」という価値観を疑ったことがなく、
なんとなく「勉強は良いこと」と考えている方は、
ぜひ一度考えてみませんか?
実際のところ、
「なぜ勉強は良いことなのか?」
「なんで勉強するのか?」
「どうやって勉強するべきなのか?」
と。
その時にいま学校や先生から言われれていることが、
自分でも大事なことであったなら、
そのときは、学校や先生の言われた通りに行動するべきでしょう。
それで結果がなかなか出ないのであれば、
それはやり方が間違っているか、量が少ないか、
いずれにしても先生に言われた通りにできていないのでしょう。
きちんと相談するなりして結果につながる行動を取ってください。
ただし、なんとなく学校や先生の投げかけに「?」がついてしまったら、やっぱりそこはうやむやにせずきちんと考え抜いてください。
答えがなかなか出せずに苦しい思いをするかもしれません。
でも、そこから逃げてしまってはきっと良いことは何もないでしょう。
疑問を持ちながら、
良いか悪いかよくわからない作業を、
あと何年も何年もくり返すなんて…
考えただけでゾッとします。
コメントやメッセージをくだされば、
相談にならいくらでものります。
でも、答えを出すのはやはり自分。
その答えを出すひとつの参考資料にでもなればと、
動画を貼り付けます。
以前から親交のある前田塾の塾長先生との雑談を撮ったものです。
ぜひご覧ください。
https://youtu.be/22TuT-69C80
ご覧下さった方は感想を聞かせて頂ければうれしいです。
みなさんは、勉強をどうとらえているのでしょうか?
単純な疑問です。
新年度、新学期になり、塾を利用しようと考えている方もいらっしゃると思います。
特に、中学校に入学したての方であれば、
定期試験、今後の高校入試などのことを考え、
これまで以上に学習についての不安も多いことだと思います。
春休みからすでに春期講習などを利用したりして、
塾を決めたという方もいらっしゃると思います。
どうやって塾を選びましたか?
紹介キャンペーンがあったから?
成績が良い人が通っている塾だから?
もちろんそういう選び方もひとつです。
それが良い結果をもたらす場合もあります。
しかし、きっかけはそうだとしても、
もっと考えるべきことがあるはずではないでしょうか。
成績の良い人の学習の方法が、
自分にとっても有効な方法なのでしょうか。
仕事柄、学習に課題を持たれている方、
塾を探している方にたくさんお会いします。
プライベートでも友人、知人から多くの相談を受けます。
きちんとお考えの方は、実はどういった選択をしても、
大きく失敗したり、後悔することは少ないような気がします。
しかし、決して少なくない数の人が、
塾業界の論理で完全な「お客様」となってしまっています。
より良い塾に通いたい。
より良い先生の指導を受けたい。
そのために必要なこととは…
塾選びで後悔したくない方
塾選びでもう失敗したくない方
ぜひご覧ください!
【4月12日追記】
※続編も公開されています。続きは↓こちら↓でご覧ください。
塾選びのポイント―後悔しないために知っておくべきこと
(外部サイト【自習力養成講座 賢い塾の選び方】にとびます)
文部科学省が発表した2015年度の「英語教育実施状況調査」結果に注目!
すでに英語教育については、ずいぶん前から様々な議論がなされています。
文法中心の学習に偏った日本の英語教育は批判の的となり、
リスニングやスピーキングなど会話力を上げるべしという論調も強い。
この調査は、全国の中高生を対象としたもので、
「実用英語技能検定」いわゆる「英検」のレベルに沿った結果が
公表され、新聞報道でも一面をかざった。
高校3年生で「英検準2級程度」以上の英語力を持つ生徒は34.3%、
中学3年生で「英検3級程度」以上の英語力を持つ生徒は36.6%、
だという。
何ということだ。
もちろん、一応英検を基準に考えるとってことで、
全員が全員英検を受けているわけではないし、
都道府県あるいは市町村によっても
ある程度基準にゆれはあるのでしょう。
とはいえ、英検3級といえば、中学卒業程度。
早い人であれば中2の終わりとか、3年生の最初にはとってしまうレベル。
いやいや、そもそも高校入試を突破するレベルであれば、
英検3級はいけるでしょ、というかいっていないと、ね。
だから、結局そうなんですよね。
テストの点、成績など、
そのあたりの数字ばかりを気にしている。
そんな勉強ばかり。
入試も合格という「結果」が大事で、
(いやもちろん大事なんだけど)
そのプロセスや肝心の学習内容の点や、
その知識を自分の血肉化することには、
ほとんど関心が向けられない。
そんな勉強ばかり。
だから、何となく入試は突破して、
上位の学校に進学していっても、
実際にはあんまり実力が伴っていない、
なんてことがごく普通になっている。
英検3級程度の学習は済んでいるからこそ、
「高等学校」に進学できるはずなのに、
実態はそうはなっていないということ。
なんだか、とても不健全だと思うのですが、
みなさんはどう思いますか?
すでに入試というものが意味のあるものとして、
機能していないってことにもなりかねない事態です。
もちろん、英検がすべてではないし、
英語で読み書きができ、
話したり聞いたりできるってことがすべてではない。
でも、これだけ英語教育ってのはふつうに浸透している。
それなら、もうちょっと工夫しないと、
入試やテストのための教科ってことに、
やっぱりなってしまう。
いつになったら、どういう風な結果がでてくれば、
この話題に変化がみられるようになるのでしょう。
きっと僕が中高生の頃からこんな話しているはず。
そろそろ、ね。
なんかしら変わろうよ。
本日が入学式という方も多いのではないでしょうか。
進学ではなく、進級という方も今日から新学期を迎えていることでしょう。
入学おめでとうございます!
進級おめでとうございます!
さぁ、新たな生活のはじまりです。
新たな学校、新たなクラス、何かと新しいものずくし。
最初は緊張感でいっぱいでしょう。
新年度、新学期のはじまりですから、
気持ち新たにいろんなことにチャレンジしていってほしいと思います。
が、あまり頑張り過ぎて疲れちゃわないようにするのも大切です。
スタートは肝心。
でもあまりにもふだんと変え過ぎて、
心も体も付いてこないというのでは意味がない。
そういう人はたいてい「5月病」になっちゃいますよ。
だから、結局どんな時も、目の前のことに全力で取り組むこと、
これが一番。
めんどくさいって思うことも、
特に勉強のようなことはそうですが、
そういうことを丁寧にやり切れるかどうか、
そこにこそ自分の成長の鍵があります。
めんどくさいことをやりとげるから成長できるのです。
楽なことをやるだけでは人は変われません。
むしろ退化すらしてしまうでしょう。
だからといって、いきなり高すぎる目標をかかげて、
すぐに息が上がってしまうような計画を立てても、
それこそ3日坊主で終わってしまいます。
そんなの不健全です。
日々、その時々があなたの成長ポイントです。
どこかで瞬間的にだけ力を入れても、
その時は良いかもしれない。
でも、打ち上げ花火のように一瞬で消えては意味がないこともある。
だから、変に気負わずに行こう。
でも、大事なことは丁寧にコツコツと取り組むことを忘れずに。
そして、ぜひ本当にいろんなことにチャレンジしてみよう。
「自分なんて…」
「これは無理でしょ!?」
「こんなの意味ない」
なんて勝手に決めつけずに、やれそうなことは何でも。
もしかしたら自分には合わないと思っていたものが、
この先の人生を大きく変えるほど、
自分にとってかけがえのないものかもしれない。
だって、あなたいくつだよ!?
そんなに世の中のすべてのことをやりつくして、
知りつくしているわけではないでしょ!?
自分のこともそう。
大人だって、ふとした時に、
新たな自分を発見することがあるものです。
まだ学生のあなたなら、
きっともっともっとたくさんの自分にも出会えるでしょう。
まだ知らない未知の自分に出会うためには、
未知の何かに出会うしかない。
誰かや何かに出会うことでしか、人は自分を知ることはできません。
だから、この先自分がどうしたいか、どうしていくべきか、将来のことなんかをうっすらと考え始めているのであれば、なおさら、様々なことに挑戦し、まだ見ぬ自分を掘り起こしてみよう!
そんなことを全力でできるのは、もしかしたら今この瞬間だけかもしれない。
もちろん新しい生活というのは、楽しいこと、うれしいこと、喜ばしいことだけではないかもしれない。
ツラい、苦しい経験もいっぱいするかもしれない。
そういう場面に出くわす本人からすれば、
そんな経験いらないって思うかもしれない。
でも、そういう経験も自分が成長するうえでは欠かせないもの。
その場にいる時にはそんなゆとりないかもしれないけど、
でも、辛いな、苦しいなって思ったら、その時はこんな風にも思ってほしい。
「あ、きっといま成長している最中なんだ」
あなたの新生活が、あなたにたくさんの幸せと、実りをもたらしてくれますように!
そのためにも、あなた自身が励めッ!!
僕もがんばるッ!!
こんばんは。
今日は、横浜市内の多くの小中学生が終業式。
いよいよ待ちに待った春休みです。
そして、休みが明ければ進級。
新たな学年での新生活がはじまります。
ということは、成績表・あゆみが配布されたはずです。
さぁ、今年度はどんな活動をし、
どんな評価を担任の先生からもらったのでしょうか。
良かったものは継続して、
良くなかったものはどうすればいいのか、
春休みの間にぜひ振り返っておきましょう。
テストの場合も同じですが、成績表をもらうと、
最終的な評価(数字や記号)の部分のみを見る人がいます。
特に、大人はついついそうなりがちです。
もちろん結果は大事です。
しかし、結果の部分ばかりに注目し過ぎると、
肝心なことに目を向けられなくなるおそれがあります。
一向に自分の弱点が克服できない、とか、
むしろどんどん成績が下がってしまうことも。
最近は細かい観点別評価もあります。
それが何を元にしてつけられた評価かは、
実際には担当の先生しか分かり得ません。
それでも、テストや提出物(課題)などが、
その中心になっていることは間違いありません。
つまり、すべては自分自身の行いの結果なのです。
誰がどうみても文句のつけようがないくらい努力していて、
それなのに、誰がどうみても納得できない評価であれば、
それは担当の先生の見る目を疑うべきです。
しかし、自分の胸に手を当ててみたときに、
自分に全く否がなかったか、
胸を張っていえないというのであれば、
そここそが自分の改善ポイントであります。
もちろん評価はある程度正当にされていて、
でも、そのように評価することが良いのか悪いのか、
そういう議論もあるでしょう。
それは闘うべきところかもしれませんが、
すぐにどうこう変わるってことは現実的にはありません。
小中高生にとっては、学校は数年もすれば卒業する場所です。
その場所での評価が多くの場合次の学校への「切符」になっております。
だったら、本意ではなくても良い評価が得られるように行動するのは一つの処世術です。
もちろん、そんな本心ではないことに自分をかけられない、というのも一つの価値観です。
だから、学校の評価などをあまり気にせず、真に自分が目指すものに向かうという姿勢も素晴らしいものだと思います。
ただ、その時にひとつだけ心に留めておいてほしいことがあります。
自分で自分の道を切り開くというのは、生半可な気持ちでできることではありません。
テストで点数をとったり、良い成績を取ることなんて比べものにならないくらいの圧倒的な努力と、運が必要でしょう。
さらに、誰にも負けないくらい圧倒的な努力をしても、必ずしも良い結果が出ず、その努力が報われないこともしばしばなのです。
もちろん、それでも目指すからこそ自分の道なわけで、それを人は夢って呼ぶのです。
だから、そんな文字通り人生かけるような大事な出来事を、単に勉強や成績から逃げるための口実として使わないでくださいね。
よくこういう人がいるのです。
「学校の成績なんてどうでもいいし」
「俺は自分がやりたいことを好きなようにやっていくから」
もちろん、好きなことを好きなようにやっていくのは良いことだ。
でも、その道はいばらの道だってことを分かって、覚悟を決めて進まないといけない道。
それに比べれば学校の勉強なんて、ルールにしたがって、きちんと行動すれば必ず結果がついてくるものなんだ。
だから、勉強から逃げ「自分のやりたいこと」に安易に向かった人は、きっとその「自分のやりたいこと」なんて1ミリも達成できないだろう。
そんな甘いものじゃない。
「なんで勉強しなければいけないの?」
「なんでこんなことしなければいけないの?」
というような発言があるたびに、
僕はいつもこう言います。
「こんなこともできないで、何ができるの?」
もちろん、甘えからくる発言の場合という前提付きですが。
大変厳しい言い方かもしれませんが、
学校の勉強ってのは将来自分が達成したいことに比べれば、
圧倒的に簡単に結果が出るものです。
だから、勉強と向き合う中で自分を磨く訓練をしておけば、
それはきっと将来何かを達成するときの基盤となるはずです。
そのようにこそ勉強はすべきなのです。
だから、逆に、勉強さえしておけばいい、とか、
テストの結果、成績の数字だけを見て、
それが良ければそれでいい、なんて考えもちょっと違うと思います。
春休みなんてのは、あっという間に終わってしまいます。
一年の区切れ目ですから、ちょっと一息入れるのもいいでしょう。
ただし、気が付いたら明日から新学期じゃん、なんてことにはならないように。
新学期を迎える前にちゃんと自分の弱点を克服しておきましょう。
テストが終わったから終わり、成績出たからもう関係ない、なんて言っていたら、あとで痛い目を見ますよ。
学習はつながっています。
今できないものがあれば、次にまた同様の部分でつまづきます。
あとに課題を残せば残しただけ、何倍にも辛さが膨れ上がります。
今、ちょっとしたケアで済むうちに細々と修正しておきましょう。
何か不安なことがあれば遠慮なく相談して下さいね。
P.S.
それにしても花粉がヒドイ。
目がかゆくてかゆくて、
常に泣いている感じです。
あなたはどうですか?
なにか花粉症対策で有効な方法があれば、ぜひ教えてください。
横浜市の学力・学習状況調査の結果が返却されたと、多くの生徒が結果を持ってきて見せてくれました。
かなりな数の子どもたちが「活用」部分での正答率が低いですね。
最近のテストの傾向ですが、国語などでも図表を用いた問題の出題が多く、まずは問題や資料を整理する力が求められています。
国語に関して言えば、従来は、いわゆる「読解問題」が中心で、漢字や文法(ことばのきまり)など以外は、ほとんどが長めの文章を読んでその内容に関する問題を解くというのが定番でした。
2000年あたりからOECD-PISAが実施され、平成19年からは全国でも学力・学習状況調査が行われています。
学力低下問題などもずいぶんと前から指摘されていますから、細かい調査は必要なのでしょう。
ただ、やはりテストからみには敏感に反応してしまいます。
以前から僕は勉強が「テストのための学習」になりすぎていないか、という問題意識を持っていて、そういった趣旨の発信を続けています。
大学院でも同テーマを中心に研究をしていたので、テストについてはいろいろと思うところがあるのです。
上にあげたOECD-PISAなどは国際的な学力調査で、このテストが注目されたのは2003年。
日本の成績、特に「読解力(正確にはReading-Literacy)」の順位が低下したとき。
「PISAショック」などといって社会的なニュースになりました。
それ以降は結果が新聞の一面をかざるほどにメジャーなニューストピックにもなっています。
その影響も受ける形で全国学力・学習状況調査が復活しました。
最近では、そうした新しい流れのテストが意識され、教室の中でも「活用」や「活動」などが重視される傾向にあります。
従来の知識暗記型の学習ではこれからの時代を生きる力としては不十分だという理由でしょう。
それ自体は何の異論もないのですが、一方でテストがあり過ぎはしないか、という印象を持っています。
もちろん学習状況を把握するにはこまめにテストをせざるを得ません。
しかし、そのテストも、単に成績を付けるためとか、テストがあるから勉強しろ、という扱われ方になってしまっては、いったい何のための勉強なのか、何のためのテストなのか、本来の目的がわからなくなってしまいます。
さらに、中学・高校の定期テストも同じですが、テストを実施したあとの指導者側の在り方は大いに問題があるように感じます。
定期テストだけでなく、夏休みの宿題とか課題提出についても、本当に意義のあるものになっているのか大いに疑問であります。
分かりやすい例でいえば、ノート提出。
近年、学習評価の仕方が変わり、いわゆる「関心・意欲・態度」の部分が重視されてきています。
その観点別評価の基準として、提出物やノート点などがあてられています。
それ自体はまぁ良いとしても、そのやり方ですよね。
どんなノートが良いのか、その子にとってどう使うのと学習効果があがるのか、そのあたりの本質的なことはさておき、形式的に、単に「見栄えが良い」とか、色が使われているとか、そんなレベルで評価がされているのだとしたら(現にそんな印象の先生もいます)、それって本当に意味があることなのでしょうか?
そうした肝心な指導とか、成長やレベルアップへの気付きを与えることなく、単に形式的にテストや提出をしていて、いったいどんな意味があるのでしょうか。
いやいや、それならそもそも先生の仕事って何なのでしょうか。
今回の学力調査も、もちろん生徒本人に対して「これからの学習に活かしましょう」ってことなんだろうけど、同時に指導者側に対しても、「これからの指導に活かしましょう」ってことであるはずです。
多くの場合、テストの結果は生徒が努力をしなかったと、本人の責任にされておわります。
もちろん、本人が努力すべきことです。
ただ、本人が間違った方向に努力していたり、先生の指導の在り方で正しく学習が進んでいなかったという場合は、どうなるのでしょうか。
それでも良くなかった結果はすべて「本人の努力が足りなかったせい」にしてしまって良いのでしょうか。
教育評価という観点で考えれば、テストは生徒だけでなく教員側の反省材料とすべきものです。
どうも日本の学校教育現場では、その点が軽く扱われている印象を受けてしまいます。
頑張っている先生、テスト結果をきちんと次回の授業に活かしている先生には、ごめんなさい。
でも、僕のところに来る生徒は、みんな言います。
「テストが終わったらその学習は終わり」としているのは、生徒だけではなく、先生も同じだと。
年間カリキュラムの問題や学校行事などの問題もありますから、そうそう一つのことに時間を費やせないという現実も分かります。
それなら、単に儀式化してしまっているテストはこの際やらないくらいの英断を求めます。
テストを受ける時間を学習に、生徒それぞれの課題・弱点克服の時間に使いましょうよ。
ま、それがおいそれとできないってことも分かるので、ちょっとむなしいですが… 苦笑

テストの成績が気になる一方で、中高生の5割が「勉強しようという気持ちがわかない」 年齢が上がるにつれて「得意」が減る傾向も
ベネッセ教育総合研究所が3月14日、東京大学社会科学研究所と共同で実施した「子どもの生活と学びに関..........≪続きを読む≫
大変興味深い調査結果です。
とはいえ、すでにこのことはさまざまな調査で分かっていることであります。
文科省が毎年実施している「全国学力・学習状況調査」や国際学力調査であるOECD-PISAにおいても、日本の学生は端的に言って、「基礎的な能力は高いけど、学習意欲が低い」という結果が出ています。
これは多くの人が実際に見聞きし、実感されていることのようにも思います。
社会現象や教育問題は教員や関係者の経験則で語られることもあるのですが、この話題に関しては、もういくつもの調査で明らかにされているので、まず間違いのないことなのでしょう。
それが近々の調査でも明らかにされたのですから、やはり教育関係者を始め、子を持つ親御さんはより意識して教育を考えて頂きたいものです。
だって、学習意欲が低いのに能力は高いっていうのは、よくよく考えればたいへん不思議な現象ではないですか?
そんな人が社会に出て、現在ようなの変化の早い、激しい社会の中で、どうやって活躍していくのでしょうか。
意欲が低いのであれば行動が伴わず、学力の形成だって上手くいかない…というのが自然な流れのような気もします。
しかし、日本の学生は「嫌々やっていて、それなりに力はつけている」という状態。
記事にもあるように学習意欲の低い学生もテストの成績は気になる、というのです。
「ここテストに出すぞー」
「ここテストに出るからしっかりやっておけ」
勉強の場面では、こうしたセリフをよく見聞きします。
もちろん僕自身も「テスト対策」を依頼される身ですから、そうした場面では「これはテストに出るから」という投げかけをすることがあります。
ただ、やはり日本においては、テストを過度に意識した勉強が学習のすべてになってしまってはいないか。
実は、それが今回の調査結果が示すような現象をもたらす要因になっていると思うのです。
僕はこれまでも同様の趣旨のことはくり返し語ってきましたし、ラーニング・ラボというのは、そんな問題意識から発信した学びの場の1つであります。
「学習意欲が低いのに学力はある」
テストというものが必要以上に強力な装置として子どもの学習に多大な影響力をもってしまっている。
だからこそ、テストへの意識は高い。
しかし、テストで良い成績を得る以外(以上)に学習をする目的意識はない。
ただし、テストで一定の成績を得ることをしているから、能力はそこそこ高い。
世界に目を向ければ、こんな摩訶不思議な状況は稀有な存在であり、ある意味贅沢な悩みとも言えます。
「勉強したくてもできない」
途上国などでは当たり前に存在する状況です。
でも、だからこそ彼らは非常に意欲が高く、学べる環境があればもの凄い勢いで学ぶ。
だから、意欲も能力も高い。
現在、東南アジア諸国などでは経済的は発展が目覚ましく、学習意欲が高く、よって能力の高い学生もたくさんいます。
日本はアジアの中ではいち早く先進国となり、経済的にも繁栄してきました。
が、もはやいまはその過去の遺産を継承し、何とか経済大国という立ち位置にいるという状態です。
このままではおそらく新興国にその地位を取って代わられるでしょう。
もちろん彼らをリードできる立場にいなければならないわけではありません。
別に世界No1、No2で在り続けることがすべてではありません。
しかし、自ら衰退の一途をたどるのを甘んじて受け入れるのは何となく違う、僕はそう思います。
だからこそ、彼らの勢いで相対的に順位などが変わったとしても、日本は日本でしっかり自分たちの立ち位置を見出し、発展していかなければなりません。
それは僕らが頑張るってことも大事ですが、これからの世代の子ども達にもそうした価値観を持ってもらい、皆が国や地域、世界というものを意識して働いていかなければならないことです。
だから、みなさん。
ちょっとテストとか入試みたいなもの中心に考えた教育を置いておきませんか?
いやいやそんなの急には無理だというのはわかっています。
だから、テストや入試みたいなものに振り回されず、大事な学習がきちんとできるようにしませんか?
このままの状態が進んで行けば、間違いなく日本の社会はぐだぐだになるでしょう。
すでにオックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授が、10年後に消える仕事などを発表しています。
約47%の仕事が消滅するとか。
Googleの創業者でCEOのラリー・ペイジも人工知能の発達によって多くの人が今とは異なる仕事に就いていると語っています。
そうした大きな変化がすぐそこまで来ているのに、人間が学ぶことが旧来のままのテストにしばられたもので良いはずがない。
これまでのテストや入試で測られる力の大きな特徴は、情報の記憶量とその短時間での処理能力です。
近代社会を構築するために、日本は近代列強が持つような軍隊と工場が必要でした。
だからこそ、そのための素養を培うことを目的として近代学校が導入されました。
それは戦後にも継承され、日本においては「入学試験」が強い力を持った学校制度が教育の中心に置かれます。
だからこそ「学歴社会」や「学歴主義」などが誕生し、その弊害は1980年代あたりから顕在化しはじめました。
テストや入試は近代日本にとっては良い悪いは別にして必要不可欠なものであったともいえます。
しかし、今はもう、そこで求められる力は何の価値もなくなるかもしれないものなのです。
もちろん、まったく否定するつもりも、するべきものでもありません。
しかし、ギリギリなんとかそれを習得したところで、将来どうにもならないというほどのものなのだという認識は少なくとも持っておくべきです。
20年前であればそれだけで、ある意味安泰な人生が待っていたのでしょう。
学校の勉強を頑張って良い大学に入れば、それで人生上がりだったのでしょう。
でも、いまはもう無理です。
良い大学に入ったということだけではその先の長い人生目をつぶってても良い方に流れるなんて、そんな「幸せな」時代は幕を下ろしました。
だからお願いです。
ちゃんと勉強しましょ。
いや、学びましょ。
なぜ僕がこんなことをいうのか。
その理由はただ一つ。
僕自身が良い社会に生きて、良い人生を全うしたいから。
程度の差や内容の多少の違いはあれ、あなたも同じように考えてはいませんか?
人間は良くも悪くも一人では生きていけません。
多くの人やモノたちと直接、間接的につながって生きています。
生かされていると言っても良いでしょう。
だから、環境が、周囲の人やモノが、社会が世界がよろしくなければ、自分一人が頑張ったって、結果は良いものにはならないのです。
だから、僕は周りの人とともに良いものを目指したい。
「勉強したくない」
「メンドクサイことはしたくない」
「将来!?…特に何もない」
なんて寂しいことを平然と言ってのける子どもばかりが増えるような事態をなくしたい。
そのためにこそ僕は働いているつもりです。
もちろん微々たる力ですから、その思いを日々実現できているわけではありません。
だから、あなたにも協力して頂きたいのです。
だから、あなたにも目を覚まして頂きたいのです。
だから、あなたにもくり返しこうしてご提案しているのです。
「みんなで一緒に頑張りませんか!?」と。
何か現状に閉塞感や不健全さ、危険性などを感じ取られた方は、ぜひ考えてみてください。
そして、その考えをぜひお聞かせください。
何かのヒントになればと、以下のようなカテゴリーをつくって気になる記事をストックしたり、情報をまとめています。
ぜひご覧ください。
「これからの時代を生きる力って何だ!?」
そして最後に、やっぱり多くの人に見てほしい。
きっと何かを感じてもらえるはずです。
至るところで引用していますが、しつこくもう一度ご紹介します。
※同様の趣旨でサイトをつくっています。よろしければぜひご覧ください。
【偏差値が高いだけの受験学力バカにならない学習方法】
ベネッセ教育総合研究所が3月14日、東京大学社会科学研究所と共同で実施した「子どもの生活と学びに関..........≪続きを読む≫
大変興味深い調査結果です。
とはいえ、すでにこのことはさまざまな調査で分かっていることであります。
文科省が毎年実施している「全国学力・学習状況調査」や国際学力調査であるOECD-PISAにおいても、日本の学生は端的に言って、「基礎的な能力は高いけど、学習意欲が低い」という結果が出ています。
これは多くの人が実際に見聞きし、実感されていることのようにも思います。
社会現象や教育問題は教員や関係者の経験則で語られることもあるのですが、この話題に関しては、もういくつもの調査で明らかにされているので、まず間違いのないことなのでしょう。
それが近々の調査でも明らかにされたのですから、やはり教育関係者を始め、子を持つ親御さんはより意識して教育を考えて頂きたいものです。
だって、学習意欲が低いのに能力は高いっていうのは、よくよく考えればたいへん不思議な現象ではないですか?
そんな人が社会に出て、現在ようなの変化の早い、激しい社会の中で、どうやって活躍していくのでしょうか。
意欲が低いのであれば行動が伴わず、学力の形成だって上手くいかない…というのが自然な流れのような気もします。
しかし、日本の学生は「嫌々やっていて、それなりに力はつけている」という状態。
記事にもあるように学習意欲の低い学生もテストの成績は気になる、というのです。
「ここテストに出すぞー」
「ここテストに出るからしっかりやっておけ」
勉強の場面では、こうしたセリフをよく見聞きします。
もちろん僕自身も「テスト対策」を依頼される身ですから、そうした場面では「これはテストに出るから」という投げかけをすることがあります。
ただ、やはり日本においては、テストを過度に意識した勉強が学習のすべてになってしまってはいないか。
実は、それが今回の調査結果が示すような現象をもたらす要因になっていると思うのです。
僕はこれまでも同様の趣旨のことはくり返し語ってきましたし、ラーニング・ラボというのは、そんな問題意識から発信した学びの場の1つであります。
「学習意欲が低いのに学力はある」
テストというものが必要以上に強力な装置として子どもの学習に多大な影響力をもってしまっている。
だからこそ、テストへの意識は高い。
しかし、テストで良い成績を得る以外(以上)に学習をする目的意識はない。
ただし、テストで一定の成績を得ることをしているから、能力はそこそこ高い。
世界に目を向ければ、こんな摩訶不思議な状況は稀有な存在であり、ある意味贅沢な悩みとも言えます。
「勉強したくてもできない」
途上国などでは当たり前に存在する状況です。
でも、だからこそ彼らは非常に意欲が高く、学べる環境があればもの凄い勢いで学ぶ。
だから、意欲も能力も高い。
現在、東南アジア諸国などでは経済的は発展が目覚ましく、学習意欲が高く、よって能力の高い学生もたくさんいます。
日本はアジアの中ではいち早く先進国となり、経済的にも繁栄してきました。
が、もはやいまはその過去の遺産を継承し、何とか経済大国という立ち位置にいるという状態です。
このままではおそらく新興国にその地位を取って代わられるでしょう。
もちろん彼らをリードできる立場にいなければならないわけではありません。
別に世界No1、No2で在り続けることがすべてではありません。
しかし、自ら衰退の一途をたどるのを甘んじて受け入れるのは何となく違う、僕はそう思います。
だからこそ、彼らの勢いで相対的に順位などが変わったとしても、日本は日本でしっかり自分たちの立ち位置を見出し、発展していかなければなりません。
それは僕らが頑張るってことも大事ですが、これからの世代の子ども達にもそうした価値観を持ってもらい、皆が国や地域、世界というものを意識して働いていかなければならないことです。
だから、みなさん。
ちょっとテストとか入試みたいなもの中心に考えた教育を置いておきませんか?
いやいやそんなの急には無理だというのはわかっています。
だから、テストや入試みたいなものに振り回されず、大事な学習がきちんとできるようにしませんか?
このままの状態が進んで行けば、間違いなく日本の社会はぐだぐだになるでしょう。
すでにオックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授が、10年後に消える仕事などを発表しています。
約47%の仕事が消滅するとか。
Googleの創業者でCEOのラリー・ペイジも人工知能の発達によって多くの人が今とは異なる仕事に就いていると語っています。
そうした大きな変化がすぐそこまで来ているのに、人間が学ぶことが旧来のままのテストにしばられたもので良いはずがない。
これまでのテストや入試で測られる力の大きな特徴は、情報の記憶量とその短時間での処理能力です。
近代社会を構築するために、日本は近代列強が持つような軍隊と工場が必要でした。
だからこそ、そのための素養を培うことを目的として近代学校が導入されました。
それは戦後にも継承され、日本においては「入学試験」が強い力を持った学校制度が教育の中心に置かれます。
だからこそ「学歴社会」や「学歴主義」などが誕生し、その弊害は1980年代あたりから顕在化しはじめました。
テストや入試は近代日本にとっては良い悪いは別にして必要不可欠なものであったともいえます。
しかし、今はもう、そこで求められる力は何の価値もなくなるかもしれないものなのです。
もちろん、まったく否定するつもりも、するべきものでもありません。
しかし、ギリギリなんとかそれを習得したところで、将来どうにもならないというほどのものなのだという認識は少なくとも持っておくべきです。
20年前であればそれだけで、ある意味安泰な人生が待っていたのでしょう。
学校の勉強を頑張って良い大学に入れば、それで人生上がりだったのでしょう。
でも、いまはもう無理です。
良い大学に入ったということだけではその先の長い人生目をつぶってても良い方に流れるなんて、そんな「幸せな」時代は幕を下ろしました。
だからお願いです。
ちゃんと勉強しましょ。
いや、学びましょ。
なぜ僕がこんなことをいうのか。
その理由はただ一つ。
僕自身が良い社会に生きて、良い人生を全うしたいから。
程度の差や内容の多少の違いはあれ、あなたも同じように考えてはいませんか?
人間は良くも悪くも一人では生きていけません。
多くの人やモノたちと直接、間接的につながって生きています。
生かされていると言っても良いでしょう。
だから、環境が、周囲の人やモノが、社会が世界がよろしくなければ、自分一人が頑張ったって、結果は良いものにはならないのです。
だから、僕は周りの人とともに良いものを目指したい。
「勉強したくない」
「メンドクサイことはしたくない」
「将来!?…特に何もない」
なんて寂しいことを平然と言ってのける子どもばかりが増えるような事態をなくしたい。
そのためにこそ僕は働いているつもりです。
もちろん微々たる力ですから、その思いを日々実現できているわけではありません。
だから、あなたにも協力して頂きたいのです。
だから、あなたにも目を覚まして頂きたいのです。
だから、あなたにもくり返しこうしてご提案しているのです。
「みんなで一緒に頑張りませんか!?」と。
何か現状に閉塞感や不健全さ、危険性などを感じ取られた方は、ぜひ考えてみてください。
そして、その考えをぜひお聞かせください。
何かのヒントになればと、以下のようなカテゴリーをつくって気になる記事をストックしたり、情報をまとめています。
ぜひご覧ください。
「これからの時代を生きる力って何だ!?」
そして最後に、やっぱり多くの人に見てほしい。
きっと何かを感じてもらえるはずです。
至るところで引用していますが、しつこくもう一度ご紹介します。
※同様の趣旨でサイトをつくっています。よろしければぜひご覧ください。
【偏差値が高いだけの受験学力バカにならない学習方法】
先日、こんな相談を受けました。
小学校5年生。
私立中学受験を希望して、週に4~5日塾に通われている男の子。
代々医者の家系で、祖父が開院した個人クリニックを現在父を中心に切り盛りしている。
医師になって将来病院を継ぐのが彼の家族の願い。
彼自身、祖父や父が大好きで、何より医師の仕事にも興味がある。
だから、それは彼自身の願いでもある。
しかし、最近勉強が思うように結果が出ず、苦しんでいるとか。
いろいろとお話を聞いている時に、少々気になる発言があり、こんなことを考えました。
彼にとって、小さい頃から勉強に励むのは当たり前で、だからこそ彼の努力や日々の苦しみは、もしかしたらぞんざいに扱われているのかもしれない。
人間ですから、ましてや子どもですから、上手くいかない時だってある。
正しい方法で、高い志を持って行動していても、うまく成果が出ないことだってある。
もちろん、そこで諦めてしまってはそれで終わり。
しかし、諦めずに、その暗闇の中をもがき続けた先には、きっと希望の光が見える時がくる。
彼のように高い目標に向かって勉学に励んでいる人は世の中にたくさんいるだろう。
反面、それほどの思いはなく、特に疑いもせず、日々勉強している人もたくさんいるだろう。
ある年齢になれば、毎日学校に通い、ある年齢になれば、次の学校への入学試験を受け、さらに日々学校の通う。
20年近くそうした生活をしていくのが、現在の日本ではかなり当たり前なことである。
だから、日々学校に通い、勉強をし、受験で良い結果を出し、良い学校に進学すること…
それは「良いこと」だとされている。
でも、一体どれだけの人が勉強することの意味をきちんと理解しているのだろうか。
「勉強は子どもがより良い人生を歩むために不可欠なこと」といって子ども達に勉強させているオトナたちは、その「勉強」によって必要以上に苦しめられている子どもを見たときに、どう感じるのだろうか。
もちろん、私自身、学習は不可欠だと思う。
自分が、自分の考えで、自分の好きなように人生を歩みたい、そう思うのであれば、余計に学習することは避けては通れない。
ただし、ここでいう学習とは、単に教科の学習だけではない。
ややもすると多くのオトナは学校の、教科の勉強をすることを「善」とし、学校のテストや成績、受験の結果ばかりを注視する。
しかし、私たちは生れてこの方、教科の枠組みなんて関係のないところで、日々様々なことを学習しているのです。
なぜことさらに教科の学習ばかりが、テストの結果ばかりが注目されるのでしょうか。
その暗黙のうちに教科の勉強こそが重要な学習だというパラダイムがあるからこそ、テストの結果が、模試の結果が思わしくない時、教科の勉強に集中ができずにいるとき、こんな発言がでるのでしょう。
「この子はやればできる子なんです」
「あいつはやればできる子なのに…」
もちろん、これは勉強に限ったことではありません。
さらには、これは周囲の彼、彼女に対する期待の現れでもあります。
しかし、その発言が一体誰のためになるのでしょうか。
誰を救うのでしょうか。
苦痛の最中にある彼、彼女が、それによって自信を取り戻したり、気持ちが少し軽くなる、ということがないわけではないでしょう。
でも、上手くいかず、もがいている人間からすれば、この言葉は何の救いにもならないでしょう。
こんな風に思っても誰も彼、彼女を責められないでしょう。
「あんたに何が分かるんだよ!?」
周囲の期待や善意は、時にむき出しの凶器となって彼、彼女により重くのしかかります。
仮にその言葉を信じ、努力をしてみて、それでも上手くいかない事態に遭遇したとしたら、彼、彼女は一体どうなってしまうのでしょうか。
周囲のことばは彼、彼女を励まし、ブレイクスルーのきっかけとなるかもしれない。
その一方で、それが多分に諸刃の剣であることもまた自覚しておかなければならないでしょう。
以前、映画「ビリギャル」について記事を書きましたが「ビリギャル」の中にも、このような「うちの子やればできるんです」と発言する親が登場していました。
その時の塾の先生のリアクションにはたいへん共感を覚えます。
【過去記事】
「ビリギャル」から教育を考える-親(大人)の役割ってなんだ?
何のために勉強をするのか?
いえ、何のために「教科の」勉強をするのか?
学習者の皆さんももちろんですが、それ以上に、良くも悪くも「教育を受けさせている」オトナたちは、この問に今一度自覚的になる必要があるのではないでしょうか。
「善い」とされることを強く求めることは、はたして「善」なのか。
では、その「善い」とされることに上手く向き合えていないのは「悪」なのか。
これは価値観の問題です。
もちろん、社会的な規範という問題も関わります。
しかし、そうあるべきかはそれぞれ個人や家庭の価値観によって選択できる、いや、選択すべきものです。
私には、私の考え、価値観があります。
それに基づいて日々、生徒たちとの学習をしています。
あなたはどう考えますか?
神奈川県公立高校入試の結果発表まであと3日。
泣いても笑ってもついに結果が発表されます。
どんな結果が出ようと、それが現実。
冷たい言い方のように思われる人もいるかもしれませんが、
それが自分の行動の結果ですから、きちんと受け止めなければなりません。
良い結果だった人は、今後の人生の中で、
自分がどう努力をすることで、どのように結果ができるのか、
その貴重な経験値として、これまでを記憶しておきましょう。
仮に、良くない結果だった人も、今後の人生の中で、
自分がどう努力をすれば、望んだ結果が出たのか、
これまでの行動をふり返っておきましょう。
もちろん、入試は自分だけの問題ではないので、
自分が正当に努力をしていても思わしくない結果となることもあります。
しかし、いくら自分だけの問題ではなくても、
自分が圧倒的な努力をしていれば、自ずと良い結果が得られるはずです。
自分が望んだ結果が出ないとき、人はよく「誰か」や「何か」のせいにしてしまいます。
もちろん、そうしたくなる気持ちはよく分かります。
でも、自分が望んだものは、自分がどう思い、どう行動するかによって得られるものです。
「誰か」や「何か」が勝手に持ってきてくれるものではありません。
まだティーンの子ども達には残酷なことかもしれません。
でも、そういう経験を重ねていくこともまた健全な「成長」に他なりません。
だから、上手くいったときはもちろん、上手くいかなかったときも、
きちんと自分の行動とその結果を自分自身で受け止めましょう。
そして、保護者の方は、ぜひお子様を温かく見守ってあげてください。
うれしい結果であれば「よかったね」「がんばった結果だね」と。
良くない結果であっても「この経験をこれからに活かそうね」と。
親や家庭がきちんと帰る場所、安心感を得られる場所であれば、
子どもはチャレンジできます。
何かにチャレンジをするとき、もちろん失敗というリスクはあります。
しかし、自分の力の及ぶ範囲のちょっと先、
少し背伸びをして、手を伸ばさなければ、
欲しいものは手にできないし、成長もない。
だから、僕らオトナがやるべきことは、
子ども達に仮初めの、形だけの安全、安心を与えることではありません。
失敗することも承知して、果敢にチャレンジをさせる。
それを見守り、時に助言し、どんな結果になっても、
笑顔で迎える。
何があっても笑顔で待っていてくれて、
おいしい、温かいご飯があるところ…
家族や家庭があるからこそ、子ども達は自分の目一杯で物事に挑むことができるのです。
今日の『朝まで生テレビ』では、「憲法改正」がテーマ。
放送法、表現の自由などを皮切りに、昨今話題となった「安保関連法」について議論が進んでいます。
すでに「安保関連法」に関する僕の考えは記事にしてきました。
基本的に僕のスタンスは変わっていません。
みなさんは、改めてこの問題どうお考えでしょうか。
僕は、先の話とこの憲法改正の話題は、実は大きく関わる問題だと思うのです。
これまでの日本の憲法や安全保障についての歴史をここでは語りませんが、
良くも悪くも先の大戦後日本はアメリカの核の傘の中で国防というものを考え、
整備してきたのは事実です。
ただし、国際社会との協調ということはあったとしても、
主権国家であれば自国の防衛は、やはりまずは自国で行うのが今のところの世界基準です。
日本にはもちろん自衛隊という自衛のための組織があります。
しかし、このことについても多くの議論がされてきている通り、
政府見解は別として、合憲、違憲で見解が分かれるわけです。
私たちは先の大震災のときにも実感したように、
有事の際に頼るべきは自衛隊です。
護憲派の人も、自衛隊の廃止まで掲げる人はあまりいないでしょう。
学者や政治家の議論は別として、市民感覚としては、
我々は自衛隊を廃止したいとは思わない。
むしろ、自衛隊がいてくれてありがたいと思う人の方が多い気さえします。
それならば、日々命を張って活動する自衛隊員の方々が、
「違憲かもしれない」なんて微妙な立場で良いのでしょうか。
一国民として、彼らを必要する一人の市民としては、
彼らが微妙な立ち位置で活動せざるを得ない現状は、
変えるべきであると考えます。
彼らを認めていないという可能性を残す憲法であれば、
僕は、その改正に大賛成であります。
憲法改正反対という人ももちろんいるでしょう。
先の「安保法案」が反対だという人、廃案にしようという人もいるでしょう。
それは一つの考え、価値観ですから、それを否定するつもりはありません。
ただひとつ。
そういう立場の方に質問したいことがあります。
反対派の人たちの口から明確に聞いたことがないこと。
でも、大事なこと。
「自衛隊は不必要ですか?」
「憲法改正を反対し、安保法に反対するのであれば、
自衛隊を廃止するということですか?」
かりに、自衛隊を廃止するつもりがないのであれば、
自衛隊が必要で、大切なものであるならば、
こそこそっと「解釈変更」とか、技術的な操作してごまかさず、
「自衛隊は合憲ってことで…でも他はダメ―」とか子どもみたいなこと言わず、
ちゃんと憲法に書いておきませんか?
さらに「戦争したくないから・・・」という理由を掲げる人。
戦後70年、日本が戦争をしなかったことを憲法9条のおかげだと本気で言う人。
ぜひ想像力を働かせてください。
果たして憲法改正派は、戦争を望んでいるのでしょうか。
憲法改正の真意は「戦争をするため」なのですかね!?
今のままでいた場合「ならず者」が責めてきた場合どうしますか?
座して死を待つのでしょうか。
いや、そもそも日本人の拉致や領海、領空侵犯などは、ある種の戦争前状態といっても良いほど、主権を侵された事件です。
そういう人は、日本が安易に報復をしないことがわかっているからこそ、そうした行為をしているとも言えます。
つまり、憲法9条があるから、理不尽に国民の生命財産が脅かされる事態が起こるということさえあると考えなければいけないでしょう。
その際に、「自衛隊が要る」と言うのであれば、やはり先の質問の答えがほしいですね。
実際には自衛隊を頼りにしつつ、しかし、議論のうえでは自衛隊を否定するような立場でモノを語る。
僕は、やっぱりそこが納得できないですね。
仮初めの安心、安全は、子どもが自分の足で立ち、
ちゃんと頭を使って成長する機会を奪います。
仮初めの安心、安全は、正当に考えようとする国民を思考停止に追いやります。
思考停止の先に国は、社会はどうなるのでしょうか。
少なくとも「自らの考えを持ち、その考えを表現できる人」を育てたいと思って日々子ども達の学びについて考える人間のひとりとしては、オトナたちが「自らの考えを持たず(誰かの強い・大きな声に乗っかり)、誰かの意見を自分の意見のように拡散する人」になってしまっている事態には大変憂慮しています。
いつかも書きましたが、子どもが混乱しています。
変なレッテル張りばかりの人。
否定するだけで対案のない人。
そういう方の意見は「声が大きく」「耳障りが良く」「理想的な」言葉であることが多いようです。
子どもたちは、そうした教科書的な言葉を是とする傾向があるようです。
それだけは教育者としては我慢なりません。
必要な情報、核心部分を隠し、感情や印象操作を巧みにして情報弱者たちを煙に巻くようにして、思考停止、考えのミスリードを起こす。
それだけは、大人として、少なくとも僕はしたくない。
子どもはバカじゃない。
きちんと思考力を培った子どもは、あっさりオトナのごまかしに気づきますよ。
ぜひ子どもに誇れる発言を。
みなさんは、どう思いますか?
僕は、反対派の方への先の質問が明確に返ってきたら、
それが至極まっとうな、納得できるものであれば、
立場、意見を変えることもあるでしょう。
まだ議論の途中。
今の立場、意見に変に固執せず、
事実や見解を正当に交流させて、
みんなでより良い答えを探しましょうよ。
つい先日新年を迎えたと思っていたら、もう2月に入り、
さらに、すでに2月も半分近くが過ぎようとしています。
…ということは、神奈川県公立高校入試本番がもうすぐそこ。
今日の横浜は、少々暖かめの穏やかな日です。
受験生諸君は、風邪やインフルエンザ、花粉なども飛び交う季節ですから、今一度体調には十分気を付けて、最後の追い込みと行きましょう。
泣いても笑ってもあと3日。
週が明けて、月曜日を過ごしたらもう入試当日です。
学力検査に向けて、「ここが出たら完璧」「ここが出たらちょっとヤバい」ってところを重点的に最後の仕上げをしましょう。
残りわずか3日程度の時間ですが、ここを集中力とモチベーションを維持してきちんと歩めるかどうかも、結果に大きく影響します。
いや、結果は大きくは変わらないかもしれませんが、その後に大きく影響します。
多くの人は、最後の最後まで必死に取り組み、一つでも弱点を克服しようと努力していることと思います。
しかし、中には「もういいや」と投げやりになったり、「たいして変わらないよ」と集中力を切らしてしまったり…
結果はそう大きくは変わらないのかもしれませんが、でも、この数十時間の間に目にしたこと、解いた問題が本番出てくるかもしれない。
何より、最後まで自分を高く保てるかどうかというのは、この先もっと緊張し、もっと過酷な場面で自分を制し、自分を律し、事に望めるかどうかという重要な姿勢に関わってくるのです。
その意味で受験というのは、自分と向き合い、自分を知り、自分のコントロール方法を学ぶ、絶好の機会となるのです。
受験生本人からすれば、そんな余裕ない、と言われてしまいそうですが、受験が終わったら、この一年程度の受験勉強期間をぜひそんな風に振り返ってみてほしい。
単に高校に受かるため、偏差値を上げるため、なんてだけの行動であったのならば、高校に進学した瞬間にこれまでの行動はほとんど無意味なものになってしまう。
でも、そこにどれだけの価値を見出せるか、意味を感じられるか、その姿勢というか、考え方ができるかどうかで今後のあなたの学習の方向性が決まってくるのです。
ひいては、それが生き方みたいなところにも直結します。
高校に行き、現在であれば、大半の人が大学進学を目指すのでしょう。
大学進学の際も、単に「志望校に合格するため」「偏差値を上げるため」だけの学習をしていけば、その学習は大学進学によってほとんど無意味なものにされてしまうのです。
そんなのもったいなさすぎる。
そんな姿勢でいれば、次は就職の際にも同じように、会社に入るのが目的になり、入ってしまえばそれまでという何とも味気ない結果しか生まない可能性があります。
現在は、これまでのような「良い」就職ができればそれで仕舞い、という時代ではなくなりました。
今後ますますそうなっていくでしょう。
そんな社会の中で、誰かや何かに完全に依存してしまうような在り方は有益とはいえません。
もちろん多くの人が会社に属し「サラリーマン」となるのでしょうが、そうだとしても、きちんと自分を磨くことに向き合い、それを着実に実行していかなければ、頼みの綱の会社や社会もあなたを必要としない、ということにもなりかねません。
中学生の方には、実感を伴って響かないかもしれませんが、そういう世の中のことも徐々に肌で感じられるようになっていかなければなりません。
特に、高校生ともなればこれまで以上に活動の場は広がりますし、18歳になれば選挙権も与えられます。車の免許の取得や結婚だって可能な年齢です。
もう完全な「子ども」とは言い切れない年齢になっていきます。
その意味で「だって子どもだもん」「誰も教えてくれなかったもん」が通用しなくなってきます。
それを理不尽とか、大人が悪いってことで片付けてはいけません。
いよいよ自分もそういう年齢になってきたのだと、自覚をしなければなりません。
学校の勉強や、受験勉強だって、そうした意識を持ったり、世の中を知るための基礎的な知識となり、訓練の場ともなります。
ぜひそのような意識を持って、高校生活や大学生活など、新生活を初めていってください。
ほんのちょっとの意識の違いで、ほんのちょっとの行動の差で、この先の3年後、4年後がまるで違ってきます。
「みんなやってないからいいや」
「なんか面倒くさいし…」
みたいな訳の分からない、「お子様」な理由づけで逃げてはいけません。
…だって自分の人生ですから。
「みんなはやってないけど、私はやる」
「面倒だけど、ちょっとやってみる」
ポジティブであればすべて良いなんてことはないけれど、自分の行動や自分の未来のことについては、誰よりも自分が真剣であってほしい。
僕はそう思う人間です。
まだ本番まで少々時間がある段階で言うことではないかもしれませんが、受験が終わったらすべてが終わりのようになってしまう人が毎年たくさんいます。
だからあえてこのタイミングで。
受験が終わったら、改めて読み直してください。
入試はゴールではない。
当たり前ですが、多くの人はそれを忘れがちです。
新しい学校、新しい生活を始めるためのスタートなのです。
新しい生活を素敵なものにするためにこそ、最後にもうひと頑張りです。
最後のプレゼント。
以前作ったものですが、神奈川県公立高校入試を受ける人には役立ててもらえると思います。
今年の学力検査の傾向が変わっていなければ、ですが。
では、あなたの朗報をお待ちしています。








