ここ数週間、中学生の定期テストが終わった辺りから、受験生以外の生徒たちには、作文を書いてもらっている。
教室では別のグループワークをやっているので、主に出張先の教室での話。
「国語力UP講座」と銘をうって、読み書きの基礎訓練の授業をいくつかの場所でやらせてもらっています。
多くの場合、学校のテストや成績という点に関心を寄せられることが多く、読書や作文などの重要性は認識されていても、取り組もうとされる方が少ないのが現実。
最近学校教育の場でも作文などの表現活動が、以前に比べればだいぶ実践されるようになってきた印象ではあります。
とはいえ、小学生では「読書感想文」、中学生では「人権作文」や「税の作文」などが夏休みの宿題として恒例になってきている程度で、日常的な授業のテーマとしてきちんと論作文の指導がされているのか、少々疑問が残る部分もあります。
というのも、夏休みになれば「読書感想文」「人権作文」「税の作文」が書けないという相談が山のように寄せられるからです。
日常的に書く練習をしていれば、あるいは、「人権作文」を書くにあたっての指導が十分にされていれば、もう少し寄せられる相談の内容も変わってくるように思います。
だいぶ初歩的な作文の書き方が定着していないという人があまりにも多いのです。
ですから、ラーニング・ラボではそうした基本的な読み書きの訓練は学習の重要な支柱としています。
いやそれだけではありません。
国語といえば、読解が中心になることが多いのですが、作文などの表現をさせることで生徒たちの状況把握にもとても有効なのです。
読解ももちろん大事ですが、しかし、受ける一方では良くない。
受信したら、発信(返信)しないと。
ありきたりな表現ですが、言葉のキャッチボールです。
言葉はキャッチボールしてこそ、意味があり、価値が生まれるもの。
学習にしろ、仕事にしろ、何にしろ、人間の活動、それも社会的な活動は広く言えばすべてコミュニケーションです。
コミュニケーションの基本はまさにキャッチボール。
それを単純な知識の暗記(その再現)ばかりに偏った学習しかしないから、日本人はスピーチが下手とか、クリエイティブ性が乏しいなどという現象が起こってしまいがちなのです。
作文ひとつとってもそう。
作文では、基礎訓練が積み重ねられていれば、その時々の作文のテーマに合わせてそれを応用していけば、ここまで多くの人が苦労することも、嫌がることもなくなるのではないかと思うのです。
もちろん、そうした訓練を積み重ねていても、やっぱり小中学生にとっては自分がうまく作文できているのか不安でしょう。
だから、そういうときに誰かに相談ができ、アドバイスや添削指導が受けられるというのは重要です。
しかし、まったく自分では何もできず、最終的には誰かが代筆するような形で、とりあえず宿題としては完成させるというのでは、その生徒の将来がやはり不安に感じざるを得ないのです。
作文についての相談のなかには、作文の宿題がたくさん出ているが、先生からの指導があまりないから、生徒本人は一向に書けるようにならず、半分近くを保護者の方がやっていて、それがだんだん苦痛になってきている、というものが少なからずあります。
「国語」という教科の学習としても、また、言語力というより汎用性の高い学習として捉えたとしても、間違いなく、文章の読み書きの力は、その子の生涯に渡って不可欠な力の1つでしょう。
その部分にもう少し意識を向けた学習がデキると良いのですが…。
…ただ、学校を、学校の先生を悪く言いたくはありませんし、言うつもりはありません。
昔は「先生」と呼ばれる人が大っ嫌いでした。
が、今は、大学院時代に出会った素晴らしい先生方の存在を知っています。
自分が小中学生だった時に、彼や彼女らに出会えていたら、自分の学びはもっと違ったものになったであろうと素直に思える素敵な人たちです。
学校は学校で、学校の先生は学校の先生で、使命感を持ち、高い見識と指導力で子ども達を導いているのだと思います。
(ごく一部の人を除いて)
だから、僕は僕のフィールドで、僕のやるべきことを、求められていることをやるまで。
___________________
ちょっと前置きというか、脱線が長くなってしまいました。
というわけで、最近作文をやっているのですが、その中で「意見文」を中心に、自分の考えをどう相手に伝えれば良いのか、と考えながら作文の訓練をしています。
ある中学生数名が次のようなテーマを設定して考えをまとめはじめました。
「テレビは必要かどうか」
テレビというと、学習の現場では、あまり好ましくないものというイメージがやや強いように感じます。
「いつまでテレビ見てるの!宿題やりなさい!!」
「テレビばっか見てるとバカになるよ」
実際にそんな言葉が発せられる現場を幾度となく見聞きしてきました。
確かに、テレビには独特の魔力があります。
点けていれば何となく時間が潰せたり、中には面白い番組があり、夢中になって見入ってしまうこともある。
これはテレビに限らず動画などにも言えることですが、画面に映し出されたものをただ見るというのは、非常に受動的な行動で、際限なく次から次へと流れてくる光の情報を受け取るということです。
それに慣れ過ぎると、やはり情報を主体的に吟味し、取捨選択する力が鍛えられなくなる側面があるのです。
その意味で、「テレビばかり見ているとバカになる」というのは一理あるといって良い。
ただし、やはりテレビだからこそ出来る番組というのがあるのも事実。
僕自身小中学生の頃は大のテレビっ子でした。
流行のドラマやバラエティー番組を見て楽しんでいました。
「○○時からあの番組があるから、この時間までにこれ終わらなきゃ」
「□曜の9時はあの番組あるから早く帰ろう」
などと、テレビ番組によってスケジュールを決めることもあったほどです。
ですが、最近はあまり見なくなりましたね。
といっても、なきゃないで何となくさみしい時もあって、食事中に流してみたり、時には気になる番組を録画してみたりすることもあります。
最近ですと、少し前から日曜9時のTBS「東芝日曜劇場」はけっこうヒットが多いので、以前設定した録画予約がそのまま毎週実行されているのをいいことに、気になる作品は見て、そうでもないものは消して、というのをくり返しています。
今クールでは、池井戸潤さん原作の「下町ロケット」が阿部寛さん主演でドラマ化されています。
下町の中小企業(といってもそこそこ大きめですが)の技術がロケットの重要なシステムを作っている、というまさに技術大国ニッポンがそこに描かれた作品です。
何といって、主人公、佃航平の熱い技術者魂が阿部寛さんを通して、文字通り熱く迫ってきます。
主人公もさることながら、脇を固める人たちも実に良い味を出しています。
俳優さんの力もあるのでしょうが、僕はやはりそのセリフ(ことば)に胸打たれることが多いので、他の作業をしながら見ていることがほとんどですが、ササることばが耳に飛び込んでくると思わず作業の手を止め、巻き戻しをして、もう一度そのセリフをじっくりと味わってしまったり…。
特に、このドラマでは、佃製作所の大番頭、銀行出身の経理部長、立川談春さん演じる殿村直弘の言葉がかなりアツい!
きっと日本には、こういうプロフェッショナルがそこかしこにいて、僕らのあずかり知らぬところで、日夜懸命に僕らの暮らしを支えてくれるいるのでしょう。
これはドラマですが、現に僕の大好きな番組のひとつ、NHKの「プロフェッショナル」では、実在のそうした「職人」たちが、登場する。
普段、僕らは知ることができないような人の仕事ぶり、生き様というものが垣間見られる。
あぁ、これはまさに巨大なメディアであるテレビだからこそなせる技なのでしょう。
もちろん昨今はインターネットが普及し、これまでは一般的には知ることが難しかったような情報にもアクセスできるようになってきた。
(機密情報とかそういうことではなくて、ね)
とはいえ、インターネットの検索などは、膨大な情報のなかから自分が興味関心のあるものをピンポイントで探すには大変便利なものですが、しかし、こちら側にその気がなければなかなか関心の輪を広げるという点では難しい部分もある。
その点で新聞とか、雑誌とか、本屋さんに行くという行為は、本来の自分の目的以外の部分で何かをキャッチすることが多い気がします。
少なくとも僕の場合は。
最近はインターネットのおかげ?せい?で、既存のいわゆるマスメディアが大きく変革を促されている時期でもあります。
若者はテレビよりも、ネットYouTubeやニコニコ動画を観て、本よりもマンガ、さらには電子書籍、それ以上にiPadやスマホのゲームやSNS、もうよく訳が分からないほどに個々に楽しみを追求できるツールや環境で、それぞれの楽しみ方をしています。
そんななか既存のマスメディアはどうしていくのか。
その在り方や将来図なんて、門外漢の私には予想もしがたいことですが、しかし、メディアであるからには、なるべく本当のことを、そして、価値あることを伝えてほしいと思います。
新聞社等のマスコミはきっと一般民衆よりも情報を集め、その価値判断をしているわけですから、自らの主義主張を唱えたり、民衆の啓蒙活動的な側面があってしかるべきだとは思います。
しかし、少し前に話題となりましたが、あの「世紀の大誤報」にみられるように、主義主張が強すぎて、事実がかなりな歪み方をした状態にされて届けられると、もう本当に何を信じて良いのか分からないことになってしまいます。
そして、これはマスコミだけではなく、個人にもあてはまることです。
というのも、上で触れたように、最近はSNSなどが発達し、個人が容易に情報発信者になれる時代です。
ですから、安易に誰かの言葉を鵜呑みにして拡散させたり、面白半分でデマを流したり、匿名性をかさに他人の誹謗中傷ばかりに勤しむなんてことばかりだと、大変な事態になることも容易に想像できます。
そして、情報発信者であろうとなかろうと、大手マスコミであろうと個人であろうと、一般市民という側面も同時に持っている個人が関わっているのでしょうから、それであれば、全員に共通のことがひとつ。
情報は自らの価値観のもと、主体的に関わり、吟味し、取捨選択していくものです。
だから、その覚悟と資質を身に付けるべきだと思う。
それこそ、これだけ「情報化」と言われて久しい社会であれば、その重要性は学校の国語や数学などの教科の学習以上のものがある。
とはいえ、そういう学習は一体どうやってやればいいのか、よく分からない。
だから、分かりやすく、つまり、テストしやすくこれまでのような教科の学習、入試に出る教科の学習を進めていこうってことになってしまうのだと思うのです。
もしかしたら、テレビやインターネットを死ぬほどみて、そこから感じ取ったことを発信したり、自分の考えを深めていくという作業さえあれば、「やめなさい」と言われていたことが実は価値あることになるのかもしれません。
教科の学習は死ぬほどやっていても褒められこそしますが、止められることはほとんどない。
でも、もしかしたら、そんなテストのための学習の方が将来的にはたいして価値のないものになるのかもしれません。
だって、現に、中学生で学習する2次方程式や図形の相似証明など、できない大人もいっぱいいるでしょう!?
それなのに、子どもには「勉強しなさい」って言い放つのは、やっぱり子どもの側からすれば納得いかない。
みなさんは、今もう解くことができない数学の問題や社会の歴史の問題を子ども達がやらなければならない理由をはっきりと答えられますか?
さぁ、「下町ロケット」の最終回の録画映像を見終わって、勢いに任せて書き始めたので、だんだん道がそれてきてしまったようです。
しかし、テレビひとつとってもこうして考えをめぐらすことはできます。
さらには、テレビ番組ひとつとっても学習の題材とできるのです。
だから、子ども行う「遊び」にようなことも、無下に否定して、「そんなことしてないで勉強しなさい」と一方的に言い放つのだけはご容赦ください。
だって、教科の学習以上に価値ある何かに出会えているのかもしれないから。
要は扱い方ひとつ、どう目の前のことに向き合わせて、価値形成を行っていけるか、ここに尽きると思うのです。
作文などは、そういう意味では、教科の学習にもつながりやすいですし、学校で宿題になるという公のお墨付きの学習ですから、そのフィールドをお借りして、子ども達にはさまざまな日常の刺激に自覚的になって、自分を見つめ直してもらいたいのです。
だから、楽しい。
「作文書くよー」
って言うと生徒たちは、その多くは「えぇー嫌だ―」というリアクション。
しかし、書き方が分かり、僕や他の生徒たちと同じテーマについて、ああでもないこうでもないって議論していくと、いつの間にか夢中になってきて、
「先生、こういうのはあり?」
「こここういうふうに書きたいんだけど上手くいかないんだよね」
など、と大変素晴らしいリアクションが返ってきます。
なんだ、みんなも楽しいんじゃん!?
そう、子ども達だって、学ぶことは基本嫌いではないのです。
意味も分からずにやらされるテストの問題や文章読解問題よりも、自分と自分の周囲のことに思いを巡らせて、あれこれを考え、自分で文章を書く方が実はハードルが低いのです。
もちろんそのためには、基本となる技術が必要ですし、知識も必要です。
だから、作文だけをやればいいというわけではないですし、教科書の本文を使って「読み」の学習をすることも大事なのです。
それぞれ別ものとして考えないこと。
「テストのための学習」に終わらせないこと。
要は、それが一番大事ってことです!
最近この手の話題でお話することも多く、事あるごとにこれを紹介しています。
まだご覧になられていない方はぜひ。
たいへん参考になることが語られています。
以前に記事で紹介しているので、↓こちら↓からご覧ください。
http://ameblo.jp/learning-labo/entry-12026837393.html
いやいや、さらっと「下町ロケット」素敵だったって書こうとしたのに、こんな長くなってしまった。
最後までお読みくださった方、お付き合い下さってありがとうございます。
では、また。