「やればできる子」の危険性-期待という名の重圧 | 作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

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作文・小論文・読解力など国語力UPのための塾。横浜市保土ヶ谷区にある学習塾ラーニング・ラボのスタッフブログです。教室での出来事、教育ニュース・新聞記事・書籍についてのコメント、当塾オリジナルの「基礎講座」で作成した生徒の作品なども発表します。


先日、こんな相談を受けました。

小学校5年生。
私立中学受験を希望して、週に4~5日塾に通われている男の子。

代々医者の家系で、祖父が開院した個人クリニックを現在父を中心に切り盛りしている。
医師になって将来病院を継ぐのが彼の家族の願い。

彼自身、祖父や父が大好きで、何より医師の仕事にも興味がある。
だから、それは彼自身の願いでもある。

しかし、最近勉強が思うように結果が出ず、苦しんでいるとか。


いろいろとお話を聞いている時に、少々気になる発言があり、こんなことを考えました。



彼にとって、小さい頃から勉強に励むのは当たり前で、だからこそ彼の努力や日々の苦しみは、もしかしたらぞんざいに扱われているのかもしれない。

人間ですから、ましてや子どもですから、上手くいかない時だってある。

正しい方法で、高い志を持って行動していても、うまく成果が出ないことだってある。


もちろん、そこで諦めてしまってはそれで終わり。

しかし、諦めずに、その暗闇の中をもがき続けた先には、きっと希望の光が見える時がくる。


彼のように高い目標に向かって勉学に励んでいる人は世の中にたくさんいるだろう。

反面、それほどの思いはなく、特に疑いもせず、日々勉強している人もたくさんいるだろう。


ある年齢になれば、毎日学校に通い、ある年齢になれば、次の学校への入学試験を受け、さらに日々学校の通う。

20年近くそうした生活をしていくのが、現在の日本ではかなり当たり前なことである。


だから、日々学校に通い、勉強をし、受験で良い結果を出し、良い学校に進学すること…

それは「良いこと」だとされている。


でも、一体どれだけの人が勉強することの意味をきちんと理解しているのだろうか。

「勉強は子どもがより良い人生を歩むために不可欠なこと」といって子ども達に勉強させているオトナたちは、その「勉強」によって必要以上に苦しめられている子どもを見たときに、どう感じるのだろうか。

もちろん、私自身、学習は不可欠だと思う。

自分が、自分の考えで、自分の好きなように人生を歩みたい、そう思うのであれば、余計に学習することは避けては通れない。

ただし、ここでいう学習とは、単に教科の学習だけではない。


ややもすると多くのオトナは学校の、教科の勉強をすることを「善」とし、学校のテストや成績、受験の結果ばかりを注視する。

しかし、私たちは生れてこの方、教科の枠組みなんて関係のないところで、日々様々なことを学習しているのです。

なぜことさらに教科の学習ばかりが、テストの結果ばかりが注目されるのでしょうか。


その暗黙のうちに教科の勉強こそが重要な学習だというパラダイムがあるからこそ、テストの結果が、模試の結果が思わしくない時、教科の勉強に集中ができずにいるとき、こんな発言がでるのでしょう。

「この子はやればできる子なんです」

「あいつはやればできる子なのに…」


もちろん、これは勉強に限ったことではありません。
さらには、これは周囲の彼、彼女に対する期待の現れでもあります。


しかし、その発言が一体誰のためになるのでしょうか。

誰を救うのでしょうか。


苦痛の最中にある彼、彼女が、それによって自信を取り戻したり、気持ちが少し軽くなる、ということがないわけではないでしょう。

でも、上手くいかず、もがいている人間からすれば、この言葉は何の救いにもならないでしょう。

こんな風に思っても誰も彼、彼女を責められないでしょう。

「あんたに何が分かるんだよ!?」



周囲の期待や善意は、時にむき出しの凶器となって彼、彼女により重くのしかかります。

仮にその言葉を信じ、努力をしてみて、それでも上手くいかない事態に遭遇したとしたら、彼、彼女は一体どうなってしまうのでしょうか。


周囲のことばは彼、彼女を励まし、ブレイクスルーのきっかけとなるかもしれない。

その一方で、それが多分に諸刃の剣であることもまた自覚しておかなければならないでしょう。


以前、映画「ビリギャル」について記事を書きましたが「ビリギャル」の中にも、このような「うちの子やればできるんです」と発言する親が登場していました。
その時の塾の先生のリアクションにはたいへん共感を覚えます。

【過去記事】
 「ビリギャル」から教育を考える-親(大人)の役割ってなんだ?



何のために勉強をするのか?

いえ、何のために「教科の」勉強をするのか?


学習者の皆さんももちろんですが、それ以上に、良くも悪くも「教育を受けさせている」オトナたちは、この問に今一度自覚的になる必要があるのではないでしょうか。


「善い」とされることを強く求めることは、はたして「善」なのか。
では、その「善い」とされることに上手く向き合えていないのは「悪」なのか。



これは価値観の問題です。
もちろん、社会的な規範という問題も関わります。

しかし、そうあるべきかはそれぞれ個人や家庭の価値観によって選択できる、いや、選択すべきものです。

私には、私の考え、価値観があります。

それに基づいて日々、生徒たちとの学習をしています。



あなたはどう考えますか?