作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ! -6ページ目

作文・読解力など国語力向上 学習塾ラーニング・ラボ横浜天王町教室のスタッフブログ!

作文・小論文・読解力など国語力UPのための塾。横浜市保土ヶ谷区にある学習塾ラーニング・ラボのスタッフブログです。教室での出来事、教育ニュース・新聞記事・書籍についてのコメント、当塾オリジナルの「基礎講座」で作成した生徒の作品なども発表します。


2016年3月に、相鉄線希望ヶ丘駅すぐ目の前に素敵な個別指導塾が開校します!

その名も前田塾

プロ講師として20年以上の指導歴を持つ大ベテランの塾長先生自ら「完全定員制」個別指導スタイルでプライベート塾を開きます。

塾長先生は、神奈川県人なら知らない人はいないであろう某大手塾でその創成期に活躍した人。
教室長、エリアマネージャーなどを歴任し、一講師であるとともに、人材育成(講師教育)も担当した人物。


様々な現場で、長年塾業界で指導されてきた先生だからこそ、見えるもの、わかることがある。

業界の不健全さに正面から向き合い、ご自身の教育理念を完全に体現する学びの場をつくられようとしています。

必見です!


希望ヶ丘(横浜市旭区)周辺の小中学生、保護者のみなさんはぜひ一度説明を聞きに行き、体験授業に参加してみてください。


あ、ちなみに、僕は個人的に知り合いの方です。

もうかれこれ10年以上前になるでしょうか。

一時期同じ教室で働いていたこともあります。

と、いうわけで完全な宣伝です。


でも、本当にコンセプトは良いと思うからこその宣伝です。

特に、きちんと現状分析をしていないのに、何でもかんでも授業を取らせるという素人仕事が蔓延る塾(特に個別指導)業界で、授業以外にきちんと有機的な「自習時間」を設けているところなどが、当塾の基本理念ともぴったり重なる。

そう、やっぱり自分でやる時間が増えていかないと、ね。

先生や授業なんてあくまできっかけなんです。

過度に依存してしまうと、それは別の意味で危険です。


僕は知り合いのよしみでちょいちょい様子を見たり、話を聞いたりしていますが、なんか素敵な学びの場所になりそうですよ。

教育界の変な風習とか一掃して、本当に必要な「学び」というものを、小さいながらも着実に発信してくれるでしょう。

僕自身も、これまでの何となくの慣習とか、大手の不健全な「常識」を打破したいという思いを持って教育に携わり、講師をやっている人間のひとりです。

その意味で理念には大変共感できます。
(だからこその宣伝です)


※まだ準備中で電話問い合わせはできないようですが、HPからの問い合わせは可能なようです。
 近隣の方、ご興味・ご関心のある方はぜひチェックしてみてください。
 人数限定の「定員制」とのことですから、アクションはお早目に。



前田塾公式ホームページURL
 http://maedajyuku.com/



【2016年2月9日追記】

2016年がはじまり早1ヶ月が経過しました。

いよいよ2月。

本格的に受験(入試)本番を迎えます。

受験生諸君、最後の調整は順調に進んでいますか?


さて、神奈川県公立高校入試(平成28年度)の志願倍率が発表されました。


全県の全日制高校の平均倍率は1.22(昨年は1.20倍)


倍率の高い学校TOP3は以下の通りです。

①横浜翠嵐 普通科 2.20倍
②上矢部  普通科美術陶芸コース 1.85倍
③弥栄   単位制芸術科美術専攻 1.77倍


倍率トップの横浜翠嵐は、毎度おなじみですが、今年は2位、3位に芸術系がランクインしています。
そういう年なのでしょうか。

定時制については、以下の通りです。

①横浜市立横浜総合 単位制総合学科Ⅱ部 1.49倍
②相模向陽館 単位制普通科午前部 1.30倍
③相模向陽館 単位制普通科午後部 1.17倍


【定員割れしている学校】
大楠 普通科クリエイティブ 0.53倍(欠員数113名
をはじめ、36校(県立33校、市立3校)、合計861人となっています。

 定員割れ・その他各学校の志願者倍率


高校受験が遠い過去のように感じられる僕にとっては、この平均1.2倍というのは、倍率の内にも入らない程「低い」と感じるものですが、現受験生にとっては少しでも低い倍率を望んでいることでしょう。
入試はさまざまな条件を考慮してのぞまなければいけませんから、チャレンジすることが一概に良いとは言えません。是が非でも公立高校に進学するというのが絶対の条件で在れば、倍率などを考慮しての志願変更も正当な闘い方です。

ただ、定員割れしているところを目がけて志願変更したものの、その学校に志願変更が集中して、最終の志願者倍率では1倍以上になるなんてこともあります。

その点も考慮してどうか志願変更は慎重に決めて下さい。



いずれにしても、あと2週間で学力検査本番です。
悔いなく春を迎えられるよう、最後の最後まで自分ができる最大の努力をしていきましょう。




当塾オリジナルの「基礎講座」で誕生した素敵な作品を紹介します。

今回は「調べ学習」タイプの実践で作成した作品です。

たとえば、こんな感じ。

http://learning-labo.st-community.jp/?p=3822


これは「世界遺産」を調べ、好きなものを紹介するカードを作成するという実践。
小学生がつくった作品です。

その他には、百人一首や日本の年中行事を調べ、まとめた作品たちが生まれました。

詳しくは、ラーニング・ラボ公式ホームページをぜひご覧ください。


調べ学習系作品一覧ページ

生徒作品一覧ページ

 


さて、日付はもう変わってしまいましたが、11日は成人の日。

新成人のみなさん、おめでとうございます。


平成生まれが成人を迎えたときにはけっこうなショックを受けましたが、今年は何年生まれが成人になったのでしょうか。
もう数えるのも嫌なほど、自分が成人式に参加した日のことは遠い過去の記憶となっています。

現在、学生の方は成人になったからといって大きく生活が変わるわけではないでしょうから、たいして実感はないかもしれませんね。

僕がそうでした。


大学生の時に成人を迎えましたから、特に新しい生活がはじまるわけでもなく、何か新しいことをはじめたわけでもなく…。

とはいえ、僕は早く「オトナ」になりたかったので、「やっとか」という思いではありました。

親の干渉というか、意見というか、何かをするときに、自分の意志だけではどうすることもできないことがあると、その度にとても歯がゆい思いをしていたんですね。

学生という身分は変わらないし、親元から大学に通っていたし、何かあれば親に頼りまくっていたから、何を生意気な、と今なら思えますが。



あれから10数年。

多くの大人が言うことかもしれませんが、

「あの頃と内面はたいして変わっていない」


決して成長していないわけでもない。

むしろ表面的なスキルやテクニックのようなものはたくさん身に付けて来たのでしょう。


でも、あの頃思い描いていた大人にはなれていないような気もします。

もっともっと「カッコいい」人になりたいって、きっとそう思っていたはずです。

だって、今も同じような思いを持っているから。



新成人のみなさんは、これからの10年をどう描いているのでしょうか。


ほんと月並みですが、気づいたら10年なんてあっという間に経ちます。


これまでの10年ももちろん中身の濃い年月だったと思いますが、これからの10年は今後の人生を大きく意味づける10年になると思います。



多くの人が仕事をすることになるでしょう。

結婚をして新しい家族を持つ人もいることでしょう。

大切な誰かとの別れを経験する人もいるかもしれません。



中でも「仕事」は大きな出来事だと思います。
大学生、専門学生など、学生の方であればもう間もなく?いま現在?就職活動なんかが一大イベントとして控えているのでしょか。



もちろん現在は就職したらそれで人生「上がり」という時代ではない。

望もうが望むまいが、これまで以上に自分で考え、自分で答えを出していかなければならないことがもの凄く増える。

それは会社などの大きな組織に属したとしても同じ。

大きな会社であれば、逆に一個人の意見でどうにもならないことも多いと思いますが、しかし、自分の人生の一部としての仕事と考えたとき、その価値づけはやはり自分で行わなければならない。


最近の人はどうかわかりませんが、従来日本人の若者は、就職した際に、職場で仕事を「与えてもらう」傾向が強いと言われています。


何をすれば良いですか?


これが欧米だと、「自分はこれが出来る」「こういう点で貢献できる」という意識が強いようです。



もちろん会社はチームプレーが多い。

組織の歯車として機能するのは必要なこと。

みんながみんな自分勝手に動いて足並みがそろわなければ、得られる成果が半減するなど容易に想像できることだ。

でも、与えられた状況、条件のなかであったとしても、自分の頭では何も考えようとせず、指示を待つだけの人間ってどうですか?

自分がリーダーとか上司とかだったらどうですか?

毎日毎日、毎回毎回、「これはこうね」「次はこれをこうやろうね」ってずっと誰かに面倒を見てもらわなければ何もできないって何か情けなくないですか?



あるいは、組織が大きければ大きいほど、個々人の動きが必ずしも大勢に影響がなかったりして、そうであれば、個々人が高いモチベーションで仕事に向かえないということもある。

それは確かにそうだ。

自分が身を粉にして働いている脇で、暇を持て余すようにPCでSNSを見ているヤツがいたら、やっぱりひどくやる気が失せるでしょう。


「おれはこいつのために働いているわけではない」

って。


逆もしかり。


訳も分からず根性論を振りかざされて荷馬車のごとく働かされるのも、人間としてどうなのか。




これから、数年のうちにきっと多くの人が仕事に向き合うことになるのでしょう。


それはすなわち人生を考え、決めることでもある。

それは何も一生に関わることだから「何が何でも一流企業」「上場している会社」「安定の公務員(お役所)」に就職しろと言っているのではない。

むしろ逆だ。


大企業や公務員を目指すのも良い。


でも、多くの自分の時間=人生を費やすのが仕事です。


だから、自分のこととして仕事についても考えようってことです。


大きい組織に属せばそれはそれで一定の「安心感」が得られます。

とはいえ、自分の人生まるごと会社にゆだねるのですか?

誰かに指示されるだけの人生をこの先何十年も歩むのですか?


それがいいという人もいるかもしれません。

それはほんとに個人の価値観で決めればいいことですから。


でも、きっと多くの人はそういう事態には賛成はしないでしょう。


きちんと自分の意志を持って、自分の理想の人生を思い描いていることでしょう。



ただ、多くの人は年をおう毎に、そんなある意味で当たり前の自分の思いに鈍感になります。



「生活のため」

「それがオトナになるってこと」



などと言って。



もちろんそれも1つの在り方です。


しかし、そう言いつつ仕事が終わって同期や友人たちと飲みに行って、会社の悪口、上司の悪口に花を咲かせて憂さ晴らし・・・

なんて人が多いのも事実。


僕の周りにもたくさんそういう人がいます。


もちろん、プライドもって、自分の意志でスーパーサラリーマンを立派に勤めている人もたくさんいます。


今、「これになりたい」って強い思いをもって学んでいる人はその道を進むことでしょうが、多くの人は、おそらく何らかの会社に属し、サラリーマンをすることでしょう。


その選び方だって、この会社でこういう仕事がしたいって強い思いがあるわけではないこともあるでしょう。

時期が来たから何となくみんなに合わせて就職活動して、半ば無理矢理に自分はこういう業界志望ってことにするという人もいるでしょう。

大手ならどこでもいいとか、給料がこれくらいなら、福利厚生が充実しているとか、もういろいろ理屈付けして、そのために就職するという形をとっていく人が多いのでしょう。


それも一つです。

動機やきっかけは何だっていい。


働く目的だって「生活のため」でいいじゃないか。


でも、だったらその道を突き進めってこと。

自分でそれを善しとしたのであれば、誰かや何かに文句を言うだけの日々を過ごすのではなく、その道を極めるべき態度と行動をとろうってこと。



だからこそ、です。


だからこそ、自分は何ができるのか、自分の人生にとって、仕事って何か、選んだその仕事とどう向き合うのかってことが大事なのです。



言われるがまま、決められた時間に行って、決められた時間まで作業して、帰宅する。

次の日もまた次の日も、定年までずっと…。



そこに自分の意志はあるのか。

それは自分の人生を自分で生きているってことなのか。





毎年一定数の人たちが、就職はしたものの「こんなはずじゃなかった」と思って早々に会社を辞めてしまうらしい。


もちろんホントに合わないとか、個別に事情はあるでしょうが、とはいえ、ごく少数ではなく、一定数いるということは、入るまでの自分の歩み方、あるいは、仕事への向き合い方など、自分の側の問題も同時に見つめておかなければ、会社を変えても、職種を変えても、また同じようなことをくり返してしまうかもしれない。

それは単純に不幸なことです。



もちろん、仕事をするってことを、学生である人やまだ仕事を未経験の人が考えるのは難しい。


でも、自分の人生を考えること、今目の前にあるやるべきこと、特に勉強すべきことは、考えられるでしょう。

「ない」「無理」というのであれば、それは単純にあなたが努力しなければなりません。


それも無理というのであれば、誰かに決めてもらうことです。
しかし、その場合に誰かに、何かに文句をいうのは筋違いです。

だったら自分で考え、自分で決めればいいのです。




これからの10年、いやその後の自分の人生をいかに思いどおりに、豊かに過ごすか(経済的にってことだけでなく)、それはすべて自分次第だということを、成人であるからには、今一度認識しておくと良いでしょう。



そのためにこそ、どうか今目の前のことを大切にしてください。


もちろん、出来るなら自分の10年後、といわず2~3年後をイメージした方が良い。


これだけ流れの早い世の中であれば10年後を思い描いても、もしかしたら全然違う世界が広がっているかもしれない。

だったら僕らは「未来のための今」よりも「今の積み重ねとしての未来」を創るべきなのかもしれない。

それは、勉強だけではない。

でも勉強ももちろん大事だ。


これは小中高生によく言うことですが、まだ学生の成人の方には、よりはっきりと分かることではないかと思うので、あえて記しておきます。

いま、何の勉強をしているかはわかりません。
分かりませんが、その専門的な知識は、その専門分野の仕事に就くためには直接必要なものです。
だから、死ぬ気で学んでください。
おそらく勉強のし過ぎで死ぬことはないはずです。
でも、あなたが死ぬ気で勉強しなかったら、職種によっては将来誰かが死ぬことになるかもしれません。

もちろん、専門的な分野の職に就かない限り、専門分野の内容はそのまま役に立つものではないかもしれません。


しかし、それを習得する過程で、実に多くのことに気付き、多くを学びます。


それは将来どんな仕事に就こうが、仕事だけでなく生活の様々な場面でも、きっとあなたを支えてくれることになります。

いや、そうなるように学んでいくべきだと思います。



「俺、将来○○になるから、こんなの必要ないし」

「こんなの知らなくても○○にはなれるし」


なんてさみしいこと言わず全力で学んでみて下さい。

全力でぶち当たった結果、本当に「ダメだ」って思ったらやめればいい。

何もやっていないのに、良いも悪いもわかるはずがない。


しかも、たとえやめたとしても全力でぶつかったのであれば、その経験だけは確かに残る。

自分が自分の体や頭を直接使った経験は、何よりも大きな財産です。


自分の近未来の理想を思い描き、そのためにこそ、いま目の前にあることに全力に取り組む。

その全力で生きる今の積み重ねこそが、あなたの未来そのものです。


黙っていても年月は過ぎ去り、10年後はやってきます。


でも、それはあなたが思い描いた理想の未来ではないかもしれない。
そこに理想のあなたはいないかもしれない。


それを防ぐ方法は今を必死で生きることだ。




僕が講師を始めて最初の生徒はもう30代になっています。
もちろん、今年新成人になる人もいます。

そんな彼、彼女へのお祝いメッセージのつもりが、とんだお説教になってしまいました。


完全に自分のことを棚上げしていいます。


    「先生って人種はこれだから嫌なんだよね」



成人おめでとう。

君が君の描いた理想の未来を実現できるよう、心から願っています。


しっかり励め!

僕も負けずに励む。


新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


さて、今年の年末年始は、来年度の活動に向けての準備のため、何かとバタバタしています。

新たに勉強しなければならないこともあり、受験生に「頑張れ!」と言い続けていますが、それは自分に対しての励ましにもなっています。

元旦はさすがに親戚との顔合わせというか、新年のあいさつ等々がありほとんど何もできないので、開き直って普段時間がもったいないとやらなかったことをやりました。


それは…


映画鑑賞。



といってもこれもたまたまですが、年が明けてすぐ(0時過ぎ)に初詣に行くのが例年のパターンなのですが、その際に同行した一人がレンタルショップに返却するDVDを持っており、その一つにこれがありました。


「ビリギャル」

映画 ビリギャル DVD スタンダード・エディション/東宝

¥3,780
Amazon.co.jp




塾の講師をしている身としては、話題になった時に何となく気にはなっていたのですが、本も映画も見ていませんでした。

(ちなみに本は↓これ↓)
学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話/坪田信貴

¥1,620
Amazon.co.jp


今回、これは何かの縁だと思い、見てみることにしました。



学年ビリの女の子が慶応大学を受験し、見事合格するというサクセスストーリー。
受験業界というか教育業界では、この手の話はもはや珍しいものではありません。

学年ビリ、落ちこぼれ、○○から東大へ、などという話は多くの人がどこかで目にしたことがあるものだと思います。

「やはり子どもの可能性は無限だ!」

などという調子で語られることが多い話ですが、僕自身そう思う部分もありますが、それだけで終わらせられないという思いも一方で持っています。

「可能性は無限」という言動は注意しなければ、何も決められず、子どもをいつまでも茫漠と指せたままにする危険性もあります。

昨今の情報過多の時代であれば、様々な情報を入手できますから、かえってそれが自分の行動の選択を鈍らせることもあるのです。

僕は現在教科としては国語を主に担当することが多いですが、文章を読むときなども同じです。

たくさんの言葉が連ねられた文章は、例えば5000字で書かれた文であれば、5000字なりのメッセージがそこにあります。
しかし、初学者がその5000字をそのまま受け取ろうと思っても大変なのです。

だから、5000の字を読むことはできるけど、そこに込められた思いまできちんと理解するのはできないということが起こるのです。

その際に必要なことは、学習の進度に合わせて、情報を制限すること。

「答えはこれだ」と一方的に押し付けるのも良くないけど、選択肢は無限ですというもの、一方で無責任な態度にもなりかねない。


…と、この手の話では言いたいことがつきませんが、でも、やっぱり講師なんてのを生業にしている人間としては、こうしたストーリーには弱いですね。

子どもへの思い入れが強い分、実際の子ども達を当てはめて考えたりして、つい感情的になってしまうことも多いのです。
何度か涙腺を刺激されてしまいました。
(酔っぱらっていたからかな…と言い訳してみたり)



特に、僕が印象的だったのは、本人の頑張りや坪田先生の適確な、そして、熱い指導もさることながら、吉田羊さん演じる母親、工藤あかりだ。

この映画には、何人かの大人が登場する。

工藤あかりをはじめ、父親(工藤徹)、学校の先生(西村)、そして森玲司の母親。


この大人たちのそれぞれの立ち位置が、学習者(受験生)を取り巻く大人の典型として実に巧みに描かれている。

それぞれの大人がどんな振る舞いをして、子ども達にどんな影響を与えるのか、大人こそがここから何かを感じられる物語である(実話が元になっているということだが)。



生徒の表面的な情報や、学校生活(集団生活)の秩序を最優先に考えた言動の目立つ担任教師。

父親の仕事の跡を継がせようと進路を勝手に決め、「やればできる」を連呼する母親。

自分の果たせなかった夢を息子に託し、他の子どもには見向きもしない父親。


僕自身も講師になり様々なな子ども、その保護者と接してきましたが、ある意味でこれら人物像は教育界「あるある」でしょう。

ただ、ここで多くの人は、主人公さやかや坪田先生に感情移入し、これら大人をネガティブに見過ぎてはいないだろうか。

もちろん、子どもの立場からすれば、あるいは、真剣に子どもを向き合う講師という立場からすれば、「ふざけんな!」と思ってしまう言動をする大人がそこにいます。

本当に子どものためにならないな、とか、本当にこの子の将来や今を真剣に考えているのか、疑わしい大人は世の中にたくさんいます。
それは親であってもです。

ただし、それらの大人も、それぞれの正義に基づいて、つまり、その人なりの「子どものため」という考えを元に行動しているのです。


集団生活の秩序を重んじ、学校の授業を最優先に考える担任教師だって、一見自分の教室運営がスムーズにいくことが目的のように見えたとしても、根底には、学校(授業)にきちんと参加させることが生徒にとって有益だと考えているはずです。

さらに、子どもの可能性を信じる親というのにも、様々ななタイプ、様々な表現の仕方があるわけです。

例えば、森玲司の母親は夫(玲司の父親)の仕事を継がせることを目的に大学進学を決めて話を進めている。

こうしたタイプの話もよく聞きますが、これだってそれが本人の幸せになると考えているからこその行動や発言なのですね。
自分で好きなことがあり、その道に進みたいという考えがないのであれば、一番近くにいる仕事をしている大人としての父親は、格好の生きた教材である。
しかも、同業者となれば、先輩として有益なアドバイスや仕事そのものを紹介してもらえたり、利益はたくさんある。


さらに、自分の果たせなかった夢を息子に背負わせ、小さい頃から英才教育を施す父親(主人公あかりの父親)もいる。
もちろん、父と子のコミュニケーションの一環ですから、小さい頃から一緒に何かに向かって頑張るのは良いことでしょう。それによって開花する能力もあるだろうし、人よりも早く、人よりも時間を使って訓練するのは、その道で熟練するためには不可欠なことです。
例えば、有名なプロスポーツ選手で、小さい頃から両親が協力的で、子どもの練習のために仕事を変えたり、遠征に同行したり、道具や設備を整えたり、生活そのものをそれ中心に変える、などという話もよく耳にする話です。
そうした家族の理解や協力、いや、家族が一丸となってみる夢というのも、それはそれでたいへん美しいものです。


ただし、これら大人が少々ダメというか、結果上手くいかないのは、やっぱり子ども本人の思いや考えに寄り添いきれなかったからだ。

子どものことは考えているが、子どもが何を思っているかは考えていないということ。


その点で吉田羊さん演じる主人公工藤さやかの母親、工藤あかりは素晴らしい。


「子どもの可能性を信じる」

という時、子どもの言うことは何でも叶え、単に甘やかしているだけになってしまう人が多い。

あるいは、そうは言いながらも結局自分の思い通りになっていないと気が済まない人も多い。

さらには、子どもの可能性云々の前に、勉強していること、学校の言う通りにしていること、これが最上の善であると信じて疑わない人もかなりな数いると思います。

そんな中で、工藤あかり、あーちゃんは、さやちゃんのことを本当の意味で考え、最後まで信じ抜いたし、単に学校の勉強をすることや受験で目標校に入ることを至上のこととは考えていなかった。

あくまでも、さやちゃんが気持ちと行動を一にして進んで行ける未来の可能性のために自分がやれることを何でもやるというスタンスで動いていた。

これはできそうでなかなかできることではない。


もちろん、ゴリゴリのギャルになって、学年ビリになることを放置していたことはどうなんだってツッコミができなくもない。


でも、校長に呼び出された退学を突きつけらた時、授業中の態度のことで担任に呼び出された時も、あーちゃんの言動の根本に、さやちゃんを信じ、彼女が楽しく、ハッピーに生きられる未来を、その可能性を信じ、あるべき教育の根本を示し続けた。

これもなかなかできることではない。

やっぱり学校の先生に指摘され、しかも、中学高校であれば、そこでの成績が進路に関係するものだから、そうそう親も先生に反発することはできない。
もちろん最近は親の方が変なロジックで学校の先生を困らせているという、いわゆる「モンスターペアレンツ」がいるくらいですから、そもそも学校と家庭というものが「子どものため」という意識が共有できておらず、「タッグ」が組めているとはとうてい思えない場面が増えてきているのでしょう。


とにかく、あーちゃんの言動は、親として、あるいは、子どもの周囲にいる大人として自分を振り返る格好の素材となります。


「子どものため」といって自分のエゴが優先されていませんか?

「子どものため」といって社会や誰かの発言を鵜呑みにした言動をしていませんか?


どんなに「子どものため」とか「社会のため」などという大義名分があっても、いやあるからこそ、そこに自分の考えはあるのか、悩んだ形跡はあるのか、ということを僕は問いたくなる。



もちろん、子どもにそうした価値判断ができれば、周囲の考えのない大人は反面教師として意味のある教材となるでしょうが、子どもが周囲の大人の少々歪んだ価値観に染まっていては、たとえば、「自分で考える」という実は当たり前のことすら、できなくなってしまいます。
だから自分の将来について聞いても、「何もない」という子どもが多いのでしょう。

実にさみしいことです。

そのまま、その時々をやり過ごしてしまえば、何となく大人になり、社会に出られるわけですから、そうなってしまっては、いずれどこかで「こんなはずじゃなかった」と自分のこれまでを悔いるようなことにもなりかねません。

それではもう救いがない。


だからこそ僕は、一見学校のテストには関係ないようなことでも、入試で扱われないようなことでも、真剣に学ぶこと、自分で苦しむことを提案し続けているわけです。


子どもだから? まだ中学生、高校生だから…必要ないこと?


それは子どもを見れていない証拠でもあります。

子どもはさまざまな所で、自然自然に学んでいます。
本来、子どもは学びたいものです。

ですから、好きなことや関心のあることは、学校のカリキュラムとか教科書とか関係ないんです。関係なく学ぶんです。学べるんです。

その可能性を潰して、中学○年生はこの勉強をする時だから…ということの方が実はかなり横暴なことだともいえるわけです。


子どもだから、中学生、高校生だからこそ、未来を見て、そのためにも今この瞬間を全力で学ぶのです。


きちんとした未来を見せられずに、だからそのための今というのがぼんやりするから、教科書とかカリキュラムを用意して、順番にクリアして、テストで点を取ることが最も素晴らしいことという価値観を植え付けて来た、それが日本の学校や教育の1つの側面です。

そんな教育を何の疑いもせず、あるいは最近ですと、学校の授業が受験(入試)と乖離していることにヒステリックに反応し、学校に文句を言ったり、そういったことがあることで、学校サイドも過度に受験(入試)を意識して学習を進めたりしています。

そこにどんな未来があるのか、実は多くの大人がわかっていないのに、あるいは、もしかしたらそれはもうかなり古いモデルで、現在、そこではもう素敵な未来が描けないかもしれないのに。



こんなことを言っていると、肉親ではないからそんな好き勝手言えるのだと、お叱りを受けたこともあります。

もちろん、そうです。

これはあくまで僕の価値観です。


ですが、これまで講師を15年以上やってきて、教育について学び直そうと30歳手前で大学院にも行った身です。

ごくごく普通の教科学習や入試という枠内だけで教育を語っている「先生」という人種とは違う視点を持っていると自分では思っています。

真剣に考えています。

だって、それは自分が暮らすこの先の未来の世界を考えることにも等しいことだからです。


社会とか世界って、自ずからそこにあるものではありません。

僕ら人間が、人間たちが何とかこうとか、知恵を絞って、より良いものを願って形作って来たものです。

だから、世界とか、社会とは僕ら人間自身であるわけです。


その人間がおかしくなったら、社会だっておかしくなります。

当然です。


おかしな状態がどんどん広がって行ったら、真っ当に生きようと思って努力している人さえも、そのおかしさに巻き込まる。

これは悲劇です。


だから、そういうお互いの幸せを考えられるような人と共に社会を作っていきたい。

そう思うのも当然ですよね。


だから、僕はそうした人が増えたらいいなと思って教育という子ども達に直接問いかけられる現場に今でも立っているのです。


それができなければ、僕がそこにいる意味はあまりないかなとも思っています。



しかも、そうした一見理想的な教育というか、学びというものは、何か特別・特殊なことが必要なわけではないのです。

まさに、あーちゃんとさやちゃん、坪田先生のように、受験という今の日本には当たり前の仕組みの中でも、それは叶えられるのです。

ちょっと視点を変えれば、ちょっと努力の仕方を変えれば…。




だから、僕の声が誰かに届く限り、僕は言い続けようと思う。

それが時にある人には辛く突き刺さり、大いに悩ませてしまうことがあったとしても。
それが時に「不親切」「何もしてくれない」などと言われ、誤解されたとしても。

僕は言い続けようと思う。


「自分の人生だ、まずは自分で考えよう!」


テストのように唯一絶対の答えなんて本来存在しない問。

自分で自分の人生を生きるとはそういう問題を解く営み。

だったら自分がその頭と体で真剣に向き合うしかない。

僕らは、そのためのお手伝いをするというささやかなことしかできない。

もちろん、方向が決まったら、結果につなげるために、成果を出すために、その行動を努力を加速させていくお手伝いをするのだ。

でも、やはりこれだけは絶対に変わらない。



主人公は、君なんだ。



さてさて、リアルな世界でも受験がもうすぐそこまで迫っています。

すでに受験を突破して、努力が実を結んだ生徒もいますが、大半はここからが最後の勝負。

まだまだやれる。

僕もまだまだ手をかそう。

真剣になればなっただけ、得るものも大きい。

それは志望校の合格という表面的な成果だけではないのだ。


だからこそ、最後の最後まで、あきらめずに自分を磨き続けよう。



本日は、教室では年内最後の授業日。
(本当の仕事納めは、明日?明後日?になりそうです(/_;))

昨日は、夜遅くから仕事関係の会合があり、とあるホテルに宿泊しました。

何気なく机の棚を見ると、そこには1冊の本のようなものの影が。



「あぁ、聖書かな」



ホテルの部屋には聖書に遭遇することが多い。


僕はクリスチャンではないのでホテルで聖書に遭遇してもあまり開くことはないのですが、今日は何となく手に取ってみました。


すると、それは聖書ではなく、なんと古事記でした!


最近はホテルに古事記が置かれるのが流行なのでしょうか。

たまたま今回利用したホテルがそうだっただけなのか。

調査はしていませんが、他の場所にも古事記が置かれているのであれば、たいへん素敵なことですね。


日本の最古の歴史書であり、いわゆる神話が記されているものです。

「国」というひとつの文化のまとまりにとって神話や伝承などはこの根底にあるものです。


この手の話題では、よく見聞きするのが、

「12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」

という1節です。

歴史学者アーノルド・J・トインビーの言葉として、よく引用されることがあるようです。

はっきりとトインビーがこう語っている出典が必ずしも明らかではないようですが、この言葉は伝承されてきています。


まぁ事の真相はよく分かりませんが、自国の文化の根底にある思想や物語というものは、その枠組みの中で生まれ、育まれてきた自分にとっては、アイデンティティーとも深く関わるものですから、一度触れておくに越したことはないでしょう。

もちろん、神々の世の話と言われてもファンタジーとして受け取るしかないという感覚もあるでしょうが、では、なぜそのように語られてきたか、とか、それが後世に人間の思想や言動にどんな影響をもたらしてきのがを考えるきっかけにはなります。

その意味で、そうした神話や伝承に触れることは重要ですし、小学校終了程度の頃までには知っておいて良いことだと思います。


日本はその点戦後の連合国の統治体制などもあり、大きく断絶していることもあります。

最近は、情報化や国際化などといって、さまざまな文化が流入し、融合し、日本古来の神話や伝承が話題にされることが避けられてきたきらいもあります。

だからこそ今、日本はどう歩んでいけば良いか、各々がこれまでの日本人の、日本の文化の根底にあるものを知り、そのことを考えていかなければいけないと思うのです。



ちなみに
「古事記」全部読んだことある人~?



誰もいなかったらそれはとてもさみしいことです。

日本人は自国の文化より、海外のものを礼賛する傾向があるように感じますが、しかし、自分のバックボーン(の、さらにバックボーン)を知り、それを持って世界へを堂々と勝負をしにいくべきではないでしょうか。

日本人よりもむしろ海外の人の方が日本文化に興味があり、なおかつ詳しい人もいっぱいいます。

そんな方方と、例えば仕事の現場でコミュニケーションをはからないといけない場面で、相手が、

「源氏物語」ってどんなものなの?

などと聞いてくるかもしれません。

その時に、「僕は知りません」というのはちょっとカッコ悪い。


相手は自国の文化の根底にあるものを語り、自分は自国の文化の根底にあるものをかたり、そうして異文化の相互理解はお互いを認め合うことではじまります。


それが上手いことできないのであれば、巡り巡って、時代の波に取り残され、究極は国が亡びるということになってしまうかもしれません。

その意味ではトインビーの言葉(とされているもの)は鋭い指摘なのでしょう。


まぁごちゃごちゃと御託はいい。


とにかく「古事記」は読んでみよう。


古代の日本人は内を考え、どう世界を認識していたのか、読み物(物語)としてでもおもしろく読めます。



さ、もう授業は終わり。

帰って、まだ終わっていない大掃除の続きでもするかなー



ラーニング・ラボの2015年の通常授業の日程はすべて終了いたしました。

一部振替等の授業が残っているので、まだまだ今年は終われませんが…。

受講生および保護者の皆さま、関係各所に皆々様、
2015年も大変お世話になりました。

2016年もよろしくお願い申し上げます。


教室は2016年1月3日までお休みをいただきます。
1月4日(月)から通常通り授業を再開いたします。


冬休みは短いお休みですが、お正月は新年を迎える大事な季節の行事。
家族や親せきたちと初詣にいったり、ゆっくりと過ごしてください。


とはいえ、受験生諸君は年が明ければもう入試本番はすぐそこ。

ダラダラっと過ごして気づいたら新学期を迎えている、なんてことにはならないように。


今日授業をやりに行った教室の生徒は、もう冬休みの宿題ほとんど終わったってよ。


そう。

休みに入ったからと言ってダラ~っとせずに、パパッとやるべきことを先に終わらせてしまいましょう。

そして、気持ちよく除夜の鐘を聞こうではありませんか。


では、良いお年をお迎えください。



ここ数週間、中学生の定期テストが終わった辺りから、受験生以外の生徒たちには、作文を書いてもらっている。

教室では別のグループワークをやっているので、主に出張先の教室での話。


「国語力UP講座」と銘をうって、読み書きの基礎訓練の授業をいくつかの場所でやらせてもらっています。

多くの場合、学校のテストや成績という点に関心を寄せられることが多く、読書や作文などの重要性は認識されていても、取り組もうとされる方が少ないのが現実。

最近学校教育の場でも作文などの表現活動が、以前に比べればだいぶ実践されるようになってきた印象ではあります。

とはいえ、小学生では「読書感想文」、中学生では「人権作文」や「税の作文」などが夏休みの宿題として恒例になってきている程度で、日常的な授業のテーマとしてきちんと論作文の指導がされているのか、少々疑問が残る部分もあります。

というのも、夏休みになれば「読書感想文」「人権作文」「税の作文」が書けないという相談が山のように寄せられるからです。


日常的に書く練習をしていれば、あるいは、「人権作文」を書くにあたっての指導が十分にされていれば、もう少し寄せられる相談の内容も変わってくるように思います。

だいぶ初歩的な作文の書き方が定着していないという人があまりにも多いのです。



ですから、ラーニング・ラボではそうした基本的な読み書きの訓練は学習の重要な支柱としています。


いやそれだけではありません。

国語といえば、読解が中心になることが多いのですが、作文などの表現をさせることで生徒たちの状況把握にもとても有効なのです。

読解ももちろん大事ですが、しかし、受ける一方では良くない。

受信したら、発信(返信)しないと。

ありきたりな表現ですが、言葉のキャッチボールです。

言葉はキャッチボールしてこそ、意味があり、価値が生まれるもの。


学習にしろ、仕事にしろ、何にしろ、人間の活動、それも社会的な活動は広く言えばすべてコミュニケーションです。

コミュニケーションの基本はまさにキャッチボール。


それを単純な知識の暗記(その再現)ばかりに偏った学習しかしないから、日本人はスピーチが下手とか、クリエイティブ性が乏しいなどという現象が起こってしまいがちなのです。


作文ひとつとってもそう。

作文では、基礎訓練が積み重ねられていれば、その時々の作文のテーマに合わせてそれを応用していけば、ここまで多くの人が苦労することも、嫌がることもなくなるのではないかと思うのです。

もちろん、そうした訓練を積み重ねていても、やっぱり小中学生にとっては自分がうまく作文できているのか不安でしょう。

だから、そういうときに誰かに相談ができ、アドバイスや添削指導が受けられるというのは重要です。

しかし、まったく自分では何もできず、最終的には誰かが代筆するような形で、とりあえず宿題としては完成させるというのでは、その生徒の将来がやはり不安に感じざるを得ないのです。


作文についての相談のなかには、作文の宿題がたくさん出ているが、先生からの指導があまりないから、生徒本人は一向に書けるようにならず、半分近くを保護者の方がやっていて、それがだんだん苦痛になってきている、というものが少なからずあります。


「国語」という教科の学習としても、また、言語力というより汎用性の高い学習として捉えたとしても、間違いなく、文章の読み書きの力は、その子の生涯に渡って不可欠な力の1つでしょう。

その部分にもう少し意識を向けた学習がデキると良いのですが…。



…ただ、学校を、学校の先生を悪く言いたくはありませんし、言うつもりはありません。


昔は「先生」と呼ばれる人が大っ嫌いでした。

が、今は、大学院時代に出会った素晴らしい先生方の存在を知っています。

自分が小中学生だった時に、彼や彼女らに出会えていたら、自分の学びはもっと違ったものになったであろうと素直に思える素敵な人たちです。


学校は学校で、学校の先生は学校の先生で、使命感を持ち、高い見識と指導力で子ども達を導いているのだと思います。
(ごく一部の人を除いて)


だから、僕は僕のフィールドで、僕のやるべきことを、求められていることをやるまで。

___________________


ちょっと前置きというか、脱線が長くなってしまいました。


というわけで、最近作文をやっているのですが、その中で「意見文」を中心に、自分の考えをどう相手に伝えれば良いのか、と考えながら作文の訓練をしています。

ある中学生数名が次のようなテーマを設定して考えをまとめはじめました。


「テレビは必要かどうか」


テレビというと、学習の現場では、あまり好ましくないものというイメージがやや強いように感じます。

「いつまでテレビ見てるの!宿題やりなさい!!」

「テレビばっか見てるとバカになるよ」


実際にそんな言葉が発せられる現場を幾度となく見聞きしてきました。


確かに、テレビには独特の魔力があります。


点けていれば何となく時間が潰せたり、中には面白い番組があり、夢中になって見入ってしまうこともある。

これはテレビに限らず動画などにも言えることですが、画面に映し出されたものをただ見るというのは、非常に受動的な行動で、際限なく次から次へと流れてくる光の情報を受け取るということです。

それに慣れ過ぎると、やはり情報を主体的に吟味し、取捨選択する力が鍛えられなくなる側面があるのです。


その意味で、「テレビばかり見ているとバカになる」というのは一理あるといって良い。


ただし、やはりテレビだからこそ出来る番組というのがあるのも事実。



僕自身小中学生の頃は大のテレビっ子でした。

流行のドラマやバラエティー番組を見て楽しんでいました。


「○○時からあの番組があるから、この時間までにこれ終わらなきゃ」

「□曜の9時はあの番組あるから早く帰ろう」


などと、テレビ番組によってスケジュールを決めることもあったほどです。


ですが、最近はあまり見なくなりましたね。

といっても、なきゃないで何となくさみしい時もあって、食事中に流してみたり、時には気になる番組を録画してみたりすることもあります。


最近ですと、少し前から日曜9時のTBS「東芝日曜劇場」はけっこうヒットが多いので、以前設定した録画予約がそのまま毎週実行されているのをいいことに、気になる作品は見て、そうでもないものは消して、というのをくり返しています。

今クールでは、池井戸潤さん原作の「下町ロケット」が阿部寛さん主演でドラマ化されています。

下町の中小企業(といってもそこそこ大きめですが)の技術がロケットの重要なシステムを作っている、というまさに技術大国ニッポンがそこに描かれた作品です。


何といって、主人公、佃航平の熱い技術者魂が阿部寛さんを通して、文字通り熱く迫ってきます。

主人公もさることながら、脇を固める人たちも実に良い味を出しています。

俳優さんの力もあるのでしょうが、僕はやはりそのセリフ(ことば)に胸打たれることが多いので、他の作業をしながら見ていることがほとんどですが、ササることばが耳に飛び込んでくると思わず作業の手を止め、巻き戻しをして、もう一度そのセリフをじっくりと味わってしまったり…。


特に、このドラマでは、佃製作所の大番頭、銀行出身の経理部長、立川談春さん演じる殿村直弘の言葉がかなりアツい!



きっと日本には、こういうプロフェッショナルがそこかしこにいて、僕らのあずかり知らぬところで、日夜懸命に僕らの暮らしを支えてくれるいるのでしょう。

これはドラマですが、現に僕の大好きな番組のひとつ、NHKの「プロフェッショナル」では、実在のそうした「職人」たちが、登場する。

普段、僕らは知ることができないような人の仕事ぶり、生き様というものが垣間見られる。


あぁ、これはまさに巨大なメディアであるテレビだからこそなせる技なのでしょう。


もちろん昨今はインターネットが普及し、これまでは一般的には知ることが難しかったような情報にもアクセスできるようになってきた。
(機密情報とかそういうことではなくて、ね)

とはいえ、インターネットの検索などは、膨大な情報のなかから自分が興味関心のあるものをピンポイントで探すには大変便利なものですが、しかし、こちら側にその気がなければなかなか関心の輪を広げるという点では難しい部分もある。

その点で新聞とか、雑誌とか、本屋さんに行くという行為は、本来の自分の目的以外の部分で何かをキャッチすることが多い気がします。
少なくとも僕の場合は。


最近はインターネットのおかげ?せい?で、既存のいわゆるマスメディアが大きく変革を促されている時期でもあります。

若者はテレビよりも、ネットYouTubeやニコニコ動画を観て、本よりもマンガ、さらには電子書籍、それ以上にiPadやスマホのゲームやSNS、もうよく訳が分からないほどに個々に楽しみを追求できるツールや環境で、それぞれの楽しみ方をしています。

そんななか既存のマスメディアはどうしていくのか。


その在り方や将来図なんて、門外漢の私には予想もしがたいことですが、しかし、メディアであるからには、なるべく本当のことを、そして、価値あることを伝えてほしいと思います。

新聞社等のマスコミはきっと一般民衆よりも情報を集め、その価値判断をしているわけですから、自らの主義主張を唱えたり、民衆の啓蒙活動的な側面があってしかるべきだとは思います。

しかし、少し前に話題となりましたが、あの「世紀の大誤報」にみられるように、主義主張が強すぎて、事実がかなりな歪み方をした状態にされて届けられると、もう本当に何を信じて良いのか分からないことになってしまいます。


そして、これはマスコミだけではなく、個人にもあてはまることです。

というのも、上で触れたように、最近はSNSなどが発達し、個人が容易に情報発信者になれる時代です。

ですから、安易に誰かの言葉を鵜呑みにして拡散させたり、面白半分でデマを流したり、匿名性をかさに他人の誹謗中傷ばかりに勤しむなんてことばかりだと、大変な事態になることも容易に想像できます。


そして、情報発信者であろうとなかろうと、大手マスコミであろうと個人であろうと、一般市民という側面も同時に持っている個人が関わっているのでしょうから、それであれば、全員に共通のことがひとつ。

情報は自らの価値観のもと、主体的に関わり、吟味し、取捨選択していくものです。

だから、その覚悟と資質を身に付けるべきだと思う。

それこそ、これだけ「情報化」と言われて久しい社会であれば、その重要性は学校の国語や数学などの教科の学習以上のものがある。


とはいえ、そういう学習は一体どうやってやればいいのか、よく分からない。
だから、分かりやすく、つまり、テストしやすくこれまでのような教科の学習、入試に出る教科の学習を進めていこうってことになってしまうのだと思うのです。

もしかしたら、テレビやインターネットを死ぬほどみて、そこから感じ取ったことを発信したり、自分の考えを深めていくという作業さえあれば、「やめなさい」と言われていたことが実は価値あることになるのかもしれません。

教科の学習は死ぬほどやっていても褒められこそしますが、止められることはほとんどない。

でも、もしかしたら、そんなテストのための学習の方が将来的にはたいして価値のないものになるのかもしれません。


だって、現に、中学生で学習する2次方程式や図形の相似証明など、できない大人もいっぱいいるでしょう!?


それなのに、子どもには「勉強しなさい」って言い放つのは、やっぱり子どもの側からすれば納得いかない。


みなさんは、今もう解くことができない数学の問題や社会の歴史の問題を子ども達がやらなければならない理由をはっきりと答えられますか?



さぁ、「下町ロケット」の最終回の録画映像を見終わって、勢いに任せて書き始めたので、だんだん道がそれてきてしまったようです。


しかし、テレビひとつとってもこうして考えをめぐらすことはできます。

さらには、テレビ番組ひとつとっても学習の題材とできるのです。


だから、子ども行う「遊び」にようなことも、無下に否定して、「そんなことしてないで勉強しなさい」と一方的に言い放つのだけはご容赦ください。

だって、教科の学習以上に価値ある何かに出会えているのかもしれないから。


要は扱い方ひとつ、どう目の前のことに向き合わせて、価値形成を行っていけるか、ここに尽きると思うのです。


作文などは、そういう意味では、教科の学習にもつながりやすいですし、学校で宿題になるという公のお墨付きの学習ですから、そのフィールドをお借りして、子ども達にはさまざまな日常の刺激に自覚的になって、自分を見つめ直してもらいたいのです。


だから、楽しい。


「作文書くよー」

って言うと生徒たちは、その多くは「えぇー嫌だ―」というリアクション。


しかし、書き方が分かり、僕や他の生徒たちと同じテーマについて、ああでもないこうでもないって議論していくと、いつの間にか夢中になってきて、

「先生、こういうのはあり?」

「こここういうふうに書きたいんだけど上手くいかないんだよね」

など、と大変素晴らしいリアクションが返ってきます。


なんだ、みんなも楽しいんじゃん!?


そう、子ども達だって、学ぶことは基本嫌いではないのです。

意味も分からずにやらされるテストの問題や文章読解問題よりも、自分と自分の周囲のことに思いを巡らせて、あれこれを考え、自分で文章を書く方が実はハードルが低いのです。

もちろんそのためには、基本となる技術が必要ですし、知識も必要です。


だから、作文だけをやればいいというわけではないですし、教科書の本文を使って「読み」の学習をすることも大事なのです。


それぞれ別ものとして考えないこと。

「テストのための学習」に終わらせないこと。


要は、それが一番大事ってことです!


最近この手の話題でお話することも多く、事あるごとにこれを紹介しています。
まだご覧になられていない方はぜひ。
たいへん参考になることが語られています。

以前に記事で紹介しているので、↓こちら↓からご覧ください。
http://ameblo.jp/learning-labo/entry-12026837393.html



いやいや、さらっと「下町ロケット」素敵だったって書こうとしたのに、こんな長くなってしまった。

最後までお読みくださった方、お付き合い下さってありがとうございます。


では、また。


今日はうれしいお知らせがひとつ。


教室から、今年度初の志望校合格が出ました!

トップバッターは高校3年生。

大学受験生でした。


とある大学のAO入試を受験。


面接と小論文のみの入試ということで、僕のもとに小論文を訓練しに来ていました。



はじめは「ホントに受験生かな」と思うほどに知識も技術も足りていなかった。

ほんのわずかな時間で、急ピッチで追い込んだので、本人はきつかっただろうし、表面的な対策になってしまったと思う。


試験日が近づいても何となく伸び悩み、あれやこれやのポイントを全部押し込めようとして上手くいかなくなり、同じような指摘を何度も何度も。


でも、最後までねばり強く取り組んでくれました。



いやーとにかくめでたい。


うれしそうな声で「合格しました」と報告してくれたのですが、やはりその言葉を聞く間際は「ゴクリ」とのどがなってしまいそうなほど、息を飲んで耳に意識を集中していました。


やっぱりうれしい報告は何度もらっても、うれしい。

うれしい、よかったね、という思いとともに、自分のやってきたことが間違ってないのだと、僕自身が評価してもらえたように感じる。

だから、やっぱり今でも講師をやっているのだろう。きっと。

___________________________


彼と僕の付き合いは、ほんの2~3ヶ月の間でしたが、様々刺激を与えることはできたと思います。

作文や小論文を書くってのは、その技術があれば良いというものではない。

書く内容なり、想いなり、そういったものが合わさってはじめて、その人らしい素敵な文章ができあがるのです。


作文が苦手な多くの人、そもそもそういう作文が苦手な人を量産している学校の先生自身が、そういう大事なところを素っ飛ばしている。

実にモッタイナイ。



「書く」は「書く」だけで成立するものではない、「読む」と密接に関わる。
そればかりではなく、当然「話す」「聞く」とも連動している。
スピーチのための原稿作成とか、「書く」「話す」がつながったものですね。


だから、書くための内容(知識)もどんどん増やさなければいけない。

その意味では読書や新聞などが重要な役割を担っている。


政治、経済、文化、思想、哲学、宗教、教育…


さまざまな事象を受け取り、吟味し、適確な形で表現(発信)する。


作文はそういった人間の根幹部分に関わる重要な能力であり、作業なのだ。



読解力を鍛え、様々な文献や人物とコミュニケーションを図り、難しい局面にも果敢にチャレンジできるようになるため、一番手っ取り早く、入試やテストなどの成績のためだけではなく、一生涯に渡って使える力が作文(表現・発信力)なのだ。


学校の先生が教えてくれない?

たしかにそれはもう不幸としか言いようがない。

ならば、その中で自分は何ができるのか、どうしなければならないのか。


ぜひ今一度お考えをまとめていきましょう。




最後までお読みくださってありがとうございました。



気付けば12月、僕ら「先生」が走る月。師走。


教室内では高校受験生が「面接シート」の記入にあくせく、あくせく。


年内に下書きしたものを学校に提出するのだとかで、
みんな格闘しています。


彼、彼女にしてみれば、こうして自分自身の行いや性格などを改めて言語化する作業というのはあまり経験がないでしょうから、これだけで体験素晴らしい経験値となるでしょう。

まぁ公立の学校の普通科などで、大きく他と違う特色を持ったような学校でなければ、「志望理由」というのは、なかなか書きにくいものです。

とはいえ、その他の部分も含め、これは自分自身を面接官(高校の先生)に紹介するものです。

多くの人はそこを勘違いというか、素っ飛ばしで何となく「イイコト」書こうとか、「上手く」書こうって気持ちが先走る。


もちろんそういうスキルやテクニック、演出力も大事。


でも、根本は誰もがやるような同じ勉強、同じような学校生活、同じような進路先、そうした同じようなものに接している中で、あなたはそれをどう感じ、どう考え、どう接し、どう関わり、どう退け、どのように生きていくのか、そんなこんなの「あなたのこと」を知りたいわけです。

何も学校の特色やさも優等生的な答えがほしいわけではない。



さらに、もう一つ大事なこと。


具体的に書く」ということを意識しましょう。


例えば、「○○(教科名)を意欲的に学習しました」というような文を書いてしまっている人をよく見かけます。

「○○の学習は力を入れてしたのかな」ということは分かりますが、じゃあそれはどうやってやったのか、工夫をしているのであればどんな工夫か、なぜその教科に意欲的になれたのか、などなど…

ほじくり出したらキリがない(ってわけではない)ほどいよいよ出てきます。

そういう、あれやこれやを伴って書くと、単に「○○が頑張った」と言われるより、どれだけ相手にあなたの頑張りが伝わるか。


提出までにまだ時間があるという方、せっかくの機会ですから、ぜひ自分のこれまでの学校生活をふりかえり、自分自身を見つめ直し、自分のことを言語化してみよう。

そこで思わぬ自分に出会うかもしれないし、良く知っている自分を再確認し安心するなんてこともあるかもしれません。


いずれにしろ貴重な気づきを得られる経験になるでしょう。