新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
さて、今年の年末年始は、来年度の活動に向けての準備のため、何かとバタバタしています。
新たに勉強しなければならないこともあり、受験生に「頑張れ!」と言い続けていますが、それは自分に対しての励ましにもなっています。
元旦はさすがに親戚との顔合わせというか、新年のあいさつ等々がありほとんど何もできないので、開き直って普段時間がもったいないとやらなかったことをやりました。
それは…
映画鑑賞。
といってもこれもたまたまですが、年が明けてすぐ(0時過ぎ)に初詣に行くのが例年のパターンなのですが、その際に同行した一人がレンタルショップに返却するDVDを持っており、その一つにこれがありました。
「ビリギャル」
映画 ビリギャル DVD スタンダード・エディション/東宝

¥3,780
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塾の講師をしている身としては、話題になった時に何となく気にはなっていたのですが、本も映画も見ていませんでした。
(ちなみに本は↓これ↓)
学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話/坪田信貴

¥1,620
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今回、これは何かの縁だと思い、見てみることにしました。
学年ビリの女の子が慶応大学を受験し、見事合格するというサクセスストーリー。
受験業界というか教育業界では、この手の話はもはや珍しいものではありません。
学年ビリ、落ちこぼれ、○○から東大へ、などという話は多くの人がどこかで目にしたことがあるものだと思います。
「やはり子どもの可能性は無限だ!」
などという調子で語られることが多い話ですが、僕自身そう思う部分もありますが、それだけで終わらせられないという思いも一方で持っています。
「可能性は無限」という言動は注意しなければ、何も決められず、子どもをいつまでも茫漠と指せたままにする危険性もあります。
昨今の情報過多の時代であれば、様々な情報を入手できますから、かえってそれが自分の行動の選択を鈍らせることもあるのです。
僕は現在教科としては国語を主に担当することが多いですが、文章を読むときなども同じです。
たくさんの言葉が連ねられた文章は、例えば5000字で書かれた文であれば、5000字なりのメッセージがそこにあります。
しかし、初学者がその5000字をそのまま受け取ろうと思っても大変なのです。
だから、5000の字を読むことはできるけど、そこに込められた思いまできちんと理解するのはできないということが起こるのです。
その際に必要なことは、学習の進度に合わせて、情報を制限すること。
「答えはこれだ」と一方的に押し付けるのも良くないけど、選択肢は無限ですというもの、一方で無責任な態度にもなりかねない。
…と、この手の話では言いたいことがつきませんが、でも、やっぱり講師なんてのを生業にしている人間としては、こうしたストーリーには弱いですね。
子どもへの思い入れが強い分、実際の子ども達を当てはめて考えたりして、つい感情的になってしまうことも多いのです。
何度か涙腺を刺激されてしまいました。
(酔っぱらっていたからかな…と言い訳してみたり)
特に、僕が印象的だったのは、本人の頑張りや坪田先生の適確な、そして、熱い指導もさることながら、吉田羊さん演じる母親、工藤あかりだ。
この映画には、何人かの大人が登場する。
工藤あかりをはじめ、父親(工藤徹)、学校の先生(西村)、そして森玲司の母親。
この大人たちのそれぞれの立ち位置が、学習者(受験生)を取り巻く大人の典型として実に巧みに描かれている。
それぞれの大人がどんな振る舞いをして、子ども達にどんな影響を与えるのか、大人こそがここから何かを感じられる物語である(実話が元になっているということだが)。
生徒の表面的な情報や、学校生活(集団生活)の秩序を最優先に考えた言動の目立つ担任教師。
父親の仕事の跡を継がせようと進路を勝手に決め、「やればできる」を連呼する母親。
自分の果たせなかった夢を息子に託し、他の子どもには見向きもしない父親。
僕自身も講師になり様々なな子ども、その保護者と接してきましたが、ある意味でこれら人物像は教育界「あるある」でしょう。
ただ、ここで多くの人は、主人公さやかや坪田先生に感情移入し、これら大人をネガティブに見過ぎてはいないだろうか。
もちろん、子どもの立場からすれば、あるいは、真剣に子どもを向き合う講師という立場からすれば、「ふざけんな!」と思ってしまう言動をする大人がそこにいます。
本当に子どものためにならないな、とか、本当にこの子の将来や今を真剣に考えているのか、疑わしい大人は世の中にたくさんいます。
それは親であってもです。
ただし、それらの大人も、それぞれの正義に基づいて、つまり、その人なりの「子どものため」という考えを元に行動しているのです。
集団生活の秩序を重んじ、学校の授業を最優先に考える担任教師だって、一見自分の教室運営がスムーズにいくことが目的のように見えたとしても、根底には、学校(授業)にきちんと参加させることが生徒にとって有益だと考えているはずです。
さらに、子どもの可能性を信じる親というのにも、様々ななタイプ、様々な表現の仕方があるわけです。
例えば、森玲司の母親は夫(玲司の父親)の仕事を継がせることを目的に大学進学を決めて話を進めている。
こうしたタイプの話もよく聞きますが、これだってそれが本人の幸せになると考えているからこその行動や発言なのですね。
自分で好きなことがあり、その道に進みたいという考えがないのであれば、一番近くにいる仕事をしている大人としての父親は、格好の生きた教材である。
しかも、同業者となれば、先輩として有益なアドバイスや仕事そのものを紹介してもらえたり、利益はたくさんある。
さらに、自分の果たせなかった夢を息子に背負わせ、小さい頃から英才教育を施す父親(主人公あかりの父親)もいる。
もちろん、父と子のコミュニケーションの一環ですから、小さい頃から一緒に何かに向かって頑張るのは良いことでしょう。それによって開花する能力もあるだろうし、人よりも早く、人よりも時間を使って訓練するのは、その道で熟練するためには不可欠なことです。
例えば、有名なプロスポーツ選手で、小さい頃から両親が協力的で、子どもの練習のために仕事を変えたり、遠征に同行したり、道具や設備を整えたり、生活そのものをそれ中心に変える、などという話もよく耳にする話です。
そうした家族の理解や協力、いや、家族が一丸となってみる夢というのも、それはそれでたいへん美しいものです。
ただし、これら大人が少々ダメというか、結果上手くいかないのは、やっぱり子ども本人の思いや考えに寄り添いきれなかったからだ。
子どものことは考えているが、子どもが何を思っているかは考えていないということ。
その点で吉田羊さん演じる主人公工藤さやかの母親、工藤あかりは素晴らしい。
「子どもの可能性を信じる」
という時、子どもの言うことは何でも叶え、単に甘やかしているだけになってしまう人が多い。
あるいは、そうは言いながらも結局自分の思い通りになっていないと気が済まない人も多い。
さらには、子どもの可能性云々の前に、勉強していること、学校の言う通りにしていること、これが最上の善であると信じて疑わない人もかなりな数いると思います。
そんな中で、工藤あかり、あーちゃんは、さやちゃんのことを本当の意味で考え、最後まで信じ抜いたし、単に学校の勉強をすることや受験で目標校に入ることを至上のこととは考えていなかった。
あくまでも、さやちゃんが気持ちと行動を一にして進んで行ける未来の可能性のために自分がやれることを何でもやるというスタンスで動いていた。
これはできそうでなかなかできることではない。
もちろん、ゴリゴリのギャルになって、学年ビリになることを放置していたことはどうなんだってツッコミができなくもない。
でも、校長に呼び出された退学を突きつけらた時、授業中の態度のことで担任に呼び出された時も、あーちゃんの言動の根本に、さやちゃんを信じ、彼女が楽しく、ハッピーに生きられる未来を、その可能性を信じ、あるべき教育の根本を示し続けた。
これもなかなかできることではない。
やっぱり学校の先生に指摘され、しかも、中学高校であれば、そこでの成績が進路に関係するものだから、そうそう親も先生に反発することはできない。
もちろん最近は親の方が変なロジックで学校の先生を困らせているという、いわゆる「モンスターペアレンツ」がいるくらいですから、そもそも学校と家庭というものが「子どものため」という意識が共有できておらず、「タッグ」が組めているとはとうてい思えない場面が増えてきているのでしょう。
とにかく、あーちゃんの言動は、親として、あるいは、子どもの周囲にいる大人として自分を振り返る格好の素材となります。
「子どものため」といって自分のエゴが優先されていませんか?
「子どものため」といって社会や誰かの発言を鵜呑みにした言動をしていませんか?
どんなに「子どものため」とか「社会のため」などという大義名分があっても、いやあるからこそ、そこに自分の考えはあるのか、悩んだ形跡はあるのか、ということを僕は問いたくなる。
もちろん、子どもにそうした価値判断ができれば、周囲の考えのない大人は反面教師として意味のある教材となるでしょうが、子どもが周囲の大人の少々歪んだ価値観に染まっていては、たとえば、「自分で考える」という実は当たり前のことすら、できなくなってしまいます。
だから自分の将来について聞いても、「何もない」という子どもが多いのでしょう。
実にさみしいことです。
そのまま、その時々をやり過ごしてしまえば、何となく大人になり、社会に出られるわけですから、そうなってしまっては、いずれどこかで「こんなはずじゃなかった」と自分のこれまでを悔いるようなことにもなりかねません。
それではもう救いがない。
だからこそ僕は、一見学校のテストには関係ないようなことでも、入試で扱われないようなことでも、真剣に学ぶこと、自分で苦しむことを提案し続けているわけです。
子どもだから? まだ中学生、高校生だから…必要ないこと?
それは子どもを見れていない証拠でもあります。
子どもはさまざまな所で、自然自然に学んでいます。
本来、子どもは学びたいものです。
ですから、好きなことや関心のあることは、学校のカリキュラムとか教科書とか関係ないんです。関係なく学ぶんです。学べるんです。
その可能性を潰して、中学○年生はこの勉強をする時だから…ということの方が実はかなり横暴なことだともいえるわけです。
子どもだから、中学生、高校生だからこそ、未来を見て、そのためにも今この瞬間を全力で学ぶのです。
きちんとした未来を見せられずに、だからそのための今というのがぼんやりするから、教科書とかカリキュラムを用意して、順番にクリアして、テストで点を取ることが最も素晴らしいことという価値観を植え付けて来た、それが日本の学校や教育の1つの側面です。
そんな教育を何の疑いもせず、あるいは最近ですと、学校の授業が受験(入試)と乖離していることにヒステリックに反応し、学校に文句を言ったり、そういったことがあることで、学校サイドも過度に受験(入試)を意識して学習を進めたりしています。
そこにどんな未来があるのか、実は多くの大人がわかっていないのに、あるいは、もしかしたらそれはもうかなり古いモデルで、現在、そこではもう素敵な未来が描けないかもしれないのに。
こんなことを言っていると、肉親ではないからそんな好き勝手言えるのだと、お叱りを受けたこともあります。
もちろん、そうです。
これはあくまで僕の価値観です。
ですが、これまで講師を15年以上やってきて、教育について学び直そうと30歳手前で大学院にも行った身です。
ごくごく普通の教科学習や入試という枠内だけで教育を語っている「先生」という人種とは違う視点を持っていると自分では思っています。
真剣に考えています。
だって、それは自分が暮らすこの先の未来の世界を考えることにも等しいことだからです。
社会とか世界って、自ずからそこにあるものではありません。
僕ら人間が、人間たちが何とかこうとか、知恵を絞って、より良いものを願って形作って来たものです。
だから、世界とか、社会とは僕ら人間自身であるわけです。
その人間がおかしくなったら、社会だっておかしくなります。
当然です。
おかしな状態がどんどん広がって行ったら、真っ当に生きようと思って努力している人さえも、そのおかしさに巻き込まる。
これは悲劇です。
だから、そういうお互いの幸せを考えられるような人と共に社会を作っていきたい。
そう思うのも当然ですよね。
だから、僕はそうした人が増えたらいいなと思って教育という子ども達に直接問いかけられる現場に今でも立っているのです。
それができなければ、僕がそこにいる意味はあまりないかなとも思っています。
しかも、そうした一見理想的な教育というか、学びというものは、何か特別・特殊なことが必要なわけではないのです。
まさに、あーちゃんとさやちゃん、坪田先生のように、受験という今の日本には当たり前の仕組みの中でも、それは叶えられるのです。
ちょっと視点を変えれば、ちょっと努力の仕方を変えれば…。
だから、僕の声が誰かに届く限り、僕は言い続けようと思う。
それが時にある人には辛く突き刺さり、大いに悩ませてしまうことがあったとしても。
それが時に「不親切」「何もしてくれない」などと言われ、誤解されたとしても。
僕は言い続けようと思う。
「自分の人生だ、まずは自分で考えよう!」
テストのように唯一絶対の答えなんて本来存在しない問。
自分で自分の人生を生きるとはそういう問題を解く営み。
だったら自分がその頭と体で真剣に向き合うしかない。
僕らは、そのためのお手伝いをするというささやかなことしかできない。
もちろん、方向が決まったら、結果につなげるために、成果を出すために、その行動を努力を加速させていくお手伝いをするのだ。
でも、やはりこれだけは絶対に変わらない。
主人公は、君なんだ。
さてさて、リアルな世界でも受験がもうすぐそこまで迫っています。
すでに受験を突破して、努力が実を結んだ生徒もいますが、大半はここからが最後の勝負。
まだまだやれる。
僕もまだまだ手をかそう。
真剣になればなっただけ、得るものも大きい。
それは志望校の合格という表面的な成果だけではないのだ。
だからこそ、最後の最後まで、あきらめずに自分を磨き続けよう。